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【わたしのデビュー時代:竹宮恵子・増山法恵】1984年11月(34歳)



COMIC Seventeen 1984年11月号
週刊セブンティーン特別編集
発行所:集英社
発行日:1984年11月25日


資料提供:https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/165519...


「COMIC Seventeen 1984年11月号」182-189ページ
イラスト・エッセイ シリーズ23
わたしのデビュー時代(文:増山法恵)
竹宮恵子
(図版に続いてテキスト抽出あり)











イラスト・エッセイ シリーズ23
わたしのデビュー時代(文:増山法恵)



竹宮惠子の自宅から10分ほど歩くと、かわいいレンガ造りの「いわさきちひろ美術館」がある。いろいろな童画家の作品が展示されたとき、竹宮とともに訪れたことがあった。

ひと通り見終えての帰り道、竹宮はポツリとこうつぶやいた。
「わたし、いわさきちひろって好きになれない」
「なぜ?」というわたしの問いに
「だって彼女の絵は、一目見てだれでも好感を持つでしょ。だからイヤ」

竹宮恵子がこんな形で心情を語るのはめずらしい。彼女の頭の中では、自分のアクの強い絵が熱烈な支持者をあつめながらもう一方ではその絵柄や作風に反発する人も多い、という事実がウズをまいていたのだろう。



デビューして16年たったいま(1984年現在)でも、長編短編コメディーからSFまで描きまくるのは、読者層をしぼらず、小学生からOLまで、自分のいいたいことをアピールしようという自分の能力への闘いにほかならない。

正式デビュー以前から、すでに竹宮恵子はマニアのあいだではスターだった。



いまはなき『COM』誌上で彼女の実力は高く評価され本人のもとへはデビュー前から出版社数社から引きあいがあった。
中学時代にすでにコマを割ったまんがを描いていた彼女の15歳頃の作品を読ませてもらったが、鉛筆描きであるにもかかわらず、消しゴムのあとがない。線も構図も驚くほどしっかりしており、ここまで描けるならプロをめざすのも当然で事実、わずか2年後にデビューをはたしている。

このデビューからしていかにも彼女らしいやりかただった。マニア誌『COM』とメジャー誌『週刊マーガレット』にほぼ同時発表したのだ。
つまり彼女のデビュー作は2本存在する。

「広い分野でなんでも描ける作家になる」ことがデビュー以前からの目標だった。
だから現在の竹宮恵子が幼稚園児むきの「リカちゃん」からハードSFまで多様な作品を生んでいるのになにも不思議はない。最初から、そのつもりでスタートしているのだ。

デビュー以前の状況を、もうすこしふりかえってみよう。
竹宮恵子がプロになる決意をかためたのは、石森章太郎氏の『マンガ家入門』を読んだのがきっかけだ。『マンガ家入門』には、くり返しいかにプロになるのがむずかしいかという点が強調されていた。逆にこれが若い竹宮恵子の心を刺激した。
「そんなにむずかしいなら絶対プロになってみせる!」とこう決意するのが凡人と才人の差でしょうなァ。



徳島で親にかくれて作品を描いていた彼女は(まんが家などというヤクザな商売を、当時の両親が認めるはずがない)突然まんが仲間が欲しくなった。
しかも東京というまんがの中心地と接点を持ちたい──そんな気持ちで石森章太郎氏に手紙を書いた。
返事はすぐにきた。ということは、石森氏が彼女の実力を認めていたからにほかならない。
石森氏のような一作家のもとへこのような手紙は山ほどきていたにちがいないからだ。

とにもかくにも竹宮恵子は、石森氏のアシスタントが主宰する『宝島』という同人誌に入った。
入ったと同時にせっせと作品を送った。毎号60ページから100ページくらい送っていたというのだから、すでに多作作家の傾向はこの頃からあったのだ。『宝島』の最終号は「竹宮恵子特集号」になってしまったそうだ。



こんな具合いだから、彼女のデビューはいたってスムーズだった。習作時代につきものの苦労、投稿しては落選しとか、編集部に行っては原稿をつき返されるといった体験を、まったくしていない。
投稿すれば入選しそれはすぐ雑誌に載った。

高校3年、18歳でプロ活動に入った彼女は当然高校卒業後は上京し、プロとして思うぞんぶん作家活動をしようと思っていたが、両親からクレームがついた。
「せめて大学には行ってくれ」
「わたし、どちらかというと両親にさからわないイイ子チャンだった」と
苦笑する。
半年間、まんがを描きながら受験勉強をつづけ、徳島大学に合格する。



さほど期待も持たずに入学した彼女だったが、当時「70年安保」という学生運動の嵐が社会をふきぬけていた。
ノンポリを自称する彼女は、大学内のあちこちの集会に顔を出し、デモに参加し、しだいに「自分とまんが」というテーマに問題をしぼりこんでいった。
大学を出て教師になるという竹宮恵子が180度転換する。
「まんがという手段で学校では教えないことを、若いやわらかな心に伝えよう」

後年「大学にいってほんとによかった」
と彼女が語るのは、まんが家としてのポリシーをがっちりつかんだからだろう。
一方では学生生活をおおいにエンジョイした。
ダンスパーティー、合同ハイキング、あわい恋愛も体験した。相手の男の子は真剣に結婚を考えていたようで
「ぼくをとるか、まんがをとるか、どちらかに決めてくれ」
こたえは、いとも簡単。
「もちろん、まんが!!」
プラトニック・ラブは完全に終止符を打った。

学生とまんが家を両立させるために、当時の竹宮恵子は、東京と徳島をトンボ返りで行き来していた。
大学生活も2年目が終わろうとしていたある日、東京から突然、徳島の自宅へ電話を入れた。
「このまま東京で仕事をする。退学届けを出しといて」
もはや両親も反対はしなかった。父親の「できる限りがんばってみなさい」というはげましが、なによりもうれしかった。

すでに週刊誌で連載を持って順調にスタートを切った竹宮丸に大きな嵐が待ちうけていた。
竹宮恵子は小学生の頃から、少年まんがばかり読んでいた。
当時、背景もなく意味のないバラの花と大きな目という少女まんがは、竹宮にはまったく興味が持てなかった。彼女の描く作品は、少女雑誌にあまりなじむものではなかった。

「この世界で生き残るには多少の妥協も必要だと判断、バラの図鑑を買ってあらゆるタイプのバラの描きかたを勉強してみたり……」
そうしていくうちに「自分の描きたいもの」が、どんどん遠のいていく。
器用な描き手であった彼女も、しだいに不安にさいなまれるようになった。

そんな苦悩の最中、わたしは竹宮恵子と出会った。



「無個性の個性」というのが、わたしの彼女の作品への印象だった。器用でどんな作品でも描けるが、どれもきわだった個性がない。
「でも」とわたしはいった。
「あなたの描く少年には、だれにも出せない魅力を感じる 思いきって少年を主人公に しちゃえば?」

これは当時の少女まんが界では考えられない発想だった。
わたし自身はアメリカの少女むけ雑誌の表紙が男の子であること、基本的に女の子は男の子が好きなのだから、カッコイイ少年が主人公の少女まんががあったっていいじゃないかと思っていた。
でも、通りいっぺんの説得では編集部がウンというまい。
そこで一計を安じた。

〆切りぎりぎりまで原稿を編集部に渡さず、もう代わりの原稿もないという状況で、作品を編集著に渡した。
編集部一同、内容に仰天し青くなったが、もう載せるしかなかった。

これが、少女まんが界初の少年まんが「雪と星と天使と…」(のちに「サンルームにて」と改題)の誕生である。

反響は予想以上であった。ふだんの3倍をこえるファンレター、そし てその内容は
「新鮮だ!」
「感激した!」というものばかり。

自信を得た竹宮恵子に、ひとつの奇蹟が起きた。
当時20歳だった彼女は、あの大長編「風と木の詩」を一夜にして創作してしまったのだ。



真夜中にもかかわらず、わたしに電話でエンエンと8時間にわたってストーリーを語ってくれた。
彼女の下宿に飛ぶようにして訪ねていくと、彼女はクロッキー・ノートにいくつかのハイライトシーンを描いていた。

作家はどうやって物語を発想するのだろう。16年にわたって数々の作家を見てきたが、それはもう「魔法のごとく出現する」としかいいようがない。
竹宮恵子はすぐさまクロッキー・ノートに「風と木の詩」の冒頭部分 を描き始めていた。

しかし大多数の読著がご存知のように、これはあまりにもセンセーシ ョナルな作品で、どの出版社も掲載をしりごみした。
20歳そこそこで誕生したこの作品が陽の目を見るのは、それから7年
後のことだった。

表面上では竹宮恵子の活動は順調だった。
「空がすき!」という小ヒットもとばし、すでに編集部は、少年を主人公にすることに反対はしなかった。
スランプは徐々にやっきた。当時の少女まんが界では、細い線でイラスト調に描く手法が流行しつつあった。少年まんが育ちの竹宮恵子にとっては、苦手な手法だった。

力強い動線で活発に動く竹宮の少年たちに
「線がきたない
「動きすぎて見にくい
という手紙が舞いこむまでになった。
どれだけたくさんのまんが家たちが流行に染まっていっただろう。
中には、染まるあまり、本来の自分のをうしなう作家も出てきた。

作家が自分の絵に自信を.うしなうということは、のたうちまわるような苦痛をなめることにほかならない。
苦しい日々であった。
が、竹宮恵子は、断固としてペンを離さなかった。



自分の線で自己流に描きつづけること。
「いつか時機がくる。自分の絵を受け入れてくれる時機が、かならずくる」
と信じて。

「白い紙を前にすると、イヤなことは忘れてしまうの。まんがを描いていれば幸福なの」
スランプを脱けるのに、 5〜6年はかかった。
ようやくなにかふっきれたな、と感じたのは「ジルベスターの星から」が読者の好評を得た頃だったと思う。
スランプの最中にも「ロンドカプリチオーソ」「7階からの手紙」「ミスターの小鳥」と佳作を生んでいる。
それゆえファンは
「先生、ホントにスランプだったの!?」
と信じてくれない人も多い。



もうひとつ竹宮恵子にとって大きな励みになったできごとがあった。
デパートの屋上で催された、彼女にとっては初めての大規模なサイン会──スランプから脱しきれずにもがいていた彼女はファンが集まることなど、まったく期待していなかった。ところが、フタをあけてみると数千人のファンが手に花束やプレゼントを持って彼女をかこんだ。

デパート側のスタッフが目を丸くして
「郷ひろみを呼んだって、こんなに集まらない」と驚いていた。
このときの感激を彼女は一生忘れないと思う。いまでも、ファンサービスに心をくだく彼女の姿勢は、ファンへの精いっぱいのお礼なのである。

こうしてスランプを脱した彼女は描いて描いて描きまくった。徹夜の連続にもまったくめげたふうもなくつぎつぎと新作に着手した。
「ファラオの墓」「変奏曲」「地球へ…」と描く作品がおもしろいようにヒットしていった。
もう読者も
「線がきたない」などとはいわなくなったのである。

作家はまず人気を土台に雑誌の中に自分の位置を確立すること──。
この大前提をはたしたつぎは、そうつぎは「風と木の詩」を世に出すこと。
「2か月はファンレターをわたしに見せないでください」
「人気が出なかったら、ただちに連載を切ってください」
まんが家竹宮恵子の作家生命をかけたスタートだった。当時のアシスタントは「ものすごい迫力で、こちらがこわくなるほど。あんなに緊張した先生を見たことはなかった」という。

「風と木の詩」がセンセーションを起こすのはまちがいない。問題は反応が良いか悪いかにかかっていた。
7年間描きたい!と、 心の中で叫んでいた執念の作品である。
竹宮恵子の緊迫がジワジワと伝わってくる連載開始であった。

結果は──すでに申しあげることもない。アッというまに、半年分を越えるファンレターが集まり、そのうち批判の手紙はなんと2〜3通であった!

「いまにして思えば、7年待ったのがかえってよかったと思う。7年前より表現力や説得力が、上達したと思うから」
「風と木の詩」は、8年という歳月をかけ、物語のちょうど半分で仮りの終止符を打った。

「初めてカミソリ入りの手紙をもらっちゃった。わたしがジルベールを殺したからだって」
8年間「風と木の詩」とともに青春をすごしてきた少女たちにとって、連載終了はかなりのショックだったようだ。抗議の手紙があとからあとから押しよせた。

そんな熱心な読著へ感謝をこめて、竹宮は「ジルベールのレクイエム」というLPレコードをつくった。竹宮恵子にとって11枚目のLPレコードである。



いま竹宮丸は静かな波の上をゆったりと進んでいる。
「またスランプがきたら?」という問いに
「うん、またくるでしょうね。でもいちど乗り越えたしね、あまりこわくない。描くことは絶対やめないから」と笑いながらこたえた。

時は移り、流行は変わる。でも「描く喜び」を彼女から奪うことはだれもできまい。
まんがを描くために生まれてきたような人である。



小学館漫画賞を受賞したとき、目を丸くして
「わたしのようなアウトロー作家に、メジャーな賞がくるとは思えなかった」といっていた。そんな彼女が授賞式で
「わたしはまんがと結婚したつもりです」と宣言する一幕があった。

「最近の若い人って、どうしてデビューをあせるんだろう」と首をかしげる。
「そこそこの技術があればデビューするのは簡単なのよ。でもデビューした新人に、とてもオメデトウとはいえない。はたして2作目の注文がくるのか、5年10年と作家として食べていけるのか、ほんとうの闘いがスタートするわけだもの。5年間まんがだけで生活できたらやっと納得する」

自分のプロダクションから巣立ったアシスタントが、ひとりふたりとまんが界から姿を消す。
「本人の才能と根性の問題だから、なにもアドバイスができないのよね」と苦笑する。
なげかずに苦笑するところがいかにも彼女らしい。

「読者から見れば、雑誌の上で新人もベテランもないの。どの作品を好きかというだけ。闘いはシビアなものよ」
人気のある新人こそライバルというのだ。

「わたしは長いこと描いてるだけに読者から見たら、絵に新鮮さはないはず。そうなると内容で新人と競争するしかないでしょう」と、闘うのが楽しくてたまらないようだ。
10代のアシスタントに
「先生は怪物(ベム)よォ!」
と、からかわれながらあいもかわらず仕事に明けくれる毎日。



しかしわたしは思う。苦しい闘いはいくつも越えてきたにちがいないが、持てる力(能力も含めて)のすべてを、大好きなまんがにたたきつ けて生きてきた彼女は、なんと幸福な人だろう、と。

34歳。いまだにデビュー時の情熱を持ちつづける彼女は、本当に怪物(ベム)なのかもしれない。

参照【ケーコタンはベムですね:増山のりえ】ぱふ1982年8-9号

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