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【みどり・あきら:うすめられた情念よ再び】だっくす1978年12月号


だっくす1978年12月号
発行日:1978年12月01日
発行所:清彗社
資料提供:https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/165398...




「だっくす1978年12月号」32-36ページ
現代少女マンガ家展望2
うすめられた情念よ再び
みどり・あきら
(図版に続いてテキスト抽出あり)








現代少女マンガ家展望2
うすめられた情念よ再び
みどり・あきら


先日、書店の店先を見て、私は驚いた。この項の第一回目(だっくす七・八月号)の原稿を書いていた時点で、「少女コミック」は確か週 刊誌だったはずだ。ところが、その時からつい一〜二ヵ月後の現在、この「少女コミック」は隔週刊になっていたのだ。いいわけをするわけではないが、私は少女マンガを買い続けていたハズである。しかし、いつから、また、どんな感じで、週刊から隔週刊に移行したか、皆目見当がつかない。(編集部さん注をのせて!)

マア、この辺のいいかげんさを、愛嬌と許していただいたうえで、私がつくづく感じたのは、「少女マンガ雑誌」の隔週刊化の定着ということだ。

「昭和三七年一二月「少女クラブ(講談社)」、明けて三八年五月「少女ブック(集英社)」がそれぞれ休刊し、「フレンド」、「マーガレッ ト」の創刊により、いよいよ少女マンガも週刊誌時代到来か、といわれて十数年。「少女マンガ界」も新たな時代を迎えたような気がする。


少女の少女による少女のための……

戦後から、少女マンガは少年マンガの後塵を拝し続けてきた。手塚治虫のデビューにより、活況を示してきた少年マンガ界は、「少年」、「痛快少年」、「慢画少年」、「冒険活劇文庫」などの少年マンガ雑誌の発行により、二七年にはひとつのピークを迎えていた。(この年の四月から、あの「鉄腕アトム」が連載される)

この時点までに発行されていた少女マンガ雑誌は「少女」、「少女ブック」、「少女クラブ」の三誌であるということは、前項でも書いた。そして、この三誌が三誌とも、「少年マンガ雑誌」の隆盛に触発されたかのように〈本格的マンガ供給雑誌〉へと変身してきたのだ。しかし、本当の意味での、〈娯楽マンガ雑誌〉を求める声を満足させるのには、「りぼん」、「なかよし」の出現を待たなければならない。

そして、少女マンガの週刊誌化。マンガ出版界の充実と、〈マンガ雑誌を毎週出しても売れる〉という計算(もちろん、発行社側の)のうえで、「マーガレット」、「フレンド」は創刊されたわけだ。週刊少年マンガの創刊から約四年間、彼は週刊少女マンガ発行のためのモルモットにされていたことになる。つまり、彼の後塵を拝しつつも、彼女は計算高い目で彼を見つめていたのだ。

週刊少女マンガ発刊当初、読者との仲、作者との仲は、ハネムーンのようだった。なにしろ大出版社の企画すること、十分な準備と長期にわたる予定により、問題の起るハズもない。この頃の作品を見てみると、マーガレットちゃん・よこたとくお(マーガレット)、ねこ目の少女・楳図かずお (フレンド)、ありんこの歌・ちばてつや(フレンド)などの、中堅男性マンガ家の作品に質のよいものが目だつ。また、週刊誌ではないが、その頃、りぼんに連載していた巴里夫の五年ひばり組も印象に残っている作品といえる。

また、この三九年から四十年代の前半にかけて、新人少女マンガ家が続出している。三九年、ピアの肖像によって第一回少女フレンド新人まんが賞を受賞し、その後ナナとリリ、クラスメート、花よめ先生、あした輝くなどをたて続けに発表し、今や、少女マンガ界の重鎮にまでのし上がった、里中満智子をはじめ、一条ゆかり、大島弓子、池田理代子、萩尾望都たちが、続々と登場し、〈少女マンガは少女の少女による少女のためのもの〉という観念を定着させていった。もともとは、少女マンガという、特殊なジャンルを雑誌として形成してゆくうえで、不足している人材をカバーしてゆこうとしてつくられたであろう、各誌の誌上マンガスクールや、新人マンガ賞の募集ではあったが、実際には期待以上のものになったといえる。つまり、各誌の個性(独自性)を生みだす基盤になり得たし、少女マンガを創造の一ジャンルとして確立させることにも多大の功績があったのだ。

こうして、定着されてきた〈愛の軌跡〉は、定着されてきた方向で発展し続けるかのように見えた。


少女マンガの表情を読むとは?

少女マンガの特質は、視覚至上主義と情念至上主義に根を発しているという私見は前項でも触れた。ここで、すこし、情念と視覚を主体として少女マンガを見る(読む?)、というメカニズムについて考えてみよう。

少女マンガに限ったことではないが、読者と作者をつなぐものは、作品を中心に位置させたうえでの反芻作用といえるだろう。これはなにも読み返えすとか、推敲するという意味ではなく、自分の確信と疑問の間を、作品を通して、絶えず行き来しているということである。少女マンガ家は、今までの少女マンガ家としての実績、経験、一個人としての自信と不安といったもののバランスをとりながら、マンガを描こうという意志を持つ。すると、そのバランスが微妙にくずれる。たとえば、作品を完成させることに対する不安、また、その描こうとする漠然としたものに対する意欲、思い入れなど、こころの一部の重量が増加、減少してくるわけだ。そうすると、そのバランスを保とうとして、こころの一部に対して解決を試みる。このような思考のメカニズムがケント紙に定着していったとき、そこにひとつの少女マンガが誕生するわけである。

このバランスのとりかた、作品への定着のしかたは、人によってそれぞれ違うとともに、作品のジャンルによって、独自の方向性を持つ。

少女マンガの場合、コマの(場合によってはページ全体の)表情として、こころの動きが焼付けられることが多い。もちろん、少女マンガもほとんどがストーリーを持っている(四コマ、 いやひとコママンガですら)。しかし、少年マンガの場合のように、結果に引きつけられるようにストーリーが動いてゆくのではなく、その定着された表情がストーリーを生みだす、といった具合に話が進んでゆくように思える。このような、少女マンガ創作のメカニズムは、論理によってこころのバランスをとっていくのではなく、無意識に働く、バランスをとろうという力によるところが大きいのではないだろうか。これ即ち、私の名付けたところの、情念至上主義、視覚至上主義というものの正体である。

そして、読者もまた、少女マンガの表情に〈まなざし〉を向け、反芻することによって、バランスをくずし、とり直す、という精神活動を続けることになるのだ。


安易すぎたスポコン少女マンガ

このような、少女マンガの独自性をつくりだすうえで、マンガスクール、新人賞は大いに貢献したが、この出身者が本格的に活躍するのは四十年代もだいぶ後になってからである。三九年に「ピアの肖像」でデビューした里中満智子も、最初の長編連載「ナナとリリ」を発表するまでには、まる二年かかっているのだ。たまに別冊に顔を見せたり、新人特集に短編を載せたりといった感じが、一般的な新人マンガ家の生活といってよいだろう。また、このような時代に、先輩マンガ家のアシスタントをしたり、原稿を出版社にもちこみ、編集者のアドバイスを受けて書きなおしたりして、実力を蓄えていた少女マンガ家も多いと聞く。

この新人群が売れっこになる少し前、四三年に入ってすぐの頃、少女マンガ界にちょっとし たブームがまきおこる。浦野千賀子作アタックNO1(マーガレット)が引きがねとなり、同年一〇月、少女フレンドにサインはV(神保史郎作・望月あきら)が連載されるに及んで全国的に〈バレーボール・ブーム〉を引きおこしさえしたのだ。前者は後年、テレビアニメ化され、後者は岡田可愛(そういえば最近テレビでも見 ないナァ)主演、中山麻理、岸ユキ、中山仁たちの助演する、テレビドラマになり、食事時の茶の間をにぎわせた。(思い出してみると、「ア タックNO1」の主題歌を歌っていたのは、小鳩くるみだった!)

この二作は、バレーボールブームを作りだしたとともに、少女マンガの中に〈スポコンもの〉という新ジャンルを生み出したことでも評価さ れている。

しかし、このブームは興業的(?)には成績を上げたが、少女マンガの流れとしては評価に値するものなのだろうか。それまでは、〈愛〉をメインテーマに少女の非日常生活を描くというものが多かったといえる。ワンパターンといえば、確かにそういえないこともない。しかし、その中で、愛に対する少女の思い入れを、それぞれの作家独自の方法で描き切っていたのに対し、新しいパターンを少女マンガ風にアレンジしたからといって、そう簡単に少女マンガの情念の世界を作りだせるものではない。

福井英一イガクリ君(冒険王)の頃から少年マンガの主流を占め(人気という点では)、ジャジャ馬君、ハリスの旋風、柔道一直線など、スポーツものはいつの時代にも少年マンガの代名詞のようにいわれてきた。しかし、それを、学園ものプラススポコンで少女マンガに変身させようというのでは、あまりに芸が無さすぎるというものだ。当時の、スポコン少女マンガを見て、私は少女マンガの終焉を感じた。情念の薄められた少女マンガからは、何ら感動は伝わってこないからだ。

少女マンガの中に、少女の情念を薄めずに、スポーツを取り入れるには、練習、根性といった教条主義的な色あいを圧倒するだけの「女」 がなければならない。「アタックNO!」から 約五年、山本鈴美香のエースをねらえ(マーガレット)が出現したとき、スポーツマンガがはじめて少女マンガの手の内のものとなったと えるだろう。


“今”の振幅を描きはじめた少女マンガ

今から五年ほど前、私はある機会を得て、一三〜一六才くらいの少女数十人に、少女マンガについての質問をしたことがある。

──今、いちばん好きなマンガは?

当時、「少女フレンド」では、里中満智子が「あした輝く」を連載中、その他めぼしい人で、大和和紀、阿部律子、が佳作を発表し続け、庄司陽子がデビューしたての頃だったと思う。吉田まゆみタッチマンガは、まだだいぶ先の話。「マーガレット」では、先ほどの山本鈴美香の「エースをねらえ」、ご存知池田理代子ベルサイユのばら。土田よし子のつる姫じゃ〜っ!は 連載したてか、少し前で、この頃は「りぼん」にきみどりみどろあおみどろで、少女マンガ界にギャグマンガのなぐり込みをかけていた頃ではあった。

「少女コミック」。四三年五月、「アタックNO1」の大ヒットに触発されたかのように創刊し(ウソ、ウソ!)、ここに三大週刊少女マンガの揃い踏みと相ナルわけである。そして五年、大島弓子、萩尾望都、倉多江美が、他の少女マンガ誌とは、ヒト味もフタ味も違う、「小コミ調」のマンガを創りだす過程にあったのが、前の質問を少女に発した頃の、少女マンガ界の情勢である。

「私の好きなマンガネェ、やっぱり『ベルばら』ョネ!なんてったってアンドレが……」
「ちがうわョォ、オスカル様ヨォ」

こんな具合で、その時居合わせた女の子の八割かたが、「ベルばら」党だったのだ。

これは、私の二十数年に及ぶ〈少女マンガ体験〉のなかでもエポックメーキングな出来事であった。「ベルばら」を愛読しているのは女子大学生、高校生が主流だとばっかり思っていたのだから。アンドレにしても、オスカルにしても、池田理代子の創りだした架空の人物である。「ベルばら」はフランス革命を舞台に、時代の求める〈死を欲する意志〉と対峙する人間のドラマである。このようなものは、作者に独自の歴史観と現代社会に対する鋭いまなざしが無くてはとても描けない。読者もこれを楽しむ(感じる)ためには、作者の史観を感じとれるだけの知性と好奇心が絶対必要である……とその頃の私は思っていたのだろうと思う。この考えかたの根には、作者と批評者は、作品を通して、同じ波型をもたなくてはならない、という、極めて古い論理が頭の中にあったのだろう。

ところが、一三才の少女は、もっと本質的に少女マンガをとらえていた。つまり、少女マンガとしての「ベルばら」の表情に愛着を持つところから、作品に接していったのだ。

かっての少女マンガは、同じ体験をもった、いいかえると、同じくらいに体験をもたない少同志が作品を間に対峙していた。もちろん、作者がはるかに年上であることもあるし、異性だということもある。しかし、そんな場合でも、同じ体験の場を想像(創造)し、はじめて、そこで関係を持つことができた。つまり、偶然の出会いを夢みる、遠いまなざしが情念を生みだすエネルギーとなっていた。

しかし、時代が移り、彼女たちの夢は手折られ、押しつぶされてゆく。甘チャンでいると、僥倖のパターン化を強制されることにさえなりかねない。つまり、同じ場を持てたと実感した体験のパターンをアレンジするということで、一つの作品を生みだしてゆくわけだ。これは学園もの、バレーもの、というようなパターンをいっているのではなく、情念の類似パターンを作りだすことをいっているのだ。これでは、情念のうすめられた作品になりさがるのも当然といえる。

そこで、彼女たちの一部は、処女を失なった自分を見つめることからはじめた。読者は作品を、自分と同じレベルの人間を見ることにのみまなざしを送ったのだろうか。いや、そうではないはずだ。自分ではどうしようもない自分を逆なでされ、突っつかれることにも興味を示すはずだ。いや、今までにもそのような場があったはずだ。自分を見つめ直し、自分の情念をストレートに表情にだしてゆこう。共有する悲しみはなくとも、あたしの涙を見れば、あなたも悲しくなるはずだ……。

波形の共感を得るのではなく、波長の一致を求めるのでもなく、振幅の大きさを直視してもらおう。現代の少女マンガは、ここからしか進むことはできない、私はそんな気がする。

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