5ちゃんねる【萩尾望都】大泉スレ【竹宮惠子】に関する資料まとめサイト

【インタビュー:第1部「人間・竹宮恵子」1】
ぱふ1982年8-9号「特集竹宮恵子part2」(32歳)

ぱふ1982年8-9号「特集竹宮恵子part2」
発行日:1982年08月01日
出版社:雑草社


資料提供
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/163149...


竹宮恵子「自分」を語る
私はただひとり、ただ一度の存在
(画像9枚に続いてテキスト抽出あり)











竹宮恵子「自分」を語る
私はただひとり、ただ一度の存在

竹宮「ぱふ」から竹宮恵子特集をやりたい、といわれた瞬間、とにかく「今さらだな」と思った訳なのね。で、何故かと言うと、もうみん なも知っているように、一時期私がガムシャラに仕事をしている時に、“竹宮恵子・特集”なるものが、本当に嫌という程出たし、私自身も。一応の協力はしたけれども、結局こういう特集というのは、その作家のその時のある一面を切り開いて少しのぞくっていうことだけしか出来ない。本質を掴むみたいなことには到底ならない。勿論それを読んでいる読者の人達も分かっているんだろうけれども。作家から見れば 、時々はっとする程自分に触れてくる、という感じの評論に出会うことはあるけれども、一瞬だけのことであって、仲々それが私を変えていくみたいな衝撃にはなってくれない。しかも読者の人はそれを意外と知らなくて、そんなものかなーと洗脳されちゃうことが多いんじゃないかな、と私は思っていた訳なんです。でも、かって特集をやった頃は「私」という「私自身」を作っていたような気がするし、あんまり本音を出さなかったんですよね。今、描き手として一山越えて落ち着いて考えている私というのは、もしかしたら本音が言えるんじゃないか。あんまり本音を言うたちじゃないし、こういう機会に何か変わった感触がある私ーーというのを見せられるんじゃないかなと思って、じゃあやって見ようかなと。

この間、ふと気が付いたことなんだけれども、私はあんまり自分の部屋を持って、好きな物で回りを固めたいとか、隠したい物があるから自分の個室が欲しいと思ったことが、今まで一度もなかったの。その感覚が欠落しているのね。どうしてだろうと考えてみたら、私は回り(両親・妹)と折り合いをつけて生活をすることに慣れちゃった、というよりむしろ楽しんでいた。そしてたぶん妹も、みんなと一緒に暮さなければならないということに対して、何の異論もなかった。そういう田舎のごく平凡な家庭のあたり前の光景だった。そして今になってみてもその願望が全くなくて、自宅を建てて持っていて、なおかつ仕事場を新しく建てたいと頑張っている状態なのにもかかわらず、自分の部屋が欲しいのかっていうと全然そうではない。「個室なんていらない」という感覚はなんなのだろう?

分かっていたのは、私は子供の時から、自分は子供なんだと思っていたの。親に育てられているひよこだと常に思っていた。それがいつか自分が独立して親と離れて初めて、一個の人間として認められるのであって、それまではどこまで行っても子供だと信じていたのね。だから親の言うことは勿論きちんと聞くべきだし、それが自分の意に沿わないことであっても、養われているのなら当然だとある種合理的に判断したのね。そして親の回りで安楽に暮しながら(安楽でもなかったけれど)自分の見られる限りの物を見て、自分で知ることが出来る限りのことを知って、それは習得な期間なんだ。ひよこなんだから何も考えなくていい。何かが外からやってきて自分をかき乱すということに対して真剣に悩んだりする必要はないんだ、と思っていたの。未だに「どうして我慢出来るの」っていうセリフが妹が出てくるから。

まんがの時間です

ーーそれにしてはあなたは随分早い中学生の頃から、まんがをコマにしてすでに描いていたでしょう。まんがとか音楽とか、何かを創作的な手段でするというのは明確な自己主張じゃないですか?

竹宮 自己主張だという自覚は全然なかった。 親に隠れてする火遊びというか、知られさえしなければしていいという自分だけの段階で押さえられる害のない遊びだったのね。とにかく描いてみたら、それがすなわち快感だったということは中学生の時に、即座にその場から理解できたのね。
「私というのは自分が妙にハッキリと分かれているの。親がしょっちゅう言ってたの。「子供は遊んで学校へ行くのが仕事です」って。あっ養ってくれる親がそう言うんだから絶対なんだと信じてたから、遊ぶことも適度にしなくちゃいけないんだと思っていたの。だからまんがを読むというのはその合間に、自分だけに許されている時間の私にとっての仕事だったの。
コマを割って描きだしたきっかけは、友達の家に行って遊び疲れてする事がなくなると、紙にお絵描きするしかなかったのね。で、小学5、6年の時に2コマ続きの話しになっているのを描いたら、親戚の子がすごく喜んだの。その時からコマを割って話が作れるのは楽しいというのを覚えちゃったのね。

――中学の3年間というのは三立させていたのね。「勉強」「遊び」「まんが」

竹宮 すべて別々だったのね。ラジオの何々の時間ですというのが、とっても好きだったらしいの。ラジオは“ニュースの時間です”、“のど自慢の時間です”という風に必ず言うのね。(その頃はラジオしかなかった。)それが癖になっていたらしいの。とにかく食事の用意をする時、お皿を取りに行って“お皿の時間です”(笑)。とにかく行動すべてをそうやって区切ってたんじゃないかな。玄関からパッと出て行くと別の世界になっていて、帰ってくるとまた別の世界に入っちゃう。

ーー西谷祥子さんの「ジェシカの世界」じゃないけれど、同時に3つか4つの世界でスパッと自分を切り換えてたのね。それでも、まんがを描いていることは親に隠していたんでしょう。

竹宮 隠していた。それは何でかというと、はっきり後ろめたさを意識していたの。自分の内面に隠されたサディスティックなところとか、 ありえないことをありえることにしてしまう罪の意識ね。そんなこと、普通はありえないじゃない。とにかく子供は親といて、幸せにすごすべきだし、「とてもかわいそうな少女だ」とかいうことを描くことに対して、すごく抵抗があったの。本当にやっちゃいけない火遊びみたいなじだったのね。中学生のくせにキスしたり、という感じのことと同じことのような気がしていた。
でも、それによって成績が下がって、何でなの?と言われたら、(私にとって親は子供を監督するものだから)子供は聞かれたら答えなきゃいけない(笑)こうだったのね。だから追求されたら恐い、これは全部しゃべってしまわなければならないだろうという恐怖の為にね、絶対成績を落とすのは嫌だった。というかばれることが怖かった。

ーーそれでもあなたは「ジェシカの世界」じゃないけれども、「学校でのあなた」、「御両親の前でのいい子ちゃんのあなた」、「お友達と一諸に過ごすあなた」とかは別に、「まんがを描く一人きりの時間のあなた」では、まんがが一番好きだったのですか?それとも均等ですか?

竹宮 中学位の頃までは、コマを割って楽しむことを覚えるまでは、完全に均等だったと思う。それを覚え始めて中学校の3年間は描き続けていたのね。その頃、中学卒業と同時位にデビューしていく新人達が沢山いた時代だったので、「あっ出来るんだ」って思った。自分もそれなりになりうるんだって、その気になっちゃった。だからプロになれるんだ、なりたいと思った瞬間に、他のものはすべて私にとって価値を失ったのね。

ーーそれであなたにとって、他のものへの興味も価値を失って、まんがの価値が一番高いんだということも分かったけれども、石森先生の「まんが家入門」によってプロになる気持ちになったっていうことと『COM』との出会いではどっちが先ですか?

竹宮「まんが家入門」の方が先。あの時はすでにコマを割って描いていたから、そういう本がありますと宣伝に載っていたのですごく興味 があって、わざわざ取り寄せて読んだのね。その中に、“まんが家という仕事は決して世に認められている仕事ではないけれども、芸術には等しいものだ。あなたはやる価値があるんだ”ということを教えられて私は目がさめたの。今まで恥ずかしかったとか、後ろめたさを感じて いたことが全部晴れちゃったわけ。これは親に言える。夢だ!先生にだって堂々と言えるわっていう気になったの。そのとたんにバーンと窓が開いた。外に出て行ける。

ーーでも、バーンと開いたのはいいんだけれども、石森先生や手塚先生という御大とのギャップがあるでしょう。今の自分の実力をみて、大変な道のりとだというのは感じなかった?

竹宮 御大と比べようとか、(そこまで行きたいと秘かに思っていたけれども、)そうならなければいけないと、一体誰が決めるのか。

ーー“自分の命がどこまで行くか、才能はどこまで広がるかーー”

竹宮 リルケの詩じゃないけど、そんなこと本人にも分からないし、規定なんか出来ないし、他の人だって勿論分からない。だから友人から「手塚治虫みたいになれるの?」って言われたって傷つきもしなかった。そこんとこが楽天的にしていられたのね。やっぱり親の羽の下で生きることに何ら不思議を感じない、反発を感じないという生活が田舎にあるという。天下一品に保守的な徳島だったからかもしれない。

ーーどんな地方の人でも、17、18歳の時はやはりそういう意味での自我の目覚めと、「自分とは何か」、という内心の恍惚と不安の一番揺れ動きの激しい時でしょう?

竹宮 だから大学に行っていた時に、確かに別の地方から来た人の方がそういう気持ちを持っていたのね。田舎から見た地方だから、都会から来た人になるのよ。そういう指針を持っていても、田舎の子っていうのは閉鎖的で、誰も学校の先生になるというのに何の悩みを感じないで、当たり前のコースを歩く。

ーーそれでもあなたはどんどん投稿していた。それが佳作に入ったり次席に入ったりしていたでしょう。それと同時に“マイナー”と“メジャー”を両天秤かけている。時期ですね。それ にしても『COM』か『マーガレット』、どちらがデビュー作というの?

竹宮 未だに悩む。これって私の性分なのか癖なのか、どちらを選ぶのも好きじゃない。

ーー高校時代の時にそこまではっきりとこれで食べていくんだ、と思っていたんでしょう。

竹宮 それでも私はその一人暮らしを始めていない。事情がやっぱり親の庇護の下にいたっていうことが強かったから、変な自負心というのかな、持っていなかった。

増山 変な自負心?

竹宮 変なっていうのはなんだけれども、普通15、16で夢を抱いている人がね、当然持つような自負心を私は一つも持っていなかった。

口のきけない淋しさ

ーーだから親から大学行きなさいと言われた時に説得されたのね。

竹宮 親は説得する権利があるから私を説得した。で、私は説得する材料を何も持っていない。何故かというと入選したにすぎなくて、それで 食ってっているんだというのを親に見せられない。何になるのか分からないからね。大学に行きながら描くことも出来るんだから、そうすれば親は当然、いずれ説得されてくれるだろう。事実を見せるしかないな、食べられるという事実を。という考えで大学に行くことに折れたのね。私は家庭の中で折衝するのが好きだったの。波風立てたくないという、いわゆる争い事が嫌いでね。事なかれ主義だということではない、と今でも私は信じているんだけれども、そういうこととは違って、親にも私にも権利はある。フィフティ・フィフティで。そして私は学校行くことを選んだの。私にとって大学というのはいいところ、いい場所に入るということじゃなかったのよ。入れば親は安心するんだ。それだけでいいんだということで、それにお金がないから国立で奨学金受けて入れちゃったの。それを無駄にするのはもったいないという(笑)。合理主義なんだよね。

ーそして大学の2年間、学生やりながらやはりまんがはやっていたと。その間学生闘争で脱けたりしたけれど、2年目にして上京してきたわけでしょう?

竹宮 その間に編集者から声がかかって、ちょっと東京で仕事してみないかと言われて、連載するんだったら私の筆の遅さだと地方から送ると間に合わないから、連載している一ヵ月半位東京に来ないかって、編集者の家に居候して描いたのね。それをやり終えてみたら、これはもう生活が出来るという証明ではないかと。大学はもう学生紛争はやるわ、経験していないことは教育実習だけだ。そこまでやる必要はないじゃないか、先生にならないのなら、ということで私はもうやめるって親に言ったのね。男親っていうのは本当にそういう時、そういう実力を見せられると納得せざるを得られないところがあるのね。前に一度やっているでしょう。大学行くんだ、行かないという騒動をやっているから、もう説得されざるを得ないと親は結局思ったんでしょうね、折れちゃった。
東京に来てから半年間というのは、大泉サロンに至るまで一人暮していたんだけど、とにかく右も左も分からなくて、朝起きて食事を作って、その間にどの位ネームを考える時間があるだろうということを測る生活だったの。だから毎日一生懸命なだけで、殆ど何も考えていなかった。仕事と生活だけね。他に余計な事、悩んだり、遊んだりする暇はなかった。一人で映画を観に行くということすらしていなかった。時々訳も分らぬことを編集者にまくしたてられたり、それに押しまくられながらじっと聞いていたりね。半分以上分かんないのに口をはさむこともせずにね。その時は編集者というのは偉い人で、私はただ話を聞くという立場のものだと思っていたから。まだ全然ひよこでね。それが生意気な立場をとるんじゃないってはっきり思っていたしね。

ーーその半年間の生活で、悩みとか淋しさとかはなかったの?

竹宮 あっただろうと思うのね。一日中口をきかない日があるのね。誰からも電話がこない。編集者も〆切り終わったばかりだとかけてこないでしょう。外に出ない、何も話すことがない。友達もいないし。う〜、何して過ごせばいいんだろう。そういう生活が半年位続いたのね。口がきけないという淋しさだったのね。八百屋さんに出掛けて行って、威勢のいい掛け声を聞おいて「お姉ちゃん、何にする?」って言われるだけで満足しちゃうような淋しさだったのね。それを不幸と思っちゃいけない。自分の好きで選んでしまったっていう背水の陣だったと自分で思うのね。田舎でのいい生活というのは、いい大学へ行って、いい相手を見つけて子供を生んで幸福に暮すというのが女の一生だったの。でもそういうことは出来ない。まんが家になり たい!と思った瞬間からバッと切り捨てた。もうそういうことで満足出来ない。友達がいない、一人ぼっちだ、今日一日話す相手がいないということに、どっと落ち込んだりすることはなかった。ただ淋しいということはあったけれども、仕事をしている楽しさっていうか、腕一本でやっているんだっていう誇りみたいなのはあったわね。

ーー半年して大泉サロンに飛びこむでしょう。そこでワッと仲間ができて、それによって人間 変わりました?

竹宮 変わったと思うのね。本当によく言うんだけれど、それまで人間じゃなかったっと思ったのは本当の意味で独立していなかった。その大泉で会った人達というのは、むしろ親とまんがを描くことによって隔絶されていた。親との間に溝が出来てしまったような人達だったのね。
頭からまんがに突っこんで東京に飛びだしてきて、まんがで食べていくことも出来ずにアルバイトをしながら食べていたような人達だったからね。すごく自負心も強いし、何故まんがを描きたいのかすごくはっきりしていた。私は求められて上京しまんが家になって、求められ ものしか描かないようにしてきちゃった。15の時に自分の描いたものを友達に見せたいという欲望にかられて、見せた瞬間にその相手が分らような話は描かなかったの。描いても絶対見せなかった。本当ならマスターベーションの んがは自分だけが分かればいいんであって、 話がどこへ飛ぼうと全然構わないんだけれども。自己満足すればいいんだけれども、最初からそういうメジャー志向なところがあって、友達に見せようと思った時から期せずしてそうなってしまったの。今となってはそういう作家になってきちゃっているけどもね。

“つづく”とやりたかった

ーー大泉サロンで人間的、内面的に色んな形でショックを受けていたってことは?

竹宮 そういう意味で、みんなそれぞれ一人で生活していることに自負を持っていたり、悩みを持っていたりするのね。どういう作家になるべきかということをくどくど言う人達だったの。 私はなすがままにというか、あるがままにしかなってこなかったから、そういうのを見て、これじゃあ私は人間ではないという感じに陥いったのね。私は、まだ作家として独立していない。親許から編集者にバトンタッチされて庇護されただけで、編集者の求めるものをそこそこに描いてるだけの作家ではないかと自分に対して思ったのね。殆どの人がやっぱり何が描きたくてという自分の欲求を抱えてて、それを描けるからまんがが好きなんだというのを持っている。 私にはそれがない、というのが恐怖だったわね。「注文されれば何でもこなします」という職人的プライドはあったけれども。
でも、一番描きたいものがなかったのね。編集者に逆らったことがないし、なんか作家として何もしていない気になっちゃったのね。仕事は注文がどんどんくるから、とにかくやると。それも一つのプロのあり方でしょう。プロには色々な別の見方があって、とにかく〆切りを遅らせても好きなものを描くか、きちっと〆切り通りちゃんとしたものをあげてプロって思うか、 その辺というのは微妙なものだと思うの。それぞれに真情があると思う。

ーー悩みに悩んで筆が進まないとか、それだけの作家的な自我の悩みにぶつかっても仕事はしてた。

竹宮 その辺が変なのよね(笑)。それもやっぱり幼い時の教育のせいなんじゃないかな。注文がきたらやれるだけのことは受けて仕事だと思っていた。許容量を越えない限りね。

ーー許容量自体もすごかった。あの当時大泉サロンの中で一番収入が多かったという。

竹宮 その頃は仕事はやたら抱えていた。連載が終われば次の連載をと。私にとってはメジャーで、週刊誌で連載をしたかったのよ。中島梓さんではないけれど“つづく”ってやりたくて、メジャー志向の人間だから。それでなけれれば私自身、作家でない風にしみついていたのね。ところが週刊連載が終わるじゃない。そうすると月刊誌でコツコツ描く方がよくなってきちゃって、そういう形の作家が非常に多くなる。

ーー脚光をあびてくる。そしてブームになる。

竹宮 そうそう。モーさまがそれのいい代表だけれども、その人が同居人としてすぐ横にいたのよね。つい私の歩む方向と彼女の歩む方向というのは回りも比べるだろうし、私自身もそういう目で見ていた。もうマッチとトシちゃんと同じ雰囲気ではないかと。

ーージャニーズ事務所まんが版。まああらゆる道をとった人がいる。お涼さま(山岸凉子)だっていたし、ななえタン(ささやななえ)や 山田ミネコさんもいたしね。大泉では確かにそれぞれが少女まんがを何とかしよう、少女まんがの扱いが低いじゃないかと『COM』の延長のような議論を徹夜でした。

竹宮 それは自分達が色んな編集者と渡り合って、色んな目にあってくることの悩みをぶちまけから始まって、こうでなきゃいけないんだ。どこそこが悪いからこうなっちゃうんだという話は一杯したわね。私は他の人よりも〆切りが多かったんだけれど、それは大学時代から思っていたんだけれども、ああいう話し合いというのは今そこで、この時でしかありえない。これを逃したら消えちゃうという惜しい気持ちの為に〆切りでも何で話をしちゃうの。 疲れきっちゃうまでね。毎日のようにそれをやっていたような気がする。すごく切実な問題だったんだよね。どうにかしようという意志の方が働いていた訳ではなく、むしろ今この時話していることがものすごく大事なような気がした。そういう会話が交わされることに対して、その時しかない。何年も経ったら同じ時間は得られないんだというのが分かっていたのね。

ーーそういう議論の中で、少女まんがはアップばかり、背景が殆どないじゃないか、ロングがないという少女まんがの欠点を一生懸命みん なであげていたわね。すると作品の中に、あなたやモーさまがロングをとりいれたりし始めた。

竹宮 話されたらやっぱりそれに従って描こうかなあと。話し合ったんだから、何の意味もなくそのままよしとするのは出来なかったわよね。 だからみんなが好き勝手に言っていることを、実行するしかないのね。

ーーそうすると他の少女まんがと比べると地味だとか、風変わりだとかすごくマイナーに見えてしまうんじゃないかしら?

竹宮 については悩まなかったのね。むしろ誇りの方があった。絶対それでいいんだと思っていた。他の人がどんなにこうすればアンケートが取れるんですよと言われても悩まなかったのね。私というのはプロになる時に幸せな生活を捨ててしまうことに悩まない。完全に捨てちゃう、という性格だから大泉でそういうみんなの理論を私自身も学んで、それが染み込んじゃうと、今まで普通にメジャーでやってきたことをぱっと捨てちゃうのね。それが当然だと思っていた。回りの編集者からもうちょっとバカになって描け、作家というのはバカでなければやっていけないんだ。どんなに恥ずかしい表現だってやればいいんじゃないかと。もっとバカになれって言われたけれども自分はすでに大泉のやり方でやるんだと決めちゃっているのね。 新しく少女まんがを切り開くんだという自負が自分に出来ちゃっているから、もうそうなると何を言っても聞かないね。ものすごく頑固ね。それである意味で幸運だったのは、比較的に早く自分の好きな道を見つけたことね。男の子を主人公にして描くと非常に楽しいと。でも編集者の方では認められていなかったけれどもね。「雪と星と天使と」というのは今考えるとかなり大胆なことをやったなと思うんだけれども、当時は自分の描きたいものを素直に出したということだけで、そんなに大胆不敵なことをするという印象がまるで私にはなかったの。他の人から見たらすごいショッキングという感じを与えるかもしれないけれども、私にとって一番ストレートなものだったのね。世間的な恥ずかしさなんてなかったのね。

タグはボヘミアン

ーーそしてタグ、パリジャン描くでしょう。“タグは当時の自分だ”っていう言い方をよくするけれどもそれをもう少し詳しく。

竹宮 私はタグに自分を写しているとよく言っているし、男の子に生まれたかった。だからタグとか男の子ばかり主人公にさせているけれども、それはほんの欲求不満であっただけであってコンプレックスではないのね。タグが何故自分なのかというのは他に理由があって、私があそこに出てくる「ジュネ」ではなくて「タグ」の方だというのは、タグはボヘミアンであって定住する所を持たない。そして親を頼らない、で孤独であるということに、楽しみと自負を抱いている。というところが私だと思っていたのね。当時の私というのはそうだったという意味で言っているだけであって、「男になりたかった」という方が言い易いからっていっただけだったの。あの頃から“少年愛作家”だと言われ始めて、そう答えるのが一番素直だったから言っていたんだよね。

ーーボヘミアンでいたい?

竹宮 それは最初に言った部屋をもたない私の妙な思考にあるんじゃないかな。私にとって家を持つことはホントにお遊び。今ここで仕事しなければいけないから仕事場が欲しいと思うけれども、いいの別に、親もいなくて心配かける相手がいなければ、すべて投げうってハワイで生活を始めるとか、パリで生活を始めるということをすぐやれるっていう気がする。なにかや ねばという。しがらみがなければ。

ーー自分の巣が欲しいとは思ったことは今までないわけ・

竹宮 ないのね。だから私の部屋は今でもないもの。居間は沢山あるけれども、自分のいつもいる場所、食事が終わるとそこに閉じこもる部というのは全然ないのね。コーナーは持ってもオープンに居間的な部分につながっている部屋しか持たない。

ーー話をスランプ時代に移します。あれだけのスランプによくまんがが描けたなと。それでもやはり「生活する」ことをやめなかったというのは、自分の生活はきちんと自分でやるんだという大人の意識があったのかしら?

竹宮 大人の意識というか、私は背水の陣で親と離れてきているんだから、どんなに悩んだって自分の生活はしていくという。まんがを描けるうちは、それが人に読まれるうちはペンを折るまいと思っていたのね。

ーー今後も?

竹宮 それはそうでしょう。たとえ人を殺して監獄に入っても、まんがが描きたくなるんじゃ ないかな。

ーーあんまり目茶苦茶な大志は抱いてはいない?

竹宮 確実に道をふんでいるのだから、(それは昔っから私にある一つの性質なんだけれども)なるがままにしていくのがいい。私がガリガリと何にもないところに積木をつんでね、塔を作るというのではなくて、そこに回りにいる人が積木をつむのに何にも言わない。それを応援してくれるということによって出来ていくしっかりした城でなければ嫌なのね。自分だけががりがりとやって築いた塔というのは足を払われればガシャンでしょう。それって一体何なの?重の労役でしょう。確かなうちははなっから思っているのね。回りが許すんだったらそこま で行ってみようと。

人の存在

ーー「ワンノート・サンバ」(『ぶーけ』)の 中で“アクエリアス・コネクション”が、それぞれ友人達が独立していって、週末にとてもシビアな人間的な意見の交流をするーーあれはあなたの理想ですか?

竹宮 理想というか、私の友達とのつき合いがそうだと信じているから。だから今、あのとうりにしているのね。

ーー大泉時代からあなた一人だったでしょう。 プロダクションを作ると言っていたのは。

竹宮 話しがまんがのあり方になってくるけれども、人と協力して暮らしていくということにすごく理想を抱いていたというより、しなきゃいけないことだという心情だったの。社会がいいように回っていくには、家庭が円満であるためには人間は、共同精神を一番勉強しなければいけない。人々が十分に素直にまっすぐ立っていられて、回りの人達から適度な批判と適度な励ましを得て、それぞれが独立独歩でなければいけないんだというすごい理想がある。

ーーその一つの理想形態が「ワンノート・サンバ」の“アクエリアス・コネクション”ね。 友達づきあいというのはそういうもんでありたいと。

竹宮 私が持つ友達はみんなそういう思想であってほしいし、そういう暮らしであってほしい。他の人には余計な干渉をしない。でも見ている。で、適度な批判をするでしょう。自分とつながる上での軌道修正ね。あなたはこうしちゃいけないという自分の意志ではなく親が子供にするするような修正ではなくて、「あなたがそういう行動をするんだったら私は友達でいられないわ」っていうアドバイスを。それが自分の独断と偏見ではいけないのね。バランスが非常に難しいのね。それなりにいいところを認めあって、その人でなければいけない生き方をしているんだ、というのを認めあっていかなければいけないの ね。それぞれ生き方が違うじゃない。世の中は性格でする仕事が分担されるじゃない。でも、強い人間は弱い人間をみくびってはいけないし、 弱い人間は強い人間を恐れてはいけない。強い人間が弱い人間を引っぱりあげてはいけない。弱い人から学べることを学ぶ。強い人間は弱い人間の繊細なとこって分からないでしょう。そういうところを大泉サロンで学んだというか、そうしなきゃいけないなあと思っていたし、やりたかったけれど挫折したのよね。若すぎたの(笑)

ーーもう一つあなたの持論として同じ性格、同じ趣味の人ばっかりが固まっちゃいけない。絶対違う人どうしだからこそ、お互い努力して接触しなければいけないと。

竹宮 そうしてお互いを育てていくし、いい友達になっていくと。変な甘えは出てこないし、それだけ知り合っていればね。

ーーそういう気持ちがなければボヘミアンにはなれない。

竹宮 勿論それはそう。20歳の時点から私はボヘミアン的性格を持っていた。

ーーそれではそれぞれ自分の意志で独立して生活していないと、あなたの理想のコミューンには入れないという。

竹宮 そうね。独立した生活信条を持っていればいいのよ。生活は出来ていなくてもいいのよ。誰かに養われててもいい。ただ生活信条をはっきり持っていればいい。

眠れないのは当然の代償

ーーここ数年、とにかく目茶苦茶仕事をしてきたでしょう。ある許容量以上の仕事を。それは回りから要求されたってこともあるけれども、やはり今思うときつかった?

竹宮 きついというか、すべての楽しみを排してきたっていう感があるからね。きついことはきつい。でも、本当にまじだったから嫌だと思ったことは一度もなかった。眠れないということはあったけれども不満を持つなんておかしいし。自分が好きなことを言う為に無理矢理ね、他の人を押しのけて東京に出てきて、編集をまたせるわ泣かせるわでやっているんだから、眠れないなんて当然の代償だなと。

ーーあと映画を観たいとか、遊びに行きたいとかを我慢するのは当然のことだと。

竹宮 当然というか、そんなこと結局大した我慢じゃないからね。描きたいことを描けない苦しさに比べたらね。だから出来なかったことに対して悔いとか、そういうのは全然ないわね。別にそんなことってこれからも出来るじゃない。映画なんて待ってればいつかTVに降りてくるじゃない、いいものでありさえすれば。再上映だってあるし。

ーーすると今30越えて、又変わった? 自分が?

竹宮 やっぱり自分が見えてきたから、若い頃いかにして大泉サロンに熱を持っていて、かく挫折したかという自分が見えてきたから今、 自分の歩む方向に賭けるという必要がないんだよね。本当にまちがう心配をしなくていいというか、自分のしていることはもしかしたらま ちがえているんではないかという恐れを抱く必要なくなった。

ーーまんが家の限界というのは考えない?

竹宮 考えないね。とにかく描くことがつまらなくなってはいけない。なんで描いているんだろうということになっちゃうのが一番恐い。あんまり仕事をとりすぎて、仕事の中に何の楽しみもなくなるということがあるのよね。描き飛ばしたりして、それがものすごく危険だ。なんで描いているのか分からない。生活の為なのか、アシさんに仕事を回す為に仕事をしているとか、そういうことをぼやいていることが石森先生にもあったなあ。今だったら仕事場建てるということがなかったら、もうゆったりと自分の好きなものだけを描いていることも出来るのよね。でも、そうしたくない理由は、つい好きなものだけ描いて、マイナー作家になっちゃいそうだから。マイナーになっちゃったら、私が一番最初にメジャーでやっていきたかったという目的が霧散してしまう。

ーーあくまでもメジャーで行きたいと。

竹宮 それこそが楽しみ。

素直にーー

ーー一生懸命、竹宮恵子という人間について話そうとしても、作家生活の方に入ってしまうのはどうしてなのでしょう?

竹宮 私のーー特にね。東京へ出てきてからは、まんがと共にあることしかなかったから、当然どうしてもそうなっちゃうと思うの。今考えて、一番生活ぽかった人間らしかったと思えるのは、スランプの時なんだよね。漫画について必死で悩んでいる、自分のあり方について必死で悩んでいる時が、やっぱ最高に人間的だった。

ーーただやはり、世間的に見てもね。もうすでにいつか忘れたけれども、何年か前に漫画賞をとったのを機会に、やはりこう“全然認めら れてない状況”から見たら、“中堅ですね”とか、とにかく一段落きたなという自覚はありますか?

竹宮 それはもちろん、あるけど。

ーーこの先、どう生きていこうと思いますか

竹宮 とにかく漫画賞に至る10年間ていうのは、もう、ほとんどがむしゃらに「自分って何なんだ」って、スランプの時期も含めて目茶苦茶必死だった。で、やっぱりがちがちに緊張してやってきたなあと思うのね。それが漫画賞をきっかけに私自身が、あっここでひと息ついていいんだ。私が悩んできたことには全部答えが出た。その象徴が漫画賞なんだっていう虚脱感みたいなのがあって、それで自分を見おろしていいんだという気分が、今はとってもしている訳。で、もっとどんどんゆったりして、その10年間にきりきりして表現した自分っていうのを、どんどんまるくして素直になってもいいんだっていう風に思っている。

ーーようやく本来の素直な自分に戻れたと。

竹宮 そう、あまり悩んでいなかった時代の素直さを、私はまたとり戻しているんだなっていう気がするのね。

ーーすると今後は?

竹宮 今後もやっぱり、自分の要求に従って描くことしかしないと思う。自分のおもしろいと思えるものしか、人の前には出さないと思うし、ただもっと、今までよりも、少年愛作家みたいな、レッテルでもって見られるような自分じゃないもっと広い自分を出したい。ぼうっとした自分を見せたい。

ーーやっぱり、人間ーーあなたの説によると20代までは、人間じゃなくてひよこだったと。20代から、いわゆる保護者から独立して、30代 までは“僕って何”という、作家としての自分、がある。でも人間的にはどうこうってことなかったね。作家としての自分の探求に必死で。それだけもう密接してきたんだもの。作家であることと、自分であることっていうのが。

全力疾走を

ーーこれから30代から40代がくるわけだけれども、どういう作品描くかっていうのは仲々難しいと思うのね。やはり、素直なまま淡々とやっていける世界じゃないでしょ。やっぱり人気の世界でしょ。

竹宮 勿論それはそうね。でも、私はそれは、私が読者の方を見れることによって、相手から方向指示をあたえられるものだと信じてるわけ。

ーー読者があなたの指示をすると。で、わりと現段階において、去年、おととしあたりは、仕事を半分意識的に減らしたし、今年からようやく昔のペースの仕事の量っていうのをとりもどしてまあ、軽い助走が始まったわけだけど、

竹宮 まあ、そういう状態だわね。

ーーまた、年月をかけて、全力疾走にもっていきたいということ?

竹宮 うん、全力疾走の快感っていうのは確かに気持ちのいいものだけど、私はやっぱり「地球へ...」みたいな、みんなで走ってたっていうか、読者も走ってた。編集者も夢中になってた。私も夢中になって描いていたというようなものを経験しちゃうと、なかなかそうあるもんじゃないねっていうのが正直な感想で(笑)。だからむしろ私は角のとれた自分でもってね、気楽に読者と会話を続けたい。全力疾走したいってことではないのね。今の助走っていうのは長距離か中距離走位を始めたっていう気かしら。中距離走を続けながらまわりをじっくり見回して、もう私が夢中になって走っている間に随分新人が出て来ちゃって、その人達が活躍するようになったからそれをよく見きわめて、その人と競走するべくまた全力疾走の機会をねらって、今度こそ本当に助走を始めたい、そういう感じかな。

ーー死ぬまでに何軒、家を建てたいですか。

竹宮 うん、私は数限りなく建てたいという。

ーー家を建てたいっていう趣味は、何でしょう。どこに根ざしてるんでしょう。

竹宮 どういうんでしょうねえ、やっぱり私のコミューン願望のせいかもしれないけれど、出来る限り沢山の人と同じ空間を共有したいから、そのための沢山の場所が欲しい、そのせいで、いろんな所に家が欲しいっていうことになるのかな、だから、勿論最初は家だけで、次は仕事場で、その次は別荘かななんて言ってはいるけれども、それはいずれ、遠い先にはひとつになっちゃうものではないかとなんとなく思っている。

ーー色んなタイプのまんが家がいるでしょう。 手塚先生タイプとか、藤子不二雄先生タイプとか、石森先生タイプとか、まあ女性でいったら水野先生のタイプとか、わたなべまさこ先生だって牧美也子先生だって、そうやって見回してこれからどうやって生きていこうかという時、どれにもあてはまらないですか?

竹宮 それは勿論そうでしょう。

ーーあまり常に目標というものは置かない?

竹宮 うん、あまり持たない。自分は、「地球へ...」に書いた私の好きな言葉に「時が過ぎゆく中で...」っていうのがあるんだけど、「僕はひとり、ただひとりの存在」というのがあるのね。 私は書いた時はなんとなく書いたんだけれど、今考えてみると自分はいつもああそう思ってるんだなとしか思えない。

ーー「時が過ぎていく中で、私はただひとり、ただ一度の存在」

竹宮 ただ一度あるっきりしかないんだから。

ーー唯でもない、竹宮恵子。

竹宮 まねっこはしたくないな、こうしかなりようがなかった自分を、見ていきたい。

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