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【革命前夜・少女漫画:Spectator 22】
『COM』と岡田史子と萩尾望都(と、24年組)について


Spectator 22号
発行日:2010年07月01日


資料提供
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/163059...


革命前夜・少女漫画

言葉が音にはならずにあふれて
ガラスの破片が飛び散っていく
ーー松村雄策

「岡田さんの漫画は、絵もストーリーも今まで誰も描かなかった作品でした。漫画でこんなこともできるのか? ということを気づかせてくれた人でした。それで『じゃあ、私も…』と。24年組はそんなかんじだと思います」

電子メールによる山口芳則氏へのインタビューは、この言葉で締めくくられていました。山口氏は、前号で天才漫画家・岡田史子について答えてくれた男性です。
『COM』の歴史と新しい漫画の始まりを当事者の生の証言だけで甦らせたいというこの企画、三回目になりました。これまで『COM』が現代漫画に多大な影響をあたえたことを紹介してきましたが、今回は「少女漫画」に同誌がひきおこした「渦」について触れたいと思います。

1951年生まれの山口氏は現在、青森県でオンライン古書店「憂都離夜(ゆとりや)」を経営しており(註:2021年09月現在、営業の確認はできていません)、岡田史子とは古い友人でした。山口氏は、当時高校二年生で地方在住のホンの小娘だった岡田史子が『COM』創刊2号に投稿した「太陽と骸骨のような少年」(1967年2月号)という奇妙な漫画に心を奪われ、投稿欄に掲載されていた北海道・静内町(現・新ひだか町)の住所にファンレターを出したことで文通を開始。
あるとき、「永島慎二の作品に関心があるんですが、貸本屋が近所に無いので何か本を送ってほしい」と書いてきたので、当時の代表的な本を買って贈呈したら、「ひどく感動した」という内容の手紙が届きました。
同時期と言いますから1965年、「ボーイズライフ」の読者欄で岡田史子と知り合い、携帯もメールもなかった時代に百通近い手紙のやりとりをしてた漫画家・村岡栄一氏は、じつは山口氏よりひと足先に、永島慎二の「びんぼうな、マルタン」や「蕩児の帰宅」が掲載された「刑事(デカ)」を、岡田史子にプレゼントしていたそうです。(こういう時、女の子ってトクですよね)
岡田史子の作品が、永島慎二とボードレールがフュージョンしたことで不思議な力が生まれ誕生したことは前号で軽く触れましたが、背景にはこうした人たちのエネルギーの交感があったのです。永島慎二や村岡氏がいなかったら、岡田さんは、静内の田舎町で、ホントにくすぶっていたかもしれません。

冒頭に「24年組」という言葉が出てきましたが、これは1949年=昭和24年前後生まれ(「団塊の世代」「ビートルズ世代」などと呼ばれる)少女漫画家の世代分類を指す名称でした。75年11月、朝日新聞で初めてこの言葉はマスコミレベルで活字化されたと思われます。「花の24年組」というように用いられました。
当時「三大新人」と謳われた、「萩尾望都・大島弓子・竹宮惠子」の3人を筆頭に、(以下、生年順)矢代まさこ、山岸凉子、里中満智子、池田理代子、飛鳥幸子、樹村みのり、おおやちき…卓越した才能のある作家がかなりの数、22年から25年にかけて誕生していま(画像切れにより文末不明)。



先に挙げた少女漫画家の多くが当時、10代の真ん中あたりで『COM』と出会い、「ぐら・こん」と呼ばれる新人募集ページに作品を投稿し、何らかの関わりを持っていたことは知られています。(三五千波「24年組まんがの少年像」参照)。
『COM』は当時、女性作家も男性同様に自己表現の機会をあたえていた、今で言うジェンダーフリーな雑誌でした。矢代まさこさんのいち早い起用などは、その嚆矢なのでしょう。女性読者が『COM』を手にとりやすかったのは、和田誠描くモダンな表紙の印象もあったと思います。

71年11月、『COM』は売れ行き不振により休刊してしまいました。同誌は結局、24年組のプレイグラウンドにはならなかったのですが、翌72年ごろから、前述の「萩尾・大島・竹宮」が、小学館の「別冊少女コミック」(現「ベツコミ」)を拠点に、一段とみがきをかけた作品を発表。『COM』で試みたネームと視覚の拮抗などを研鑽し、「グレン・スミスの日記」や「ミスターの小鳥」などの文学性の高い作品を連発し、大変革を起こすのです。
ひいては、そのことが、70年代の後半、「少女漫画革命」(増山法恵インタビュー参照)をぼっ発。少女漫画の革命とは、政治のそれではなく、表現の革命であり、新しい漫画への挑戦を指して(画像切れにより文末不明)。
少女漫画はこうして、より深い精神性を身につけることで、75年から80年頃にかけて、メディアの表舞台を駆け抜けていきました。『COM』は少女漫画に影響をあたえ、女性による漫画表現を拡大していったのです。

…と、ここまで書いていたら、先の山口氏から追記のメールが届きました。
「竹宮さんは萩尾さんが描くようになって、男が初めて少女漫画を読むことが増えたような気がします。樹村みのりさんもそうです。彼女たちの作品が入り口になって、僕は少女漫画を読んだのです」

今回は、岡田史子を入り口として(彼女もまた、昭和24年生まれの作家ですが)『COM』と24年組が蒔いた文化的種子をさがしに、少女漫画の国に入っていくことにしましょう。
    *
「『萩尾望都がスゴイ』」という噂が漫画マニアーーそれも男性たちの口端にのぼりはじめたのは、70年代始めの頃でしたね」
『COM』元編集者・飯田耕一郎氏が教えてくれました。
24年組のトップランナーとも言える萩尾望都さんは『COM』に通算2本の短編を発表しています。70年1月号を見ると「ポーチで少女が子犬と」と題する12頁のSF作品でひっそりと登場しているのですが、じつはこの作品は『COM』に投稿作品として送られてきたもので、しばらくの間、石井文男編集長の机のひきだしに眠っていて、手塚治虫の「火の鳥」が予定されていたページ数に達せず、その「穴埋め」として掲載されたのだというエピソードを数名のかたから伺いました(飯田耕一郎インタビュー参照)。
飯田氏はかつて、1980年に上梓した漫画評論集「耳のない兎」で、「ポーチ…」に触れて、次のように書いています。



「ポーチで」は、まったくすばらしいプロローグだった。少女は消滅しなければならなかった。

「プロローグ」とはつまり、「ポーチ…」は少女漫画は変革のきざしを見せ始めた時期の象徴的作品である、と飯田氏は指摘しています。なぜ象徴的なのかを考えてみますと、それはやはり「意識下にあるもの」を描こうとした、新しい少女漫画の始まりの作品だからではないでしょうか。
「ポーチ…」は、登場人物の名前も時代も、場所も、一切が明らかにされないまま、物語は開始します。その世界(近未来社会のようです)に住む人々は、さまざまなことが禁じられ、国家の法律に縛りつけられているようです。しかし人美てゃ、そのことに疑問さえ抱きません。
プロットを簡略に書き写してみます。

◯少女。ポーチで、子犬と戯れている
◯医者、姉とその恋人、メイド、父親、ひと言づつ少女と会話を交わしながら家の中に。
◯少女。ポーチで子犬と、降り出した雨の中、戯れる。少女、雨が降ってきたことすら感動する。周囲の人々、無表情。
◯家の中。母、集まった人々。窓の外には少女。
◯集まった人たち。困り顔。
◯「あんなふうに一人だけ、べっこの考えを持ってちゃこまるんですよ」
「雨の日には家の中にいるべきです」
「今、かたづけてしまいましょう」
「もう少し、まってみません…?」
「でも三年まえからそうしてるんです」
◯雨停む。きれいな虹。
◯少女。とり囲む人々の指先、少女を狙う。
◯少女、子犬を抱く。
「ねえ ムク犬 なにがほんとうのことなのかわからない。だけど とにかく あれは きれいだわ… そうでしょ?」
◯少女。狙う人々の指先。
 「犬も」
 「犬はいい」
◯少女。一瞬に消滅。放り出され、宙に舞う犬。

最後、「べっこの考えを持ち、虹の美しさに感動する異端者である少女は、超能力者たちから抹殺されてしまいます。異端者とは何でしょうか。当時(70年)の時代背景で考えてみると、迫害されるミュータント=SFマニアの姿かもしれないと思いました。
その当時、SFはまだまだ社会的に認知されておらず、マイナー文学の地位にありました。若い萩尾さんは子供からおとなの世界へのおそれをメッセージしたのだと思います。
本作は死の観念にいろどられている作品で、作者がつねづね敬愛していると公言するレイ・ブラッドベリの影響(「華氏451度」など)も色濃く感じられます。
ラストで交わされる会話ーー「犬も」「犬はいい」は、当時の漫画マニアたちに忘れ難い印象をあたえました。その衝撃は後々まで残っていたようです。飯田氏以外にも、当時、『COM』で萩尾作品に出会い、萩尾望都「11月のギムナジウム」に触発され、ファンを集結してはなんと手作りで同作をアニメ化し、全国の学園祭や公民館を自主上映してまわった体験をもつ霜月たかなか氏(評論家)なども同様の感想を抱いたそうで、霜月氏は今でも40年前に書かれたセリフを昨日のことのように覚えていると語ります。たしかに「ポーチ…」を再読すると、いまだに何かが生まれてきそうな喚起力が与えられるようです。
最近の「文藝」の萩尾望都特集号で、初期の未発表作品を読むことが叶いましたが、初期の萩尾作品って、ホントに素晴らしいですね。余談になりますが、ぼくの手元に「あそび玉」という、ファンが勝手に復刻してコミケで販売していた初期作品があるのですが、こんな海賊版も捨てられずにずっと持っていたりします。
萩尾望都さんの作品が時を経ても素晴らしいのは、作品に向かう「意識の差」が歴然だからなのだと思います。



「ポーチ…」には、作者の意識がちゃんと入っていて、『COM』に集結した読者の意識を、テレパシーみたいに突いたのです。
意識を突かれたら、読者の姿勢は変わります。「ポーチ…」は少女漫画のアクセルを一歩踏み込んだ作品なのです。
それまで少女漫画は、操り人形然としていて、おんなこどものための砂糖をまぶした娯楽読み物のようでした(「それまで」というのは、おおまかな言い方ですが、70年代以前の時代の意味であるとしてください)

そしてーーぜひとも触れておきたいことは、前出した岡田史子再評価のきっかけをつくったのが、萩尾望都さんなのだという話です。
萩尾望都は1974年6月号の『別冊少女コミック』に発表した作品「まんがABC」の中で、岡田史子が『アイ』(東考社)という、『奇人クラブ』が編集したアンソロジー集の二号に発表した「ワーレンカ」を丸々1ページとりあげていました。
当時、『COM』はすでに無く、「伝説の雑誌」として語られており、筆を折った岡田史子は北海道に帰り専業主婦をしていた頃です。
朝日ソノラマから76年、岡田史子初の作品集『ガラス玉』が刊行されましたが、この刊行も、解説文を萩尾さんが執筆していましたので、噂では、萩尾さんのプッシュがあったのでは…と、当時マニアは囁いていました。当時の萩尾さんは、漫画マニアに絶対的な人気を誇る作家でした。
今回、『ガラス玉』を書庫から出して、岡田史子の作品を読み返していたら、ささかな発見がありました。
「夏」(『COM』1967年8月号)のひとコマに、森を散歩していた主人公が木の下に倒れ伏している少年の腐乱死体を発見したのですが、それはまるで萩尾さんがのちに「ポーの一族」で描いたエドガー・ポーツネルのように見えるのです。
社会的に影響力があり、テレビや映画のネタ本になるような優れた雑誌のことを〈SEED MAGAZINE〉と呼ぶのだそうです。そのひそみにならえば、岡田史子の作品は〈SEED COMIC〉なのではないでしょうか。さらに比喩的に語るなら、岡田史子が毛皮のコートを着たブライアン・ジョーンズなら、萩尾望都はやはり、その咀嚼能力からミック・ジャガーというイメージ。マディ・ウォーターズは、水野英子先生なのでしょうね。
『COM』の「ガラス玉」に衝撃を受けたかけらたちが、24年組の作家になったのではないでしょうか。

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