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【香月千成子:COMの時代をふりかえる】だっくす1978年12月号


だっくす1978年12月号
発行日:1978年12月01日
発行所:清彗社
資料提供:https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/165398...




「だっくす1978年12月号」26-31ページ
香月千成子
COMの時代をふりかえる
(画像に続いてテキスト抽出あり)









香月千成子
COMの時代をふりかえる

今から12年近くも前──そう、COMが創刊されてからもうそんなにたってしまった。
1つの雑誌で1つの時代を共有した彼女達は、それぞれに翔びたっている。今、あの時代をふりかえるのは、単にノスタルジアの故ではない。現在の少女漫画界を創りあげた源の1つが、確かにそこにあるからなのだ。


COMの時代を語る時、真先にとりあげねばならない女性は岡田史子であろう。彼女が太陽と骸骨のような少年で初めてCOMに登場したのは、67年2月号、創刊第2号であった。後に同編集部をして、「とにかくこの二人(彼女と青柳裕介さんのことである)が登場した時ほど感動したことはなかった」と言わした程、彼女の出現はショッキングだった。作品評から少し引用してみよう。「(前略)まんがの形式をかりたこの作品は、いままでまんがでは扱えなかったテーマ──人生・希望など──に正面から挑戦している。岡田さんのこのテーマが、まんがとして完成され、(中略)多くの読者がそれを認めた時、作者はまんが界にひとつのジャンルを築くことになるだろう云々……」今日の女漫画の隆盛を予言している様でなかなか興深い。続いて、同年6月号にフライハイトの白い骨(佳作三位)、8月号と12月号には新人競作集の一編としてそれぞれ作品を投稿した後、68年1月、ガラス玉で第七回月例新人入選賞をとった。これは第一回COM新人賞にも選ばれた作品で、この後岡田史 はCOMのまんがスクールである「ぐら・こん」を卒業して、本誌の方に執筆することになる。ちなみにその第一作めが、68年3月号掲載のサンルームの昼下がりであり、最後の作品が70年12月号の無題である。続いて71年2月号に地下室が載る予定で、目次まで出たのだが、とうとう掲載されなかった。そして、彼女はそのまま筆を折ったのである。

岡田史子を世に送りだした「ぐら・こん」は、まだ“新人”とさえ言えない多くの漫画志望者達が、その情熱をぶつけあって創りあげた一つの共同空間だった。そこで学び、新しい方向を模索し、そして巣立っていった少女漫画家は岡田史子だけではない。目につくままにあげてみよう。 まず、岡田史子と並んで、COM卒業の少女漫画家としてあまりにも有名な竹宮恵子。初めての入選は、67年7月号のここのつの友情(佳作二位)で、その後同年12月号の新人競作集で発表した弟を経て、68年7月、かぎっ子集団が第十回月例新人入選作となった。作品評の「女性作家が男の子のグループを取り上げたことはおもしろく、また、いやみがなく、自然にはいっていける」(藤子不二雄氏評)という言葉などから、今日の彼女の朋芽をかいまみることができるのではなかろうか。

月例新人入選賞をとった人としては、他に68年9月号白い影のもとやま礼子、69年7月号風仙花のやまだ紫、71年2月号序曲の芥真木等がいる。この三人は三人とも、それぞれ第二回、第三回、四回のCOM新人賞をとっており、即ち必ず一人はいっていたことになる。月例新人賞(これがCOM新人賞の候補者になるわけである) 入選者の男女比が約三対一であることを考えれば、いかに女性陣の質が高かったかがわかるだろう。

「白い影」は時代もので、しかも全編サイレントという力作だ。単なる少女まんがに終らせまいとする彼女の意欲をうかがわせる。芥真木 は70年9月号で、初めてペンを使った作品を初めて投稿していきなり第二席をとった。彼女の作風はいわゆる少女まんがのそれではなく、むしろ青年ものに近いかたさを持つ。先々号の本誌にも名前が出ていたが、本当にもうまんがは描かないのだろうか。

さて、やまだ紫。“GALS LIFE”創刊号のわたしの青い星はこの人である。「風仙花」は投稿第二作めで、第一作ひだり手の……は、69年5月号で佳作となった。その後、本誌の方でどじです、質問があります等一連の作品を発表したほか、70年3月号から詩とイラストによる天空の詩の連載も始めた。 岡田史子と彼女とが、ぐら・こん卒業生の中で最もCOMで活躍した女性といえよう。作品はどれも、子供や思春期の少女の心情を生活の中で丹念に追っていくもので、一編の詩にも似た独特のネームが郷愁を誘う。近頃復活のきざしが見られるが、活躍を期待したいところである。

月例新人賞にこだわらなくても、ぐら・こんのページをめくっていると、意外な名前が次々にでてきて興味がつきない。67年6月号(佳作)、8月号(競作集)、12月号(競作集)に白石晶子。彼女は、初期のぐら・こんの優等生だった。67年8月号には、田中美智子の名前が見られる。読いて9月号には、忠津陽子の例のカワイイ絵が載っている。

68年にはいると、まず1月号にもりたじゅん(佳作)、阿部律子の名前が出ている。もりたじゅんは、後に71年8月号の「まんが家探訪」にゲスト出演しており、彼女の成長ぶりをうかがわせる。続いて2月号では、“だっくす ”でも特集した山岸凉子の水の中の花が佳作にはいっている。このあたりは皆一回こっきりの登場で、ぐら・こん卒業生とは言えないかもしれないが、少なくとも彼女達もCOMを読んでいたこと、COMに投稿したこと、それによってやはり一つの空間を共有していたことは事実なのだ。

話を戻そう。 68年6月号では、河あきらがアラジンのランプで佳作にはいっている。これはいつぞやの別マにも掲載されたので、読んだ方もいるだろう。同年9月号には市川美佐子(佳作)、12月号には市川ジュン(佳作)の名前が見られる。市川ジュンは、68年度の年間個人別得点でも総合六位となっており、実力の程を見せている。

69年にはやまだ紫以外あまり目立った人はいず、かいせたつよが2、6月号等に佳作ではいっている位である。一種の沈滞期であろうか。
70年になるとまき・のむら、71年になると伊藤杏里の名前が頻繁に出てくる様になる。前者は5・6月合併号、9月号で佳作にはいった他、3、10、12月号で「もう一歩」となっている。


ぐら・こん最後の月例新人入選作は、桃田しずのおかしなおかしな物語である。彼女の名が初めてCOMに載ったのは、佳作をとった69年2月号である。以後約三年、佳作を繰り返しながら地道に描き続けた彼女が、最後の最後で初めて入選となった──何か、ぐら・こん、いやCOMの在り方そのものを象徴する話ではなかろうか。

ぐら・こんにこそ関わらなかったが、COMを土台に飛躍していったプロの作家も多い。少女まんが家の中では、矢代まさこがそのトップであろう。68年6月号〜69年7月号の短編連載は、笑いかわせみに言えない話、クモの糸、シャボン玉等の傑作群を生んだし、69年11月号のノアをさがして、7月号の駄犬の目、71年4月号のエミのストールのこと等、心に残る作品を挙げていけばきりがない。

樹村みのり、飛島幸子、萩尾望都等も、それぞれ二編以上の力作短編を掲載した。特に樹村みのりのおとうとと、その続編おねえさんの結婚の爽やかさは印象的であった。萩尾望都の作品はポーチで少女が小犬と、10月の少女たちの二編である。他に、一回だけ登場した作家に、里中満智子、たちいりハルコ、大内初美がいる。皆それぞれに、(少なくとも当時の)少女まんがというワクでははかりきれない“何か”を求めた作品である。COMならでは、と言えるのではなかろうか。

今回は少女まんが特集ということで、COMの中の女性達をかけ足で見てきた。まだまだ言い足りない部分があるし、少年まんがや青年まんがについても言及したいが、それはまた次の機会に譲りたい。

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