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【少女漫画妖精国の住人たち:中島梓・伊東杏里】
対談:中島梓・伊東杏里「少女マンガの個性派たち」(本誌18-25ページ)


ペーパームーン 少女漫画FANTASY 少女漫画妖精国の住人たち
発行日:1978年09月30日
出版社:新書館

資料提供
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/163771...



対談:中島梓・伊東杏里「少女マンガの個性派たち」
(本誌18-25ページ)
(図版に続いてテキスト抽出あり)












対談:中島梓・伊東杏里「少女マンガの個性派たち」
(本誌18-25ページ)

少女まんがが好きだからその魅力について話しましょう

伊東 少女漫画論ということで、中島さんには評論家の立ち場から、私は愛読者の立ち場から、こんな見方もできる、という個人的な意見も交えて、いろいろお話をしたいと思っています。いつごろからですか? 少女漫画を読みはじめたのは?

中島 それはもうはるか昔からです。うちは割と少女漫画を読むのをいやがらなかったんですね。少女が読むものだという感じで、毎月「なかよし」と「りぼん」をとってくれてました。ただ少年漫画はいやがりましたね。かくれて床屋さんなどで読んだものです(笑)。
そういうわけでよく考えてみると、少女漫画と切れてた時期がほとんどないんですね。「マーガレット」「少女フレンド」「少女コミック」「セブンティーン」「ティーンルック」ととにかく読んでいたんです。
どうなんでしょう? こんどこの雑誌に登場されたこの方たちをどういうふうにわけたらいいんでしょう?

伊東 私は新感覚派というのがあたっているような気がします。

中島 どうでしょうね。ニューロマンというとちょっと言い回しが違っちゃうような気もするし、現実にあまりこういう言い方をしてませんしね。じゃどうなるんだという人はいっぱい出てきますから。
ニューロマンというからには、ロマンがなくてはいけないのか? ということになると、この方たちの中でも意外と伝統的な作風の作品をのせてらっしゃる方もいるし。今の少女漫画はきわめてこまかくわかれているから、どういう言い方でこの方たちをわけたらいいのか考えているんですけれどね。新感覚派といちがいにいっちゃっていいのかどうか……考えちゃいますね。
私は、昔は少女漫画家になりたくてヘタなのを描いたりしていたものだから、身内意識があって、どうすれば少女漫画を誤解せずに理解してもらえるかということは、割に一緒になって考えているつもりです。
今、少女漫画を好きだといって発言しようとする人は、みな個人の作品をとりあげてそれについて言うだけなんです。だからそうじゃなくて、個々人の作品ではなく、総合した眼で見ていきたいんですね。だから、新感覚派といっちゃうと、この人はどうなるんだという人もたくさん出てくるし……。たとえば青池保子さん、三原順さん、岸裕子さん、名香智子さんとか……。
ペーパームーン派という感じかな(笑)。そうですね、ペーパームーンの読者層とこの作者たちというのはやはり結びついているでしょうね。感覚的にもそうだし、漫画をまじめに考えようという人たちなんじゃないですかね。たとえば、「キャンディ・キャンディ」を読んであれを非常に好きという人が、少女漫画はどうしたらよくなるかというようなことは考えないだろうと思いますね。

伊東 つまり、ああいうのは脱皮してゆく漫画なんじゃないのかな。

中島 十代後半からもう少し上の人たちの読む本ですよね。まあ十三、四で読んでる人もいるだろうけど…。

伊東 いや、それは良さが本当にはわからないだろうと思いますね。若いからという言葉は使いたくないけれど、若いときにはわからないことっていうのも確かにあるんですよね。

中島 文学、評論、その他の表現物と並行して読んでも抵抗のない作品ですよね。共通のものを持っているということです。とにかくこの方たちのに共通していえることは、テーマがあるということですね。

伊東 それは確かに言えますね。それに、作者がやはり勉強しているというか知識が深い。

中島 勉強という言葉に関してはちょっと語弊があるような気がするけれど。つまり勉強すればいいってものじゃないような気もする。要は作品なんだから。勉強しなくてもよい作品を描くのと、勉強して悪いのを描くのとではどちらがいいかっていうと、よい作品の方がいいんだから(笑)。
だからよく部屋の風景の中で、本箱があり、その中に描いてある本の名前をとりあげて、この作者はこんなに本を読んでるといってほめる批評家がいるけれど、あれは空しいですよね。ああいうとりあげ方は絶対にしてほしくないですね。

伊東 漫画というのは、絵がありますから、そこでこちらの想像力が限定されてしまう絵というのがあるんであれは困ります(笑)。ですから、ここにあげた人たちは、やはり、絵自体の力でこちらの想像力をより大きくはばたかせてくれるものを持っていますね。

中島 独自の世界を持っているということですよね。うまいへたは別として、絵そのものにふんいきがある んですね。


少女漫画の流れを変えた新しい世代の登場

伊東 それから、やはり山岸さん、萩尾さん、大島さんが出てきた一九七一、七二年代というのは、少女漫画のそれまでの流れを変えた時代だったような気がしますが……。

中島 それはもちろんそうですね。私は少女漫画には大きくわけて、三つの波があると思います。
はじめは原始少女漫画期というか物語性が非常に重んじられた時期。話そのものは小さいんだけれど、巨大な振幅で話が展開してゆくものだった。いわばプロトタイプのものです。このタイプのものは今にいたるまで連綿として続いていますね。これは不可欠の底辺なんですね。これがなければ少女漫画は成立しないともいえますが。
そこでこれが一段落したときに、少年漫画が出てきたんです。マガジン、サンデー、面白いものが続々と出ましたね。「伊賀の影丸」、「巨人の星」、このころちょっと少女漫画が落ち込みました。そして、私小説漫画とでもいうかそういう時代が続きます。今の乙女ティ ックロマンの前段階、たとえば、西谷祥子さんです。それと同時に、水野さんの「ファイヤー」が出ましたね。この作品はテーマ性を持ち、かつプロテスト精神が根底にあるということで、エポックメーキングな作品、というより、この新しい波の先駆けをなす作品でした。
ところが、そのあと、なぜか(笑)「アタックNO・1」「サインはV」などからスポ根ものになだれ込んでいきます。その次の大きな波というのが、現在なんですね。その新しい波の尖兵となったのが竹宮さん、萩尾さんの作品だといえますね。ですからこの新しい波の作者たちは、「COM」や「ガロ」そして少年漫画の洗礼を受けて出てきた人たちなんですよね。つまり少年漫画の感性で少女漫画を描いてるんです。

伊東 それはどういうことかしら?

中島 結局、少年の感性ということですよね。少年が主人公になるという、それまでの少女漫画というのはあくまでも少女が主人公の、少女のための、少女による、少女が読む漫画だったんです。要するに少女が主人公の漫画でもこの人たちのは、少年も非常に大きな役割をしめているということですよね。

伊東 男の子の心理もよく描けているということかな?

中島 心理というのとも微妙に違うような(笑)。つまり男の子そのものを描いているわけじゃないから。本当の男の子そのものじゃないわけだし。

伊東 どういうことかしら?

中島 だって(笑)、たとえばエドナンとかエドガーとかがほんとの男の子として現実にいたらぶったおれちゃう(笑)。

伊東 でも、そういうふうにいったら本当の現実にいる人間というのはほぼ出てこないような気がする。つまりそれをいかに読者に納得させうるかということですよね。それに、現実にいないといえば、昔のいわゆるプロトタイプのものやスポ根もの、今の乙女ティックロマンに出てくるような人の方がいないんじゃないかな?

中島 いや、だから現実にいないような人を描いていることがいけないというわけじゃないんですよね。私は現実の人間をそのまま描くのがいいとはまったく思わない。現実の生活を描けば面白いかといえば絶対に面白くないはずだし。

伊東 それは私もそう思います。少女漫画の流れを今、中島さんが大きくわけてくださいましたが、細かく意見をちょっと入れますと、それまでの少女漫画の主人公はほぼ少女で、しかも女性であることを武器にしているような人が多かったような気がするのです。現実とぶつかっても悩み苦しむのではなく、ただ泣くだけで、すてきな男の子が助けてくれるのを待つだけなんですね。意地悪をする子というのは美人で金持ちで、ただ意地悪をするためだけに意地悪をするんですね。しかも絵も、ぬり絵的な動きの少ない絵が多かった。ストーリーも同じようなものが多く、中には盗作だとはっきりわかるものも多かった。
ですからそういった少女漫画の伝統を、コペルニクス的に転回させたのがやはりここにあげられた方たちだったと思うんですね。中島さんがおっしゃるように少年を主人公としたことや、しかもその主人公が少女であっても、その作品の中で傷つき悩み考えることなど、それは画期的な変化だったような気がするのです。少女が出てきても、今までのようなシンデレラタイプじゃなかった。


少年を描くことから少女を描くことへ

中島 面白いのはみなさん、このごろ口をそろえて少女を描くのが楽しくなったと言ってることですね。木原さん、竹宮さんなんかそうおっしゃってますね。ファンからも、少女の話をもっと描いてくれという手紙も多くなってきているそうですよ。だから、少年が先行してしまってたということじゃないですか。少女があとから発見された……。

伊東 それはいえますね。それまでの少女漫画に登場する男の子に魅力がなかったということでしょうね。

中島 まあ一つのタイプしかなかったことは事実ですが。いろいろ努力はしていたけれど、人間を描きわけるというのはやっぱりそれだけの力量が必要なんです ね。
でも「ファイヤー」に出てくる人たちというのはこれはもうはっきりと人格が違ってました。私は、あの「ファイヤー」がこの新しい波の先駆的作品だったような気がします。恐らく、この作品や「白いトロイカ」はその後の人たちに影響を与えたと思いますね。結局、あの作品の偉大さは、人間としてものを考えるというとちょっと安っぽくなるけれど、要するにはじめて漫画でそれをしたということなんですね。
たとえば「ファイヤー」はラジカルな結末で終わっている。アロンが音楽ユートピアを作ろうとして失敗して発狂するという。あれは今、考えると「カムイ伝」などとも共通したものがある作品でした。つまり現代がかかえる問題をはじめて正面からとりあげた作品だったような気がします。
あれ自体は、まだてさぐりしているような作品だったけれど、やはりその後の少女漫画の一つのひき金になったような気がします。ああいうのを描いてもうけるんだということがわかったんじゃないかしら(笑)。

伊東 それはそうかもしれませんね。

中島 それで今、竹宮さんたちが描いてるテーマというのは、何を描いても、一つのことに、一番根本的なテーマになだれ込んでしまうところがあるんですよ。私は、ニューロマン派でも新感覚派でもいいけれど、そう呼べるかどうかというのは、そのテーマに行きつくかどうかだと思うんです。人間にとって非常に大きな問題に、人生とか愛とか、これは口に出すとちょっとはずかしいけれど、言わなくちゃならない問題なんですね。それがあるかどうかですね。
竹宮さんなら少年を通じて、萩尾さんならトーマのように神を通じて、あるいは花郁さんならファンタジイを通じて、というように、結局同じことにアプローチしようとしているんですね。だからどんなに新しい絵や新しいことを描いても、それがないと、今の新しいムーヴメントには入らないと思うんですね。何か余韻が残るんですね。その作品だけではすまない、その作品一つが好きだと、そういう世界を描いた作品全てが読みたくなるという、そういう感性を育ててくれるというところがあると思うんですよ。

伊東 この前「よい本の与え方」という童話案内を読んでましたら、漫画という欄があって、「火の鳥」や「はだしのゲン」が推選されてるんですが、近ごろの少女漫画はよくない、男女の恋愛に終始しているものばかりだ。そればかりか同性愛まで扱っていると書いてあるんですね。私は、恋愛を扱ってどこが悪いのだと(笑)。人が人を愛するというのは生きることの根底にあるものではないかと思うんですけどね。人間がいかに他人を愛するかということ以外のテーマはないんじゃないかと思うんですよね。

中島 そうですね。結局、人間として生きてゆくっていうことになるわけだから、彼女たちの作品が面白いのはそれを昇華してゆくプロセスを持っているということですよね。非常に個人的な話から始まっても、普遍的なテーマに行きつくということなんですね。そういう意味では最近の少女漫画界はエポックメーキングな作品がそろってますね。

伊東 そうね、力作ぞろいね。

中島 こういうふうに激刺として動いているというジャンルは今は他にはないんですね。一時の少年漫画と似てますね。「影丸」「巨人の星」「ハリスの旋風」「あしたのジョー」「サイボーグ009」と、あとからあとから話題作が出てきました。そして、竹宮さん、萩尾さんたちは、たぶんこの少年漫画を読んで育ち、 描こうと思ったときには「COM」があり、といった状況にあったんではないでしょうか。
私のことをちょっと言いますと、私は竹宮さんたちたぶん同じ漫画の読み方をしてるわけです。彼女たちの発想とか感性というのは、そんなわけで非常に近しく思えるんですね。結局、そのころの少年漫画というのは非常に質がよくて、それが「火の鳥」や「COM」の方へいったんですね。ですから、あのころの少年漫画と今の少女漫画とは非常によく似ています。大きなテーマへのぼりつめてゆくというのは必然といえますね。決して少女一人の哀歓にとどまっていられなくなるんですね。

伊東 そうですね。少女漫画に開眼させてくれた作品がぞろぞろと出ましたものね。

中島 この人たちというのは、今まさに代表作が動いている状態なんです。ですからこれからエポックメーキングな作品がどんどん出るんじゃないですか?
「妖精王」も「スターレッド」も「アンジェリク」も「変奏曲」もまだ続くでしょうし。ですからブームという見方をすれば今は一段落した状態なんだけれど、 実はそうではなく油が乗り切ってる状態なんですね。
大島さんも最近の「綿の国星」のあたりからスランプを脱け出たとおっしゃってます。とにかく非常に溌剌としているんですね。たとえば「風と木の詩」なんか、終わってみなければ全貌がわからない作品ですからね。
それにいわゆる二十四年組ですか、その方たちは年齢的にも成熟してきているんですね。何かを創造するにはベストの状態にいるんです。若さからの不安定さがなく、しかる覇気は十分にあるという……。十七、八から二十二、三までの人というのは、感性はすぐれていても、書いているものの確かなうらづけがない、決定的なのは長いものが描けない。テーマをもったとしてもそれをかたちにあらわすだけの力がまだないんですね。
短編というのは、感性とネームと絵の美しさだけでいいものが描ける場合があるんですね。ところが長編だと細部の美しさにあまりこだわりつづけていられなくなる。もっと大きな流れが重要になってくる。やはりテーマというのは絵の美しさよりも流れを通じて出てきますから。たとえば「COM」ではじめて竹宮さんを見たとき、絵のうまい人だなあと感心したのですが、今に「風と木の詩」を描くようになるとは思わなかったんです。ですから新人で短編だけを描いてる人を評価してしまうのは、やはりその才能が全貌を現わしていないという点でこわいですね。
それから大島さんのは、全部の短編が組み合わさって一つの長編を構成しているといえます。だからそういうかたちで表現できる人は、いわゆる長編を描かなくてもいいわけだし。そうじゃなくて、あるときはいい短編をかく、次はそうでもないというように、波の大きい人を評価してしまうのはちょっとこわいですね。そこでここに入っている森川さんなんですが、私は彼女に三巻以上の長編を書いてもらいたいと思ってるんです。やはり森川さんは次代の中心人物になる人だと思いますから。

伊東 そうですね、短編ということに関しては大島さんだけでなく、倉多さん、坂田さん、樹村さんもそう言えると思います。一言つけ加えれば倉多さんの登場は、この新しい波の中のもう一つの新しい波といってもいいような気がします。あの描線とかわいた抒情、感性の鋭さ、それからあえて暴言すればなまいきさ、非常に新鮮でしたね。彼女はよくクールだと称されるけれど、それだけではなく、現実に対する絶望感とか哀しみのようなものがあるんですね。私の非常に好きな人の一人です。
坂田さんの登場は、これはもういわゆる二十四年組の存在をぬきにしては語れませんね。二十四年組が切り開いた道を、こうしてどんどんおしひろげていく人たちがいるということは、ファンにとってはうれしいことですね。やはり坂田さんも大好きなんです。樹村さんは何といっても絵がうまい。話の作り方も上手ですね。「病気の日」なんか特に上手すぎるくらいに上手なんですね。ただ、私、樹村さんにコミカルなものもたくさん描いてほしいんです。
そこで長編ということになると……。

中島 ベルばらなど当時はおもしろく読みましたね。

伊東 そうですね。好き嫌いは別としてオスカルはエポックメーキングな人物だったように思います。私はちょっとあれですが(笑)。

中島 オスカルは成長するんですね。

伊東 それはちょっと(笑)。


漫画の中のスターシステム 一人歩きを始めたキャラクター

中島 それに池田さんは何やかや言っても最初の人格を作りましたよ。たとえば薫さまとかサンジュストさまとか、ある意味でのスターシステムで、それをはじめて少女漫画に持ち込みましたよね。それまでは「ジルとMr.ライオン」にしても、水野さんのにしても、一つの作品に一つの世界しかない。一つの作品にこれだけの登場人物ということで、それが使い捨てなんですね。というのは個人的な世界をとりあげているので、完結すればそれで終りなんですね。一つの話だったわけです。池田さんはこういう人格があるといって、たとえば桜京、あれはオスカルの前身みたいな人物ですがああいうかたちで続いてゆく。それでゆくと、たとえばサリオキスとかジルベールとかは作品の外に出ちゃってる。
たとえば「ファイヤー」のアロンはあくまでも「ファイヤー」のアロンで、それを読んでいる人でないと通じない。ところがこのごろでは、何の説明もなく、「ジルベールが……」みたいな文を入れている小説も出てきているんですね。ある程度ジルベールが一人歩きしちゃってる。そういう意味で、ああいうことをはじめたのは池田さんですよね。ですからドラマに人格が従属するのではなく、むしろ主人公にドラマが従属してる、このパターンを作ったのは池田さんですよ。 「章子のエチュード」あたりはまだそうだとは思わないけれど、「桜京」なんかあきらかにそうでした。桜京、オスカル、サンジュスト、そして「オルフェウスの窓」にもそれらしき人がぞろぞろと出てくるという。木原さんみたいにフィリップが二十回以上も、どの作品にも出てきたり。

伊東 そうですね。「章子のエチュード」とか「お兄さまへ」とかは、いやがりながらも(笑)読んでしまうところがありましたね。パターン化していながら、お話の作り方が華麗なんですね。

中島 このスターシステムを手塚治虫さんが作ったんですね。たとえばロック・ホーム。あれは作品には恵まれなかったけれど、「バンパイヤ」でアラン・ドロンのサムライみたいに陰のある役で大当たりをとり、それ以後それが当り役となった。そういういい方をするんですね。それとか「鉄腕アトム」はあれはもとは女性型ロボットなんです。ロボットというだけでなく、「地球になった男」にも人間役で出てくる。それから別の作品では女になって出てくる、ともう徹底したスターシステムなんです。手塚さんの考えはもう完全な映画なんですね。全部の世界がつながっているというか、全部が一つの大河ドラマになっている。「ブラック ジャック」ではとんでもないところにロック・ホームが患者になって出てきたりするんです(笑)。
このスターシステムという考え方は非常に大きかったと思いますね。それがやってみると少女漫画に非常にあっていたんですよ。というのは、少女漫画のファンというのは人で読むわけだから。この人の世界というので、割といやがらずについてきてくれるんですよ。これが、はてしなくひろがってゆくと、西尚美さんの「天使か悪魔かお姉さま」には青江冬星の曾孫の青江すみれが出てきてるんです。ある点からは、それはもう単なる遊びをこえてると思うんですね。一つの考え方になってきていると思いますね。
このスターシステムは萩尾さんにはないんです。ただ「ポーの一族」そのものはそういう構成になっていて、たとえばこの話があとになって通じてきて、テオの子孫であるとか、グレンスミスの家系であるとかわかるようになっています。しかし「ポー」は「トーマ」とはあまり関係がない。このスターシステムを一番やったのは竹宮さんと木原さんですね。このスターシステムの考え方は、少女漫画の独特の世界を作るのに非常に大きな役割をしめたんじゃないんですか。
これはいま他のジャンルにはあまりないと思いますね。小説では、金田一耕助が一人歩きしている程度でしょう。それが漫画ではすごいかたちで出てきた。ですから今のヤマトのブームでもそういうかたちで古代と真田とデスラーが一人歩きしているんですよね。彼らが出てきただけで暗黙の了解ができちゃうという。それが少女漫画に現われたというのは、彼女たちを通じてだと思うんです。ですから彼女たちの作品というのは微妙にやりとりしているわけです。全体的に同じ雰囲気を持っているし、あるいは「特別出演ポーの一族」なんていって、「銀河荘なの!」の中に出てきたり、「はいからさんが通る」の中で「ドジさま見てる?」と言って作者が踊る、すると「摩利と新吾」のモブシーンの中で「和紀ちゃんなおみさん見たわよ」と言って木原さんが返事している、というように、プライベートな世界をそのまま感性としておしひろげちゃうみたいなところがあるんです。

伊東 楽屋落ちみたいなことをね。

中島 それがしかも他の人にわかる楽屋落ちになってるんですね。その楽屋落ちを許す世界が存在するんですね。それが彼女たちの少女漫画になった。早い話が「キャンディ・キャンディ」にはこういうスターシス テムはありませんよね。

伊東 中島さんが今、総合的な分析をしてくれましたので、私は細かく作品についてちょっとお話ししたいと思います。私は七十一年に登場した「アラベスク」が、新感覚派の夜明けを告げたような気がするのです。多彩な登場人物を描きわけ、内省の方向に向うヒロインを作り、絵も当時としては新鮮なタッチだったことで非常に高く評価しているんです。
そして萩尾さんの「ポーの一族」、これはそれまでが勝者の歴史を描いたものだとすると、はじめて敗者の悲しみや怒りを描ききったものであること、絵のすばらしさまた構成のたくみさ、これは単行本になってしまうとわからないんですが、当時は年代順の発表ではなく前後していたんですね。読みすすむにつれて、全体が次第にあらわになってくるという作り方でびっくりしました。それともう一つ、歴史的時間の描き方がしっかりしているんです。「グレンスミスの日記」なんか、もう頭がさがりっぱなしでした。
それから大島さんの、「鳥のように」、「明日のともだち」、「さくらさくら」、「星へ行く汽車」、など、泣かされましたね。心理描写のうまさ、セリフのうまさ、そして恋愛の必然性みたいなのを描いてみせたんです。それまでは要するに王子様がシンデレラを突然見そめるという形の恋愛ばかりだったような気がしますね。コマも手だけを描いたり足だけを描いたり、しかもその絵が意味を持って私たちに迫ってくる、伏線の置き方の上手さ、それはもう本当に新しい流れの存在をひしひしと感じさせられたものです。もりたじゅんさんの「うみどり」、山田ミネコさんの「死神たちの夜」など、山田さんは日常がはらんでいる恐怖を見せてくれたんですね。ささやさんの「あがり目さがり」とか印象に残る漫画が続々と出ましたね。
とにかくこの方たちの漫画は、日常の中の人間というか、人間をとりまく他人がいることを根本に置いているんですね。それはホントに画期的な変化だったよ うに思います。
もう一つ、SFの登場というのも彼女たちの存在なくしては語れません。「幻魔大戦」にしても「デビルマン」にしてもSFのジャンルは少年漫画に独占されてて、それをこちらも別に不思議とも思わなかったけれど、「11人いる!」や「冬の円盤」、そして伊東愛子さんの「星を渡る犬たち」という犬と少年とのSFなんかが出てきはじめたのは、やはりほんとにファンにとってはうれしいことです。
それから、大島さんの「罪と罰」、萩尾さんの「百億の昼と千億の夜」の登場は、少女漫画にもう一つの道を開いたような気がします。それまでは原作を漫画化すると、どうしてもリーダーズダイジェストみたいになってくいたりないところが出てきたのですが、そうじゃなく、原作の意図を伝えながらまったく本人のものとして消化できているんです。これはかなわないと思った作品です。ささやさんに赤毛のアンなんか描いてもらいたいですね。
ところで今までで一番面白かった作品は何ですか?

中島 木原さんの「天まであがれ」。 他のでも木原さんのならもう文句なし。そしてもちろん、竹宮さんの「風と木の詩」。センシブルなところ、そして普通マンガではできないと思われていたような大きなことを描いているところがとてもいいですね。その他にもいろいろあって一口ではとても(笑)。

伊東 そうですね。ほんとにあげはじめると一日かかっても終わらないくらいありますね。内田善美さんの「パンプキンパンプキン」も面白かったし……。

中島 イラスト的ですね。とても美しい。


テーマ性の高さが際立つ作品

中島 とにかくここにあげられた人たちに共通して言えることはテーマ性が高いということですね。両極端にあるのがいわゆる乙女ティックロマンなんですね。しかし私はやっぱりデリカシイそのものを売り物にしてほしくはないと思いますけれど。

伊東 それでちっともデリカシイじゃないんですよね、あれは。

中島 なれあいですよね。ただ私は乙女ティックロマンでも好きなものもあるんです。要は作品だから、よいものを出してくれさえすればいいんですね。瀬川真子さんなんか好きですよ。あと、一条ゆかりさんなんかもよいものを出していらしたですね。「風の中のクレオ」とか「デザイナー」とか。

伊東「はいからさんが通る」というのは現時点でのエポックメーキングな作品でしたね。

中島 あれは、あとになって大きくものを言う作品のように思いますね。ギャグとシリアスをうまく融和させたという点で評価できます。ただ、はいからさんは新派が、ベルばらは宝塚、映画がやる、ということになると、ここにあげられた人たちの描くものは、やはりより少女漫画の本質をついているといえないでしょうか。おきかえができないんですね。全部、絵とネームとストーリーとテーマが一つになって世界を作っているんですね。小説でも舞台でも映画でもできない世界なんですね。それも共通点の一つではないでしょうか。完成度が高いんですね。どうしてもこの人のでなくてはいやだ、というものがあるんです。たとえば山田ミネコさんの「西の器」を竹宮さんの絵ではできない、竹宮さんの「風と木の詩」を樹村さんの絵ではできないというように、どうしてもおきかえができないんですね。それから、まちがえっこないんですね、倉多さんと森川さんの絵をまちがえる人がいたらお眼にかかりたい(笑)。

伊東 そういう人は相手にしない(笑)。

中島 一人として誰かの影響を受けたことをそのまま感じさせている人がいないんですね。しかもストーリーの作り方もまったく違うんです。よく萩尾、竹宮と並べるけれどまったく違いますね。だから一番共通点のあるところといったら「共通点のなさ」じゃないかしら? まったく他に類似品がないんですね。


作品を読みこなす目を持つことが完成度の高い作品を描く作家たちへの礼儀だと思う

伊東 その通りですね、ところで漫画の面白さというのはどこにあると思いますか?

中島 世界に対する感じ方が変わるというか、はじめて世界を見たときの眼で世界を見ることができる感じがする。いわばフィードバック作用のような、ものの感じ方を生き生きとさせてくれる作用がありますね。ワクにはまろうとしていた考え方をこわしてくれるところがあります。それがいいと思います。

伊東 追体験できるんですね。これも新感覚派の人たちの特色ではないですか。こちらに追体験させうるだけの絵を描けるんですよね。以前の漫画というのは人間だけを描いてた。それも男の子と女の子がいてふき出しがあってという。それが違うんですね。コマも大胆に使い、絵も大胆に使ってますよね。

中島 手塚さんの映画システムの導入とも関連がありますね。スターシステムだけではなく、場面転換、構図、そして構図にカッティングが入ってきたということですよね。彼女たちはそれを全て消化した上で、それにさらに高等技術、ストップモーションとかポジをネガにするとかの技術をもって出てきた。画面の美しさそのものが一つの思想を持つという考え方ですね。
話は元に戻りますが、フィードバック作用というのは重要ですね。これがあるかどうかはやはりよい作品かどうかのわかれ目になるのではないですか?
私は漫画はもうどうしようもなく好きで、だから私が漫画のためにできることがあるとしたら、漫画が誤解されないようにするということだろうと思いますね。漫画は自らについてまったく語らないジャンルですからね。私にできることがあったらやってやりたいと思っています。

伊東 いい漫画もあればいい小説もある。いい音楽もいい映画も、要するに表現物の最良のものというのはどれも相通じるものがあると思うんです。ですから漫画だけというのではなくてそういったもの全てに眼を通そうじゃないかと(笑)。
そしてそうすることが、この最良の少女漫画を描いている作者たちに対する礼儀なのではないかと思います。

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