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【正攻法の人:中島梓・増山のりえ】
ぱふ1982年8-9号「特集竹宮恵子part2」

ぱふ1982年8-9号「特集竹宮恵子part2」
発行日:1982年08月01日
出版社:雑草社


資料提供
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/163149...

正攻法の人 中島梓
聞き手:増山のりえ
(画像6枚に続いてテキスト抽出あり)









正攻法の人 中島梓
聞き手:増山のりえ

名前を覚えて

増山 『ぱふ』編集部から「竹宮恵子特集」を出したいと依頼が来た時、「え!? 何を今さら?」という気がしたの。今までにさんざん竹宮恵子の世界みたいな本を出したし。でも結局のところ、編集さんがとても熱心だったことや「なぜ今、竹宮恵子なのか?」と問うてみると、逆に今だから語ってみようという気になったの。四〜五年前の「風と木の詩」「変奏曲」と続いた人気フィーバーがやっと落ち着いて、作家としてようよう一段落ついたことと、良い意味でも悪い意味でも竹宮恵子という存在が誤解されているような気もしたので、今回は「人間・竹宮恵子、作家・竹宮恵子」両面から、彼女を知るあらゆる人達の証言(!?) を集めてみようと(笑)。で、その中で中島さんの竹宮とかかわり始めた頃の印象など...。

中島 じゃ、今回はフランクに「人間・竹宮恵子」について話すことにしよう。私はとにかく一番最初は自分がマンガ家志望で、『COM』という雑誌に投稿したのね。私は24年組の人より5〜6年後なわけ で、それでもマンガ家になりたかったのね。その頃、長谷川法世が作品で「この選外佳作め!」というギャグを使ったのね。それ見て選外佳作ならいいじゃないか、と思った(笑)。私の方は名前がね、ズラーッと並んだ所に出るわけ。 一度落ちた名前がまた出るのは恥ずかしくて、ペンネームを変えたりして。その頃に竹宮恵子って人がバーンと登場してきたわけね。で、私はすごく驚いたわけ。

増山 なにに驚いたの?

中島 女の人だったから。とにかく私は自分と少しでも、近い人が第一に入ると、猛烈にねたんでたわけ(笑)。十代のまん中くらいの人が出てきた、というのでショックを受けて「なんだ、こいつは。」という感じで読んでいたわけね。印象としては、まあ町となく不可もなくというところかな。それでともかく「ここのつの友情」とか「カギッ子集団」を見て竹宮恵子の名を覚えたわけね。その時は、私にとって他の人より特にってことはなかった。絵も の頃の私から見ると、そんなにうまくもないじゃないか、ってのがあった。
そのあと色々ありまして...虫プロから出た『ファニー』って雑誌でケーコタンの「スーパーお嬢さん」を読んだわけです。で、私はわりとこれが印象的だったのね。というのは作家的に余分なものがとれてたのね、出に比べて。でも『ファニー」がアッという間につぶれて、実際にはケーコタンの方にズッと目を向けてたわけではないの。ただ非常にハッキリと竹宮恵子という存在「COMの第一席」とか「スーパーお嬢さん」とかと結びついて記憶に残ったわけ。

増山 中島さんの大学当時のマンガ体験は?

中島 ザーッと少年マンガに傾いていて、ちょうど少女マンガが中だるみの時期で、いわば24年組活躍前夜という頃だったの。正直いうと、少年マンガばりだったので「ファラオの墓」とか「風と木の詩」が始まった頃とか全然覚えてない、空白期間なの。
少女マンガって昔に比べると、なんか変なのになっちゃったな、と思った。ところが少年マンガもろそろ行きづまりになった頃ってあるじゃない。それでも私は「ドカベン」とか「ガキデカ」に夢中になってた。そして、気がついたら……その辺が無責任な言い方しかできないんだけど、私がSF作家になってたのね。私はSFの評論をするようになって、そこにド・マニアの男の子がいて、その辺で再び少女マンガに戻ってきた、という気がする。

増山 中島さんの中に竹宮恵子が登場するのは「ファラオの愛」からかな?

中島 いや、その前に「空がすき!」とかを読んでる。ただねェ、やっはり「風と木の詩」だな。「風と木の詩」の頭くらいを読んで、それで「ファラオの墓」に行ったんだと思うの。それからどんどん作品を追いかけて、手に入れるのが難行したのが「変奏曲」あれ、ハードカバーで単行本になるまで存在を知らなかった。

コンプレックスとプライド

増山 よくファンから言われるけど「変奏曲」と「ファラオの墓」と「風と木の詩」を読むと混乱しない? 作傾向が全然違うから。

中島 しない。全然しない。

増山 ほんと!? 現状ではファンがはっきり分れているんだけれど...。

中島 だって、要するに全部彼女が描いたものだもの。

増山 そうなんだけど、例えば「風と木の詩」のファンには「地球へ...」を嫌う人が多いし、「地球へ...」のファンは、なんで「風と木の詩」みたいなものを描くの、というの。

中島 それは私だって言われるわよ。ただ私は、自分が色んなものを書いてるんだから、色んな方向へ延びていく人の気持ってよく分る。そういう意味でとまどいを持ったことは一度もない。

増山 たしかレコード関係の人の口ききで、初めて会ったのよね。

中島 あの時、私借りてきた猫みたいだったね(笑)。私は本当云って「風と木の詩」を描いたのと『COM』で知ってた人と結びつかなくて、それで、何かのはずみでこの人はもしかしたら『COM』で読んでたあの人じゃないか、と。

増山 そこに至るまで結びつかなかった?

中島 そうなの、ああそうか彼女がここに至ったわけですね、って。で、彼女と同じ誕生日なのか、はからずもこの人も男同志の話描いてるのか(笑)。不 思議な気がして、それで個人的興味はそこから起こったわけで、非常にミーハー的なの。

増山 どうでした? 会ってみて。

中島 全然イメージと違うのよね。要するに私は自分に似た人間を想像していた。同じ日に生まれて、同じもの書いてる、と。だから精神的な双児みたいのが登場する瞬間という神話を信じてたわけ。ハッキリ言うと、ショックを受けたのよね。

増山 想像とは逆のショックを。でもひと目でよくわかりましたね。というのは竹宮という人は、絶対自分を見せないでしょ。

中島 うん、だから、そこが違う。私はわりに見せちゃうもん。すごくおとなしい人だと思った。今の彼女を知ってると違うんだけど(笑)。例えばパッと人にかみついてきたりしない。これは自分の話になってしまうけど、あの頃の私はすごい自負心のかたまりだったのね。だからそうでない人が不思議に見えた。あとで考えてみると、この人は大分年上で、大分前から世の中に出ている人だなァと思ったけれど。とにかく、おとなしいー!って感じたのね。で、ちょっとびっくりした。ギンギラギンに自己主張している人だと思ったから。

増山 なぜ? 作品からそう思ったわけ?

中島 というのは少年愛を選ぶという形が私にとっ,ては、もうホントに自己主張を極限まで煮つめて、それで「男女」にできなくて「男と男」にしたわけ。それぐらい自己主張の強い人でないと、男と男という形でかかないだろうと。

増山 彼女の場合は「男と男」への入り方が違うのよね。

中島 そうなの。非常に不思議だったの。

増山 竹宮の場合、内向しないできわめて健康的に発想するのよね。

中島 それがよくわかんないんだよね(笑)。

増山 19か20の頃大泉、私とケーコタンとモー様と生活始めた時、「少年愛」に興味持っていたのは私だけだった。私一人が少年愛、少年愛とふりまいていた。それにビンビン反応したのがケーコタンなのね。彼女にとってはコッソリとではなく仲間うちでキャッキャッとやってたわけで、コンプレックスとかは無いのね。

中島 私もコンプレックスというんじゃないのね。むしろ私にとってプライドだったのよ。ほかの人にはわかんないだろう、という。だからそれだけに、さわられたくなかった、ということはあるのね。
今となってはこういう形で少年愛が世の中に出てきたことに対して苦笑するしかないのね。なんかどうもおかしいなァ...(笑)。私にとってはもっと切実なものだったのね。『ジュネ』を楽しんでいる彼女らの中にもすごく切実な人がいるかもしれないけど、少くとも私が求めていたのは代替物じゃなかったな、と。少年が少女、あるいは女でもいいという形での代替がきかないものだった。ケーコタンは「ファラオの墓」ではナイルキアを「風と木の詩」ではアンジェリンを描いてるでしょ。私にはあれはできなかったな。とにかく女が出て来るのがイヤで、女というものが、一切いない宇宙を書かなきゃ承知できなかった。それはやはり、たぶん私の中にあった精神のゆがみなんだろうと思うけど。そういうふうに考えると、竹宮恵子にはそのゆがみがないみたいでね。

増山 うん、ない。すごく健康的。

中島 いや必ずしも健康的というんじゃなくて、精神のゆがみというのが、彼女にあっては別の形で出てきているのかもしれないけど、そういう形では出てきていないのね。この世界をこういう形で造形しよう、という形では出てきてない。
例えば偏執狂の狂人がいたとして、部屋を全部真赤にして、ほかの色を排除していくような形で排除していくわけ。彼女の場合はその排除っていう要素が働いてないみたいなのね。取り入れるという要素、あるいは嗜好するという要素は働いていると思うけど。
私は不思議なことに、私が大人になって180度グルーッと大きく性格がまわってきたら、なんとなく自分と彼女は似てるんじゃないかな、という気がしてきた。初めあれほどパッと見て、なんて違うんだろう、と思ったけれどね。「風と木の詩」が結末に向かってきて、彼女がその種の匂いのない作品「地球へ...」とか「フライミー」とか描いているでしょ。それを見て初めて、同じことを考えてないわけではないんだな、という気がする。

増山  ーーというのは?

中島 私が普通になってきたのよね、結局(笑)。だからその分彼女の人間とか世界に対する関心の持ち方が正攻法だった、ってことなの。彼女は正面入り口の一番真ん中から入ってゆくタイプだったんだろうなと思ってる。

自分の場所がない

増山 最初から彼女がオトナだったってこと?

中島 いや、オトナというんじゃなくて......ようするに彼女に親近感を持ったのはオトナだからという理由じゃないと思う。正攻法だから、と。彼女は非常に特殊な思考の人だと皆が思っていたのが、じつはものすごく正攻法だったってことが、例えば「風と木の詩」の終結部になってわかってきたじゃない。それはジルベールが女であっても別にかまわないという話じゃなくて、女とか形とか関係ない、というところにきてるじゃない。
私は結局今になってすごく普通の話が書けるようになってきたの。それは自分の中のしこりとかいろいろな夾雑物を排除してきた働きみたいなものが、ゆるゆると直ってきたのよね。それによって私も遅ればせながら、表玄関のまんまん中を使えるようになったの。そうすると竹宮恵子がわかるのね。むろん全部とは言わないけど、ある程度はね。

増山 うーん、よくわかんないなァ...。

中島 もっとわかりやすく言えば、早い話が、私が少年愛を書いてて女が全然書けなかった理由は、私のコンプレックスのせいなのよ。誰もわかってくれない、世の中に受け入れられない、世の中に私の場所がない、というものすごいコンプレックスだったのよ。だから私が自分の場所を得て、世の中に受け入れられたと思うのと同時に、すみやかに解消していった。そして私は男と女の話が書けるようになったわけ。だけど私からみるとケーコタンがコンプレックスを持つタイプの人とは思えない。

増山 持ってるわよ。才能に対して。

中島 才能に? 本当かなあ(笑)。

増山 才能とか自分の絵がヘタだということに対してコンプ レックス持ってる。

中島 だけどそれは仕事の上のコンプレックスであって、なんか生活感がないと思うよ。例えば自分の生きてく場所がない、仕事が受け入れられないというようなコンプレックスって、ものすごく生活感に 根ざしたものでしょう。

増山 そりゃそうだ。それは彼女は最初っからない。仕事がきれたことないでしょ。

中島 だから、それにもかかわらずなぜ彼女はコンプレックスの持ち主のふきだまりみたいなところ...少年愛になぜ「彼女」が行ったのかそれがわかんないわけ。

増山 彼女が最も強くコンプレックスを持ったのは大泉サロンの時代だと思うの。あのメンバーをみるとわかるけど、ケーコタンだけ作家性が異質だった。

中島 どこにいっても異質だったわけね。

増山 そうそう『COM』の時代も、執筆依頼がきても「自分はCOM好みの作家じゃない」といって断ってた。

中島 そう考えるとわかるような気がするな。要するに結局、異質な世界に入っちゃったってことは、私のいう「自分の場所がない」ということだから。

増山 当時『COM』全盛期にわりとマイナー対メジャーみたいな流れがあって、マニアにあってはマイナー漫画のほうがすぐれてる、という見方が強かった。ケーコタン自身はエンターティメントな漫画だっていいじゃないか、と言いたかったみたい。
そんなコンプレックスの中で、自分は少年を主人公にすれば作家的魅力を発揮できることを発見して、編集部の反対にあいながら少年を主人公にした作品を成功させちゃったのね。「空がすき!」のタグは当時の竹宮恵子そのままだナ。

中島 それはようするに自分の話を描いたってことじゃない?

増山 そう、自分をタグにしただけ。

中島 そうすると私少し考えを変えるけど、それなら彼女はコンプ レックスがあったのよ。自分が女に生まれながら、そのまま女でいられないコンプレックス。自分が在る形というのを容認できない、という何かがね。彼女にも自分自身を少年に仮装させなければならない屈折というか、なにかがあったってことなのかな。
私ねーー彼女を理解するには、自分について語らなきゃならない、ってのもおかしな話なんだけど、 自分を手がかりにして話すとすると、私って男装できるようになったのってわりと最近なのよね。男装 っていうのもおかしいけど、全部少女マンガの少年なのよね、私のしたいファッションて。だからケーコタンがタグの格好をするとか、タグに自分の服きせるとかは、私にはよくわかる気がする。ただケーコタンの場合は、自分の中の少年化願望に最初からストレートに同化してたわけでしょう。彼女だって少年マンガで育った人じゃない。少年マンガを読んで育った少女って、自分の場を少年に仮装しちゃう ほかないのよね。

竹宮恵子は女そのもの

増山 これだけ年月がたち、私という目から中島さんと竹宮という人の女性をみると、ひどく違うじゃない。もっと単純な言い方をすると、私からみると中島さんはほんとに女性的なのね。

中島 女のかたまりみたいな人よ(笑)。

増山 でも竹恵子はそうじゃないと思うの。

中島 でも作品よむとわりと女っぽいと思うけどね。

増山 女っぽい?

中島 例えば「風と木の詩」に出てくる男性は、私の目からみるとみんな「女からみた男」なのね。それは良い悪いの問題じゃなくて趣味の問題よ(笑)。私は主人公の少年だけが徹底的に女でさ、あとは残らず徹底的に男というのしか書けないの。だから男のコッケイな面、ダメな面...私からみると男ってのはコッケイでダメでどうしようもなくて、おろかで欲望のとりこで、とそういう面にくるのね。はやい話がマックスやボナールとか例外を除いてあと女なのよね。私からみた「風と木の詩」はジュールはまだよく何を考えてるかわからない、セルジュはタグの系統だから置いとくとしてーーロスマリネ、オーギュ、ジルベール全部女性としてふるまっていると 思う。本当の男だと、あんなふうにカッコよくふるまえないと思う。パッとどこかで性格が破綻をきたしてしまうと思う。彼女の美学からは、男が性格の破綻をきたしておろかしいぶざまな動物にかえる瞬間てイヤなんじゃないかと。無意識にでもね。だから自分の美学にあわせて、オーギュなりロスマリネなりが行動すると結局それは女性の行動パターンになる。

増山 はたでみてるとセルジュこそ彼女だなァと思うんだけど。

中島 私はいつもはたで見てるわけじゃないからわ.かんないけどね、それは(笑)。私と会う時の彼女は、少くともそんな奔放な顔ってのしないから。いつもまことにお行儀のいい落ちついた女性という顔しかしてないもの。非常に新のわかる頭のいい女性って感じで。

増山(アッケにとられて)イャー、驚いた。

中島 そりゃそうよ。落ちついてるわよ。踊り狂うってのとは別だけど、彼女が理性を失う瞬間て私全然みてないし。

増山 うん、理性を失うことって少ない。

中島 いや、とにかく一度もみてない。でも私からみると竹宮恵子って女よー。女そのものよー。

増山 女そのもので、感情破綻をきたさずに、どうしてあれだけシッカリしてるのかな。

中島 それはもう「しっかりした女」なんじゃないの(笑)。

増山 いるのか。そんな女って。

中島 いるわよ。それは...あなたの考える女ってと言で言えば私みたいな女なんでしょう(笑)。

増山 私20歳の頃から彼女見てるけど(こんなこと公表していいのかな)彼女とにかく男性にもてる。バラの花束もって追いかけてくるのに相手にしないの。仕事、仕事、仕事が先なのよ、というぐあいで。

中島 不感症かしら。

増山 不感症じゃないと感うけど。

中島 そ、そ、そういう冗談にマジメに反応しないでくださいよ(大爆笑)。

彼女はナルシスト

増山 大泉サロンが解体して、私が竹宮恵子の所にイソーローとしてころがり込んだのも、彼女の人間としての大きさのせいなのね。経済力もあったけどね(笑)。でもどうして「女の弱さ」がないんだろう。

中島 よほど他者にみせるのがイヤなだけじゃないの。私、これだけは断言するけど、とにかくどんな形であれ、少年愛とかその類の、正常な男女関係ではない、なにか異常な性関係というのをかく人間て100%断言できるけどナルシストなのよ。通常以上に自分に対して異常な関心をもっている。ってことを、世間に公表してるってことなのよ。これまで少年ーー自己投影した少年しか描けないならば、彼女はものすごいナルシストなんだと思う。ナルシストってのは結果的に自分が少しでもぶざまな予定以外の姿になるのは耐えられない。だから彼女は人にそういうのをみせないんじゃないかな。彼女にアタックした幾多の男達は、まだ誰もそのナルシズムの砦を乗り越えてきていない(笑)。

増山 それとね、不思議なのは、どうして十何年も、生活のほとんど100%を仕事に向けていられるのか、ということ。

中島 十何年てのはわかんないねー。私は五年だけどね。もう遊びたい〜〜(笑) って言いくらしてるけど。もっともその遊びたいというのがね、今決められている仕事以外のものを書きたい、っていうんだから開じことかもね。ほっとかれたって書くし仕事がありゃ書く。ただ単にしめ切りをせまられたり、しょっ中原稿をとりに来たり、ギャーギャー言われたり、出来をはかられるのがイヤなだけだから。でも彼女、遊ぶのすごく好きじゃない。

増山 うん、根っから好き。

中島 人によってものすごく、それこそ仰天するほどキャパシティって違うのよ。例えば私なんか、寡作な小説家からみるとなんであんなに仕事するのかと思ってると思うのよ。でも私自身はこのところ仕事が減ってきたな、と思うの。事実へらしてるしね。
なんかこう常人のはかりしれないキャパシティってものが、ぜったい特殊技能の中にはあるのよ。ただ私は、ほんとにあの人は女っぽいなァと思うのよ。

増山 性格からみても?

中島 性格はわからないけど、やることなすことのはしばしに女っぽさが顔を出すんだけど、それが町娘の女っぽさじゃないの。大奥の女っ女のぽさだな。つまり強いのよ。だから彼女が強いとすると少年の強さじゃなくて、やはり女として強いんだと思う。少年になりたかった、というのは強くなりたかったんじゃないかな。

増山 彼女はすでに少年愛には興味を持ってない。「風と木の詩」なんて20歳の時創ったもので、今はただ術題を片づけるようなもんでしょ。

中島 マンガってのは描く時間が小説よりたくさんかかるからね。私は(小説を)書いたときが興味のあったときで、だからもう書かない。

負の立場の逆転劇

増山 中島さんからみれば、ケーコタンはそれほど怪物じゃないのね。不可解な存在じゃない。

中島 私はもう少し彼女の内容をみたいな。と思うのは、20才の時に「風と木の詩」を創った、という結接点はなんなのか? ってのがわかってみたいよね。彼女が「コンプレックス」というと彼女の気には染まないかもしれないけど、少年愛に向かっていった原因はなにかってことね。それと、もしほんとにナルシズムが強いと、バラ持って追っかけてくる男達に溺れそうな気もするのね。そういう時期もあるように思うのに彼女にはないでしょ。

増山 ないねェ。

中島 それがどういうことなのか...。
ただまァ、ひとつポイントになりそうなことがあるとすれば、結局彼女、世界の負の面(マイナーの面)に立つ自分がすごくイヤなんじゃないかな。

増山 なにゆえ?

中島 例えば男と少年なら少年、男と女だと女、ようするに負の立場に立つのがイヤで、彼女のやってることはね、正の側にしようというんじゃなくて負のままでプラスの立場にたとうとする逆転劇みたいなものじゃないかな。例えば彼女は女性だからーー女性だから少女マンガを選ぶってゆうのはケッタイな話しだけど今の所はそうでしょ。高橋留美子は別として、女性だから少女マンガを選び、一方男のほうは少女マンガも少年マンガも選べる。男が選ぶと いうのが5つあるとすれば、女にとっては2つしかなかった。そういう形では勝気な人はイヤなんじゃないかな。その時にいろんな発想があって、本当に攻撃的な女というのは、じゃあ男社会をぶっつぶしてやろうというわけだけど、そうでなければ「じゃァ、私が男になってやろう」男社会の秩序というものはいったん認めるけど、私は敗者にはならんぞ、というのはあると思う。結局セルジュも、アスランもそうでしょ、恋人つれて逃げる。わりと逃げるというパターンは彼女にとってすごく大きいんじゃないかな。革命はしないね、あの人は。

増山 また話しはガラリと変わるけど、24年組といわれる人達が一部を除いて結局結婚してないのはどうしてだろう? そのナルシズムの壁を越えてくる相手にめぐり逢ってないってこと。

中島 それも当然あるだろうし、それと彼女らにとって、彼女らすべてが一番その男社会と人間社会のギャップのど真ン中に落ちちゃったんじゃないの。
いろいろな意味で表現したいと思った時、いろんな壁があって、そこでまずぶつかっちゃう。女として自分の感じたことを、こういうふうにして出したい、というものがあって、でもその為には不本意な形での「少女」というものに化身しなければならないとかさ、いろんなギャップがあって、少女漫画の世界とそれから現実の社会とのギャップに落ちちゃった人達なのね。
つまりさ仕事のほうがよくなっちゃったのよ。私が実際に見た社会、あるいはまあ結婚生活でもなんでもいい、それと頭の中にあるものはこれほど違うと(笑)じゃァどちらを選ぶの、という段階でみんな頭の中にあるものを選んじゃったんじゃないのかな。というのは24年組をみてるとね、どの作品みても人間のつながりに対する見方が、ものすごく精神的なんだよね。すべて精神の充足を求めている。あの辺がねェ、実際には全然つながりのない男女がね、経済的充足か肉体的充足それだけで結ばれてることって、世の中にはすごく多いわけじゃない。その辺のところが24年組にとってはギャップだったのかなァと思うわけ。
世界に対する考えの基礎がね、成熟してない段階にあるから、それが今後成熟するとかしないとイケナイとかでなく「成熟しない段階」を彼女らの成熟として選んだという...。

増山 でもね、ケーコタンをみてると、ある日スルッて結婚しそうな気もする。

中島 しないでしょ。

増山 そうお?

中島 そう、さもなきゃスパッとマンガなんかやめそう。彼女の結婚観とかそういうものはわからないけど、彼女の見る現実はやはり現実という名のフィクションじゃないかなァという気がする。

増山 どうして? 仕事しかしてこなかったから?

中島 カッコよすぎるからよ。出てくる人間がみんなカッコイイのよ。作家としてのケーコタンのありかたはカッコよすぎるんじゃない。例えば一挙一動がキマリすぎてるわけ。

増山 それはそうしないと作品として成り立たない。そうしないと売る価値がない。

中島 もちろんそうだけど、例えばさ、ステージに出てきてお話しするとか、私と対談する時とか、すごく決まってるーーそれは要するに外にみせるものなんだよね。

増山 そういう時、彼女本気で演技を楽しんでるよ。

中島 だけどそれは結婚生活に通じる道ではないよね。鏡の前に戻って、ふっと本当の自分に戻る時があるかどうかは別にして、自分で演技だ、と思っている瞬間があるわけよ。

ガラス張りで近づけない

増山 ケーコタンはね、あらゆる意味で馬鹿がつくくらい冷静で平均のとれる人だから、ラブちゃん(伊東愛子)にいわせるとブアイソな人というひと言に なっちゃう。

中島 私はね、彼女はブアイソというより、すごく近づきにくいというイメージがある。みんな彼女のことは親しみやすい人だと表現すると思う。普通の人にとってはニコニコしてあいそのいい人だというと思うの。私にとっては近づきにくい人...何回かお友達になろうと努力を思い出したようにするの。私すごくお友達つくらない人なの。時々なにかのはずみでモーレツになつこうかな、と思って一回か二回やってやめるの。

増山 なついたことある? ケーコタンに。

中島 私はね、ものすごく用心深いの。彼女にはね、なつこうとしてみてね、その段階で拒絶を感じるの。

増山 拒絶なんかしてないよ、彼女。

中島 いや、してる。要するに人間に対して拒絶してる。誰にでも「ここから先入ってきてはイヤ」というのは基本的にあるけれどね。それが表面に出ているのは私は恐くない。「近づかないでください」ってのは恐くないけど、ニコニコしてここまでですよというのが一番恐い。

増山 ほんとう? ホントにそれを感じる?

中島 ちょっと様子をみてみよう、とこうやって戸をあける、こいつはまァ隣りの部屋まで入れてやっていいかな、という感じで入れる事はあるわけよ。ケーコタンの場合、そうじゃないのよね。全部がガラス張りだけど近づけないのよ。

増山 中に入れてくれない?

中島 そこんとこおもしろいでしょ。

増山 そうかねェ。 ケーコタンは私に、中島さんはどうして私のほうに飛び込んでこないんだろう。私に対して好意はもってるはずなのに、とのたまうておったよ。

中島 だからそれは人へのアプローチの仕方が同じなのよ。絶対そう よ。例えばあなたみたいにワッと「これ聞いて!」 といってくれると、安心してハイ聞きますよ、といってつき合いの仕方がわかるけど、例えばケーコタンのように自分もグチいわないと私もグチいわない。お互いに何したらいいんだ、じゃお互い自分のお仕事して暮らしましょ。結局お仕事しかないわけ(笑)。

増山 でもケーコタン、あなたに会うのとても楽しみにしてるよ。

中島 いや、だから会えばお話しして面白いわけよ。でも会えばという外的要因が入っちゃうわけよ。私はめったなことでは自分から相手のとこに押しかけないし。

増山 そうすると二人とも同じ要素があるわけだ。

中島 あるんでしょうね。だけどケーコタンてもっと自己規制しちゃうんじゃないかな。言う前にコノ人に言ってもわかんないだろうなあ、ということがわかってしまったり、言っても迷惑するだろうとかバババときちゃうんじゃない(笑)。

増山 だけどまァ、ほんの2〜3年だったろうけど、ファンに対して彼女よくやったと思うなァ。白いドレスひるがえして。

中島 うん、だけどねェ女ってふつうはできるのよ。化けられるの。誰でも。

増山 ふーん、でもアレはケーコタンの本質じゃない。

中島 だから化けるのよ。彼女にしてみれば、例えば色んな竹宮恵子論みたいのがあって、そのどれもが本当の私じゃないわというのが、一番満足というか本音じゃないか、と思うのよ。

増山 それはあると思うね。

中島 ようするに彼女は化身の人なんだろうと思う から。

増山 竹宮恵子論ほど書きにくいものはないだろうという気がするねェ。

中島 ま、いざとなりゃまとめちゃうけどね。私はね。

増山 うーん、中島さんはなんのかんのいっても多方面から彼女に接触してるし、つき合いも何年にもわたってる。だけど他の人が作品だけ見て、彼女を論じようとしたら無理だと思っちゃう。

中島 そりゃあそうだろうな。

増山 彼女、作家としてパッと方向変えるでしょ。パッとマイナー、パッとエンターティナー、ってぐあいに。それで十何年か走ってきた。で、そのエネルギーってのは本当に無限に持っているという気がする。その無限がどこから出てくるかというと、彼女はどんな苦しい立場にいても、白い紙を前にすると何もかも忘れられる、幸福に浸れる、というの。ペンを握って線を一本ひくということが、彼女にとって幸福以外のなにものでもないわけね。

中島 それだとしたら、私は全面的にわかるわよ。 もしそれだけが彼女の本質だとしたら、私はもう、 全く同じ日に生まれた双児よ。

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