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【石田美紀・増山法恵 黒子に徹する―「変奏曲シリーズ」における共同作業】

聞き手:石田美紀
インタヴュー日時:2006年09月29日
インタヴュー場所:吉祥寺
増山法恵(56歳)
本書において「インタヴュー」と表記されている


「密やかな教育〈やおい・ボーイズラブ〉前史」

出版社:洛北出版
発売日:2008年11月08日


「密やかな教育〈やおい・ボーイズラブ〉前史」314-319ページ

少女マンガにおける「少年愛」の仕掛け人
増山法恵



黒子に徹する―「変奏曲シリーズ」における共同作業
増山 マネージャーじゃないもん!原作者だもん!


黒子に徹する──
「変奏曲シリーズ」における共同作業

増山『風と木の詩』とほとんど同時期に、竹宮は『変奏曲』も描いています。『変奏曲』がわたしの原作だということは、二〇年ぐらい発表しませんでした。昔は、少女マンガに原作者が付くと、「この作家は物語が書けない人だ」と思われるという流れがあったのです。竹宮は物語も書ける作者ですから、誤解を恐れてわたしの名前は表に出さないことにしよう、と自分で決めました。
当時のわたしの願いは「竹宮惠子というブランドをマンガ界に確立したい」ということでした「竹宮惠子」という作家を可能な限り高みに上らせること。そのためには、そこに訳のわからない形で増山法恵が絡むのはマズイと、黒子に徹しようと。そういう風に決めました。

Q 凄まじいご決断です。

増山 そんなことなかったですけど(笑)。「よく我慢しましたね」とか「違う方法があったのではないですか」などと最近よく言われますが、それは自己主張が当然とされる今という現状だからこその発想です。それだけ女性が強くなっ たということですね。
当時はそうではなかった。昔は黒子に徹した方が手っとり早かったというか、わかりやすいやり方だったというか。だから編集さんやアシスタントさんはふたりが一緒に仕事をやっているのを見て実情を知っているわけですが、外部の方々はわたしの存在を知らなかった。今でもネットなどで「増山さんというマネージャーさんがいて……」とか書かれたりするのを見ると「マネージャーじゃないもん! 原作者だもん!」と思います(笑)。肩書きとしては、竹宮のプロダクションの『プロダクション・ディレクター』という格好のいいことを言っていたのですけれどね。わたしはただただ竹宮惠子に優れた作品を描かせたかっただけです。
全部ではありませんが、少年マンガのプロダクションだと、何人か先生とそっくりの絵を描くチーフ・アシスタントがいます。大袈裟なことを言えば、先生が数日病気で寝込んでしまっても作品はできあがります。それが少女マンガはできないんです。ほとんどの絵を先生が描くからです。アシスタントが五人いようが、十人いようが、先生に代わって描くことはない。アシスタントが描けば読者から「アシスタントに描かせないでくれ」という抗議の投書が来ます。それぐらい読者とマンガ家は密接な関係を持っているのです。だからどうしても少女マンガ家はプロダクションにして仕事をシステム化させるのが難しいです。
竹宮は里中満智子さんに次いで二番目に正式にプロダクションをもった少女マンガ家だと思います。プロダクションといいながらも正式な会社手続きはとっていないところは多いですけれども、プロになって二年目で竹宮は正式にプロダクションを起こしました。
アシスタントは全員が有限会社の社員です。それから「メシスタント」さん。それまでは手の空いている人が食事を作っていたわけですが、わたしはこれではマズイと思いまして、食事を専門的に管理する人をおきました。アシスタントさんが食事のことを一切考えないですむように、食事ができたら食堂に行って食べられるように、メシスタントさんも社員として雇いました。すべて月給制にしてきちんとしました。そういうところも竹宮は男性的だな、と思います。
わたしが竹宮に出会った頃、まだ海のものとも山のものともつかない新人の頃から、彼女は「プロダクションを作りたい、その名前はトランキライザー・プロダクションにする」と言っていました。トランキライザーってなぁにって聞くと、精神安定剤だって。逆ですよね、やっていることが。人を不安定にしてるぞ、君はって(笑)。
少女マンガは少年マンガのような生産の仕方はできないですね。これは遅れているからとかではなくて、質が違うのです。少女マンガはなかなか分業制にはできない。たまたまわたしと竹宮は物語の作り手と絵の描き手として、丁々発止のやり取りができましたけれど、これは珍しい例だと思います。今から思えば、竹宮は徹底した、天才的なまでの職人でした。わたしのなかのイメージを最終的にわたしがうんと言うまで、何度でも描き直しましたし、とにかくわたしのなかのイメージを引きずりだして、その通りにするために大変な努力を払ってくれました。わたしの作品に関しては完全に自分を殺すというか、わたしの夢を全部活かすというか、そういう形で作ってくれました。アーティステックな作家では、これは出来ないと思います。わたしが竹宮を「天才的職人肌」だと言うのも、こうした過程を経ているからです。

Q 竹宮先生に「耽美」について伺ったときに、職人的に耽美にすることはできるけれど、「耽美」を欲している人間ではない、と、それよりも「耽美」精神を持っているのは増山法恵だ、と言っておられました。

増山 おそらく、それはその通りです(笑)。だから合体せずにはおられなかったんです。わたしはマンガを描けなかった。竹宮は耽美な作品を欲していた。いうなれば心と体が一致したからこそ、できた作品でしょう。
『変奏曲』はわたしが小学校から中学、高校まで、長い年月をかけて作っていたヴィレンツという架空の街のお話です。もともとお話といっても、プロになるための過酷なピアノのレッスンと勉強に追われて、あまりにも苦しい日々を送っていたわたしが逃げこんだ街がヴィレンツです。街でさまざまな出来事が起きるのであって、起承転結という物語にはなっていなかった。
ある日竹宮が「変奏曲を描かせてくれ」と言ったのです。わたしは驚きました。ヴィレンツでは、現実の世界同様いろいろな出来事が同時に起こっていましたから、どうやって起承転結をつけるのか、と。そしたら、竹宮は職人の天性でちゃきちゃき鋏をいれて話をうまく繋げました。中学生の頃からわたしはヴィレンツという街について、いろんな友人に語ってきましたが、それを聞いていた竹宮がわたしの架空の街をマンガにしてしまったんです。「もの凄く描きたかった。どうしても自分が描きたかった」と言っていました。わたしの頭のなかではキャラクターのひとりひとり、それこそ隅っこにいるようなキャラクターの顔まで鮮明に出来上がっていたのを、そのまま絵に写してくれたんです。『変奏曲』の後も、ふたりでいろいろお話を作り上げました。

Q 萩尾先生とはどういう感じだったんでしょうか。

増山 萩尾さんとは全然違う関わりかたでした。彼女は我が道を行くタイプでした。独自の世界をしっかり持っていました。「少年愛」にしてもそうです。最初に突っついたのはわたしでしたが、萩尾さんはそれを独自に膨らませていってくれましたし、わたしもそれを望んでいました。それぞれの、独自の優れた少女マンガを作ってください、というのが夢でしたから。

(文章中、一部敬称略)


294-303ページ
増山法恵「七〇年安保闘争」と「少女マンガ革命」
303-312ページ
増山法恵 少年を描くこと、1972年のヨーロッパ旅行
312-314ページ
増山法恵 1976年『風と木の詩』
314-319ページ
増山法恵 黒子に徹する―「変奏曲シリーズ」における共同作業
319-322ページ
増山法恵『JUNE』について
322-324ページ
増山法恵「少女革命」が成し遂げたもの

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