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【石田美紀・増山法恵 少年を描くこと、1972年のヨーロッパ旅行】

聞き手:石田美紀
インタヴュー日時:2006年09月29日
インタヴュー場所:吉祥寺
増山法恵(56歳)
本書において「インタヴュー」と表記されている


「密やかな教育〈やおい・ボーイズラブ〉前史」

出版社:洛北出版
発売日:2008年11月08日


「密やかな教育〈やおい・ボーイズラブ〉前史」303-312ページ

少女マンガにおける「少年愛」の仕掛け人
増山法恵



少年を描くこと
質をあげるために――1972年のヨーロッパ旅行


少年を描くこと

増山 竹宮は子ども時代からずっと少年マンガを読んで育ってきた人で、もともと女の子を描くのが苦手だったんです。職人的天才肌の人なので、掲載雑誌の読者が何を求めているかを瞬時に判断出来るんです。だから新人時代から少女を主人公にしてそこそこの連載を描いてはいるのですけれど。

Q 本当の良さは出ていなかった、と。

増山 いつもわたしは竹宮の作品を見るたびに「主人公に全然魅力がない。最低!」って抗議していましたね。作品自体は面白いけれどキャラクターに魅力がないと。
でも、ある日彼女のマンガを見たときに、少年の横顔が「えっ」と思うほどに美しかった。そして言いました。あなたは男の子を主人公に すべきだって。ごく普通の常識として考えても、女の子は男の子が好きだから、少女マンガの主人公が少女じゃなきゃいけない理由はない。主人公が素敵な男の子だったら、もっと人気が出るのに、と言いました。
わたしたちはフランスやアメリカをはじめ海外の少女雑誌もたくさん集めていたわけですけれど、そうした雑誌の表紙はほとんどアイドルの少年でした。だから我々に言わせれば、少女マンガ雑誌の表紙だって男の子がいい。編集部を説得するのは大変でした。編集部はそんなのとんでもないって、当時少女マンガの主人公は女の子が当たり前でしたから。

Q 当時闘われた編集部の人は男性ですか、女性ですか?

増山 編集部は男性編集者がほとんどで、完全な男性社会です。保守的な男の人の思想っていうのかな。新人作家には西谷祥子先生等の作品を見せて、こういうのを描けばいいんだよ、って。そうすると、わりとみんな素直に編集部の言うとおりに描くんですね。言う通りにしないと載せてもらえませんから。
当時の少女マンガ誌にはたくさんの制限がありました。竹宮はすでに表紙を担当する作家になっていました。あるとき、女の子が腕を上に あげてポーズを取っている、とても可愛らしい表紙絵を描いたのですが、編集部は描き直してくれ、というわけです。腋が見えちゃいけないからって。竹宮や萩尾が描き始めた頃は、キス・シーンを描くときは、唇のあたりをぼかして、唇と唇はけっして触れあわせない。そういう時代です。
我々は、それは違う、いやだと思いました。もちろんいちいち編集部と対立しますが、大泉に戻ればみんなで「出版社の人が言うことは違うよね、わたしたちのほうが正しいよね」と言っていました。こうした互いの意見に共鳴できる仲間がいたからこそ、なんとか頑張れたの だと思います、ひとりではとうてい無理だったと思います。

Q 具体的に何が突破口になったのですか。

増山 とくに正面きって編集部と大喧嘩したわけではなく、黙々と頑強に抵抗し続けたわけです (笑)。
このエピソードはすでにいろいろな所で書かれているのですが、あえて繰り返します。「少女マンガ誌の表紙が女の子なんてもう飽きたよね」って言って、どうしたら表紙を男の子にできるかと考えたんです。そこで、中性的な人物を描いて……とはいえ誰が見ても少年なんですけどね、それを編集部に出すわけです。編集部は「なんだ、これ男じゃないか」って言うのですが、最後まで「いえ女です」って言い通して、結局それが載りました。次は百万歩譲っても少年に見える絵を描いて表紙用に出したんですね。当然、男の子はダメだよと言われるわけですが、また女ですって頑張って。「これ少女です」って(笑)。作品はすでにあるわけですから、それ以外は描きません、納品しましたからとつっぱって、それもぎりぎりで載りました。そういうところからの抵抗の連続です。
当時のわたしの頭には、編集部といえば敵という言葉しか浮かんできません(笑)。大声で喧嘩する、というのではなく黙って抵抗する。編集部は保守的な考え方ですから、最初はすごく嫌われたと思います、なんだあいつらは!って。 完全に少数派でしたから。
こうして時間をかけているうちに、いい作品さえ描けば、それを受けとめてくれる読者は絶対にいる、というわたしたちの信念が通ってゆくわけです。ボールを投げたら、読者はすぐに持てる力の限りで打ち返してくれたわけです。「こういうのを待っていた」って。それまでとは全然違う反響があったものだから、今度は編集部が手のひらを返しました。編集部が認めてくれれば勝利したも同然でした。
細かいことを言えば、単行本にするときの印税のパーセンテージも女性のほうが低かったし、最初に新人として出すときの原稿料も少女マンガのほうが安かった。これも納得がいかなかったので、男性と同じにしてくれ、と言いました。当然、内容のレベルの低い作品で「同額にしてくれ」ではダメですよね。でも、竹宮、萩尾、ほかの仲間たちも、すでに男性作家に匹敵するだけのものは描いているので、原稿料を同じにしてください、と。そういう闘いもしていたんです。 それ以降の人たちは、当然のように男性と同じ条件で働いていますけれど、それ以前の賃金格差や差別はひどかったです。少女マンガ版女工哀史、と言っていたくらいですから。ありとあらゆる部分で差別を無くそう、とわたしは願っていました。でも、わたしがやったわけじゃないです(笑)。実行してくれたのは竹宮や萩尾をはじめとした作家達と、そしてかれらの能力です。わたしは後ろの方で「頑張れ!」と 旗を振ってただけなんです。

Q 編集部が要求を呑まざるを得ないかたちにもっていけたということですね。

増山 そうです。周囲が動かざるを得ないとい う……少数ですが、最初の頃から新しい作品を理解してくれた編集さんもおりましたし。いつのまにか編集部全体が新しい波を支持してくれましたね。これを少女マンガ革命と呼ぶならば、成功させてくれたのは、作家たちの天性と努力と読者です。読者の支持がなければ成功はしなかったです、絶対に。

Q「少年愛」を支持してくれた読者のニーズはどこにあったと考えられますか。

増山 それはもう勝手なことですが、わたしがこれほど好きな世界なのだから、絶対読者にも世界を共有してくれる人がいる、という思い込みです(笑)。最初に掲載された「少年愛マンガ」は竹宮の『雪と星と天使と…』だと思います。最終的に竹宮は『風と木の詩』に行きつくわけですが、あの作品は本人が二〇歳の時に誕生してました。


質をあげるために──一九七二年のヨーロッパ旅行

増山 それまでの少女マンガで耐えられなかったことのひとつには、主人公が窓を開けて「パリだわ!」って言ったら場所はパリになっているという、安易な展開がありましたね。パリというのだったら、きっちりとパリらしく石畳を踏んだ感触が読者に伝わるくらいリアルに描こう、と我々は思ったのですが、じゃあどうするの、って言われて、さてどうしようって(笑)。
「窓を開けたらパリ!」にしないために、服飾史だとか、壁紙の歴史だとか、家具の歴史とかを知るために洋書を買って調べたわけです。当時、東京といえどもそもそも洋書店が少なくて、資料本を集めるのがほんとうに大変でした。どれほど何度も洋書店巡りをしたかわかりません。それに洋書は高価でしょ。映画もたくさん観ました。映画もね、最初は物語を観るわけですけれど、観終わって話し合うと、石畳がどうなっているか、窓がどうなっているか、ドアがどうなっているか、把手がどうなっているか、そんな話題になっちゃって。その点、ルキーノ・ヴィスコンティの描く世界は完璧ですね、洋服のレースも本物だし。そういう世界を少女マンガで描いていきたい、という意識が強かったです。リアリティをだすことは、主題を活かしますからね。
でも結局、書籍ででも、映画ででも、我慢ができなくなって、もうだめだ、見に行こうと。わたしは小学生の頃からのヨーロッパ・フリークで、どうにもこうにもヨーロッパに行きたかった。もう我慢できません! 行きますよ、わたしは、って言うと、ケーコたん[竹宮惠子]、 モー様[萩尾望都]、お凉さま[山岸涼子]も、じゃあ行く!と。

Q それが一九七二年のヨーロッパ旅行になるわけですね。

増山 当時は男性がバックパッカーしながらヨーロッパに行くというのはありましたけど、女性はツアー旅行が主流だったと思います。一ドルが三六〇円で、まだ持ち出しの上限もありましたし、英語もろくに喋れない四人の女の子がひょろひょろっと行くのは、今考えると大冒険でしたよね。若さは力なり、と思います。恐さよりも好奇心のほうが強かったのでしょう。

Q 女性が海外で学ぶというのも今でこそ普通ですが、七〇年代初頭に、女性が、政府や企業や大学からの派遣ではなくて、しっかりとした目的をもって海外に行ったことは画期的ですよね。

増山 そうですね、自分で稼いだお金で、勉強しに行くってのはね。でも、当時は「今行かなければ死ぬ!」くらいに、とにかく本物を見たかった。そして、みんなも賛同してくれました。作品を描く時、時代を設定したらその時代にないものは描かないでね、ページを開いたらそこからパリの香りがしてくるくらいのものでなければダメ、といつも言っていました。そのために、パリの音楽も聴いてもらったり。

Q ちなみにアメリカには興味はもたれなかったのですか?

増山 わたしの世代でも、アメリカに興味がいく人と、ヨーロッパに興味がいく人がいたと思います。ずいぶんあとになりますが、竹宮の NASA取材に同行したときです。竹宮から、飛行機はまずニューヨークに着きますよと言われて「ニューヨークはどこにあるの?」と聞い たぐらいです(笑)。竹宮に馬鹿じゃないの、と言われましたが、それぐらいわたしはアメリカには興味はない。ディズニー映画はとにかく大好きなんですけれど(笑)。フロリダのディズニーランドで二日間遊んだときは夢のようでした(笑)。

Q で、ヨーロッパへと。

増山 横浜から船に乗って……ナホトカからシベリア経由で一週間かけて行きました。わたしは緊張と興奮のあまりに胃炎を起こして、何も食べられなくなって倒れてしまいました。モスクワの病院に入るか、ひとり帰るかというほどだったのですが、当時のソ連の病院に入るのはヤだな、と思って、西ヨーロッパまでなんとかがんばりました。スウェーデンのストックホルムに着いたら、不思議なもので緊張感がドッと抜けたのです。
四〇日間の旅で、街に着いてから「さてどうしましょう」と決めるやり方でしたが、お金をどれくらい持っていけばいいのかもわからないし、ホテルの取り方も、両替方法も、食事をどうやって取っていいかも、知らないわけです。
でも、四人寄ればもっと文殊の知恵で、ストックホルムでは山岸さんが「スウェーデンではバーと書いてあるところは、ご飯が食べられるらしいよ」とポロっと言いました。そのとおり、バーに入ったら、レストランだったんですけど、今度はメニューが読めない。困っていたら、どうやら我々が子どもだと思われたらしく、周りの大人たちが親切に助けてくれました。次に他人が食べている物を指さして注文することを覚えました。パリでは三日間ずっとオムレツとトマト・サラダ (笑)。ホテルの取り方も両替も、万事がこの調子ですね。死ぬほどヨーロッパに行きたかったわたしは、夢がかなったから死んでもいいと思いましたね。あのときの高揚感は一生忘れません。今でも街角の匂いすら思い出すことが出来ます。

Q 竹宮先生は、ヨーロッパに行く前と行った後では描くものが変わったと仰っていました。

増山 そういう意味ではまったく変わりましたね。それまで写真や映画、つまり映像でしか知らなかった訳ですが、把手を握った瞬間に真鍮の冷たさを感じたり、ドアの把手の位置が日本より高いことや、天井の高さにおどろいたり。笑っちゃうことなんですが、わたしはヨーロッパが大好きだから、死にもの狂いで写真を撮っていたのですが、あとの三人はね、帰国して写真をみたら、みんな把手とか、窓とか、石畳とか、なにこれっていうものしか撮ってない。「名所旧跡に行きたい」ってわたしが言うと、三人に興味ないと却下されました。
で、三人が額を寄せあっているから、なんだろうと思うと、薔薇を見てるんです。「うーん、日本の薔薇と萼が違うね」とか「ヨーロッパの薔薇をその通りに描いていたのは水野英子さんだけだったね」なんて、話しているわけです。

Q みなさんが日本に持って帰ってきたものは、とても大きなものだったと思います。

増山 すごく大きなものですね。みんなわたしに感謝してもらいたいぐらい。行きたい!って、 がむしゃらに言っていたのはわたしですから(笑)。ヨーロッパに行けてうれしかったですね、あんな幸せは一生涯ないかもしれません。その後何度もヨーロッパに行ってますが、最初の旅ほどの感動はないです。
当時は日本に欧米の流行が入ってくるのに、半年から一年もかかった時代なんです。だから何でも新鮮でした。パリのクレープだって、ベルギーのワッフルだって、まだ日本になかったものですから、なにもかも現地で出会って初めて経験しました。
全身が海綿体みたいなもので、旅の間にすべてを吸収しつくして、パンパンに膨れ上がって帰ってきたわけです。博物館、美術館、服飾美術館、玩具美術館。そんな所ばかりを巡って、レースだとか、アンティークだとか、いっぱい勉強しましたね。いいものを描きたい、正確に描きたい、と思って、映画を観た後はいつもみんなでお茶を飲みながら、あの衣裳の素材はサテンだったのか、後はどうなっていたのか、あれは[エミール・]ガレのランプシェードなのか、なんて話し合っていたわけですね。そんな疑問を本物を見ながら解決していきました。あとは書店で本を山のように買って次から次へと日本へ郵送しました。わたしはレコードを山ほど買ってきました(笑)

(文章中、一部敬称略)


294-303ページ
増山法恵「七〇年安保闘争」と「少女マンガ革命」
303-312ページ
増山法恵 少年を描くこと、1972年のヨーロッパ旅行
312-314ページ
増山法恵 1976年『風と木の詩』
314-319ページ
増山法恵 黒子に徹する―「変奏曲シリーズ」における共同作業
319-322ページ
増山法恵『JUNE』について
322-324ページ
増山法恵「少女革命」が成し遂げたもの

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