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【石田美紀・増山法恵「七〇年安保闘争」と「少女マンガ革命」】

聞き手:石田美紀
インタヴュー日時:2006年09月29日
インタヴュー場所:吉祥寺
増山法恵(56歳)
本書において「インタヴュー」と表記されている


「密やかな教育〈やおい・ボーイズラブ〉前史」

出版社:洛北出版
発売日:2008年11月08日


「密やかな教育〈やおい・ボーイズラブ〉前史」294-303ページ

少女マンガにおける「少年愛」の仕掛け人
増山法恵



「七〇年安保闘争」と「少女マンガ革命」
「感想はマンガで」
編集部との闘い――既成の少女マンガへの挑戦



「七〇年安保闘争」と 「少女マンガ革命」

増山 七〇年安保の頃、まだわたしは一八か一九歳でしたが、当時の多くの若者は「自分たちが世の中を変えられる、変えなきゃいけない」と、不思議なほど固く信じていました。どの分野の同世代の人たちと話してもそう言っていました。
でもわたしには、七〇年安保闘争に夢を馳せる若者たちの理想は、どこか具体性や現実性に欠けているように思えたのです。理論にばっかり走っていて、その理論のどれもがどこからか取ってきた論理で「話しているあなたが組み立てた物じゃないでしょう」と感じるのが多くて。で、だんだん論議に冷めていきました。ただただ口ばかりで、なぜみんな現実に対して具体的に何かしようとしないのだろう、と疑問に思いました。
そのときから「革命」ってなんだろう? と考え始めたのです。「革命」ってひとりでも起こせるものじゃないのかな、って。絵画でもいい、映画でもいい、音楽でもいい、マンガでもいい、流れを自分なりの新しい思想にひっくり返すのが、いわゆる革命のはず。ひとつの分野だったら、ひとりの発想から新しい時代へとひっくり返せるぞ、と思いました。
わたしはそれまでの少女マンガが不満で不満でしょうがなかった。「少女マンガ=くだらないもの」という形容が当然のように使われていました。もちろん尊敬できる優れた少女マンガ作家もいましたが、ごく少数でした。
いっぽう、少年マンガは手塚 [治虫] 先生や石ノ森 [章太郎] 先生らの活躍で、すでに「優れたもの」として世の中に認定されていました。本来そんな区別はありえない。わたしは少年マンガも少女マンガも読んでいましたけれど、同じ女としてその「評価の落差」がとても悔しかった。だからこの状況を、なんとかひっくり返してやれ、と思ったわけです。「少女マンガも少年マンガと同じレベルで評価されるべきだ」と。 いやいや少年マンガを追い越しましょう、とまで願っていましたね。少女マンガを含めてマンガ全般が、映画、音楽、文学という文化と同じように評されるところにまでレベルを上げていかなければならない。それじゃどうしたらいいだろうか、って。
そんなときに偶然、竹宮惠子と萩尾望都に出会いました。頭の中でひらめきましたね。竹宮と萩尾という稀有な才能を目の前にした瞬間 「少女マンガ革命を起こせる!」と。ああ! できる! この才能をもってすれば時代をひっくり返すことも可能だ、って確信したんです。自分にはマンガを描く才能はないので(笑)、出会いは感動的でしたがリスクも大きかった。わたしは竹宮、萩尾というふたりの天才に出会って、筆を折った人間です。
日々一緒に過ごしていると、自分の能力とふたりの才能とのあまりの違いに絶望しました。エジソンの言う「一%のひらめきと九九%の努力」という言葉がひどく無力に感じました。天才は、その一%のひらめきを持ってしてさらに最大級の努力をするんです。果てしなく上昇していくので、とうてい凡人は追いついていけません。


「感想は マンガで」

増山 この才能ある人たちに会ってびっくりしたのは、思いのほか彼らはあまり音楽を聴いていない、広い範囲での読書をしていない、有名な映画をあまり観ていないこと。こうした文化的な素材なしに、なんで物語を作れるのだろうって。映画の話をしても通じない。本の話をしても読んでない。詩の話をしても、それなに?って。でも、不思議なことに面白い作品は作れる。じゃあ、わたしの好きな方向にこのふたりを連れていっちゃえ、って心ひそかに思いました。それから、わたしの好きな本、好きな映画、好きな音楽等々を全部ふたりの前に並べたてたんです。こちらへ来いと強制はしませんでしたよ、推薦したというところですか。
後日友人に指摘されたのですが、当時の東京育ちと田舎育ちでは吸収できる文化の量が格段に違うとか。確かに東京に居ることは有利でした。映画もロードショーから名画座の古い作品まで見れるし、図書館もあれば、専門分野の資料館まである。音楽会も演劇も絵画の展覧会に行く機会もたくさんあります。友人に「わたしが住んでいたところには映画館が無かったもの」と言われて、文化を吸収出来る差に気が付きました。
テレビ等のメディアが発達し、インターネットで海外から情報をいくらでも集めることの出来る現在からは、おそらく想像できないほどの 落差があったと思います。

Q 七〇年代に入って、竹宮先生、萩尾先生はともに少年同士の関係を描く作品を発表されます。

増山 こんなことを言うとファンの方に怒られるかもしれませんが、あえて現場にいた証人としてお話しますと、初めて会ったときにはふたりは「少年愛(我々はクナーベン・リーベと呼んでいましたが)」という言葉も、その存在も、まったく知りませんでした。でも話せば理解してくれると思っていましたし、彼らに優れた少年愛作品を描いて欲しいという希望を持っていました。それには、少年愛作品を、文学であれ、映画であれ、何でも知ってもらおう、と思いました。
文学ならヘルマン・ヘッセの『車輪の下』、『デミアン』、稲垣足穂の『少年愛の美学』などなど。わたしの趣味でセレクトして、はい、映画を観にいきましょう、はい、この本を読みましょうって(笑)。願うところは「わたしの読みたい作品を、ふたりに描いてもらいたかった」 という点につきますが。
でも、うれしいことに、ふたりともとってもいい反応を示してくれました。より劇的な反応を示したのは竹宮の方ですが、竹宮は稲垣足穂の『少年愛の美学』を夢中になって読んでいました。彼女は少年マンガばかり読んで育ってきて、ほとんど少女マンガを読んでいませんでしたから、少年というところにビビッと反応したのでしょうね。当時から「少年マンガが描きたい」と言ってましたが、残念ながら女性作家が少年マンガ誌に作品を載せることなど、まず不可能という時代でした。その後『マンガ少年』に『地球へ…』を連載したとき「やっと少年マンガが描ける」と本人は感動してましたね。竹宮は自分のなかにも少年性をいっぱい持っている人ですから。鉄道が大好きだったり、宇宙や星に詳しかったり。

Q 少女マンガを代表するふたりの作家が、ほぼ同時期に「少年愛」をテーマにしたのは、そうした理由があった、と。

増山 はい、確信犯的にそうしました(笑)。これを白状したのはここ数年ですけど。何度も言いますが (笑)、わたしは彼らに決してこの世界を強制したわけではなく、後ろからツンツンと突っついただけ。「もしかして興味ある?」という程度の行動でした。内心ではこのふたりなら、絶対にヘッセのような文学的で優雅で優れた作品をマンガで描けると信じていました。わたしが求めたのは、かつてのJUNE的世界でもなく、昨今流行っている「BL」とかでもなくて、もっと芸術的に非常に質の高いものを描いてくれる事を望んでいました。ふたりは能力ある作家でしたから、わたしは素材を提供するだけでよかった。たとえば、『デミアン』を読んだら、その感想をマンガにしてください、というような形で描いてもらったと思います。
わたしが確信犯的に意識したのはこの世界だけで、もちろん彼らは芸術全般に興味を持って映画、音楽、文学とたくさん勉強して自分の世界をどんどん広げていきました。彼らから教えてもらったこともたくさんありましたし。

Q ご自身はどのような作品を読んでこられたのでしょうか。

増山 小さい頃からとにかく本が大好きで、死ぬほど読んでいました。家族から活字中毒少女と呼ばれるほどで、活字とあらば宣伝チラシまで読んでました(笑)。家にあった「日本文学全集」「世界文学全集」をはじめ、学校の図書室、近所の図書館と、読めるものはドンドン読破してゆきました。そのうち読む対象に好き嫌いができてくるでしょう。それに反応して自然と選別していったのだと思います。知らず知らずのうちに選んでいったのではないかな。
堀辰雄の『燃ゆる頬』だとか、ウォルト・ホイットマンの『草の葉』だとか。そのうち、『デミアン』がなぜこんなに好きなのかとか、『デミアン』の何に惹かれるのだろう、とか考え始めました。「ヘッセ三部作」とわたしが言っている『デミアン』、『車輪の下』、『知と愛』は絶対に読まなきゃいかん!と思っていましたが、あそこにあるモワモワした世界は何だろうって。
でも、小学校高学年頃から、はっきり好きだと意識していたと思います。それを言葉では言えなかったですけれどね。しかも惹かれるのは、けっして大人じゃなくて、絶対に少年でした。
当時ヘッセ以外なら、福永武彦、江戸川乱歩、そして南方熊楠などにも夢中になってました。

Q ヘッセが描く「モワモワした世界」や、今挙げられた作品が、増山さんにとって の「耽美」の基本だと考えてもよいでしょうか。

増山 耽美的世界という意識は、文字としても、漠然とした内容としても、小学校三-四年生あたりから意識しておりました。意識というよりも「あくなき憧れ」といった強烈な願望の対象でした。小・中学校時代は美意識の基礎固めをしていたように思います。

Q 三島由紀夫や澁澤龍彦は?

増山 わたしにとって、三島由紀夫、澁澤龍彦は少年愛の世界ではなくて、ホモセクシュアルの世界だと思うので、大分違いますね。自分としては芸術としてのクナーベン・リーベの世界とホモセクシュアルの世界とは一線を画していましたので。単に線引きしていただけで、彼らの作品はたくさん読んでますし、作家として大変尊敬していることに変わりはありません。「好みの世界」と「評価すること」は別のものですから。

Q 澁澤龍彦責任編集『血と薔薇』(一九六八-六九年) はどうご覧になっていましたか。

増山 わたしはこうした世界が好きな人は、『血と薔薇』は必ず持ってなければいけない本と思っていました(笑)。あの時代に、『血と薔薇』が出たというのは凄いことです。優れた作家達がズラリ参加している雑誌ですよね。わたしの書棚に『血と薔薇』があるのを見て、寺山修司さんが、「増山さんらしいねぇ」と笑っておっしゃったのを覚えています。本でも映画でも音楽でも、自分で自分の美意識世界に合致するものをセレクトしていったとしか思えないですね、誰にも教わらなかったですから。たくさん、たくさん読んでいるうちに、色んなものに接触しているうちに、なんでわたしは[ジャン・] コクトーが好きなのだろうって(笑)。だんだん、だんだんそうなっていっちゃったのかな。

Q 小さい頃から培われてきた体系を、竹宮・萩尾両先生に託されたということでしょうか。

増山 託す、など当時はそんな大仰な考えではなかったです。自分でセレクトして、好きだと思う物をあのふたりに「是非読んでみてね」と言っただけで、託すというほどの覚悟はあったかどうか。単純に友達として、仲間として接していただけです。当時はふたりともマンガ家としては駆け出しの新人でした。作品への影響に関してはあくまでも結果論ですから、読者の判断に任せます。


編集部との闘い──既成の少女マンガへの挑戦

増山 そのあたりから、時代を変えようとする意識を共有している仲間を集めなければと漠然と思いまして、実際集めました(笑)。当時は小 学館なら小学館、集英社なら集英社、講談社なら講談社の作家どうしで集う形が普通でしたけど、我々そんなことは全部無視して、自分たちの意見に一致すると考えたマンガ家さん、マンガ家候補生にどんどん電話をかけて、遊びに来ませんかと誘いました。

Q かの伝説的な大泉サロンですよね。

増山 マンガ家さんって、わりと黙って淡々と作品を描いているだけで、あえて言いたいことを論理化して口にすることは少ないですね。作品がすなわち持論になるのですから、言葉で説明する必要もなかったのでしょう。結果的にわたしがひとりで旗を振ってた感じですね。「少女マンガを変えましょう! 少女革命を起こしましょう!」って。とにかくこのままじゃダメだ、出版社の言いなりになっていてはダメだ、いつまでも上半身ばかりで背中に薔薇を背負っているような画面を描いていたら、少年マンガに勝てない。少年マンガに追いつけ、追い越せだって。目を大きく描く必要はない、薔薇を背負わせなくていい、胸から上だけの人物を描くのはやめてくれって、少年マンガのように多彩なアングルで場面を描くべきた、と。なんかひとりでカッカカッカと燃え上がっていたように思えて、今考えると恥ずかしいです。
毎日楽しかったですね。みんなでどうしたら優れた少女マンガが描けるかと徹夜で議論して、なんとか少女マンガのレベルを上げようという熱意がみなぎってました。こうした仲間を得ただけでも、個人的には「夢の実現」が半分くらい進行してました。現実はものすごく大変でしたけど。
まず闘う相手が編集部で、かれらはそれまでどおりの「少女マンガが描いてきた保守的なパターン」を続けろというわけです。でも大泉に集まっていた我々は、女の子が SFを描いて何がいけないんだ、というくらい意識がカッ飛んでいました。SFや時代物を描いて編集部に持って行くと「女の子は誰もこんなもの読まないよ」と取りあってくれません。だから編集部をなんとか説得して、載せてくれるようにもっていかなければなりませんでした。トップでなくてもいい、後の方でも載せてくれればいいのです。
でもね、わたしたちは信じていました。編集部という保守的で頑強な壁はあるけれど、この壁の向こうにいる読者の少女たちをそんなに馬鹿にしてはいけない、と。「SFはわからない」「今までどおりの少女マンガでいいのだ」とは、ある意味読者としての少女たちを馬鹿にした発想です。「本当にわたしたちが表現したいことは、絶対に少女読者たちもわかってくれる」と、頑なに信じていました。だから目の前の壁をぶち壊すか、飛び越えるか、なにかしなければならない。実際、ほんとうに読者は編集部が考えるよりも、ずっと進んでいたんですよ。読者こそ新しい作品の登場を心待ちにしていたと思います。

(文章中、一部敬称略)


294-303ページ
増山法恵「七〇年安保闘争」と「少女マンガ革命」
303-312ページ
増山法恵 少年を描くこと、1972年のヨーロッパ旅行
312-314ページ
増山法恵 1976年『風と木の詩』
314-319ページ
増山法恵 黒子に徹する―「変奏曲シリーズ」における共同作業
319-322ページ
増山法恵『JUNE』について
322-324ページ
増山法恵「少女革命」が成し遂げたもの

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