5ちゃんねる【萩尾望都】大泉スレ【竹宮惠子】に関する資料まとめサイト

【増山のりえインタビュー:70年代マンガ大百科】別冊宝島288

別冊宝島288
70年代マンガ大百科
聞き手:佐野恵
出版社:宝島社
発行日:1996年12月




資料提供
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/163018...


増山のりえ発言を中心に一部抜粋して書き起こしました

1971年、東京・南大泉に広がるキャベツ畑の端っこに、その二軒長屋はあった。そこには、マンガをこよなく愛する乙女たちが集っていた。いづれも20歳前後、新進の少女マンガ家・竹宮惠子、萩尾望都、山岸凉子、山田ミネコ、ささやななえ、を筆頭に、伊東愛子、佐藤史生、奈知未佐子、坂田靖子、故・花郁悠紀子、といったファンとマンガ家予備軍達(現在はすべてプロ作家)である。


増山「ナナエタン(ささやななえ)は北海道から締切のために上京してくると2ヶ月くらいは居候になってたし、忙しくなると、ド・サド(佐藤史生)はアシスタント、ラブちゃん(伊東愛子)はメシスタント(食事係)。いつも、誰かがいたのよね」

と、かつて竹宮惠子の原作者・プロデューサーを勤め、現在は作家として活躍している増山のりえさんは語る。
今はなき、大泉サロン・本来の借り主は、竹宮惠子、萩尾望都の2名……なのに、なぜかココの最小単位は3人。その最後の1人が、サロン最高の実力者、増山さんだった。実は大泉サロンを形作っていたのは、この方なのである。

増山「本来、私はプロのピアニストを目指して6歳の頃からレッスンしていたんです。でも、譜面にある音符を追うだけじゃない、自分の感性を全部描き出せるマンガの魅力に取りつかれてしまって。それからは、もうマンガに夢中。マンガ家に憧れてました。もちろん、いろんなサイン会にも通って、マニアだったんですね(笑)。そんななか、手塚治虫先生のアシスタントだった女性の方からモーさま(萩尾望都)を紹介され、文通を始めたんです。まだその頃モーさまは実家(福岡)にいて、私は東京。”同じように考えている仲間を見つけた!”って感じで、毎回10枚以上の手紙のやりとりをしていました」

増山「マンガに関することはもちろん、他にも”この映画がいい”とか、”この本は絶対おススメ!”とか、伝えたいこと、教えたいことがたくさんあったのよね。だって、当時のモーさまやケーコたん(竹宮惠子)って、”こんなに本を読んでいない人たちって、この世の中にいるの!?”ってくらい、あの頃は本を読んでなかったのよね。こんなこと、言っちゃうと怒られるかな、あの2人に(笑)」

そんな彼女たちに音楽や少年の素晴らしさを刷り込んだのも、増山さんらしい。


増山「もう何十年もたってるから言ってもいいよね。そう『デミアン』とか、”ウィーン少年合唱団”とか、少年系を勧めたのは私なのです(笑)。私は昔から”少年愛”に憧れてたし、”パブリックスクール”とか好きなんです。それに、当時の竹宮の絵は、少年のほうが全然魅力的だったから、少年の世界の人だとみてるので、今振り返ると悪いことしたかなぁって思うけど」

そういえば『変奏曲』の原作は、増山さん。幼少からピアニストになるために受けてきた英才教育はここで活かされている。

増山「モーさまもすぐにコッチに出てくることになってたから、”じゃ、私が家を探しましょう”って引き受けて」

選ばれたのは当時、増山さんが住んでいた大泉の自宅のすぐそば。

増山「キタナイとこだった(笑)。それでも”決めたから”って連絡しちゃった。私のエゴだけど、2人をそばに置いておきたかったのね。だって2人ならできる!って思ったから」

増山「少女マンガって少年マンガに比べて、すごく下に見られてたんです。もちろん原稿料もお話にならないほど安い。そのうえ、やってはいけないことっていうのがいくつかあって、”少年を主人公にしてはいけない”、”SF&時代モノはダメ”、”キスシーンはさりげなく”、こういった制約のせいで、描きたい作品があっても発表ができない。当時の作家はデビューして2〜3年で使い捨てられていく感じだった。ヒドイ話しだと思わない?」

増山「”こんな現状を変えなければ”っていつも話してた。少女マンガを少年マンガと同レベルに!いや、それ以上にしないと、少女マンガに未来はないのだ!って。そのためには、よいマンガを描けばいいんだけど、自分の描きたくない題材でよい作品が描けるかしら? だから、まず、描きたいものを描けるようにしたかった。タブーをなくしたかった。でも編集のところでまずダメ!って言われちゃうから、そこを突破することとの戦いだったのよ」


そのためにも、大泉サロンに出入りするメンバーを、萩尾望都と竹宮惠子の3人で選んでいたと語る増山さん。

増山「当時の私はヤな奴だったと思うんだけど、すっごい厳選してました(笑)。だって、ただのマンガ好きの集まりだったら意味ないでしょ。いくら売れてる人でも、背中に花しょってたり、目に星が入ってたり、上半身しか描けないような人はダメ! そういう人たちが少女マンガをダメにしてるって思ってた。窓を開けたらエッフェル塔が見えて、はい、パリですなんて、風景もまともに描けていない、そんなマンガを描いているから”少女マンガはくだらない”って言わちゃうんだって確信してた。近所に住んでるマンガ家の先生と道で会っても、認めていない人だと挨拶しないの。向こうは”こんにちは”とかって言うのによ。ケーコだんが挨拶するでしょ、そしたら”挨拶したらダメ! バカがうつる”とかって言ってたの。すっごい、生意気な奴だったよね(笑)」

増山「外に対して厳しかったかもしれないけど、メンバーにも厳しかったと思う。細かなディテールを大切に、正確なデッサンで描くことがまず大事だって決めてたし、ネームがつまらないと、ケーコたんやモーさまのでも、”ココが面白くない! あなた、こんなマンガ描いて恥ずかしくないの!!”とまで言ってた。自分のマンガは棚に上げて、よく言うわよね(笑)。辛辣な物言いに彼女たちはボロボロ泣きながら、でももっともっと面白くなった作品をちゃんと描き直してくるの。そこがすごいわよね、やっぱり」


増山「今だからそうなるけど、当時はみんなかけだしの新人、もしくはデビュー前だったのよ(笑)。サカタちゃん(坂田靖子)やオバタマ(故・花郁悠紀子)は、まだその頃高校生で、金沢で同人やってて”見てください”って送ってきたのがきっかけだったし。ド・サドはファンレターを読んで、あっこの人は何かいいものもってるって。他にもたくさん出入りしてたんだけど、全部は覚えてないなぁ。私、忘れっぽくて(笑)」

増山「ド・サドはSFを始めとする本をたくさん読んでいて、会ったとき、”あっ、まともに本の話ができる人だ!”ってすっごい嬉しかった……。でもケーコたんもモーさまも、ある時期までは本って必要なかったのかもしれない。だってずっとマンガというビジュアルの世界で生きてきた人たちだったんだから」

増山「映画を一緒に観に行くでしょ。終わった後に、喫茶店でその感想の話でも……ってなるでしょう。普通は、ストーリーとか、俳優の演技について話すじゃない? でも、彼女たちは違う。石だたみやカーテンの質感、家具、衣装から、あらゆるシーンの構図、ライトがどこから当たっているかまで、すべてを記憶してるの。どーして、そんなの覚えてるのよぉ!?って感じでしょ?」

増山「21歳のときにお凉さま(山岸凉子)、モーさま、ケーコたん、そして私の4人でヨーロッパ旅行に行ったの。当時は1ドルが360円とかって時代で、女の子だけでフリーの旅行なんて無謀だったんだけどね(笑)。でも、外国を描くなら実際に見てみないとダメじゃないの? って理由でサロンの他のメンバーに見送られて出発。ヨーロッパフリークで観光気分の私は、パリだったら凱旋門を見たいし、エッフェル塔にも登りたい。でも、彼女たちはそんなモノに興味がないの。街路樹を見て”水野英子先生のは、本物のヨーロッパの木だったね”って感想をもらす。もー、なんでそんなことがわかるのって驚いちゃう。ドアの高さを確かめる。ドアノブの質感を感じる。同じバラでも日本のとは色が違うって感動する。ぜんぜん、興味を持つものが違ったの」


増山「当時、私も読者ページのカットとかね、描かせてもらってたの。マンガが好きだったし、マンガ家になりたかった時もあった。でも、私には見えないカップの後側は描けないし、想像もできない。みんなにすっごいコンプレックスを感じてたし、逆に憧れてもいた。それで私は、マンガ家になることを断念したんだけれど……。サロンに集まっていた人たちは、みんな、それぞれそういう思いを抱いていたと思う」

ずっと後になって坂田靖子と、この”物を立体的に多方面から描くこと”を話す機会があった。すると彼女も同じように、裏側を描けるオバタマにコンプレックスを感じていたそうだ。

増山「サロンにいた頃に、サカタちゃんとこのコンプレックスについて話ができてたらマンガを描き続けてたかも……って、ちょっと思ったりした。結局サカタちゃんは、コンプレックスを乗り越えて、自分の作風を作りあげたでしょう。みんなそうやって、競いあってたんだよね。でも、私はできなかった。この差なんだよね。みんな、自分を信じてたもの。自分は”いいマンガを描くんだ”って。そして、その先にいる読者を信じてた」


増山「私たちが表現したいと思っているものは、読者も求めているはずだから、世の中に出てしまえばどうにかなるって信じていた。どんなに編集者に叩かれても、仲間がいたから、自分たちは間違ってないんだて思えたの。だから、本当に、編集サイドとの戦いでしたね。原稿がもう落ちる!ってギリギリ限界まで待って、少年が主人公の作品を入稿したり、『少女コミック』の表紙にどーやっても少年に見える絵を”これは少女です!”って言い張って載せたり。すっごい計算して駆け引きをしてましたね」

一晩でストーリーをつくり上げポイントとなるシーンを描きながら、増山さんにそのすべてを8時間にも及ぶ電話で伝えた、との逸話をもつ名作『風と木の詩』。この作品は最初の50ページが完成したまま長い間、掲載されなかった。

増山「どの出版社でも、断られたんです。絶対に、読者に受けないって。なかには最初のベッドシーンが強烈すぎるから、もっとソフトにすれば載せられるかも……って言ってくれた編集さんもいたんだけど、ケーコだんはそれを選ばなかった。その代わり、”私、アンケートの上位を目指す”って宣言したんです。その雑誌のトップになって力を持てばいいんだって、考えたんですね。そこから『ファラオの墓』が始まったんです」

そして76年にやっと『風と木の詩』が連載開始となる。その扉絵には”構想7年”とあった。しかし、その頃すでに大泉サロンは解散していた……。

増山「大泉サロンって、実際は短かったんですよね。70〜72年の3年間だけ。あの頃は安保闘争の時代で、私たちはみんながみんな運動に参加することはなかったけれど、気分的な余波みたいなものは受けていたんです。でも、挫折感はないんですよ。だって、私たちはマンガで表現し続けられて戦い続けられたから、挫折を味あわずにすんだんです。」

”大泉サロン”解散後、増山さんはあくまで芸大に進学するように勧める両親と対立し、竹宮惠子のもとに家出する。そのままマネージャー的な仕事をするようになっていた。解散はしたが”大泉サロン”の志である、”少女マンガの地位を向上させる”夢は持ち続けていた。そして、彼女たちの戦いは勝利を得る。これまで少年マンガが受賞し続けてきた小学館漫画賞を萩尾望都は76年に『11人いる!』で、竹宮惠子は77年に『地球へ…』で、少年マンガを押しのけて受賞する。


増山「小学館漫画賞の選考委員が変わって、少女マンガに理解のある小松(原稿:一字ヌケ)京先生が入られたりして、それまで何度も候補に挙がっていたのに、受賞できなかったケーコたんがやっと受賞した時に”私の役目は終わったな”って、思えましたね。もう旗を振る人間は必要ないところまで、少女マンガがきたんだって」

この時期、木原敏江『摩利と新吾』、青池保子『イブの息子たち』の連載がスタートする。それまで禁断のジャンルだった、男性主人公や少年愛モノの作品が次々に誌面を飾り始める。タブーはなくなりはじめ、「賃上げ要求のやった」ギャラも上がりはじめた。

増山「私が20年かかるって思っていた”少女マンガ界を変えること”を彼女たちは10年でやってしまった。本当にすごいと思っています。理論武装して、旗を振っていただけの私の言うことをニコニコ聞き、時には会話に加わりながら、それでもマンガを描く手を止めなかった彼女たち。すべてがマンガのためにあったあの熱気の中にいられたことを、宝物のように思っています」

マンガが好きで、マンガ家をめざしたものの挫折、マネージャーを経て、増山さんは小説を書くようになる。竹宮惠子のファンだった寺山修司とも交流があり、生前「もの書き」になりなさいと、つねづね言われていたそうだ。

増山「寺山さんのリップサービスだと思ってたんで、本気にしてなかった。私には文章を書く才能はないと思ってましたから。いまだに自信はないですけど。あと、ケーコたんのマネージャーをするときに、ド・サドはかなり反対してたんですよ、『あなたも創る側の人間だから裏方になるな』って。でも、ぜんぜんそんな気はなかったんですが、あるとき、知り合いの編集者の方から小説を書けと言われて、締切も決められてしまった(笑)。で、何が書けるかなと考えたら、少女小説なら書けるんじゃないかと思って。

その小説『神の子羊』を書き上げたとき、本人以上にかつての仲間たちは喜んだそうだ。キャベツ畑から生まれた、さまざまなマンガ家たち。それぞれが今や大先生と呼ばれるようになり、いまだに少女マンガをリードし続けている。そのキャベツ畑から最後に生まれたのが、作家としての増山さんだった。

Menu

メニューサンプル1

管理人/副管理人のみ編集できます