5ちゃんねる【萩尾望都】大泉スレ【竹宮惠子】に関する資料まとめサイト

【増山法恵の立ち位置】
増山法恵は竹宮恵子にとってどのような位置に居たのか

参照
〈竹宮・増山〉年表
増山法恵】関連




1977年
「フラワーデラックス保存版:竹宮恵子:愛のイラスト作品集」138ページ
■元アシスタント斎藤小百合さんの訪問記■
マネージャーのNONタン(増山のりえさん)

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1977年
「フラワーデラックス保存版:竹宮恵子:愛のイラスト作品集」147-150ページ
伊東愛子「ペンと〆切のフーガ」


そこにかかれた一枚の少年の絵を見た時わたしは思った
「あっこの人(竹宮恵子)なにかをつかんだな!」

事実このころ彼女(竹宮恵子)は
ある人物”によって新しい世界へと突入して行ったのです


“とらんき”のプロデュース・ディレクター
プロデュース・ディレクター→生産指導員

ケーコ・タケミヤをかえた
ある人物”とはほかならぬこの人!!




1978年
テレビランド増刊イラストアルバム5 竹宮恵子の世界(1978年05月30日)」73ページ
竹宮恵子:座談会「愛・少年そして変革」
竹宮恵子のマネージャー

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1978年
竹宮恵子 マンガの魅力(1978年12月01日)」インタビュー記事(122、148ページ)において著者(南久美子)が「増山さん(マネジャー)、マネジャーの増山さん」と表記している
竹宮恵子インタビュー:「少年愛」を語る





1980年
キネマ旬報1980年5月上旬号」62ページ
竹宮さんのプロデュース・ディレクターの増山法恵さん」と紹介されている
竹宮恵子インタビュー:キネマ旬報1980年5月上旬号




1982年
ぱふ1982年8-9号「特集竹宮恵子part2」
インタビュー:竹宮妹(大内田英子)
大内田 そういうスランプの時期を一緒に乗り越えてくれたのが増山さんなのね。最近、ケーコタンとよく話すんですけど、やっぱり10年間ってのは長いからね。一人だったらどうだったかなあって思うんですよね。作品も一緒に作ってくれてるしね。ノンタンの存在は大きいんですよ、ケーコタンにとって。支えていうか、パートナーでしょうね、お互いに。
ぱふ 竹宮さんのマネージャーになったのは、いつ頃?
大内田 丁度三年。丸三年じゃないかな。
ぱふ きっかけは?
大内田「地球へ...」のアニメの上映を来年に控えている大変な時に、ノンタンがダメなのよって。あの頃、ケーコタン随分あたふたしてたのね。でも、私じゃまんがのことは全然わからないから、そういう意味でノンタンの代わりなんかは出来ない訳ですよね。事務的なことでよければ手伝うって、それが条件で入ったんです。



1982年
ぱふ1982年8-9号「特集竹宮恵子part2」
ケーコタンはベムですね:増山のりえ
増山 まる2年位、本当におさんどんやりましたね。それこそ、税務署の申請から台所まで全部やりました。だからケーコタンは仕事をしてるだけ、それ以外のことは全部私が引き受けようってことで。
彼女が会社組織をとった時から、アシスタントさん、メシスタントさんがいて、私がマネージャーでという風にして、だんだんプロダクションのシステムが明確になってきたんです。
ぱふ その頃からマネージャーとしての仕事をなさっていたわけですか?
増山 そうですね。で、マネージャーみたいなことやりだしても、結局ケーコタンの仕事が増えれば増えるほど、私の仕事も増えていって、 一昨年位かな、9月あたりに私がヒステリーの逆噴射を起こして、「やだ!少し仕事を休みたい!」と叫んで(笑)、マネージャーの仕事をケーコタンの妹の大内田にそっくり渡して、それこそ隠居します、てね。



1983年
「COMIC Seventeen 1983年11月号」97ページ
竹宮恵子センセー 美少年を語る!!

竹宮 もう10年以上もいっしょに仕事をやってるパートナーの増山



1984年
「続マンションネコの興味シンシン」201-206ページ
竹宮恵子:あとがき代わりの近況報告
竹宮「早く言ってしまえば、藤子不二雄先生方(この先生方が、2人で1つの名を使って作品を発表していることは周知のことですよね)のような意味あいのものなのです。ただし、増山の場合、絵を描くところまでは一緒に仕事をすることができません。描くのは私だけ。しかし、私の名で発表された全て(ごく初期「空が好き!」までは除いて)の作品を彼女と共同プロデュースしてきました。」



1988年
原作者名の公表:竹宮惠子・増山のりえ
竹宮「彼女、増山のりえの名前は、昔からのファンの方々なら結構知っている人も多いはずです。彼女は私がまだ新人2年めの頃から、私の友人であり良きアドバイザーとなりました。そして、昭和50年から54年までの間は、私のプロダクションである「トランキライザー・プロダクト」にマネージャーとして在籍していました。その後は独立して、私のブレーンという存在になっています。」

竹宮「そこで彼女と協力してストーリーを構成してみる、という共同姿勢を思いついたわけです。」

竹宮「私と彼女の初めての共同制作作品は『ロベルティーノ!』です。」

竹宮「藤子先生的共同制作、というのが一番正しいのでしょう。しかし彼女は絵を描きません。その点では藤子先生と同じ、とも言いかねるわけです。」

竹宮「彼女の才能を使えるな、と思う人がいたら、ぜひ交渉してみて頂きたいと願っています。小説を書いているけど構成力に自信がない人、漫画家になりたいけど、話づくりがダメな人、彼女の言葉にのせられて、天才になってみたくはありませんか。彼女って、そういうことが得意な人なんですよ。」

増山「“ヴイレンツ”以前に“ロベルティーノ!”に始まって何作か原作を提供していたので、合作するコツのようなものはのみこんでいたように思います。」

増山「今まで“変奏曲”の豪華本等の解説などは私が書いていました。レコードの時は文章、構成、演出等ほとんど竹宮がやりました。このように私が創った物語とはいえ、すでに“二人の作品”になっているわけです。」



2003年
竹宮惠子ロングインタビュー3「天馬の血族:完全版3」2003年
竹宮:そのころブレーンとして協力してもらっていた増山のりえさんに相談しました

竹宮惠子ロングインタビュー4「天馬の血族:完全版4」2003年
竹宮:「風木」と同時期に「地球へ…」 (*マンガ少年1977年1月号-80年5月号連載)を連載したんですよ。私のプロデューサー的な立場になっていた増山のりえさんが、この傾向を危険に思ったんですね。彼女は、私がいろいろなタイプの話を描けることを知っていたので、「こういう話だけを描く人だと思われてしまうと損だ。別の顔も見せないと」と勧めてくれたんです。



2019年
「少年の名はジルベール」小学館文庫45ページ
彼女と話すたびごとに“同士”という思いが強くなっていった。




2019年
「少年の名はジルベール」小学館文庫68ページ
増山さんは旗を持って先頭に立つガイドのような存在だった。




2019年
「少年の名はジルベール」小学館文庫183ページ
増山さんは結局、親元を離れて私と一緒に住むことになった。そして当初は、こんな私のスケジュール管理や食事の世話など何でもしてくれた。おまけに打ち合わせにも同席してくれた。




2019年
「少年の名はジルベール」小学館文庫184ページ
「マネージャーです」と紹介できれば、何の問題もなかったのだが、彼女は、マンガにもプロデューサー的なサポートが必要であると考えていたし、そういう立場があるべきだとも考えていた。



2019年
「少年の名はジルベール」小学館文庫185-187ページ
「そりゃわかるけど……。価値観を押しつけるようなこと、外ではしないほうが……」
「じゃあ、こっちも言わせてもらうけど、あなたってどうしていつも私の立場のことを説明してくれないの?」
「立場って?」
「みんな私のこと、マネージャーが何でここまでくっついてくるんだろうみたいな目で見てるよ。どうして、作品にそこまで立ち入ってくるんだみたいな感じじゃない。私があなたの立場だったら、ちゃんと説明するよ。何であなたにはそれができないのよ!」

プロデューサーと紹介しても編集者や仕事の取引先も彼女をプロデューサーと認めるわけはなく、やはりこの人はマネージャーなのだろうな、と勘違いしてしまうのも無理からぬことなのだった。




2019年
「少年の名はジルベール」小学館文庫199ページ
このこと彼女は私の仕事が軌道に乗るまで、何から何までやり切ろうと、気持ちを立て直してくれていた。彼女は本当は作家志望だし、プロデューサー志向なのに、マネージャーと呼ばれる仕事を任せていたのは、実はこの私だ。




2019年
「少年の名はジルベール」小学館文庫211ページ
少女マンガ家のサイン会は珍しいものではないが、まさか自分がやることになるとは思ってもいなかった。つまり初体験である。これには私よりもむしろ増山さんがプロデューサー的立場から、初のサイン会に大いに惹かれたらしく、「ねえ。そのデパートの屋上、3千人は入ることができるんだって」と力が入っている。




2019年
「少年の名はジルベール」小学館文庫215ページ
この頃から増山さんは、私のファンクラブを組織し、高校生だった村田順子さん(その後、私のアシスタントからマンガ家になった)を会長にして、会報誌を作るための情報を流したりしてくれるようになる。ストーリーのアイディア出しや初めてのサイン会のように、作品の順位を上げるためなら、あらゆる場面で助けてくれていた。ただその姿も外からはマネージャーにしか見えない。それが最大の不満でストレスだったと思う。




2019年
「少年の名はジルベール」小学館文庫216ページ
もともと作家志望の彼女には、実際に作品への具体的なアドバイスもしてもらっていて、とても頼りになっている。




2019年
「少年の名はジルベール」小学館文庫221ページ
増山さんが長い間、作り溜めた『変奏曲』に関しては、彼女の完全なマンガ原作である。ただ「原作」とえる形を示すものがないだけだ。




2019年
「少年の名はジルベール」小学館文庫251ページ
最後になるが、東京都練馬区大泉のあの“サロン”を共有した萩尾さん、増山さんに「ありがとう」を捧げたい。




2019年
「少年の名はジルベール」小学館文庫252ページ
彼女が激し口調で「どうして私をマネージャーじゃなくて、プロデューサーなんだって紹介しないのよ。私が逆の立場なら、絶対にそう言うのに」と私をなじった言葉が懐かしく思い出される。今なら何と言ってほしいと言うだろうか。マンガ家、マンガ原作者、プロデューサー、編集者、ディレクター、マネージャー、同士、仲間、ライバル……。
案外さらっと「いいんじゃない? 竹宮の友達ってことで」と言うのかもしれない。私からはかけがえのない戦友、そう呼びたい。




2021年
「扉はひらくいくたびも」129ページ
映画化をきっかけに妹の英子が私のマネージャーを務めます。

「扉はひらくいくたびも」においては「少年の名はジルベール」で書かれたような増山法恵の役割についての具体的な記述は見当たらない(見落としがあれば5ちゃんねる大泉スレか当サイト【https://wiki.seesaa.jp/inquiry/?wiki_id=292453】にてご指摘ください)




2021年
KEI's Blog「増山さんが亡くなったこと」より
訃報
また、会おうね。あなたと会わなければ今の私はいない。
たくさんの知識、たくさんの楽しみをありがとう。



2023年
「竹宮惠子インタビュー3:日本漫画家協会」4分12秒
で、ロンド・カプリチオーソをなぜ使ったかっていうと、私のブレーンだった増山法恵っていう人がですね、私にいろいろいいものを吹き込んだんですけど
竹宮惠子インタビュー3:日本漫画家協会】2023年03月26日公開
YouTubeに飛びますhttps://youtu.be/wjld8bRywN0?t=252

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