5ちゃんねる【萩尾望都】大泉スレ【竹宮惠子】に関する資料まとめサイト

【増山法恵インタビュー:Spectator 22】(増山法恵:60歳)


Spectator 22号
発行日:2010年07月01日


資料提供
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/163059...

よくこんなもの描けるね。
恥ずかしくないの?って怒鳴ってた。
せったい高いレベルの
作品じゃなきゃ認めなかった。
(画像6枚に続いてテキスト抽出あり)

似顔絵/STOMACHACHE









よくこんなもの描けるね。
恥ずかしくないの?って怒鳴ってた。
せったい高いレベルの
作品じゃなきゃ認めなかった。

70年代以降の少女漫画の誕生に欠かすことの出来ないキーパーソン、それが増山法恵さん。竹宮惠子、萩尾望都という優美な個性を、デビュー以前から領導し、側面援助してきた人物です。
東京の高校生だった1960年代の当時から増山さんは少女漫画の未来について明確な自覚をもち、「漫画はどこまで行けるか?」という理念を掲げることで、カウンター・カルチャーの幻を漫画に追い求めていました。彼女の才能は既存の漫画に飽き飽きしていた若者たちの求めていたものを見事に創り上げたのです。彼女もまた『COM』の洗礼を受け、熱い問いを共有したひとりでした。
いままで何となく「そうかな」とは思っていましたが、増山さんのような人の旗振りがなければ、少女漫画は今のような進化を遂げていなかったのではないでしょうか。いまや誰も少女漫画にカウンター・カルチャーの性格など認めません。ボーイズ系なども「当たり前」の光景になりました。増山さんは40年も前からマイノリティの側に自分を置き、精神的なものを希求しています。寺山修司に示唆を受けて作家活動をおこなう現在の増山さんのスタンスも、そのように映ります。
「アニメの産地」とされ、今でもキャベツ畑が点在する東京・練馬に増山さんを訪ねました。かつての少女漫画のふるさとです。
当日、増山さんは、病気で永眠された漫画家の古い友人・佐藤史生さんの葬儀を終えて、御自宅でひと息ついていた時でした。

ーー『COM』は創刊の頃から知ってました?

増山 読者だったので。高校生のときでしたね、懸命に読んでいたのは。今でも全部持ってます。今はわたしが漫画の世界から離れちゃったんで、竹宮惠子に貸してます。「これは、あげないからね」と(笑)。だから竹宮惠子の家には『COM』が全冊揃ってます。

ーー投稿経験は、おありなんですか?

増山 わたしは「描く派」じゃないんですよね。かっこよく言ってしまえば、プロデューサー的存在で。みんなを集めて、この方向に行けって旗を振る役をやってました。だから漫画を研究するのが好きで、コレクターでした。『ビッグコミック』なんかも一巻からダーッと持ってますし。古本屋で矢代まさこ先生の「ようこシリーズ」を懸命に集めたりとか。

ーー「ぐら・こん」なんかも気になっていた?

増山 むろん。あれがメインで読んでいたみたいな。『COM』はね、ちゃんと定期に出ないんですよ。発売日に本屋さんに行くと出ていない。次の日行ってもない。すごい思いで毎日通ってやっと手に入った。そんな思いをしながら隅から隅まで読んで。だから、なくてはならない大切な、燃える根源。あそこに登場した名前は、みんなインプットされてます。

ーー竹宮さんの名前も当時から…?

増山 ええ。当時から入選してましたし(「ここのつの友情」一九六七年七月号)、あの頃、「『COM』の優等生」と言われてましたから。

ーーパッと思い出すのはどんな作家です?

増山 常連の手塚先生、石森先生を抜かしたら、やっぱり岡田(史子)さんが強烈でした。女性ということもあるかもしれないけれど。あんな漫画見たことないってことで、強烈でした。あとは永島慎二先生とか。矢代先生とか。でも、今見ると、忠津(陽子)さんとか、いろんな方が投稿してるんですね。

ーー『COM』は」当時、同人誌的なイメージもありましたか。

増山 ありましたし、そういう仲間が集まれる唯一の場所でした。石森先生の『墨汁一滴』の影響で、ものすごい同人誌ブームを作ったのは『COM』ですよね。
当時、少女漫画って、とてもレベルが低くて、「お母様〜」「パリよ〜」「バレリーナ」みたいな古色蒼然とした世界で。『COM』を熱心に読んでるような女の子は一般の少女漫画をバカにして、少年漫画ばっかり読んでたんです。少年誌と少女誌は質的落差が激しくて、少女誌じゃもう満足出来ないから、みんな少年誌を読んでました。少年誌を見ると、手塚先生や石森先生が高いレベルの作品を描いている。そういう流れで少女漫画ファンも自然に『COM』を読むようになりました。そして、「同人誌って素敵だな」みたいな共通のイメージが生まれて。同人誌ブームでしたよね?『COM』のおかげで。

ーー「全国まんが同人誌」(1968年4月号)って特集がありましたね。全国に当時、200近い漫画の同人誌があったようです。竹宮さんの『宝島』も紹介されてました。

増山 萩尾(望都)も「キーロックス」という同人誌を福岡でやってましたし。あの頃、同人誌を描いてる人はみんな、なんだかんだ言いながら、お互いを叱咤激励して…そういう時代でしたね。

ーー岡田史子の話ですけど、デビュー作とかすごく早熟な感じはしました?

増山 早熟だとは思いませんでした。早熟な人は、どの分野にも居りますから。特異な才能。純粋に漫画が好きな人間って、漫画じゃなければ表現しえない世界を、どん欲に探していたわけですよ。その意味で、新しい分野を開拓したかたでした。真似して描いたらみっともないし、到底あのかたひとりだけと思ってましたね。

ーー岡田さんの作品は少女漫画だと思います?(つまらないことを聞いてしまった)

増山 違うと思います。少女漫画とは言わないけど、100パーセント女性の感性ですね。あれだけ自分の感性をぶつけられる場所っていうのは当時『COM』か『ガロ』か、同人誌しかなかった。『COM』で生まれてきた才能ですよ。

ーー岡田史子って当時、増山さんの界隈ではどんなイメージで語られたんですか?

増山 正直言って、神様ですよ。天才。誰も彼もが憧れてましたね。ああいう作品が描けたらいいなって。やっぱり少女雑誌って、いろいろ規制があるじゃないですか? 100パーセント自分の世界を出せるって憧れなんですよね。でも、それだけじゃなくて、作家として、みんな感動していたし、みんな評価していたし、みんな好きでした。特別な大スターでしたよ。
詩人だなと思いました。とても詩的な漫画でしたから。でも、どの世界でも同じですけど、ああいう人って、この先どうやって生きていくんだろうっていう見方がつねにありましたね。
やっぱり長く漫画を見てますと、線の一つ、言葉の一つにも、読者は慣れてきちゃうんですよ。作家はつねにまわりの状況を見ていないと、次の注文が来ないというシビアな世界ですから。あの強すぎる個性がずっと続いちゃうと、どうしても同じ世界の中でクルクル回るので、上昇して行かないじゃないですか? 結局は、みんな飽きるかな…というかんじはあります。それはやっぱり厳しい話ですね。

ーー『COM』と共に生まれて挫折していった作家という印象もあります。岡田史子と少女漫画は繋がっていないと思います?

増山 繋がっていないと言ったら間違いだと思います。作家には影響を与えたと思います。絶対に影響受けてます、心のどこかで。憧れもあります。ただ、作品的にはちょっと違います。影響してても、それやってたら食べていけないと、ハッキリわかってるから。申し訳ないけど、岡田さん的になっちゃったら、基本、編集部が採ってくれないので。生きていくためには。
そういう世界を竹宮やモーさま(萩尾望都)が持っていても、なかなか初めは出せないです。自分の地位が雑誌などで安定してから思いっきり自分の作品を出す。「描きたいものを描かせていただきます」って言えるまで、すごく時間をかけているんですよ。
たから、岡田さんの場合誰か保護してくれる人とか何かがないと、かわいそう。誰かプロデュースしてくれる人がいればよかったのに。

ーー亡くなったことは新聞で見たりなさったんですか。

増山 あの…わたし今、お言葉の中で初めて「エッ?」て思いました。知りませんでした。

ーー話は変わりますが、後年の『COM』の在り方は、ある種の「反省材料」みたいにも見えませんか?

増山 なんで反省しなければいけないんですか?

ーー結果的に、ですけど。種は撒いたけど、商業的には失敗した。収穫は大手出版社に持って行かれて……。

増山 いや、それは社会の中の既定事実でありますけど、『COM』という雑誌がなければ世に出なかった、という作家が多かったと思いますし、漫画に対してはこういう精神でいたいなということを、わたしに教えてくれました。意識革命みたいなものを。だから『COM』は大変な財産で、負債ではないですよ。商業的な失敗はあっても、はてしなく素晴らしい影響を生みました。現在、24年組の描いた作品を読んだ世代が、いろんな分野で活躍しています。わたしと同世代か、ちょっと下か。たとえば「テレビに出ます」って局に行くと、プロデューサーが飛んできて「ファンなのでサインしてください」とか。ほかにも創作人形の世界も、たいへん少女漫画の影響を受けています。イラストレーターだって、テレビだって、音楽だって、いろんな世界の人が影響を受けていて。精神とか美意識とか、高いものを求める精神がちゃんと備わっていて、「わたしもこれで行こう」みたいなかたちで、違う分野で頑張ってくださってる。それを最近、とても感じます。わたしの理想だった、みたいに。結局、少女漫画革命って、こういうもんじゃないかって思います。だから『COM』も革命なんですよ。

ーー昭和24年前後に生まれた少女漫画家は「花の24年組」という言い方で括られてますけど、どの辺から言われだした言葉なんでしょうか。

増山 あー、サカタちゃん、坂田靖子が名付けたと言われてる(笑)。そういうネーミングって、ほとんどあの人が作ってるという噂です。昭和24年前後に生まれた少女漫画家って多かったんですよ。竹宮、萩尾…。

ーー増山さんが『COM』を読んでいらした同時期、東京の練馬に小さなアパートがあって、そこに竹宮さんと萩尾さんが、それぞれ地方から70年に上京してきて、増山さんと三人で共同生活を始められたそうですね。通称「大泉サロン」とされています。これも坂田さんの命名?

増山 ええ。サカタちゃん発の用語って多いんですよ、たどっていくと。「やおい」とか「大泉サロン」とか。そういう風に呼びたいって言ってましたね。「大泉ランランクラブ」とか、いろんな名前出したけど。「やだーランランクラブは」って、わたしが蹴ったんですけど(笑)。

ーー場所は、この辺(練馬区)だったんですか?

増山 いいえ。その時は南大泉401かな? 201かな? その住所が今ではなくなっていて。いろんな方々がそこを探しに行っているんですけど、ないんですよね。住宅地になって、番地も変更して。わたしが住んでいた家もなくなっちゃったし……そもそもですね、わたしは70年安保の熱しぶきを浴びている人間で、高校生くらいの時って、みんなが「革命だ! 革命だ!」と騒いでいた時代で、まわりじゅうがよく集まっては呑んで小難しい論争をしているんですけど、それには、なんか違和感を感じて。学生だけで国をひっくり返すのは無理だろうと。ひっくり返したいなら、ある一定分野だったらひっくり返せる。たったひとりの力で。プレスリーが出ただけで音楽史は変えられる。それを漫画でやろうと思ったんです。いち分野をひっくり返せば、そこからいろんなものが派生するというのが、当時18歳だった私の理屈で。当時とにかく少女漫画と言ったら、イコールくだらないものと思われていた状況に立腹していたんですよ。なんとか少女漫画革命を起こそうと。
それで、考える。少女漫画のこのくだらなさはなんだ? と。手塚先生や石森先生級の作品を絶対に少女漫画家も描けるはず。で、それを読みたいという人が編集部というブロックの向こうにいるはず。
で、「ヨッシャー!」と思ってた頃、本当にたまたまなんですけど、19歳で萩尾望都と知り合い、竹宮惠子と知り合い、三人で親友みたいになって、竹宮惠子と萩尾望都という才能を見た瞬間に、これは世の中ひっくり返せると思ったんですよ。ビックリしました。すごい才能に。この特異な才能をなんとかすれば少女漫画革命できるぞと踏んだんですね。今の保守的な少女漫画全部切り捨てちゃえ。一気に変えようって。それで、わたしが当時、南大泉に住んでいて、実家の斜め向かいに長屋が空いたんで、二人を呼んで住まわせて、わたしもそこにずーっといて。

増山 ところがね、描く人ってあんまり理屈を考えないんですよね。わたし、ずっと屁理屈屋でいろいろ考えてきた人で、「このままじゃ少女漫画はいけない、少女漫画革命を起こすんだ」って気炎をあげたんですよ。「革命を起こすんだ!」って。ただ、やってても何も動かない。何が動くかと言ったら、優れた作品があれば動く。だから君たちは優れた作品を描かなくちゃいけないと。それからは、なんとか手塚先生、石森先生に、追いつけ追い越せで。
本当にひどかったんですよ。原稿料も安かったし、単行本になった時は男のかたは印税10パーセントでも、少女漫画は7,8パーセント。いろんな意味で少女漫画家の地位は低かったです。まず、それを上げました。いまの方はみんな10パーセント貰ってますけど、竹宮、萩尾以前の人は安かったんですよ。初めの原稿料も少年漫画と同じにしてくださいって交渉したの。地位向上と、とにかく内容勝負ーー手段としてそれしかないんです。だから、わたしは才能がほしかった。自分にはその才能はないから。
それから、あの頃って、小学館は小学館の作家、集英社は集英社の作家、とにかくそこから交流が無い。まず、これをぶち壊そうと思いまして。で、ぶち壊しちゃったんです(笑)。わたし、片っ端から才能のありそうな人に電話して「遊びに来ませんかー?」って。みんな呼んだんです。

ーーサロンに、ですか?

増山 ええ。当時サロンとは呼ばれていませんでしたけどね。佐藤史生なんかは、ファンレター読んでたらものすごく才気を感じて、只者じゃないから呼ぼうって。そういう人もいたわけです。いい少女漫画を描こう! 少女漫画界を変えよう! という同じ意識の連中を大泉に集めて。「お母様ぁ!」で満足している人ばかりじゃないよ、と。ストーリー性で勝負したいという人間を、いろんなところから呼んじゃいましたから。意識がその頃、全然違っていたので、編集部では「そんな漫画描いてたら載せないよ」とか、言われるんですよ。お目目パッチリじゃないしーーあの頃はとにかくお目目はパッチリにして、光を入れて、バラ背負って出てくるみたいな(笑)。カスカスの線でエッフェル塔を描いたら「パリだわー」ってパリになっちゃう。みんな嫌いだったんです、それが。パリを描くんだったら、ちゃんと石畳の冷たさが伝わるような絵を描こうと思ってた。
少女漫画編集部は、新人が入ってくると、「こういうもの描いてね」って言われるんです。おとなしい人は「はいはい」って、安易に描いちゃうんです。だけど、わたしたりが大泉に帰ってくると、「バッカじゃないの!」って笑ってた。「目をおっきく描く人がどこにいるのよ!」とか「バラなんか背負わせない」とか(笑)。少女漫画って編集部が「時代物とSFなんかは頭っから描くな」っていうか、「作品持ってきたって載せてあげないよ」みたいなね。でも我々ってすごいSF好きが多くて。海外物から日本物から、さんざんSF読んでた仲間なので、「少女読者がSF読めないはずないじゃない!」って。「それって良いSFがないんだよ」。「よし、良いSFを描こう。良いSFを描けば、読者がそれを見てくれる」。とにかくやっぱり我々が若いせいですよね。壁の向こうのファンの姿は見えないんですけど、信じてました。投げれば絶対受けとめてくれると。

ーー少女漫画の、リアリティの質も変わりましたね。

増山 あの頃は、海外の話を描こうったって、洋書店もあんまりなかった。イエナとか丸善とか、もうキリなく廻ってましたけど。ネットもないし。死にもの狂いで資料集めて。「着物の素材はシルクよね。でも下着はどういうの使ってるの?」とか、服飾史とか資料の山で探しまくって、映画見まくって、勉強してました。絶対にリアルにやろうと。細部に対して手を抜いてた漫画とか嫌だったんです。あと、少女漫画って、大体ココ(胸の辺りを指さして)から上しか出てこないじゃないですか? あれはやめようと、我々は。手塚先生みたいにカメラのアングルをマルチにして、とにかく全部変えちゃったんです。「これで載せてくれ!」っていう感じで。一人だったら闘えなかったと思うんですけど。集団だとなんとかなるんですよ。そしたらどんどんファンが増えてきて、僻地に追いやられてたのが、だんだん巻頭ページになってきて。ファンの反応がすごくて。編集部が手のひら返し。「チッチッチッ、あっちいけ」って、すごく苛められてたんですけど、それが、「先生、先生」みたいに変わった瞬間がありました。

ーーいつ頃ですか? 変わったと思ったのは。

増山 79年くらい。だいたい自分では、この革命は20年でやるつもりだったんですけど、実質10年でした。萩尾と竹宮が漫画賞を獲ったじゃないですか。あのとき初めて「闘いは終わった」と思いました。あの頃、少女漫画家が獲るというのは珍しかったので、「あぁ、二人とも獲った、終わったな…」と思いました。わたしがやりたいことは、これで全て終わった。で、竹宮のプロダクションから離れて、そこからまた、何しようかなーと模索して…。わたしは10年で、そんな人気作家になるなんて計算はなかったの。そこで夢が叶っちゃったんですよね。想像より早く、なんか、ちょっと「アレ…?」って感じでしたかね。だから、人生大成功ですね。そこまでは。あとは、ぐちゃぐちゃなんですよ、わたし。何やっていいんだか、さっぱりわかんなくて。

ーー当時、少女漫画誌の編集部にも古い固定観念があったと思うんですが、男性の編集者が少女漫画を作っていたことも関係あるんですか?

増山 そうだと思いますね。保守的な気持ちで、安全圏で。これが当たれば、これに類するものだけ描いて、みたいな。そういう歴史で来ちゃうから、それこそ岡田さんじゃないけど、突飛に見えたんでしょうね。こんなもの描いたって少女たちは喜ばないっていう考え方と、いや、少女たちはこういうものを待っているんだという考え方と。だって、女の子たち、手塚先生の漫画をおもしろいって読んでるじゃない? って。『COM』だってユニセックスでしたからね。男向けの雑誌じゃないですから。とにかく、10代の頃に、わたしはすっごく腹立ててたんで。少女漫画のくだらないさに。10年目には、誰もがトップスターになってましたね。
そこで、わたしが集めたのが、たまたま昭和24年前後生まれの連中だったんです。みんな昭和24年前後生まれの少女漫画家を「24年組」と総称しているけど、自分としては、わたしが集めた人だけ24年組と呼んでいます。大泉に出入りしてた人は、全員グループと思ってます。許可制だったので。わたし、嫌いな人は絶対入れなかったから、ある確信を持って、明快な線引きしてました。
革命の中心にいて、共に苦節何年戦った人は「同士」、「戦士」なんです。だから、そうじゃない人まで括るなよって気持ちがすごくあったんです。

ーー竹宮、萩尾、増山で合議するんですか?

増山 だいたいそうですね。みんなで「ななえタンちゃん呼んじゃえよー」とか、「この子おもしろいから呼んじゃえよー」って。簡単に来たんですよ。ささやななえ(現・ささやななえこ)は、札幌でしたから、大泉に来て、一本作品仕上げて帰っていきました。一ヶ月くらいいましたよ。いつ来ようといつ帰ろうと良いんです。10人くらいがつねにウロウロしてて。

ーー鍵なんかかけない感覚?

増山 そうですね。誰かしら24時間…。みんなで夜になると「少女漫画をどうやって改革するか?」って、徹夜でディスカッションしてました。「少女漫画ってどうやったら良くなるんだろう」と。結果的に「良い作品描くしかない」って話になったんだけど。結論はそれしかない。作品で勝負するしか絶対世の中動かせない。みんな「すごい人。、集まってきましたね」って言うけど、「すごい人集めたんだよ」ってわたし思うんですけどね。当時、みんなペーペーの若手なんですよ。新人、一般には名前なんか全然知られてない。知り合った時、萩尾はまだデビューもしてませんでした。でも、才能はすぐ見抜けるので、絶対この人はすごくなると思った人だけに声かけました。おバカな少女漫画描いてる連中と口をきくなーとか言ってました。口きいちゃいけない、バカが伝染(うつ)るからって。…当時のわたし、ものすごい尖ってたらしくて(笑)

ーーサロンっていうと、お洒落なイメージですけど。

増山 ううん、合宿所。だって、本当にキッタナイ長屋(笑)。二軒長屋で、反対側は知らない人が住んでいたんですけど、一階と二階を借りていて、お庭は一緒。とてもボロで、竹宮や萩尾から「いずれ一緒に住みたいから、どこか探して」って言われていたんですよ。いくらでもきれいなお家があったんですけど、自分の家から一番近いので、そこに決めたんです。

ーー四畳半、六畳くらいですか?

増山 そうです。お風呂、トイレ…あと、二階に三畳くらいの部屋があったかな。あんなに狭いところに、よく10人もいましたね。出たり入ったり激しかったですけど。一階に、それころサロンみたいな空間がありまして。コタツがあって、四方八方からコタツに足つっこんで。みんな、そこに画板立てて描いていました。

ーー二階がネーム部屋だったと聞いたことがあるんですけど。

増山 二階だとワイワイという喧騒から離れられるんで。私から怒鳴られて泣いたり、ネームしたりは、上に行ってやってました。あとは寝たり。

ーー寝室は二階とか決めてあったんですか?

増山 寝室なんてあったかな? みんなでゴロ寝でしたよね。合宿所ですよ。サロンなんて優雅なもんじゃないですよ(笑)。だってね、二十歳くらいの女の子が集まってワイワイガヤガヤ。とにかく漫画のことだけ考えてられるっていうのが幸せで。夢を追いかけている、しかも一致した夢じゃないですか。みんな幸せでした。

ーー男性は入室させなかったんですか?

増山 う〜ん、竹宮なんかは男の子の友達ーー石森先生のアシスタントたちだと思うんだけどーー呼んでましたけど。少年漫画までフォローしようとは思わなかったんで、私が呼ばなかっただけなんですけど。女の子ばっかりでしたね。

ーーじゃなくて「男子禁制」だったのかと思って。

増山 そんなことないです。とにかくもう、恋愛どころじゃないっているか。漫画のことしか頭になかった。朝から晩まで「少女漫画をどうするか?」ってことで。熱気ムンムンでした。楽しかったですよ!

ーー家賃は折半してたんですか?

増山 家賃とかそういうの、今考えると、どうしてたんだろう……竹宮と萩尾が出してたと思うんです。

ーー一緒に生活してれば、影響を受けざるを得ないですもんね。

増山 そうです……よく泣かしました。わたし。作品のネーム持ってくると、なんかおもしろくないんですよ。「どう?」って聞くから、「死ねば?」って。「よくこんな作品描けるね。恥ずかしくないの?」って怒鳴ったり、「こんな駄作描く人なんて、わたしの側にいないで」っていうかんじ。そうすると、ワーって泣き出すんですよ。「あなたの力があれば、こんな程度じゃなくて、もっといいもの描ける、描き直し!」って。そうすると、二階にあがっていくんですね。ボロボロ泣いてるんですけど。あとで、戻ってくると、ガン!ってレベルが上がるんですよ。言えば絶対レベルが上がるって信じてましたから、描き直した作品は本当に優れてて。わたしは絶対に高いレベルの作品しか嫌だったんです。
それでも決裂しなかったのは、われわれがとことん漫画が好きだという共通の情熱があったからですよね。

ーー後年、誰かがファンに大泉サロンの存在を告げちゃって、外部者が来るようになったとか……。

増山 もうね、それだからやめちゃったようなもので。マニアが全国からドンドン来るようになって嫌でしたね。最後のほうは、作家を匿うのが大変でした。マニアどうしで派閥あらそいみたいなのがあって、「自分たちが先だ」とか言って、作家から見るとアホみたいな。「やめてくれない? そのケンカ。外でやって」と。末期はすごかったですね、ファンが。玄関の戸をバタンって開けると女の子が立ってて、ワンワン泣いてて。「どうしたの?」って聞いたら「一週間さまよってました」とか言って。やっとたどり着けて、泣いていたんですよ。「エーッ!?」って。こっちは困るんですよ、そういうの。どっちかって言ったら怖かったです。マニアの熱気を通り越して狂気に近いものを感じました。実際、狂気に近い行動をとるマニアがたくさんいました。おかげでマニア恐怖症が今だに抜けません。

ーーそれもサロンがなくなった理由の一つなんですか?

増山 そうですね。いろんな理由がありましたけれども、とにかくドンドンみんな独立して。早かったですね。大泉サロンで固まってたのは、たった2年間くらいで。あとはパーッと散って、それぞれが、お部屋持ってバラバラになっちゃってましたから。

ーー増山さんはマネージャーなのですが、珍しいタイプですね。創作に入り込んでいる印象があります。

増山 わたしはマネージャーではなかったですね。わたしは皆さんのお力を借りて、「すみませんけど、この漫画の状況を直してください」って言う人だったので、道を一生懸命つくっていたというかんじ。お金のことは全然管理していませんでしたから。お金は各自が別会計ですから。お金はどうなっているのか全然わかりませんでした。わたしは精神面だけなんです。メンタル・アドバイザーで。それにしちゃ、その中でいちばん威張ってたと思います(笑)。

ーーサロン時代のかたがたとは、いまでもおつきあいはありますか。

増山 大泉の仲間たちは、みんなそれぞれ40年来の仲間ですから、倒れたら介護ぐらい行きますよ。家族同然ですから。
4月に亡くなった佐藤(史生)がーー大泉時代は2年間くらい続いたんですけどーー「あの2年が人生の中で一番幸せだった、一番輝いてた」って言ってたらしくて。「そうだね、楽しかったよねー」っていうかんじ。朝から晩まで夢しか追ってないじゃないですか。溌剌としてた。「燃えてたね、青春しちゃった」ってかんじですね。

増山法恵(ますやま・のりえ)
作家。1950年、東京生まれ。都立駒場高校芸術科/ピアノ科卒。ピアニスト志望の時代を経て20歳で家出、漫画の世界に入る。竹宮惠子プロダクションのプロデューサー・ディレクターを15年務めたのち独立。著書『神の子羊・全3巻』『永遠の少年』(筆名、のりす・はーぜ)。編者として『アリス・ブック・全2巻』。

Menu

メニューサンプル1

管理人/副管理人のみ編集できます