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【村上知彦:ふつうの女の子にもどりたい?】
テレビランド増刊イラストアルバム6 萩尾望都の世界


テレビランド増刊イラストアルバム6 萩尾望都の世界
出版社:徳間書店
発行日:1978年07月30日


資料提供
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/163456...



ふつうの女の子にもどりたい?
村上知彦
(画像に続いてテキスト抽出あり)




ふつうの女の子にもどりたい?
村上知彦

萩尾望都のもっとも萩尾望都らしい作品を選べといわれたら、ぼくはためらわずに「小夜の縫うゆかた」をあげるだろう。「ポーの一族」や「トーマの心臓」のロマンのひろがりも、それが日々のさりげない事物や心の動きを、たしかにみつめる萩尾望都の日常性へのまなざしに裏打ちされたものだからこそ、あれだけの奥ゆきをもちえたのだと思う。「小夜の縫うゆかた」の”尾崎小夜”は、可憐な外見に似合わず、兄貴と激烈な兄妹げんかもやってのけるふつうの女の子だ。そして、女の子はだれでもふつうの女の子なのだという、あたりまえのことをきちんと描くのは、存外むずかしいことなのだ。

「小夜の縫うゆかた」には、たいそうなドラマはまるでない。ひとりの少女が夏休みの宿題のゆかたを縫いながら、2年まえに亡くなった母を想いだす。それだけの話だ、といってしまってはミもフタもないが、本当にそれだけの話なのだ。大口マンスがめばえるわけでもなければ、大悲劇がまちうけているわけでもない。「今年はええのんよ、お母ちゃん。小夜は十四、針に糸とおして、今年は自分でゆかた縫うの」という、母を亡くした少女の、悲しみをのり越えて生きていく、ささやかな決意を表明しているだけだ。それはほんとうに、こう書くのも大げさすぎると思えるくらい、ささやかな決意なのだ。

それだけの話を、それだけの話にしてしまわなかったのは、萩尾望都の、少女の日常に対する細かい目くばりだ。母の縫ったゆかたを着たさまざまな夏の想い出が、いま自分でゆかたを縫っている現実の時間と交差する。クラスの女の子や兄貴や兄の友人・畑さんとの会話のはしばしが、小道具のひとつひとつが、小夜の決意をしっかりと支えていく構造になっている。最初、クラスメートの、のんちゃんの電話で「子どもっぽいわね」といわれた赤トンボもようのゆかた地が、畑さんに「あれ、かわいいゆかた縫ってるなあ」といわれ、そしてラストの「おととしの柄、とても小夜に似合うの」というモノローグにまでつながっていく。2年まえ、母に縫ってもらうはずだった、そのゆかた地に対する小夜の意識が「子どもっぽいかなあ」から「とても似合うの」へ変わったというわけではな。 布を断ち針と糸で縫い合わせていく作業の過程で、想い出されたさまざまな「母の居た夏」 の想い出と、兄や畑さんやのんちゃんとの、ゆかたをめぐる何げない日常的なやりとりが、小夜にいま2年まえのゆかたを自分で縫うことの意味をみつけさせていったのだ。そんなわずかな心の動きを、日常の空間からまったく飛躍することなく、抽象的なものにいっさいたよることなく、表現しおおせた萩尾望都という作家の力量には、ただただ感心せずにはおれない。

ふつうの女の子のふつうの生活のなかに、さりげなく表われる小さな心のゆれ幅を決して言葉では語れないその微妙なものを、萩尾望都は具体的な事物をただひとつさし示すだけで的確に語ってしまう。それは「小夜の縫うゆかた」の赤トンボもようのゆかた地であり「10月の少女たち」(真知子篇)のハインラインのSFであり「毛糸玉にじゃれないで」のいっぴきの捨てネコである。女の子はみんな、自分の中にひとつ宇宙を持っているにちがいない。そしてその宇宙への入り口は、そんな日常のさりげない事物のなかに、ぽっかり口を開いているのだ。

萩尾望都のまんがのなかで、ぼくにとっていっとう魅力的なのは、こんなふうに自分のなかにもうひとつの宇宙への入り口を持ちながら、日常をたしかに踏みしめて生きている少女たちだ。とりわけ参っているのは「赤ッ毛のいとこ」の野辺家”のえる”である。「 アイヨ」「ホイサ」とつねに前向きで、ものにこだわらず、面倒みがよい。決してくよくよ悩んだり、いじけたりしない。いとこの茨木まりが熱を出して倒れると、期末テストを休んで看病して「あんねえ、どーってことないの。ようするに、あったりまえのことなの」とケロッとしている。あっけらかんと「あれ、知らんかった? わたしって養女なんよ」といってのける。のえるは、たしかに日常性のまっただ中で、飛んでいる。

キャンディーズは「ふつうの女の子に戻りたい!!」と叫んだけれど「ふつうの女の子」 なんて、行ったり戻ったりする性質のものではないだろう。どこにいようと、なにをしていようと、女の子はだれでもみんなふつうの女の子なのだ。そしてふつうの女の子はだれでも、体のなかにもうひとつの宇宙を持っているのだということを、萩尾望都は教えてくれた。その入り口に気づくかどうかだけが問題なのだ。「ハワードさんの新聞広告」のセリフではないが、ふつうの女の子はみんな飛ぶのである。
(評論家)

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