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【村田順子(竹宮惠子FC元会長)ブログ魚拓】

2021年04月26日(月):村田順子、ブログ投稿
2021年04月27日(火):村田順子、ブログ削除

村田順子ブログ 2021年04月27日
「もう書きませんので、ご安心ください」
https://blog.goo.ne.jp/rococom/d/20210427

2021年04月26日に投稿されたブログの魚拓
https://web.archive.org/web/20210426122201/https:/...



2021年04月26日に投稿されたブログ(魚拓からテキストを抽出)

萩尾先生と竹宮先生のこと

まさか、こんな日が来るとは思っていませんでした。

先生たちお二人がこの世からいなくなるまで、けっして公にされることはないと思っていた遠い昔の封印されたお話。

その扉をまず開けたのは竹宮先生。

今から5年前〜2016年に『少年の名はジルベール』という自伝本を出して、禁断の大泉サロンの(萩尾望都と同居していた)話をはじめて公にしました。

竹宮先生は、当時-萩尾望都-という天才の才能に嫉妬していたこと、「少年愛には興味がない」と言いながらへろっと『11月のギムナジウム』という傑作を描いてしまうことへの恐怖、ずっと描きたいと温めていた寄宿舎の話を先に描かれてしまったことへの怒りを告白し、とはいえ当時自分が放った言動が大人げなかったことを心から謝罪し、あらためて萩尾望都という稀有な才能を称賛したのでした。

だいたいのいきさつを知っている私は、竹宮先生がこんな境地に至ったことに深く感動して泣きました。

でもこれは大泉時代のことがすべてではなく、竹宮惠子という漫画家の生い立ちから今日までの歴史の本であって、大泉の話はその長い年月の中の、ほんの一部分にすぎないはずだったんだけれど、先生がいくら「私の歴史のほんの一部分」だと言い張っても、長い長い間「何があったんだろう?」とみんなが知りたかったことだから、とうぜん飛びつきますよね。

あれから5年が経って、今回萩尾先生が『一度きりの大泉の話』という本を出されました。

ちょうど10年前、たまたま私は萩尾先生の住む飯能に気に入った土地を見つけて引越しました(まさに大泉学園から)。近くに住む後輩の漫画家二ノ宮知子とのご縁でパーティーをご一緒したり、お互いの家を行き来したりするようになったので、なんとか竹宮先生と和解できないかとずっと心で願っていましたが、なかなか容易ではありません。どうしてこんなに頑ななのか?ノー天気な私には理解できなさ過ぎて、すっかりあきらめていたところにこの本が出版されると知り、発売日までの一か月間、どんな内容なのか?ドキドキして待ちました。

予約していた本が届いた時は仕事中で〜アシさんが入っている時期だったので、夜中寝る前に3日に分けて読みました。

すさまじい内容でしたけど、止むにやまれぬ覚悟と受け取りました。

冷静に時系列に沿って、あったことを淡々と述べていて、私が知っていることと認識の解離もなく、真ん中辺りまでは大泉の生活に郷愁を感じていると思えるほどでしたが、途中から始まる怒りとも自虐とも取れる竹宮&増山さんへの徹底的な拒絶。竹宮先生が今さらどう詫びようと、どうにもならないんだということがわかりました。

4年前、九州に引っ越した竹宮先生の新居に遊びに行ったとき、先生から「萩尾さんに謝罪の手紙を入れて『少年の名はジルベール』を送ったんだけど、送り返されたの」と聞いて、「えええ〜?うそ〜」と絶句。送り返してきたか〜〜!!しばらくうなだれました。そして湧き出る絶望。今回そのことも萩尾先生の本に書かれていました。それを機に私はお二人の和解のために暗躍するのをきっぱり断念したのです。・・・誰にも頼まれていませんが(;^ω^)。

竹宮先生の名誉のために少し補足させていただくと、先生は思っていることをストレートに言ってしまう人ではありますが、影で人を陥れようと画策したり、誰かのせいにしたりする人ではけしてありません。若干人ごとのように「俯瞰するとこういう構図で、こうだったのでは?」と状況を分析するので、だからそれが「別の原因のせい」だと言ったように勘違いされることはあるかもしれません。増山法恵さんは正義感の強い人。私はお二人からただの一度も萩尾先生の悪口を聞いたことがありませんし、萩尾先生の作品を妨害するようなこともない、、、というか、あり得ない!

排他的独占願望もよくわかりません。寺山修司さんや光瀬龍氏に関しては、あちらが同時期にお二人にアプローチして来ただけで、竹宮先生がお好きなものに近づいちゃいけない!という恐怖心は被害妄想だと思います。

ずっと後になって、竹宮先生からポツポツと大泉時代に起きたことを直接聞くことがありましたけど、ご自分が言ってしまった言葉に対して「私はこんな風なことをモー様に言ってしまったの」と言うだけでした。

増山さんに関しては、ずっと「私はケーコタンとモー様の間に何があったか、よく知らないのよね!」と言っていました。そんなまさか!!と思っていたんですけど、どうやら本当のようなのです。ある意味天然です。

今回、特に私は竹宮惠子派の立場に立つつもりはなかったんですけど、本の所々に流れる竹宮惠子=ダークなムードにちょっと違和感を感じました。これは身内びいきというやつでしょうか?増山さんの発言にも(言っている意味は同じだとしても)ニュアンスが違うというか、あの強烈で辛辣な発言の数々はもうちょっと愉快なんですよね。私は増山さんの暴言を楽しく聞くことができるみたいです。そこが竹宮先生と同類なのかな?

まあ50年も前のことですし、立場が違うと同じことがまったく違う風に見えますから仕方ないことですね。

あと最後にもうひとつ、ドラマ化の話を断っても断っても食らいついてくるメディアに困り果てていたのは竹宮先生も同じで、もう断るすべがなくて、萩尾先生が了承するわけがないことを見越して「じゃあもう、萩尾先生がいいと言えば・・・いいです」という返事をしてしまったんですね。もちろん乗り気だったわけではまったくなく。

でも結果的に、それがいけなかったですね。

自分で蒔いた種なのに、萩尾先生に丸投げしてしまった形で迷惑をかけてしまった。そしてこの本を書かざるを得なくなった流れは、もう運命というか宿命??

ドラマ化の件は、実はまず私のところに話が来て「竹宮先生に打診して欲しい」と頼まれたので、もちろん私が橋渡しをしなくても話は行っただろうけど、ちょっと申し訳ない気持ちになってしまいました。

私は竹宮先生が『風と木の詩』の連載を開始するまでの苦しみを側で見ていたので、萩尾先生は天才ゆえの鈍感さで人を傷つけていると思っていましたが、そのことも本の中で何度も触れていましたね。自分が至らなかった、自分が鈍感だった、自分さえいなければ・・・。

ああ〜〜もう

もう、やめましょう。

あきらめましょう!!!

また永久凍土に戻ってしまった出来事を掘り返すことはやめて、そっとしておいてあげましょう。

竹宮先生は強いのでどんなことも乗り越えられるけど、萩尾先生は無理なんだから。

私と竹宮&増山さんとのいきさつをちょいと書きます。

私は高校1年生(15歳)の夏休みに、小学館主催の竹宮惠子先生のサイン会に駆けつけて以来、毎日のようにファンレターを書いて情熱をぶつけまくり、それから3カ月後の晩秋に突然のんたん(増山法恵さん)から電話をもらい、「遊びにいらっしゃい」と言われました。

今回萩尾先生の本にも何度か出て来ますが、増山さんはファンレターを読んで、気にいるとその人を呼び寄せることをずっと前からしていたようです。私が呼ばれたのは大泉サロンが解散した後でしたけど、そのおめがねにかなったんだなぁ〜と、今さら知る。

当時竹宮先生はすごい人気だったから、私の手紙をちゃんと読んでくれているとはぜんぜん思っていなかったので、ビックリ仰天!!舞い上がった私は高校のマンガ部の仲間を3人引き連れて下井草のOSマンションにうかがいました。

そこには先生はいなくて、最初は増山さんとだけでいろんなお話をしていたら、しばらくして仕事場から先生が戻られて、一緒にケーキを食べながらお茶をしました。

その後、数か月後にまた呼んでいただいたときに、「ファンクラブをやらない?」と増山さんから持ちかけられ、二つ返事で「やります!!」と叫んだことは昨日のことのよう。

以来、45年!!

現在体を壊されて療養している増山さんに時おり寄り添って、今でも美少年やジャニーズの話、そしてここ数年彼女がのめりこんでいるフィギュアスケートの話に花を咲かせています。

今回の本のことで「元気ですか?何か大変なことになってない??」と特に具体的なことは書かずにメールをしたら、「あまり体調は良くないけど、コロナウィルスに怯えつつ、なんとか生きていま〜す(笑)」と明るい返事がきました。

耳に入っていないはずはないと思うけど、言わないなら聞かない・・・。

竹宮先生には「読んだよ」と連絡してみるけど、たぶん先生は「仕方がないわね」と言うかな?



村田順子
自己紹介
漫画家。美少年漫画の始祖竹宮恵子のアシスタントを経て二十歳で漫画家デビュー。物心ついたときから美少年が好き。香港四大天王レオン・ライのオフィシャルFC代表も勤める。ヒョンビン研究所・所長。


参照【村田順子:竹宮惠子後援会『さんる〜む』誕生の軌跡
2006年「竹宮惠子の世界展」目録に寄稿

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