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【対談:つげ義春・岡田史子】

資料提供:https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/166682...



COM 1968年07月号
出版社:虫プロ商事KK
発行日:1968年07月01日




「COM 1968年07月号」80-81ページ
特別企画/対談・つげ義春氏=岡田史子氏
マイペースで描こう!
(図版に続いてテキスト抽出あり)





特別企画/対談・つげ義春氏=岡田史子氏
マイペースで描こう!

随想まんがから、さらに新境地へ……
独自な歩みをつづける孤独な異色まんが家に、注目の新鋭が問う作家の主体性。
まんがと自己との関係は……!?

岡田 私が最初に先生の作品を拝見したのは『ガロ』に載った「初茸 狩り」という作品で、読み終わったあとポカンとさせられました。いままでにこんなまんがを見たことがなかったからです。
でも一見わかりやすいように見える先生のまんがが、当時の私にはわかんなかった。
私のまんがも、人からわからないといわれ、いやんなっちゃうんですが、自分で意識してわからなく描いてるわけじゃないんです。
私はまんがはだれにでもわかるというより抵抗なく受けいれられるもののほうがいいと思うんです

つげ べつにむずかしいものを描く気もなく、読者を無視して描いてるわけでもないんですが、ぼく自身、ただだれにでもわかるというものは考えられないんですね。それに、まんがを描くのに、そんなに深刻に考えて描いたことはありませんね

岡田 わかんないまんがということでは「ねじ式」(『ガロ』六月号・つげ義春特集) は、ほんとにむずかしいですね
あの作品からは、テーマさえ見つけだすことできませんが先生がなにか訴えている感じはします

つげ 困っちゃったなあ、いま考えてみると、なんであんなまんがを描いたか、ふしぎでしょうがないんです。
ですから、テーマはなにかときかれても、なんにもないんです。読む人それぞれが、あの中から自由にテーマを考えだしてほしいんです。あれは、前からぼくの頭の中にあったモヤモヤしたイメージをまとめただけで、あんな話はつくるというより頭の中にできてくるんですね。だから描く気になればいくらでも描けるんです。

岡田 先生の作品では抒情性に比重をおいたものが多いようですが、それらとはちょっと異質な感じをうけるんですが……。

つげ ぼくの作品傾向があるとすれば「ねじ式」はたしかにちがう傾向の作品です。でもそんなことはどうでもいいと思いますね。


まんが家は
ひとりよがり

岡田「ねじ式」を読んで、私なりにわかったようなふりをしてたんですが、わからないということがかえってステキに思えるんです。つげ先生の作品も、私の作品も受け手側からみると、わかんないという点では似てると思うんです。
私の初期のまんがで、去年『COM』の「まんが予備校」に載った「太陽と少年」は、雑誌に載ることなど考えてもみなかったので読者を意識せず描いたのですが、それ以後の作品は、雑誌にも載るということがわかったので、多少読者を意識するようになったんです。先生の場合は、最初から大衆を無視して描いてるわけですか

つげ 大衆を無視して描くとが描かないとかは、問題じゃなく、大衆を対象にした作品もあれば、自己陶酔型の作品もあっていいと思うんです。第一ぜんぶがぜんぶ大衆を意識して描いてるとおもしろくないですよ。ぼくは描きたいときに描きたいものを描くといういきかたで、まず、まんがを描くことによって自分が楽しむわけです。
自分が楽しければ、読む人だって楽しいはずですよ。 勝手かな。
だが、いったいどんなまんがを描いたら読者がよろこぶかなんてだれだってわかりません。こんな作品を読者がよろこぶんじゃないかと思って描くのは、作家のひとりよがりで、また、ぼくのように読者を意識しないで描きたいものを描くというのもひとりよがりです。いずれにしても作家はひとりよがりになってるはずです。

岡田 でも、まんがはやはり受け手を楽しませてこそ作品価値があると思いますが、先生の場合まんがを描く目的をどこに置いているんですか。

つげ ぼくも単行本を描いてたころは娯楽作に徹していたんです。
でも最近その傾向が変わってきたわけですね。現在は、まんがを描くということは、自分自身の問題として描いてるだけで、それはなにかというと、はっきりした形はないんです。ただ、なにかあるんじゃないかと、まんがをして追求してるだけで、ぼく自身、結果的にはなにもないと思っています
でも、なにかある、というそのものが、現在ぼくにまんがを描かせてるんです。

岡田 その先生の中にある問題というものを追求するだけなら、まんがという形態をとらなくても、小説なんかでもいいわけですね。

つげ そうなんです。ただほかの仕事より、まんがのほうが長年やっているので、うまくやっていけそうな気がするんです。だが、どうしてまんが家になったかは、よくわからないんです。いまのところまんがを描いていれば、収入もあり食えますよね。まんがを描いても食えなくなったらやめますよ。趣味や惰性だけでまんがを描くことはできないですよ。


飾らない作品こそ
魅力が……

岡田 先生の作品は抒情性の中から詩が感じられるし、受け手をぐいぐい引きこむ魅力があると思うんです。

つげ 岡田さんの作品は、観念的まんがといえますね。これは最近の新人たちの傾向のようですね。
観念的なまんがは最初のヒラメキがたいせつで、それによって作品のよしあしが決まってくると思うんです。それにぼくなんかのまんがとちがい客観的というか一歩しりぞいたところから読者が見るわけで す。昔のまんがは読者を主人公に感情移入するところにあったと思います。
それは絵によっても変わってきます。岡田さんの絵が、日本離れしたイラストの積み重ねの感じがあるからではないですか。

岡田 そうかもしれません。私の絵はよく人から止まっているといわ れます。私はよくわかりませんが手塚先生や、石森先生の絵は動きがあるというんですね。

つげ その意味からだと、ぼくの絵も止まっているんです。ぽくなりの解釈のしかたですが、そういう止まった絵のほうが、劇画という名まえを借りれば劇画だと思うんです。一般に劇画といわれるものは劇画という感じがしません。あくまで、手塚先生がはじめたストリーまんがと変わらないと思いますね。劇画というのは絵の一つ一つが独立したイメージを持っていて絵自体しめる比重が大きいものをいうんだと思います。ストーリーまんがの場合、バックの絵は話の説明にすぎません。それから一歩進んで、一見話に関係なさそうな絵を持ってくる、もし劇画と名まえをつければ新しい傾向になるんじゃないかと思います。

岡田 絵もさることながら、先生の作品で「李さん一家」などのよう に、一生懸命読まされて、最後でパッとかわされるところなどにくらしいほどまとめがあざやかです。『COM』の二月号で草森紳一さんも「ラストシーンの名手」と書いていましたが……。

つげ 意識してラストに気を配ってるわけでもないし、いままでの形を破ろうという気もないのですがぼく自身、これこれこう始まったのだからこう終わるのは当然という、まとまった作品は好きじゃないんです。まんががじょうずになると、ただ話をソツなくまとめるというだけでおもしろくなく、読む気もしません。その意味から内容的にも最近の青年まんがはほかのものよりおもしろいですね。あけっぴろげに自分を作品の中にだしています。ぼくはきたならしいとかドロドロした感じのものに魅力を感じるんです。


自分のペースに
巻きこもう

岡田 私たち新人もじょうずにまとめようと考えるより、飾り気のない自分を作品にうちだしたほうがいいわけですね。それが個性ある作品ということにもつながるということですか。

つげ そうだと思います。新人のうちは読者を意識しないで、自分の好きなように描くことです。でもそれでは出版社では買ってくれないので妥協しなくてはならない面もでてきますが、そのへんは適当に判断して、徐々に自分のペースに巻きこむ、ぼくも、現在はだれにもなんにもいわれませんが、それまでは、そうしてきたわけです

岡田 なんだか、いま私が一ばん迷っている点が、はっきりしたようです。ありがとうございました。


欄外:先月号の予告で「対談/西谷祥子・岡田史子」と発表いたしましたが、西谷さんのご都合わるく、企画変更いたしました。編集部の手違い●●(判読不明)西谷さんならびに読者のみなさんにふかくおわびいたします。



COM 1968年07月号



この対談について、後に岡田史子は「まんだらけZENBU No.4(1999年09月01日)」において以下のように話している

──つげ義春のマンガか、どうでしたか? 当時、『初茸狩り』を見てびっくりしたという発言がつげ義春との『COM』の対談に出てましたけど。
岡田 あれはもう、全部、編集部の捏造ですからね。私はですね、『ねじ式』なんか読んで、一体これはなんだろうかなと思って、一応読んではいたけど、好きじゃなかったですよね。
全文はこちら→【岡田史子:インタビュー第一部】【岡田史子:まんだらけZENBU No.4

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