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【対談:河合隼雄・竹宮恵子】
河合隼雄対談集「あなたが子どもだったころ」(竹宮恵子38歳)

河合隼雄対談集「あなたが子どもだったころ」
「飛ぶ教室」第13号より第22号までの連載インタビュー「あなたが子どもだったころ」をまとめたもの
発行日:1988年06月23日
出版社:光村図書出版


註:2008年07月発行の【子ども力がいっぱい 河合隼雄が聞く「あなたが子どもだったころ」】には竹宮恵子との対談は収録されていません


河合隼雄対談集「あなたが子どもだったころ」(1988年06月発行)より一部抜粋

(略)

竹宮 満州から母が持ってきた自分のものっていうのは、お人形さんだけだったんです。 ドイツ人形で、今、アンチックドールといってすごく有名になっちゃったんですが、それが小ちゃいときからうちの中にあったんですね。何だかわからないんだけど、その人形が好きで。ただ、うちの母は絶対に触らせてくれなかった。落とすと割れちゃうようなもんですから、子どもには触らせないといって自分の部屋に飾ってあったんです(笑)。

河合 ふうん。それは、お母さんの宝物だったわけですね。

竹宮 そうです。だから、こっそりその部屋に入っていって(笑)、その人形にいろんな格好をさせて遊びました。人形の手足の関節が自由に曲がるのがとてもアクティヴで好きだったの。母は、自分が死んじゃったらあげるからって常々いってました。

河合 で、その人形はどうなりました?

竹宮 ええ、今はうちにありますけど。

河合 それをもうもらわれた。お母さんは亡くなられたんですか。

竹宮 いえ。

河合 そうじゃなくて。

竹宮 奪い取っちゃった(笑)。

河合 なんとひどいことを(笑)。

竹宮 昔から好きだったもんで、出来心で(笑)。

河合 妹さんは文句をいわなかったですか。

竹宮 いえ、全然。いわゆる日本のお人形というのは可愛いっていう、漫画に近い感じですけど、そのお人形は目玉とか睫毛とかがあってやたらリアルだったもんですから、あんまり好まなかったみたい(笑)。

(略)

河合 小さいときは、お母さんよりもむしろおばあさんの思い出のほうが大きいですか。

竹宮 そうですね、うちの母は、その大陸生まれのせいかどうかわかりませんが、性質がすごくサバサバしてるんですね(笑)。あんまりサバサバしてて、愛情をかけられたという感覚がないくらいです(笑)。全く現金な母親でね。損得勘定で娘とも付き合ってたみたいなとこがあって。

河合 ええ(笑)。

竹宮 もうあけっぴろげなんです、すごく。だから、感情に行き違いがあったなんてことはなかった。

河合 妹さんのほうはどうでした。

竹宮 妹にはやっぱりシスターコンプレックスみたいなものがありました。長女と比べられるのが嫌だったとかね(笑)。

河合 お母さんは、わりあい言葉でスパスパというてしまわれる......。

竹宮 そうなんです。傷つけてるとも思わずにズバズバいっちゃって。で、まあ、妹は多少暗いとこもあるんでしょうか(笑)、それに対して反抗的にはなれなかったらしく、高校を出るころになってようやく、あのときこうだった、ああだったが始まったんです (笑)。

(略)

河合 先ほど、サバサバしてるお母さんの話を伺いましたが、竹宮さんのお母さん離れを端的に示すようなエピソードがありますか。

竹宮 何かなあ......。何となく自分で勝手に思ってるんですが、妹が三つぐらいのときのことですけど。二人で台の上でふざけ合っていて、故意にではなく、ただうるさいからとバンとやったあげく、妹を落っことしちゃったんですね。何針も縫うような怪我をさせて、そのときすごく怒鳴られたんです。でも、怒られてる感覚っていうのがすごく希薄でした。 で、心配するという気持ちもいまいち起きてこなかった、妹に対するね(笑)。

(略)

河合 それで、描くことへの情熱はいつごろから?

竹宮 中学あたりがいちばん湧きました。少女漫画が週刊誌で出始めのころです。友達と1日一緒に似顔絵を描くこと始めたんです。下敷きにマジックで描いた絵を見た美術の先生が、「あ、こんなの好きなの?」って、教室で持ち上げていってくれた。それだけでその先生が好きになって、その先生がやってる部活動なんかただただ追い回したりしてました。とにかく、学校が終わると、家に飛んで帰って漫画を描いてる状態が続いてました。

河合 そのころからストーリーはあったんですか。

竹宮 はい。五年生ぐらいのときに、コマ漫画みたいにして続き漫画にせりふをつけて描いてったんです。とにかく、小さいときから白い紙を与えとけば静かなんだといつもいわれてたんですね。中学に入って、毎日毎日、藁半紙に日記のように描き続けたんです。

河合 ほんとにやらずにおれないという感じでしょうね(笑)。それはそれとして、学校へは一応行っておられたんですか。

竹宮 そうなんです。うちはそんなに教育的な家庭じゃなかったから、そこそこの成績を取っていればよかったんです。だから、もう、ひたすら……(笑)。中学から高校にかけて、シリーズものを一つ描きましてね。一篇三十枚ぐらいのものが八十数話。

河合 すごいですね。

竹宮 プロになろうと決めたときに、それを焼いちゃいましたけど。これはやっぱり心情吐露であって、人に見せるもんじゃないと。

(略)

河合 そして、正式に応募されたのはいつごろですか。

竹宮 高校三年のときでした。十七歳ですね。

(略)

河合 ぼくは、もちろん年齢的にもそうですけどね、漫画を全く読まないし読んでもわからないたぐいだった。それが、鶴見俊輔さんにおだてられて(笑)、初めに竹宮さんの漫画を見てものすごくびっくりした。

竹宮 あ、そうですか(笑)。何だったのかしら。

河合 あ、こんな世界がということでね。『風と木の詩』です。

竹宮 ああ、新聞で書いていただいた......。ありがとうございました。

河合 ええ、あれを見てものすごく感激したんです。ああいう発想はすごく新しかったわけでしょう。しかし、竹宮さんが描かれたころはどうだったんですか。

竹宮 そのころのファンが、もう私のアシスタントになってる歳なんですね。『風と木の 詩』を新連載だというんで初めて開けたときのショックを、そういう人たちが今でも笑い話で話すんですよ。

河合 興味ありますねえ。

竹宮 みんなが一様に同じなのは、パッと開けて、パッと閉じてしまった。で、そのまま家に持って帰ったっていう子もいれば、電車の中でそうっと見たという人もいるし、いろいろエピソードがあってとてもおもしろい。

河合 そうでしょう。

竹宮 それぐらいショッキングだったのかなとは思ってますけど。

河合 いちばん初めに発表されたときには、危惧の感じというか、あるいはいけそうだという感触はどうでした。

竹宮 描き始めは、発表の七年ぐらい前なんです。その時点で描いていて、見せる人見せる人、漫画家たちはみんなびっくりして楽しんでくれるけれど、編集者は、これはちょっと(笑)という感じになってしまうんですね。あまりにも強烈で、やるんだったら覚悟もいるからっていうことで敬遠されてしまう。

河合 それで、どうしました。

竹宮 これはやっぱり時期をもうちょっと待たなきゃいけないと判断しましてね。自分の立場が強くなればどうにかなるかもと考えて『ファラオの墓』を始めたんです。その作品で何とかして人気をつりあげといて、それから、ファンに後ろ向かれてもいいからやろうと......。

河合 そら、賢明でしたね。それでわかりますわ。いちばん初めに出されるときは大変なことだと思いましたけど。

竹宮『ファラオの墓』を盛り上げてくれた編集者は、よくわかってくれた人でした。

河合 しかし七年とは、また大変な期間を...。

竹宮 ええ。だから、しょっちゅういろんなところで、描きたいものがあるんだということはいってたんです。例えば、一ページ もらって、何でも描いていいですよっていわれると、それについてグチャグチャと不平不満を書いたりしてましたから。ファンの方は、もう待ってはいたんです。

河合 なるほど。

竹宮 で、いよいよだなっていって見たら、これだったという(笑)。でも、ほんとに怖くて、一ヶ月ぐらいファンレターを見れなかった。でも、誘惑に負けて見ちゃったけど(笑)。

河合 あの物語のヒントは?

竹宮『IF』という映画がありましたね。あのころには、もうそういうホモセクシュアルな関係っていうのにすごく興味があったんです。で、男の子二人を使って愛情をね、『椿姫』のような、ああいうオーソドックス な愛の形でいいから描いてみたい。女で描くと、どうしても、子どもができたとか(笑)、親に別れなさいといわれるとか、家庭の問題とかごちゃごちゃ......。

河合 サバサバしないね(笑)。しかし、描かずにおれないというのは、小さいときからあったあれですね。

竹宮 あ、そう、性格(笑)。そうですよ。

河合 子どものころからのそれがね、そこで ガッと一つきれいに出てきた感じがしますね。

竹宮 そうですね。あれほどまでに頑固になったのは、『風と木の詩』だけでしたから。

(略)

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