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【対談:西炯子×竹宮惠子】2019年07月20日(69歳)

「竹宮惠子 カレイドスコープ」関連イベントスペシャル対談
http://imrc.jp/images/publish/other/report2019/rep...

日時:2019年07月20日(土)14:00−16:00
会場:京都国際マンガミュージアム多目的映像ホール
出演:西炯子/漫画家
   竹宮惠子/漫画家・京都精華大学マンガ学部教授
司会:倉持佳代子/京都国際マンガミュージアム研究員
構成・担当編集:倉持佳代子


倉持 今日はたくさんの方にお集まりいただき、定員を超えて230名超入るという満員御礼ぶりです。ありがとうございます。今日はお二人の出会いの話から最新のお仕事まで、いろいろうかがっていこうと思います。改めてどうぞよろしくお願いします。先生たちから、皆さまにまず一言ごあいさつをお願いいたします。

竹宮 今日は曇りとはいえ非常に蒸し暑い日に、いつもよりも多い数の方がお集まりいただいたとのことで、大変ありがたく思っております。もちろん、それは対談相手が西先生だからということもあるでしょう。私と西先生の関係に関しては、いろいろなところで書いたりはしているのですけれども、現在、私が半分リタイアしている状態で、あまりマンガを描いていないということもありますので、それについて知らない方も多いと思うので、今日はそういう意味で珍しいお話ができるかもしれません。過去に西先生にはひどい言葉をたくさん投げ付けていたということを見ていただくことになると思います(笑)。それも含めて楽しんでいただけたらと思います。今ではむしろ西さんが現役バリバリな状態ですが、そういう方に私は先輩だというだけで色々なことを言ったのだなという証拠が残っております。それが一番怖いことだなと思うのですが、楽しんでいただくのが一番かなと思いますので、よろしくお願いいたします。

倉持 ありがとうございます。西先生は今日ミュージアムに初めて来られたということもあります。ごあいさつも含め、ミュージアムに来ての感想などもうかがえればと思います。

西 皆さん、初めまして。西炯子でございます。本日は久しぶりの京都で20年ぶりくらいになりまして、ミュージアムができたのは知っていたのですが、こんなに立派なものとは知りませんでして、先ほどご案内いただき、地下にもうなるほどの資料があることを知りました。多分、世界的にとても重要な博物館になっていくのだろうなと。とても感激いたしました。本日は京都まで来いというので、何で叱られるのかなと、私は何をしたっけという感じで来ております(笑)。よろしくお願いいたします。

倉持 ありがとうございます。お二人のやり取りの証拠を今日は用意してきましたので、それらを見ながら、色々お話をうかがえればと思っております。なので、冒頭、私からの話が長くなってしまいますが、ご了承ください。お二人の出会いは、雑誌『JUNE』の「ケーコタンのお絵かき教室」というコーナーがきっかけでした。『JUNE』をそもそもご存じないという方もいらっしゃると思いますので、簡単に説明しますと、1978年に日本で創刊された、主に少年愛や耽美的な作品を扱う雑誌 で、今でいえば、BLの専門誌のようなものだと思っていただければイメージしやすいかもしれません。とはいっても創刊時はもっとテーマも混沌としたものでしたし、当時は「BL」というジャンルそのものが確立していなかったので、そうしたジャンルの先駆けの一つになった雑誌、と説明するのが正しいかと思います。この雑誌に、竹宮先生は創刊から長らく表紙絵を手掛け、作品も発表しています。1982年の1月号からは、「ケーコタンのお絵かき教室」が始まります。これがその第1回目です。最初は、「くちびるバリエーション」、「キスへの成り行き」、「着衣の効果」など、『JUNE』らしい色っぽいテーマでその描き方や表現のコツを指南するイラストコラムのような形でした。▲図1−図3



それが1985年より、「実技添削指導編」として、投稿作を講評するコーナーに変わります。初回には鳩山郁子先生の投稿作も。西先生以外にも錚々たる方が投稿していました。▲図4

このコーナーでは自由投稿のほか、条件をつけた課題作も募集しました。1985年1月号に発表された課題では、「キスの前後」をテーマに8ページのマンガを描きなさい、とあります。もう少し詳しく条件を読みますと「キスに至るまでの過程とその瞬間、その後を刺激的にまとめ、登場人物が語り、年齢、場所、時代などを工夫して説得力ある名場面を作ってください」と。▲図5

これに投稿したのが西炯子先生です。ペンネームの「炯」の字が違いますが、1985年3月号の講評に17歳の西先生が登場しています。冒頭のページでは、竹宮先生が「はっきし言って不作」と怒っていますが、西先生の作品が最初にバーンと登場し 、
《17でこれなら面白そうね。大胆さはそのまま。もちっときれいに描いてよ、せっかくの少年を。キスの前後の応募作としては秀逸でした。「B」》
と評価しています。▲図6

以降、西先生の投稿が続いていくのですが......今回このイベントのためにその軌跡を追いましたが、何とも竹宮先生のコメントが辛口なのに驚きまして(笑)。こんなに厳しく言われているのに、西先生、よく投稿を続けたなと思ったほどです。次の号の1985年5月号で、「刃(は)」という作品が投稿されていますが、竹宮先生のコメントを見ると、
《エーイ、キャラの区別はつかんわ、デッサンは狂うわ「作品を読む」以外のことに気をつかわせんでくれ!モンダイのキス・シーンそのものはカットとしてキレイだったけどね。他の部分にも、もう少し熱心になってほしい。変にイロっぽい呼吸を感じさせるんだよね、キミの作品は……。「−C」》
とあります。▲図7


竹宮 なぜかCなんですよ。点数が厳しいところもありますよね。

倉持 褒めているのでこれはいけると思ったらC(笑)。西先生の投稿作はここでは表紙絵だけ載っていますが、めちゃくちゃかっこいいし絵が上手い。Aじゃないの?って思ってしまいます。

竹宮 はい。だから、本当に描きたいことというのが、私にはちゃんと分かる。でも、他の人には分からないだろうというところで、減点されてしまうのですよね 。私には伝わっているから 、逆に低くなってしまうのです。

倉持 なるほど。わかるからこそ厳しくなる。もうちょっと竹宮先生の辛口コメントを紹介しますね 。さらに次の号、7月号には「前線にて」という作品を投稿しています。
《何か知らんがわからなくてイライラする。説明不足。あいかわらず一瞬いい絵見せてくれるんで、つい選ぶんだけど絵から判断するに、性格が破天荒すぎておさまりつかないかしら?妙に耽美的ではあるんだけどなあ。「−C+」》▲図8

厳しいですが、期待していたのだなということがわかりますね 。これは11月号の「お絵かき教室」の冒頭ページで講評欄ではないのですが 、名指しでコメントが入っています。
《期待の西桂子さん、最初の勢いがなくなってるよどーしたの?イシキしすぎ?》
個人的にエールを送っています。竹宮先生の期待の大きさがうかがえますね。その後も、
《いつもの色っぽさが今回は少ない。(略)「C」》
など、厳しいコメントが。エールを送りつつ、辛口講評は続いていきました。▲図9・図10


当時は、竹宮先生もマンガを教えるということに試行錯誤されていた時代だったと思うのです。どう教えたらいい作品が出てくるかということを考えて、時には自身でお手本を示して指南していくというところもこのコーナーの面白い点でした。不作が続いていたからか、次の課題発表では投稿者のレベルを上げるために、「いつ 、どこで、誰が、なぜ、どのように、何した」というのを自分で設定する「フリー競技」と、「いつ、どこで、誰が、なぜ、どのように、何したか」を細かく設定した「コンパルソリ競技」の2つの課題を募集しています。後者は、例えばこの回では、「秋、体育祭が終わった後くらい、運動部の活動が終わった後......」など、かなり限定した条件にしています。▲図11

さらには、竹宮先生が「演出とは何か?」を「再考うながし講義」として、誌面上で 講義も 。▲図12

次の課題にも西先生はもちろん投稿しますが、辛口は続き......。例えば
《こらこら、ぶったるんじゃいけねーのは、主人公ではなくあなたです》
など(笑)。本当に厳しい!▲図13・図14



しかし 、そんな中 、ようやく西先生がAを取ります。1986年9月号です。
《ようやくAをもぎ取ったね 。おめでとう。しかし、次回も応 募したまえ。これは命令だ》
竹宮先生に命令されたら逆らえないですね。▲図15


竹宮 いやもう、あきれますね(笑)。何だかその後のことを考えていないのが見え見えというか。今振り返ると恐ろしいと思うのですけれども、本当にそのときは西先生の作品が何とかなってほしいと、その一心なんですよね 。同じように 、例えば『週刊少女コミック』などでも審査員をしましたが 、そういうところでは大変おとなしいコメントしか私は出していません。それが『JUNE』の中では 、自分のそれこそホームグラウンドみたいに思っていたので、本音で批評したいというのがありました。同時期に『JUNE』では中島梓さんによる投稿小説を講評する「小説道場」もやっていましたけれども、そちらでもポンポン言っていましたから、私も負けずにみたいなところもあったのではないかなとは思います。また、『JUNE』に応募してくる人というのは自分と見ている方向が同じというのもあるから、安心して言えるというのもあったと思います。だからこのようなことになっているのだと思うのですが。

倉持 なるほど。で は西先生、これらの辛口コメントを当時どのようにお読みになっていたのかというところをまずうかがいたいなと思いますが。かなり厳しいことを言われていましたが、当時はどのような気持ちでしたか?

西 そもそもマンガを描いたのが初めてだったんです。だから、最初の一作目は、どうやって描くのか何も分かっていなくて、普通のその辺に売っている、学校の購買部とかで買える画用紙に、おそらく筆ペンで描いていたと思います。ペン先というものを持っていなかったし、インクも持っていませんでした。始めたばかりなのだから、いろいろ言われるのは当たり前だと思っていたのがまず一つ。
それから、高校を出るときぐらいに小学館で『プチフラワー』という雑誌で、そこでもコミックスクールというのが始まったんですね。たしか、4人の先生方が交代で審査員をされていて、その中に竹宮先生もいました。萩尾先生、竹宮先生、ささやななえ先生、それから木原敏江先生がいて、そちらの投稿欄にも、ほぼ同時くらいに投稿を始めたのではないかと思います。それ以前はコマを割ったマンガを描いたことがなかったので、毎回、毎 回 、授業を受けにいく感じでした。
そういう意味で、例えば投稿する前から3年描いていましたとかだったら、「え?こんなに描いているのにこんなに言われるの?」と思ったかもしれないのですけれども、何しろよちよち歩き出したばかりなので、何を言われても「ああ、そうなんだ」と思っていました。どちらの雑誌の投稿でもそんな風に思っていました。
『プチフラワー』で何か言われても、『JUNE』で何か言われても、「ああ 、こんなときはそうなんだ、ふうん」と。叱られても、「ああ、私は今、全体で言うとこんな感じで、今この辺に立っているのかな」という感じで、私は厳しいと思ったことはなくて。むしろ自分の名前が誌面に載るたびに、「私の名前が全国に」と思っていました。
私の地元に、『南日本新聞』という鹿児島の新聞があるんですが、中学校の時、そこにショートショートを投稿して、1000円分の図書券をもらうということがありました。お金はもらえるわ、名前も売れるわという気持ち良さにその時目覚めたのですが、それが「全国版に」と思っただけで高揚するものがありました。
また、当時 、竹宮惠子先生というのは 、ちょっと表現できないくらいの大スター 、押しも押されもせぬトップスターで。そのトップスターが「西さん」と言っているんですよ。叱られれば叱られるほど、「もっと」。「More西!」ですよ。もっと私を叱って、叱って。そうすると私の名前が全国にと、そういう根性でやっていたところがあるので、もう言われれば言われるほどうれしくて。「今回も怒られて西さんと言われている。うれしい!」という感じでした。

倉持 初めて描いたマンガというのが、『JUNE』への初投稿「子供の頃こういうことがあった」▲図6

参照という作品だったのですね。初投稿で「お絵かき教室」の冒頭ページに載った。たしかにこれは高揚するでしょうね。そして、描き始めたなら厳しく言われてもそれが当たり前だと。辛口コメントも全然気に留めず、むしろ喜んでいたと。

竹宮 密かによかったと思っています、私(笑)。

西 普通の人なら、多分、折れているところですよね。

倉持 そうですね。

竹宮 それをもしかしてマゾというんじゃ(笑)。

倉持 では、軌跡の続きを最後まで見ていきましょう。めでたくAを取った「太陽の下の17歳」という作品は、1986年11月号にて優秀作品として全掲載されています。これが恐らく商業誌に載った西先生の最初の作品かなと思われます。▲図16

この同じ号に、「お絵かき教室特別企画 マンツーマン夏期講習&座談会」という企画が組まれ、その様子が収録されていました。▲図17

この企画でお二人は初めてお会いになったのではと思います。そして、1987年1月号には「お絵かき教室」でずっと怒っていた竹宮先生が満面の笑みで登場します。
《めずらしく竹宮さんはゴキゲンです!!西桂子さんがナント立派にAの作品を送ってくれたから!!以前のハシにも棒にもかからないハンパなのとは大違いの完成品で「考え方をちょっと変えるだけで好結果が表われる!」というよい見本でした。他の生徒の諸君!西さんに負けず自己改革してがんばりたまえ!》
そのときのAの作品も全ページ掲載されています。この作品から、現在のペンネームの漢字に変更されています。▲図18・図19


その後 、西先生はずっとAの作品を取りつづけ、1987年5月号には
《西炯子さんは相変わらずAで、ほとんど免許皆伝第1号ということになり、そー。これは大変喜ばしい。どうしてマンガの描き方が分かっちゃったのか不思議です。今度インタビューしてみよう。実は感覚的に分かるんだけど》
とコメントしています。そのAの作品も同号に全ページ掲載されています。▲図20・図21


果たして西先生は『JUNE』にどの位の時期まで投稿を続けていたのか?見ていきましたら、1988年3月号の「お絵かき教室」で、西先生の卒業について書かれていました 。
《教室にほぼ皆勤賞のペースで 課 題と自由 作を投稿し続け、おまけに、『プチ・フラワー』にまで送っていた西炯子さんは、ご存知のようにJUNE作品のレベルも上がり、『プチ・フラ』でのデビューも決まりましたので、卒業ということになります。おめでとうございました♡他の人も西さんのエネルギーに負けないように投稿してくださいね。》
卒業までしっかり見届けているんですね。▲図22


竹宮 そうですね。ちゃんとした一人の漫画家に育てることができたというのが、私にはとてもうれしいことでした。『JUNE』に投稿してくださる方は大変たくさんいるのですけれども、やはり途中で描くのをやめてしまう人が非常に多かったということもありますね。このような感じで毎月、毎月やるわけですが、それを西さんのようにずっと続けてやってきてくれるということはほぼないですので、そういう意味で、ものすごく優等生だったのではないかと思います。私には最初からゴールが見えているわけです。勝手な、私が定めたゴールですので、そこに行く投稿者というのはほぼ 稀ですが 、そういう意味ですごく優等生だったと思います。最初がいかにCであろうとも(笑)

倉持 西先生は、そもそもなぜ『JUNE』に応募しようと思ったのですか?『JUNE』との出会い、読者として当時どのようにお読みになっていたのかというのもお聞きしたいです。

西 小学校、中学校、高校と一緒で、私にマンガを教えてくれた一歳年下の女の子がいるのですが、その子はずっとマンガの投稿を続けていて、マンガに詳しい子でした。その子がたまたま『JUNE』を購読していました。田舎の書店には並ばない本なので、どうやら定期購読し取り寄せて買っていたようで。それを学校に持ってきて、こんな雑誌がある、というふうにして見せてくれたのが、『JUNE』との出会いです。それをおうちに持って帰っていいということになり、家で最初から終わりまで、もう初めて見る雑誌なので、世の中にこんな雑誌があるんだと思って、なめるように何度も何度も最初から最後まで読みました。小さい字がたくさん詰まった、今の人なら読めないような小さなポイントの字も、小さいイラストも。本当に何度も何度。「そろそろ返して」と言われるぐらいまで読んでいました。
それを読みはじめて、1号、2号と読んだときぐらいに、私は高校を卒業することになるのですが、高校を卒業する前に『プチフラワー』のコミックススクールが始まるのと、それから『JUNE』の「お絵かき教室」が始まるらしいというのが告知で載っていたので、高校を出るし、新しいコミックスクールがどうやら始まるし、その片方はトップスターが1人で見てくれるというし。これは贅沢だなと。『プチフラワー』は4人の先生が交代ですが、『JUNE』では竹宮先生お一人が見てくださるというのがあって、とても魅力的でした。これは投稿するしかないと思い、マンガの描き方も知らないのに、両方とも取りあえず第1回目に送りたかったので、両方とも第1回目に送っています。どうせだったらデビューしたいなと思い、その後ずっと続けていたということです。

倉持 当時、おうちが厳しかったという話を先生のエッセイなどで読んだことがあったと思いますが、『JUNE』を持って帰っても隠れるようにして読んでいた、ということですか?

西 隠れるように、そうですね。布団の下にこうやって隠して。

倉持 見つからないように、隅々まで読んでいたんですね。そういう少女は当時多かったのかもしれませんね(笑)。竹宮先生は西先生の投稿作のどういうところを見て、「この人は辛口でいこう」というふうに思われたのか、覚えてらっしゃいますか。

竹宮 うーん、分からないですよね。それが本当に自然にそのようになってしまったということで、別の人にはめちゃめちゃ甘い評をしているんですよね。なので、この差は何なのだろうと、自分をとても不思議に思うところです。

倉持 それを見極められるのが本当にすごいなというふうに思います。ちなみに、「お絵かき教室」では、細かい課題が提供されていますが、こうした形は『JUNE』だけだったのでしょうか?

竹宮 『COM』の「ぐら・こん」とかでもそういうのがありました。私が新人で投稿していた頃にもそういうのがあり、ストーリーが既に決まっていて、舞台設定とかそういうものを投稿者が決めるという課題があり、今、有名な漫画家の人たちもたくさん投稿しています。そういうようなやり方を実際に見ていたので、『JUNE』でも課題を作れば、まだ物語を作るということがよく分かっていない人にもできるのではないかと思い。それなら話を最後まで作れない人でもできるのではないかなと思って工夫してみたという感じです。『JUNE』という雑誌は、私が要求すれば形をちゃんと作ってくれるような部隊でした。

倉持 課題は『JUNE』らしさみたいなものをすごく意識していますよね。

竹宮 そうですね。それはやはり『JUNE』という特殊な舞台だから、ある意味関心を持ってもらえるようにしました。

倉持 このコーナーの常連でほぼ毎回投稿していた西先生は、当時、学業と並行しながらの応募で大変だったと思うのですが、どんなふうにマンガを制作されていたのですか?

西 本格的に描きはじめたのは、大学生になって一人暮らしをしていたときの3年間くらい、集中して描いていたのですが、1年間分の手書きのカレンダーを壁に貼って、『JUNE』は2カ月に1回、『プチフラワー』は毎月20日くらいを目標に、ここ締め切り、ここ投稿締め切りと丸をして。

倉持 自分で決めていたのですね!

西 1年間分のスケジュールをその年の始めに全部書いて、赤で丸を付けていくんです。そして両方とも、投稿のためのB4の袋に住所を書いて切手まで貼って、あとは中に入れて投稿するだけ。当時は郵送していましたから、そこまで準備して、丸に向かって毎日、毎日、計画的に描いていました。それをずっと続けていっただけ。学校でクラブ活動もサークル活動もしていませんでしたし、学校から帰ってきたら4時くらいからずっとマンガを翌朝まで描いて、学校に行って、また4時に帰ってきて、マンガを描いてまた学校に行ってという生活をずっと4年間続けていました。

竹宮 すごいですね。

倉持 実は先程、控室で西先生の担当編集さんとお話したのですが、今、西先生は小学館で3誌も連載されているので、つい「〆切近くになって、原稿の取り合いになったりしませんか?」と聞いてしまったのですが、「西先生が全てご自身でコントロールされているので、そういうことにはならないです」という風におっしゃられていて、すごいなと思ったところでした。しかし、最初からそうだったんだなと!本当に驚きました。

西 おかしいですよね。考えてみたら女子大生が。当時はバブルのまっただ中だったのですよ。ちょっとでも「女の子」という立場を利用したバイトをしようものなら、軽く時給3000円稼げる時代だったのですよ。それくらいのバブルの絶頂の時期に、家の日の当たらない4畳半にいて、夕方から朝までマンガを描いている4年間って、お かしいですよね 。今もやはり生活がおかしいんですよ。家から出ずに、ずっと。勝手にスクワットしたりして、家の中で全てが完結するようにしていて、端から見るとそれはおかしいんですよ。元々変だったのかもしれません。

竹宮 いやいや、自分で設定して締め切りを守れるというのが、私的には。

西 そうなんですか。

竹宮 はい。担当さんにだましてもらわないと守れません。

西 本当の締め切りよりだいぶ前の。

竹宮 そうそう。早い時期に、「もうここで 落ちますから」と言ってもらわないと、駄目です。

西 では、割と頻繁に連絡を取ってもらったりする方がいいですか。

竹宮 それは必要なときだけでいいなと思いますが。でも、怪しいから向こうは心配で、ガンガンかけてくるみたいな感じになるわけです。私もそれがうっとうしいので、できたらすっきり定められたところに入れたいと思うのですけれども、ちょっとでも時間があれば、作品のために使いたくなるではないですか。

西 そうですね。

竹宮 だから、本当の締め切りを教えてしまうと、そこまでいってしまう。そうすると悪循環にしかならない。次の締め切りも遅れてくるし。だからどこかで遮断するためには、だましてもらうしかないので、そうしてもらったという(笑)。

西 一番お忙しいときは、月産どれくらいやってらしたのですか。

竹宮 一番多くて100を超えるか超えないか。140くらいですかね。

西 では、月に締め切りが4回か、4回以上のときもある。

竹宮 月2回締め切りが重なるみたいな感じですね。月刊が重なるから。『JUNE』というのはそこから逸脱した雑誌なので、またちょっと違う感じで出てくるみたいな感じでしたね。

倉持 『JUNE』は先生が毎号表紙絵を描かれていましたからね。

竹宮 そうですね。それは私の主張でもあったので。男の子を描かせてくれないですから、他の雑誌は。ストレス解消に描いていました。

倉持 竹宮先生は京都精華大学でマンガを教えていますが、「お絵かき教室」は 、マンガを教えるという点において初めての試みだったのでは、と思います。振り返ってみてどんな苦労ややりがいがありましたか?

竹宮 絵において、タッチするというのは難しいのですよね。確かに正しいことではあるけれども、パーツについて細かいことを教えたりするというのは、気持ち良く描いている人を面白くない方向に行かせてしまうということがあるので、モチベーションを下げないようにちゃんとしたことを入れるのは難しいなというのはすごく思いましたね。それは今でも同じですけどね、学生に対して。加減が難しい。

倉持 西先生は「お絵かき教室」で初めて商業誌に掲載され、きちんと原稿料も出たとおっしゃっていたと思いますのでそれがデビューという形かなと思いますが、改めて振り返り、そのときの心境とか教えていただけますか?もしかしたら、デビュー時点でファンもすでにいらっしゃったかもしれないと思いましたが、読者の反響などもうかがえれば。

西 読者の反響というのは私には直接は届かなかったのですけれども、原稿料を頂けたのはやはり大きかったです。当時は1万3000円で、源泉徴収で300円引かれて1万2700円ですよね。うちはお小遣いがなかったので、これでマンガの材料とかマンガがいっぱい買える、本をいっぱい買えると思うと、うれしくてたまらなかったというのがあります。

竹宮 私も最初の原稿料は、スクリーントーンになりました。スクリーントーンみたいなものを初めて買うっていう感じですよね。

倉持 お二人とも初めての原稿料はマンガを描くために使ったのですね。いい話です。先ほど、『JUNE』誌面で、竹宮先生と西先生含む優秀投稿者3人の座談会が企画されていたと紹介しましたが、この時の初対面の思い出もうかがえれば。▲図17

西 当時、先生がお住まいだったところは白亜の御殿で、先生が描かれるマンガのようなおうちだったんですよ。夢に見るような少女漫画家の。少女漫画家ってこんなおうちに住んでらっしゃるのだろうなと想像していたのが実際にそのままありまして、入ったら中二階みたいな所にグランドピアノが置いてある。先生は、「ほとんど弾かないのよ」とおっしゃったのですけれども、漫画家さんの家にピアノがある、稼ぐってすごいねと思いました。また、同時に最初に部屋に入っていくときに、「こんにちは」と言おうと思っていたら、「ちょっと待って。名前当てるわ」と言われたのですよ。それで、「あなたが西さんね」と言われて。「みんなやっぱり自分の描くマンガに顔が似ているわよ」とおっしゃられたのは、すごくよく覚えています。

倉持 この座談会は竹宮先生のご自宅で開催されたのですね。

竹宮 そうですね。

倉持 それはすごい。

竹宮 西先生がおっしゃっているピアノは、きっと増山のピアノです。グランドピアノですよね。だから、多分、そうだと思います。

倉持 増山法恵さん。当時、先生のブレーンでマネージャーもされていた方で、「変奏曲シリーズ」の原作者でもあります。竹宮先生はこのときのことを覚えていらっしゃいますか。

竹宮 3人で来てもらってお話ししたのは覚えています。そのときの編集長が京都精華大学で一 緒に教えている佐川俊彦さんですけど、その人が多 分、私の家に行けるということを売りにしたのではないかなという気がしております。

倉持 優秀者は竹宮惠子邸にご招待。

竹宮 ご招待。

倉持 それは頑張りますよね!西先生は『JUNE』でいくつか作品を発表し、『JUNE』を卒業という形で、活動の場を『プチフラワー』に移されています。しかし、『JUNE』の方にもたびたび作品は寄稿されていたと思いますが、他の商業誌と比べたときの違いや自身の作品に変化があったかなどありますか?

西 当時、『プチフラワー』はまだ歴史の浅い雑誌で、それこそ私が高校を卒業するときにコミックスクールを始めたくらいなので、作家さんも野心的な作家さん。当時SFがとても流行っていたこともあり、他の少女マンガ誌には載っていなかったハードなSFであるとか、ファンタジーの世界であるとか、他の少女マンガとは少し毛色が違うとか、はみ出るとか、だけどそういうのを読んでみたいと思う読者にとっては、「おお 、こういう雑誌がついに」と思うような雑誌でもあったのですね。いわゆる普通の、告白した、好きになった、キャーみたいなマンガは載っていなくて、少女マンガにしてはハードな。

竹宮 そうですね。ハードという言われ方もあるかなと思いますね。平和ではない話ばかり。

西 初めてそういう雑誌に出会って、高校を卒業するし、何かここなら私を受け入れてくれるのではと思ったのかもしれないです。「先輩 、キャー」みたいなのが描けなかったので。ここの雑誌だったら私にも少し場所がないかなと思って。そういう位置付けの、非常に珍しい少女雑誌だったかもしれないですね。

倉持 なるほど。『プチフラワー』自体がそもそも他の少女マンガ誌とは異質の、革新的な雑誌だったわけですね。つまり、そんなに違いを感じて苦労したみたいなことはなかったということですね。

西 そうそう。私の世界が、もしかしたらこっちに開けるかもしれないと思った雑誌だったと思います。

倉持 「お絵かき教室」から有名になった漫画家というのは、西先生も含め 、他にもたくさんいらっしゃると思うのですけれども、その後の活躍というのを竹宮先生はどのようにご覧になっていましたか。

竹宮 そうですね、『JUNE』でそれこそAを取って、ちゃんとそれが本に載る形になるということは、別に他のテーマでも、つまり少女マンガにふさわしいテーマであっても描けるようになるということと同義だと思っているので、そのまま『JUNE』のテーマばかりでやっていくというふうには思っていませんでした。だから、皆さん雑誌に合わせて自分の居場所を獲得していく過程をずっと見ていたというか、ああ、こんなものを描きはじめたのねというようなこととか 、そういうのは見ていました。

倉持 当時、編集長だった佐川さんも、『JUNE』を踏み台にして飛び立ってくれたらいい位の気持ちでやっていたと別のイベントでおっしゃっていましたが、実際に他の雑誌でデビューして、「卒業おめでとう」と祝う雑誌というのは、今、考えたらすごいなと思いますね(笑)。懐が大きいですよね。

竹宮 たしかに。『JUNE』はそんなにたくさんページ数を用意できないですからね。だから、本当に短いものしか描けないですよね、新人では。そういうこともあるから、どんどん他のところに出ていって、たくさんページを獲得して、毎月、幅跳びをしていってもらった方がいいかなと思っていました。

倉持 『JUNE』時代についてはまだまだ聞き足りないところもありますが、お二人の代表作や制作背景などについてもお話をうかがえればと思います。お二人の共通点は大変多作であることかなと思います。本当に様々なテーマで作品を描かれていますが、作品を描くにあたり、題材をどんなふうに決められているのかということと、また、掲載雑誌について、ジャンル問わず横断的に活躍されているなというのがありますが、雑誌の色はどれくらい意識して描いているのかという、この2点をお二人に聞きたいなと思います。

竹宮 私はいろいろな毛色の違う雑誌から依頼がある、依頼者が全く雑誌と関係ないところであるとか、そういうことにすごく興味を覚える方なんですね。作家にもよるとは思いますが、ずっと自分の色を一つに定めて、それをやり続ける作家、つまり必要とするのだったら描きますけれども色は同じですよというやり方もあると思いますが、私はできるだけいろいろな色のものを描きたいし、イラストも毎回、毎回、違う色使いで描きたいと思います。一番に自分が飽きてしまうので、できるだけ違うものに挑戦したいのです。そういうこともあって、全く違う雑誌からご依頼が来ると、それに合わせて自分がそこで足場を築けるとしたらどんな色合いのものかなということを考えながら作っていくので、その雑誌の中では自分は浮いてしまうかもしれないけれども新しい色が出せると思ったらそのタイプでいくし、そうではなくてそこになじむ話を自分が描けると思ったら、なじめることをポイントに描くということもあります。

倉持 最初にこういう作品が描きたいと思ったとして、この作品ならこの雑誌だろうというふうに決めることはありますか?それとも依頼ありきで、この雑誌だったらこれだろうという感じなのか?

竹宮 依頼がないと基本的に描けないので、自分に見合う雑誌を自分から決めるということは、私の場合はないです。人によってはあるかもしれませんけれども、私自身はなくて、依頼が来て初めてそことのセッションを考えます。

倉持 西先生はいかがですか。

西 私はマンガを描く上において、キャリアが二部に分かれている気がします。初発の動機というのは、自分の中にある整理されないものを表現していったら、というところから始まる。若手の漫画家は、多分、小説家の方も、クリエイターの方も、自分の内部衝動とか処理し切れないものを「こうなんだけどさ」と言いながら拙い絵で見せていく、表現していくということからスタートするのかもしれません。
私はそれを随分長くやっていって、それで評価されたというところがあるんですが、自分の中の問題というのは大人になるうちに整理されて、世の中はこうだ、人はこうだ、私はしょせんこうだ。しょせんと言ったらあれだけれども、私はこうだ、人はこうだというのがだんだん自分の中で分かるようになってきてからは、自分の内発的なところに題材がなくなってしまったなというふうなことを、30歳ちょっと過ぎるぐらいに感じはじめて、それからちょっと辛かったのです。
何を描いたらいいのかが分からなくて。当時、小学館では、私はデビュー以来ずっと担当編集という人が付いていませんでした。担当が付いたのは今から14年ちょっと前です。担当編集がデビューからずっといない状態で描いていたので、「これを描いたら面白そうよ」とか 、そういう提案は全くなくて、「次は何描くの?」と編集の人に言われて、何を描いたらいいんだろうという状態が結構長く続きまして。その間、色々な壁にどかんどかんと、ぶち当たっていっている時期がありました。
内発的なところから描くマンガというのはやはりとても魅力的で、若い人のエネルギーであるとか、多くの人が言語化できないけれども「あ、これ分かる!」というところを描ける時期というマンガはとても魅力的です。それを捨てるにしのびない。けれども、もうここには私の動機がないという時期が、多分、10年くらいありました。
そこからもう駄目だと思って、内発的なところではなくて、例えば、こういうリンゴが欲しいから、こういう糖度20度くらいのリンゴを作って、この時期に出して、お客さんはこの地方のこういう人というふうな感じで、注文に応じて作るというか。自分の持っているもの、今まで蓄積したものの中からこういうものがありますけれども、これはどうでしょうか、これは商品になりそうでしょうかというようなことで提案し、ではそれを商品にしてみましょうか、大体年齢層はこれで、性別はこんな感じで、部数はこれくらい出ていますよ、今こういう話を描くと面白いかもしれませんねという形で、発注者とこちらの持っている材料とを合わせて、オーダーメイドで作るようになったのが第2期です。これが40歳になる頃だったと思います。
それくらいから、私は明らかにマンガを作る動機が変わっておりまして、発注があって、例えば100を求められたら120ぐらいで返すことを目標として描くようになったのが、ここ10年ちょっとです。多分、私の場合は、ここ10年とそれまでの20年近くでは、雰囲気が変わっています。

倉持 なるほど。面白いです。西先生の作品の変遷には、そうした動機の変化があったわけですね。竹宮先生は、そういうシフトした時期はありますか。

竹宮 私自身は最初から注文されて描くものという漫画家の形態に、基本的に、はまっていこうとしたタイプ。だから、注文があることに対して応えようという方向性しか最初はなくて、周りの人が内発的なものをたくさん描くようになったので慌ててしまったというか。そうでなきゃいけないんだ、作家というのはそういうところがなければという気持ちに、途中でなったのです。

西 え?

竹宮 デビューして3、4年ぐらいしてから、そういうふうになったのです。内発的なものを持って出てきたわけではないのです。基本的に生活に不満というか、何かイライラしているとか、何かに怒っているとか、そういうものを持っているわけではないタイプだったので。別に普通に、社会的にもというか、家族の中でも別に何の問題なく過ごしてきたので、不満もなかったから、叫びたいことというのもなかった。逆に言うと、自分の中にそれはないのかとわざわざ探す、そういう感じでした。だから、今聞いていて、普通はそうよね、私、変だよねって(笑)。

西 動機はさまざまですよ。さまざまですよ、先生。

竹宮 私は逆にそれを自分の中で探したのです。だから、本を読むことが足りなかったのかもしれない。他の人はもっとたくさん本を読んでいたりして、いろいろ内省的なことを考えているということがあったのだろうけれども、私は幸せに過ごしてきたのでなかったみたいなところがあって、後から勉強しましたみたいな。だから、「風と木の詩」とか「地球へ・・・」を描いている頃には、ようやくそれをどうやって出せばいいのかが分かってきたという感じですね。プロになってから1、2年でそういうことに悩みはじめて、そのあと3年間くらい、出すもの、出すもの、気に入らないわという時代を過ごしたので。だから、その頃は「自分の内面って何?」みたいな状態だったんだと思います。

倉持 お互いに同じ悩みを通過しているけれども、その時期が真逆。

竹宮 作家になるために、どこかしらでそれは必要なのだろうなと思います。でも、それを持っていることが普通なのに、自分が持っていないということに気付いて慌てる人は、あまりいないかもしれないなとは思います。

倉持 お二人の共通点でいうと、作品から「これが萌えである」ということがはっきり示され、教えてくれると思います。作品からそれをすごく感じるんですよね。竹宮先生だったら、もちろん「美少年」というところを開拓されましたが 、例えば、「ウィーン少年合唱団」がこんなに萌えるものなのかというのを教えてくれたり、対する西先生は、「おじさん」ではなくて「おじさま」の魅力に気付かせてくれた作家だったと思っています。萌えポイントを描くというのは実は非常に難しいのではと思います。自己満足に描いて終わってしまう人がとても多い気がしますが、お二人の作品はこれまでそう思っていなかった読者にも共感させる、目覚めさせる、というようなことがあると思います。そういうポイントを描くコツみたいなものがあれば、教えてください。

西 私の場合は、男性の好みということで言うと、他の人と少し違っているというのが、自分でも昔から気になってはいたのですよ。私が「あの人いいよね」と言うと、みんな「ええ?」「何で?」と。「いや、何でとまで言われる?」のというようなことがあって。どうやら私が好きな、特に男性というのは、一般の女の子にはちょっと受けが悪いぞということが、マンガを描きはじめた頃から自分の中ですごく問題になっていました。私が好きなタイプの男の子を描こうと思うと、それが一般の女の子にあまり受けないというところが、「娚の一生」の方でずっとあったんですよ。ずっとあったんですが、あるとき年上の方と恋愛をして、失恋をして、失恋したんだからお金で取り戻そうかなと思い。元を取らないと失恋しただけ損ではないですか。そう思って。本当にその方のことが好きだったのですよ。だから、多分、コツがあるのではなくて、本当に愛があったか、なかったかという、そこにかかっているのではないですかね。私の場合はコツというのは多分なくて、愛だけです。

倉持 竹宮先生はいかがですか。

竹宮 私は説明したいタイプです。とにかく私がこだわっているものを、できるだけ説明したい。分かりやすく、誰でも分かる方法で、どうすればそれができるのかと考えていると、エピソードができてしまうみたいな。

西 竹宮先生の男性の趣味は、割とイケメンですか。

竹宮 いや 、そうでもない。

西 女の子受けのいい男性が好きとか。

竹宮 それはあまりないですね。どちらかというと、変わったところに目を付けるというのはあります。でも、いかにそれが魅力的かということを。例えば、「風と木の詩」のパスカルみたいな登場人物をいかに魅力的に、魅力として分かってもらうかということに工夫を凝らすのです。そうすると全然違うエピソードが生まれてくるので、分かってもらう形をつくるというか。

倉持 では、竹宮先生の場合はかなり戦略的に「これがいいんだぞ」と。

竹宮 そうですね。

西 自分の好みに絶対的な自信がある。

竹宮 うーん、好みはみんなそれぞれだということは基本として分かっていて、だから私が思う魅力も魅力でしょというところがあって、それをきちんと説明したい意欲に駆られるというか 、どちらかというとそんな感じですね。

倉持 例えば、先生が「こんな男、嫌だよ」というキャラクターがいたとしても、その人の魅力を描くことも?

竹宮 「風と木の詩」でいえば、皆さんの嫌いなブロウとか、ジルベールをいじめる大人のキャラとか、そういうものを描くときに、嫌さ加減というのを魅力として描いてしまうというところもあります。気分の悪さというものをいかに描くか。それが明確であればあるほど作品の魅力にはなると思うので。そういう感じですね。

倉持 竹宮先生の描く悪役は、嫌悪感だけじゃない、魅力を感じてしまう部分がありますが、そういうことが意識されていたのですね。単純な質問になりますが、お互いの作品で、一番好きな作品は何でしょうか?

竹宮 私は西さんの初期のマンガですね。不自由な感じがすごく好きなので。

倉持 『JUNE』に投稿していたような初期の作品ですか?

竹宮 はい。天使のキャラが好きですね。

倉持 他にも「ひらひらひゅ〜ん」なども、お読みになられていたと。

竹宮 はい。「ひらひらひゅ〜ん」って何?と思い、連載しているときにちょっとのぞいて、あぁ弓道だと思って。私は弓道がすごく好きで、大学のときにクラブに入ろうと思って説明会に行ったことがあるんですよ。試しに行って、弓を引いてみました。それで「無理、帰ったらマンガが描けない」と思ってやめました。

西手 が震えてしまうんですよね。

竹宮 そうですね。そうした経験があってですね。弓道に関しては、ずっと関心があるんですね。だから読んでいました。

西 ありがとうございます。すごくうれしいです。

倉持 西先生は弓道をされていたのですか。

西 はい。中学校の教員をやっていたときに。部活動の顧問というのが回ってくるんですが、それで弓道部の副顧問というのをやらされまして。先生が顧問になるためには、始めたばかりの人でも、一応、初段をあげるのですよ。指導する先生のための講習会みたいなものが常にありまして、そこで試験を受けさえすれば、初段というのが与えられるのです。それで初段を取りまして、生徒たちとやってみて、何と面白い競 技だと思い、数年はまっていたことがありました。

倉持 ちなみに中学校の教員は何年ぐらい続けてらっしゃったのですか。

西 不合格になって、本採用にならずに講師というものをしていたので、その時期を含めれば丸々3年くらいはやっていたと思います。

倉持 では、学校の先生をしつつ、弓道部の顧問もやりつつ、マンガを描いていた。

西 はい、描きつつです。赤い丸を付けつつです。

倉持 よく両立していたというか、マンガに対する情熱がすごいです!

西 若かったからですね。

倉持 竹宮先生のように、弓道をやっていたら、マンガを描けなくなるとは思わなかったのですか。

西 あれは慣れなので、筋肉ができてくれば大丈夫です。

倉持 西先生が好きな竹宮作品は何でしょうか。

西 「マンガを読むのは駄目」という家庭だったので、自分で単行本というものをほとんど買ったことがなくて。だけど、友達が買っていた『週刊少女コミック』に「風と木の詩」という何か怪しげな作品が載っていて、怪しい蜜の味があるに違いないということで、友達のおうちに行ってはそのページだけをこっそり見て、ああ、蜜の味と思って(笑)。でも、買うお 金もないし、借りて持って帰ったら母親に怒られるしと思い、いつかまとめて読みたいなと思っていました。
それで大学に入り、自分でお金を稼げるようになったときに単行本を大人買いしました。一気に買って、それで初めて竹宮惠子先生という方の作品をドンと浴びました。それで、途中から読むペースをあえて落としたんですよ。なぜなら、早く読んでしまうと終わってしまうと思って。5巻ぐらいまで 読んでからもう1回1巻から読んで、ノーカウントにして、1巻から5巻までもう1回読んで、あとはちょっとずつちょっとずつ飴をなめるように(笑)。
なめていて、読み終わってはまた少し戻りという読み方をして、最後にたどり着いたときに、当時、私は山梨県の日の当たらない4畳半に暮らしていたのですが、私は今、パリにいると思って(笑)。パリで焼き栗を食べている気持ちになったんですよ、本当に。おなか空いた、焼き栗と思うほどに、私はその世界に生きていたと思います。
あれは本当に私の青春において、内省的というところもあったし、人と人との愛って何よっていうことに18、19、20歳で目覚めはじめて、大学生のときは暇なので、人が出会うこと、愛って何、気持ちって何、感情って何ということをここまで描くの!と思った作品です。マンガを大量に読みはじめて、最初に心にドンと突き刺さった物語で、忘れられないです。だから、その方が、私を『JUNE』で叱るんですよ。これはもう「モア!」ですよ。

倉持 それはたしかに快感になりますよね(笑)。イベント前に西先生には、「竹宮惠子カレイドスコープ」展もご覧頂きましたが、風木のコーナーは特にじっくりご覧になっていましたね。ご覧になられてどうでしたか。

西 あのとき味わった飴の味を思い出す感じで、ああ、こんな気持ちで読んでいたと。特にカラーのものを見て思い出しました。今はデジタルでいくらでもきれいな絵が目の前を左から右に通過していきます。それもきれいですが、当時、手書きで、塗料で描かれたカラーの絵は、そのとき時間があったということもあるのですけれども、ただうっとり眺めてはその世界の中にふわっと入り、閉じて時間がたったらまたもう1回見て「きれい」と。そういう時間があった。その時間が何と甘美だったことよ、と。展示を見て思い出しました。

倉持 展示会場にはそういう人が何人もいますよ。きっと当時の気持ちになっているのだろうなと思います。

西 懐かしいというのもあるかもしれませんけど。あのとき印刷で見たあれが、今ここに、なんですよ。セリフまで全部言えるから、頭の中で行ったり来たりして。

倉持 ぽわんと、世界に浸っているような甘美な時間が展示には流れています。お二人に聞いてみたかったのですが、ライバルと意識されている先生はいらっしゃいますか?昔でも今でもかまわないのです。

西 その時々に、3、4年に1回、歯がみするまでと言うと笑われるのですけれども。今はそれがコナリミサトさんです。

倉持 「凪のお暇」の作者ですね。

西 そうです。私は文化庁のマンガのメディア芸術祭のマンガ部門の審査員を去年からやっていますが、凪推しだったのですよ。すごい凪推しで、こういう人が現れたからには、私はもう少女マンガは描けないと思ったぐらいショックを受けて。その数年前には藤村真理の「きょうは会社休みます。」も。数年に1回、「あんなのやりたい!」という作品が現れるんですが、自分のマンガしか描けないしと思って、ぼそぼそ描くだけなので。だから 、ライバ ルというか、時々、「うー、私には描けない!」とイライラする人、巨大な才能がボンと現れますね。

倉持 竹宮先生はいかがですか。

竹宮 私なんて「自分の絵が嫌い」と、ずっと言い続けて。

西 何で。どうして。

竹宮 いやいや、自分の絵って、どうしても自分が出てきてしまうので、それが嫌になってしまうんですよね。それが嫌いだったこともあって、自分の絵を好きな人がうらやましいなと、ずっと思っていて。いろいろな人に聞いて回って、萩尾望都さんにも聞きました。

西 何ておっしゃったのですか。

竹宮 「好きですよ」と。

西 そうですか。

竹宮 「それが普通でしょ」と言われたけれども、私はそうじゃないし、と。そんな感じで、周り中ライバルだらけですよね。自分が全然持っていない、少女マンガのらしい雰囲気みたいなものを持っている、大島弓子さんとか。めちゃめちゃいいよねと思って。自分には全然描けないんだけどみたいな。そういう意味では本当にたくさん周りにいて、時代ごとにももちろんいるし、誰ということなく、この人のここに嫉妬するみたいな、そういうのはありますね。

倉持 自分には持っていないものを羨むわけですね。

竹宮 そうそう。そういうものを見ると、私には描けないなと思うと、やはりうらやましい。そういうのはありますよね。手塚治虫先生とかでも他の漫画家に嫉妬したという話もありますし。

倉持 そういう嫉妬心は重要なのかもしれないですね、マンガを描くのに。

竹宮 手塚先生のおかげでそれでもいいんだと思ってしまったところもあります。嫉妬していいんだという。

倉持 最近のお仕事についても伺っていきたいなと思いますが、まず西先生は、現在、「初恋の世界」「たーたん」「恋と国会」などを連載されていますが、この作品たちはどのような経緯で描こうと思ったのでしょうか。

西 「初恋の世界」については、最初に「娚の一生」を始めたときに担当されていた小学館の男性の方の言葉がきっかけです。
ちょっと冗談で、「姉の結婚」の連載開始したとき、地方に戻ってきた女三部作をやろうみたいなことを言っていて、三部作をもって完結にしたら、前の作品で書き残したものを次の作品でまた描けるのではないか、東京から帰った女シリーズを3本描こうよという軽口から、始まったのが「初恋の世界」です。
「たーたん」については、できれば私はいろいろなマンガを描けるようになりたかったんですよ。別に卑下しているわけでも何でもなくて、私は才能型ではなくて特性でやっていくタイプだなと思い。なので、自分の特性を生かすためには、いろいろなところに描いて、いろいろな読者の方に読んでもらいたい、ジェネラルに描ける漫画家になりたいなということを今から10年ちょっと前に思いまして。
「小学館頂上計画」と私は呼んでいるんですが、『ビッグコミックオリジナル』で描いて、『ちゃお』でも描いて、という夢が実はあり、この二つをやったら小学館は制覇だなと(笑)。キャリアの割にそれをやりたいというのがあって、そのときに担当していた編集が、同期に『ビッグコミックオリジナル』の編集がいたので、「西というのが青年誌に行きたいと言ってるんだけどどう?」と橋渡しをしてくださって生まれたのが「たーたん」です。
「恋と国会」につきましては、最初は少女マンガとして女性が総理大臣になる話は面白いのではないかなと3、4年ぐらい前に考えついて、その話をしたら『ビッグコミックスピリッツ』が「青年誌でやりませんか」とおっしゃっていただいて。「女性が総理大臣になるのではなく、男性誌だから男性がなる話にしない?」というような話をしながら、「うちでやりましょうか」というようなことで始めました。

倉持 三部作と先ほどおっしゃっていましたが、「初恋の世界」「娚の一生」「姉の結婚」は、アラフォーの女性の心境がすごくリアルですね。かと思えば、他の作品では、思春期の女の子だったり、男性目線の心境だったりがリアルで。色々な立場の人間の姿が生き生きと描かれています。そうした人物たちに共感している人は多いと思いますが、読者の反響など、印象的なことはありますか?

西 生々しい反響は伝わってこないのですけれども、「たーたん」みたいなものを描いておりますと、お子さんを持っていらっしゃる、特にお嬢さんを持っていらっしゃる男性の方から「あれ読むと駄目なんだよ」という話をされて、そのときに、ああ、心に届いたなという感じはあって、そういうときはうれしいですね。

倉持 「たーたん」は、私は逆に女の子の方の気持ちに寄せて読んでいる部分が大きかったですが、この作品のメイン読者はお父さんですもんね 。そうした方にもきちんと届いている。竹宮先生は、今回の展覧会に描き下ろしもたくさん提供してくれましたが、大学の様々な業務、国際マンガ研究センターのセンター長にマンガ学会の会長など、本当に多数のことをこなしながらの執筆だったと思います。どんなふうに制作の時間を設けられているのかといつも不思議です。

竹宮 合間を縫ってとしか言いようがないんですけど。

倉持 合間があるのか?と思うほどお忙しいですよね。

竹宮 合間は作るしかないので、作って描いています。ワンコの運動をさせながら、それが終わったらまた描きに戻りみたいな感じでやっているのですけど。何かの長をやらなければいけない年齢になってしまったということもあるし、立場上、様々な会議にどうしても出なければいけないということもありますが、描くということに関しては嫌いで はないので、何か提示されると「じゃあ描いてみる」ということはやっています。ほとんど半リタイア状態なので、マンガ誌に連載するとか、今すぐにそこに戻ることはとてもできそうにもないけれど、何かを描くということに向かうのはすごく好きなんですよね。だから、必要が生じると、例えば新しい本を出したりするときに「こういうものを描かない?」と言われると、「では描いてみましょうか」とか。また、今回の展示がきっと最後の大きな展になるのではと思ったので、「面白い試みで何か描いてみようか」みたいな形で描いたりしているということはあります。でも、それは特に予定された日があるわけではないので、何となく無理やり食事の間とかに。

倉持 最新の著作では、『竹宮惠子スタイル破りのマンガ術』という本を出されていますが、京都精華大学での講義の様子もかなり細かく再現されていて、とてもおもしろかったです。今年度で京都精華大学を定年退職される予定で、教授生活にも区切りをつけられるかと思いますが、マンガを教えるということについて、改めてどうだったかというか、お考えをお聞かせいただければなと思います。

竹宮 教えるということが好きだなと思います。どのような機会でも、あれば教えてみたいですね。全く初めてマンガを描く人が対象でもいいし、例えば留学生で日本語がまだあまりよく分からない人でも、マンガを教えるということにおいては同じだと思っていて、必ず何か一つでも分かったということがあってほしいという姿勢で教えています。逆に言うと、どのような人が前に来ても教えることができるのでは、と今は思っています。その人の程度にふさわしいものを教えていかないといけないので、相手次第だとは思うのですけれども。本に講義の様子を載せたのは、「授業でどんなことを教えているのかについて取材をさせてください」と言われたので、それなら見に来てそれをそのまま掲載しては、と提案をしました。去年の後期の最後ぐらいの授業でしたが、一人一人の作品を全部みんなに見てもらい、その上で物語をすべて板書し、流れを追い、この部分の描写が足りないからもう少し入れないと、みたいな小さな評を入れていくといった内容です。本人が、何がなくてはならないかが分かってくれればそれを直すでしょうし、その辺はちゃんと伝えるということが大事なので、分かったかなということをとにかく確認したいというふうに思っています。学生も本に載るならうれしいと言ってくれたのでそのまま掲載しています。

倉持 竹宮先生の授業を受けたことがない人にとっては、こんなふうに進めているのかと興味深く読めますし、描く人にはもちろんですが、この本はマンガを教える立場の人にとっても参考になる一冊ですね。西先生は、今たくさん連載を持たれていますが、アシスタントの数とか、月の生産数はどれくらいで、制作過程のどの部分に一番時間がかかるとか、教えていただけますか?

西 アシスタントについては、アシさん用の机が二つしかないので、最大2人です。この机にローテーションで4、5名の方が次々入れ替わるというような形で回しています。月の生産量としては 、多いときで100枚近くになるかもしれません。でも、大体は60−70枚くらいで推移しているのではないでしょうか。

倉持 一番時間がかかる工程はどの部分ですか。ネームが一番かかるとか、ペン入れとか。

西 特に一番かかる、というのはありません。一回ネームにかかってしまったらいつもの流れ 、ルーティン作業で、ネームが26−30枚であれば、本当は1日でできるんですよ。本当は1日で、7、8時間あればできますが、プロットに1、2時間 、ネームに、これはセリフとコマを割る仕事で大体4、5時間。それで翌日に、今度はそこに絵をざっと入れていく仕事が大体2、3時間というふうに決めてあります。
ですから、本当は、ぎゅっと詰めれば7、8時間くらいで終わってしまうものですが、マンガを描き終わって、次のマンガを描くまでの時間をちょっとでも休養に充てたいから、ネームを本当は数時間でできるところをばらして3日でやるというふうに決めているので、急がずに、どんなに次の工程に入りたくても我慢して、今日はプロットだけ描いてというふうにして。1日に作画の時間は朝10時から夜6時か7時までと決まっているので、その間に大体目標として、例えば、背景でいうと1日8枚というふうに決めて、大体この日ぐらいまでに背景が全部終わる、仕上げまで含めるとプラス2日でこれくらいとして、それ以上のオーバーワークはしないようにしています。なので、どこが一番というところはないです。一回ベルトコンベアに乗ったらずっと、いつもと同じ作業工程を続けるだけという。

(会場ざわつく)

西 何でざわざわするのですか?

竹宮 そんなにできないからですよ。決まっているではないですか。

西 基本的に、おにぎりを詰めていくような感じですよ。

倉持 ここで終わりにしようと思ってもできなくて、どんどんずれていく、というのが普通ですよね。

竹宮 すごい計画的ですね。

西 工場みたいな感じです(笑)。

倉持 アシスタントの話を聞きましたが、西先生自体がアシスタントをしていた話も。先程、館内を巡り、西先生が「私、この人のアシスタントをしてたんですよ」とお話されていました。猫十字社先生のアシスタントをされていたとうかがって。ちょうど単行本があったので、西先生が「私、ここを描いた」というところを教えてもらいました。

西 当時、山梨県で大学生活を送っていたところ、当初の編集長から隣の長野県で猫十字社さんという、うちで連載してらっしゃる方がいるんだけれど、急遽来る人がいないかということで、確か2泊ぐらいで出掛けたと思います。それで覚えているのが、この波を描いたことです。波を描いたことと、お洋服のVUITTONのマークをひたすら手書きでお願いと言われて、VUITTONをひたすら描いたことを覚えています。それでお金をもらって帰りました。

倉持 こういうトーンがあるのかなと思うぐらいびっしり描いてありますよ。

西 懐かしかったです。

倉持 先程、文化庁メディア芸術祭の審査員もなさっていたという話もされたと思いますが 、今日は『JUNE』で審査される側の話をたくさん聞きましたが、マンガを審査する側としてどんな苦労、楽しさがあったのか、もし何かあれば教えて下さい。

西 私は去年初めてその仕事を拝命しまして、今年もやるのですが、やはりお国の事業というところがあって。「これは文化庁の賞を与えるのにふさわしくない」というワードが時々出てくるのですよ。それに限って私が「キャー 、おもしれえ」と思う作品で。
だから、「磯部磯兵衛」みたいな作品は、私も迷わず大賞と思うのですけれども、「これはちょっと文化庁から賞をやるのはな。他の賞ならもらっていいけど」という話になるんです。
例えば、私は「凪のお暇」と同じくらい「生理ちゃん」を激推ししていました。大賞もらっていいくらいだと思っていて、全世界の男はこれ読めと思ったのですよ。だけど「これは絵がちょっと... ...」とか言う人がいる。「ちょっと国の賞を与えるにはな」というので、結果、減点できないものが大賞になる。
「何が何でも私はこれが好きだから」というのではなくて、「ああ、これは完璧ですよね。減点できないですよね」というものが賞をもらってしまうことになるのが、つまんねえな 、とは思います。
例えば、昨日も担当編集と話していたのですが、マンガってこれから何が大事かと思ったときに、「俺は何と言われようがこれが好きなの、他の人が嫌いでもこれが好き!」というものが一番強いし、それをみんなが待っているのだと思うという話になったんです。何か自分の心にずんと入ってきて、差し込んでくれるようなもの、心に穴を開けてくれたり乱したりしてくれるようなものを、描く側もドンと持ってこなければいけないし、それは企画とかそういうことではなくて、「俺の好き」「私の好き」というものを、グイッと押し付けていくことではないか。読者の方もそれを求めている。「分からないけど心が動く」というようなものが、これからマンガには必要なのではないか。
そうと思ったときに、もう少しお役所側が与える賞もそういうふうにならないかなと思いました。お役所でやる人というのはしょせん高学歴のエリートなんですよね 。マンガみたいなものから「心がこっちへ持ってかれた。俺どうしよう、どうなっちゃうの?」という経験がないまま役人になったのでしょう。「ああ、マンガね 。はいはい。お母さまが読むなと言うので」みたいな、そんな感じで来られた方、作ったものによって心をどうしようもないほど持っていかれてしまったとかという体験がないまま、予算が付きましたのでこれを粛々と執行させていただきますみたいな感じでやっている方が相手だと、つまんねえなーとは思いますね。
去年、審査員をされてみてどうですかというのがあったから、3000字ぐらいの大論文を送りつけました。こんなの販売促進にも結び付かないし、選ばれている作品は、うーん......。「凪のお暇」はいいよ、「凪のお暇」と「生理ちゃん」はいいんだけど、何かなという話をしたんです。こんなことを国民の税金でやるんだったら、やらない方がいいと思うのですが......と書いて、これで私はお役御免だなと思ったら、「もう1回来年」と言われたので、「私の論文を読んだ?やめようって私言ったんだよ」と。そんな経緯がありました。なので今年もやっています。

倉持 竹宮先生いかがですか。審査するということは。

竹宮 私のときには幸せなことにというか、そういう問題作というのは目の前になかったので、これを推さなければと思うものがありませんでしたけれども、もしそういうことがあったら、やはり争うというのはなかなか大変ですよね。何とかしてそれを押し込もうという努力はするわけですよ、そういうところでは 。ただ、本当にうまくいかないことが多いので、そういう世界では。やはりお国のお仕事だなという気はすごくしますね。幸いにして私がやっていたときにはそういうことがあまりなかったので、割と妥当に決まりましたけれども、もし普通は選ばれないようなものが上がってくると、そこでどう決めるかというのはあります。もちろん手塚賞とかそういうものだって、手塚治虫の賞であるということがすごく重要な部分ですので、それを感ずるものとして考えるということは、1回はありますよ。そういう意味で○○賞という名前は付いているわけですけれども、皆さんその賞の意義とかはあまり考えられないと思うのですが、私自身の中ではちゃんと認識されるものではあるなと思います。だから、難しいことがなくてよかったなと思っています。

倉持 最後に、お二人にこれからのお仕事についてお伺いしたいと思います。今後こんな作品を描きたいというようなことをお答えいただける範囲でかまいませんので、教えてもらいたいなと思います。あるいは、この作品の続編を描いてみたい、といったものがあれば、教えてほしいなと思います。

西 先ほども申しましたが、できれば、ジェネラルな描き手になりたいなと思っていて、小さい子が読むマンガも描けるし、お年寄りが読むマンガも描けるし、私たちマンガを浴びるほど読んだ世代も孫がいる時代にもなってきますから、読み癖が付いている方々の年齢がどんどん上がってくる。そういう方々のニーズに応えるというか、そういう方々の心をどこかに持っていくような、「あなたたちはこういうものがあればいいでしょ」ではなくて、孫がいる世代になっても心を持っていかれるような、ズキズキするようなものを描いていきたいというのがまず一つあります。
それから、今朝教育テレビで「ピングー」を見ていて、本当に今日思い付きました。また「なかよし」で連載しようかという話になっているのですが、セリフのないマンガってやったことがないなと思って。
「ピングー」は何を言っているのかが 何となく分かるというか、お話が全部分かるんですよね。素晴らしいなと思って、久しぶりにEテレを見て勉強になってしまって、セリフのないマンガを描いてみようかなと。まずはそれを子供に読んでもらって、人の心を伝えるのに言葉ではなくて絵だけでストーリーを伝えられるという、マンガの最初のところに戻っていこうかなと、今二つ考えています。ジェネラルに全部描けるというのと、セリフがないところで誰が見ても分かるものが描けないかなと。二本立てです。

倉持 竹宮先生はいかがでしょう?

竹宮 私はまだ具体的にこういうものを描いていきたいとかというのはないのですが、いったん一線を離れているので、逆に言うと提案的なものをいろいろ出していきたいなと思っていて。今は雑誌の上で発表しなくても 、何とか個人でも発信できる 時代なので、そういうことでちょっと試してみようかなと思っているところです。だ から、どんな形になるのかも、自分ではまだまだ想像ができないのですけれども、やってみたいと思っています。今、マンガの読みの話をされていましたけれども、トニー・ヴァレントさん作の「ラディアン」というマンガがありますよね。フランスで活躍する漫画家が、BD作家が日本風の描き方でマンガを描いて、日本でも出版しているわけですが、その中にあるオノマトペの描き方が変わっていて、オノマトペは日本語でないと表現できないものがたくさんありますが、その人は自分なりの工夫で、自分だけの文字で表現しているのです。だから、音ではないのですよ。日本人が読んでも、世界中の誰が読んでも、それははっきりした音にはならない。だけど、その人が表したいものを、「ピングー」の言葉のように描いてあるというマンガなんですよ。私も「ああ、これフランス語じゃないんだ」と思いながら見ているわけですが、それをどのように皆さん読むのかが知りたいというところがあって。フランス人が描いているのだけれども、フランス語ではない文字で、日本の文字でもない。音を示したり状況を示したりするオノマトペが描かれているけど、オノマトペがないと感じが出ないというか、スピード感が出なかったりいろいろするではないですか。そこに自分なりの工夫をしているわけですよね、その人は。そういう変わったことができるのではないか、マンガはまだまだ開発できるような気がしているので、そういうことをやってみたいなと、ちょっといろいろ思っています。

倉持 ありがとうございます。ちなみに、西先生が竹宮先生にこんな作品を描いてほしいというものをお聞きしたいですし、竹宮先生から西先生にこんなのに挑戦してほしいわというものがあれば聞きたいと思うのですが。

西 まさに今お話になったようなものを、見たことがないものができるような気がするので、それはぜひとも。

竹宮 はい。そんなものを作ってみたいなとは思っているのですけれども、どういう形でできるのか、今は全然、頭の中に具体的にあるわけではないので。

西 ある日忽然と、ああ、これだと出てきたりしますから、そんな感じでよろしくお願いします。

倉持 竹宮先生はいかがですか。

竹宮 久しぶりに、自分の中から出てくるヒリヒリしたものというのを描くというのはどうでしょうか。

西 実はそれもやりたいのです。『月刊flowers』では恋愛を描くと私は決めているのですが、そこからはみ出すものについては青年誌さんの方で描けないかなと。ドキドキではなくて、ズキズキもするものを描けないかなと。大人にならないと分からないところとか、そこを描けないかなというのも実はあります。

竹宮 何かヒリヒリする、傷口に塩を塗り込む感じの(笑)。

西 大人になったからこんなに痛いわという。子供は分かるまい、この痛みという。

竹宮 そういうものをちょっと期待したいなと思います。

西 ありがとうございます。

倉持 ありがとうございました。これからのお二人の作品を楽しみにしたいと思います。フロアの皆さんからの質問をお受けしたいと思います。

質疑応答

Q1 竹宮惠子先生にお伺いしたいのですが、つい最近まで「きのう何食べた?」というドラマをやっていたと思います。ドラマの中でジルベールの画像や、似ている男性が出てきて「うわっ」って思い。竹宮先生は承諾されたのか、「何じゃこりゃ」と思 われたの か 、おうかがいしたいと思います

竹宮 よしなが先生にはお花を届けていただいて。

倉持 そうです。今回の展示初日に竹宮先生のサイン会をやったのですが、そのときにお花と一緒に「画像許可いただいてありがとうございます」というメッセージが届きました

竹宮 ちゃんと許可を出していますし、ドラマの方は学長室にいたときなので、学長室長に話が来て、「ああ 、いいです、いいです」と軽く許可したと思います。そんな感じです。あのドラマのおかげで、非常に私の評価が上がったという。私が住んでいる住宅地には、ドラマは見るけどマンガはあまり読まないという人達がいます。だから私が何者かをあまりよく知らず、一緒に遊んでいるのですけれども、その人たちがドラマを見て、すごく盛り上がったというのがありました(笑)

Q2 近年、一般の美術館でマンガ部門が設けられたり、イギリスで大規模なマンガ展が開かれたりしていると思いますが、こちらのようなマンガを専門とするミュージアムではなくて一般のミュージアムにおけるマンガというものを扱っていることについて、お二人はどのようにお考えでしょうか?

竹宮 読者の層が広がってきたということを、つくづく感じています。大英博物館でマンガ展をやると聞いたときは、大丈夫ですかとやはり思いました。日本の中でそういうことがあったとしても、今となっては読者の層の厚さを考えると驚きませんが、大英といったら全然違う価値観のところかなと思っていたので。しかも、マンガは印刷物ではないですか。そういうものを展示していく。マンガというのは原画の価値みたいなので展示をしないですからね。もちろんたくさん原画も出ているのですけれども、印刷文化としての展示になっているので、そういうことでは珍しいことなのではないかというふうに思います。大英博物館のマンガ展は、それこそ本国のイギリスでも結構物議を醸しているところがあるのではないかと思いますが、それはそれでマンガの運命なので、いいのではないかなと思っています。

西 私は去年、大英博物館に行きまして、ルーブル美術館にも行きましたが、普通に荒木飛呂彦先生の画集とかがドンと平積みで置いてあったりするのですよ。それから、今年になって、『ATOM』というフランスのマンガ専門雑誌の方から取材を受けたのですが、ライターの方が、『JUNE』に載っていたようなことを全部知っているのですよ。びっくりしました。何だろう、この関心の高さは、と。
今は「お弁当」であるとか、「和食」であるとか、「お出汁」であるとか。「お出汁」を取るには「かつお節」なるものが 要るらしいということで、フランスにかつお節工場ができていたりもしています。
私はヨーロッパを、毎年、東から西へ十数年かけてずっと横断していて。今はイギリスで、ウラジオストックからずっと電車で横断しているんですよ。あと10年かかると思いますが。
それで感じるのは、ヨーロッパ・西欧社会は、日本というものを近代以降、もう一回発見したような状態にあるのではないかと思います。「極東」と呼び、自分たちと違うファーイーストだと思っていたオリエンタルを、第二世界・日本という国を発見したぞ、金があるらしいといわれていた時代から、もう一回、日本を発見した状態ではないかという感じをどこに行っても受けます。ものすごく珍しくて、知りたいとなると、本当にどんなことでも知りたい状態。
例えば私たちが、マリー・アントワネットがどういうスカートをはいていたかが知りたいような感じで、日本のことなら何でも知りたいという大発見期に入ってきたのではないか。歴史的には今そういう時期なのではないか、マンガもそれの一環になっているような気がします。

Q3 お二人の先生に聞きたいのですけれども、マンガを描いてきてよかったなと思う瞬間はどんなときですか。

''竹宮’’ マンガを描いてきてよかった。うーん、やはり全ての絵において、達成感があるということです。達成感というのは、忙しくて忙しくて仕方なかったときにはなかなか感じている暇がなくて、発 表されてから2週間ぐらいたたないと達成感がないみたいな状態だったのですけれども、今は描く絵1枚1枚が仕上がるごとに達成感が感じられるし、物語を例えば作った時点で達成感を感じ、さらにそれをマンガという形にするためにコマを割るというところにまた達成感があるし、何回も達成感があって楽しいなと思っています。

西 うらやましい。

竹宮 いやいや 、忙しいだけだったのですよ、以前は。忙しい時期は、本当にそんなことを言っている場合ではなかったですからね。そういうのがあると思います。

西 私は経済的に自立できることだと。やはり自分のお金をちゃんと持てる。西原理恵子さんがおっしゃっていたのですけれども、「今日おすしが食べたいなと思ったときにおすしが食べられる、この幸せを手放したくない」と、まさにそれといいます か。人の財布を当てにしたり、明日どうなるんだろうと思いながら暮らさなくてもいいということは、私にとって一番で。本当は他にもあるのですよ、いっぱいいろいろな要素があるのですけれども、一番大事なのは経済的に自立できたということで、それが私にマンガがもたらした最大の貢献かなと思います。

Q4 竹宮先生は、やはりジルベールを筆頭に美少年の礎を築いてこられたかと思いますが、お二人の美少年の定義なるものがあれば、教えていただけたらと思います。竹宮先生は、ジルベールを描かれた当時から、今変わっておられたら、そちらも教えていただけたらと思います

竹宮 ジルベールに関しては、きれいな少年なのだということを、口を酸っぱくして言いましたけれども、果たしてそれが美少年であるかどうかに関して、私自身はまったく自信もないし、漫画家って、詐欺にかけるようなものだと思っているので(笑)

西 私の心を返してください(笑)

竹宮 詐欺にかけるようなものだと思っているんですよ。だから、いかに美しいかということに言葉を尽くすことの方が大事で、私自身は描けてない、ここも描けてないしという感じで実は見ています。形を見て本当にそれが美しいと皆さん思ってくれているのであれば、しっかり詐欺にかかっていただいているなと。だから、このような形だから美しいというような定義は、実はありません。その人の性格によって、その人の形を決めていくわけですけれども、キャラクターを作るときにその人がどんな生活をしているのか、どんなことを価値があると思っているのか、それが崩れるときはいつなのかとかということをいろいろ考えながら作っていくのがとても楽しいです。だからそういうことがきちんと埋まっていくのが、私にとっては美少年なのだと思っているのです。ちゃんとそれが埋まらないキャラクターもいるので、何か中途半端な出来だなと思う美少年もいるので、それが完成できたときに初めて美少年になるのだと思います。ジルベールは、描いてある形ではなくて、中身がちゃんとできているから、美少年だと思っています。

倉持 西先生は美少年の定義はありますか

西 あまり関心がないんですよね。

倉持 では、美青年では?

西 おじさんでもいいですか。

倉持 もちろんです。「おじさま」の定義。

西 どうでしょう、皆さん。私は俳優さんをあまり詳しく存ないし、特に外国の俳優さんに関しては名前も覚えられないのですけれども、ベネディクト・カンバーバッチはどうですか。私はああいう、どこかこの世ならざる者みたいな要素を持っている男性に、気が付くと心を持っていかれているふうはあります。どこを見ているか分からない目とか、何を考えているかが分からない表情とか、異常に白い肌とか、ああいうものを見ていると、ふわーっと。その辺にいない要素を持っている人に、多分、強く引かれると思います。

Q5 西先生の素晴らしい仕事の割り振りをお聞きし、教えていただきたいのですが、ネームとペン入れ、下絵を時間で割り振っていくとおっしゃっていましたが、例えばネームの場合は、これがいけると思うシーンが思い付かなかった時、そして絵を描く場合はどうしても自分の思うような表情が描けない場合はどうやって自分で時間を区切っているのか、すごく気になりました。もしくは迷いが全てないのか、教えていただきたいです。

西 ネームに描いたときの表情が、大体、正解だと思っています。99%ネームの表情が正解です。ただ、決めのシーンにものすごく迷うときは、時々あります。そういうときには 一回原稿を描いて、作画をして納品するまでの間に数日時間がありますから、または印刷に出るまでの時間までギリギリ考えて、これではないと思ったら「すみません、原稿を戻してください」というときはあります。それを思い付かないときには、最初に描いた仮のやつで、そのままいきます。

(会場ざわつく)

西 何でざわざわするの。みんなそうじゃないの?

倉持 ないですよ。普通は。だから会場がざわざわしています(笑)

竹宮 仕事をこなしている感じがすごくしますね。

西 工場長ですから。

倉持 最後に先生方から一言ずつ頂いて、今日のイベントを終わりたいと思います。西先生からお願いします

西 本日は暑い中、どうもありがとうございました。予定を超える人数に参加を頂いたということで、私も大変感激しております。今日は叱られずに済んだので、安心して帰ることができますが、こういう機会を設けていただかなければ長い間お話をすることもなかったと思うので、今日を宝物にして胸に秘めて帰ろうと思います。皆さんも心の中に持って帰っていただければと思います。ありがとうございました

竹宮 西先生との対談というのは、実はこれまでほとんど他にはありませんでしたので、とても貴重な機会でした。このイベントをやる前に、西先生にはいっぱいひどいことを言った気がするので、きっと本人は恨みに思っているかもしれないから、ちょっとやばいかもしれませんという話もしたくらいだったのですけれども、今日お話をお聞きして、全然何も感じていな かったというので、すごく安心しました(笑)。本当に今日は皆さんも 、それをきちっと覚えて帰ってください。どうもありがとうございました。

倉持 西先生は画業30周年、竹宮先生は画業50周年を迎えられたということで、お二人の活躍をますます楽しみにしております。今日はありがとうございました。

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