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【対談:竹宮惠子&仲谷鳰】

「マンガにおける恋愛の描き方-性の表現」特別講義
『風と木の詩』竹宮惠子と『やがて君になる』仲谷鳰が語る恋愛表現のこれまでとこれから

日時:2017年07月30日14:00〜14:50
会場:京都精華大学 本館3階 H-302 会議室
定員:140名

京都精華大学音楽コースの学生によるレポート(2017年10月31日)
https://www.kyoto-seika.ac.jp/news/gjh1lq00000059i...

竹宮惠子:67歳

竹宮惠子:京都精華大学学長(当時)
仲谷鳰:京都精華大学卒業生

人に伝わる表現 作品の世界とキャラクター

司会者(以下司会):マンガを描いていくうえで、自分の表現したいことを読者に伝えるには、どのような描き方をすればいいのでしょうか?

竹宮惠子先生(以下竹宮):描くことって、読むことをしないと実はできないものなんですね。研究的に読む、ということを普段から行わなければならないと思います。そこで学んだことを利用しつつ、自分の表現したいことを自分でわかって理想と誤差の無いように描くことが大切ですよね。

そしてもう1つは造形をするということです。ここでの造形とは、漫画の中の世界をつくることです。例えば読み切りなどを描くときに、読者は世界の一部だけを見ている状態な訳ですが、実はそのとき漫画にある世界を全て描かないように、キャラクターに何を喋らせるか気をつけて描く必要がある。

司会:全てを説明し切らないということですか?

竹宮:そうですね。だってみんな説明されるの嫌じゃないですか(笑)「説明してるなあ」と思って興が冷めることもありますし。説明はするんだけど、「また次に説明する機会がある」と思って全部説明せず「読者がどう汲み取ってくれるか」を考えながら描くことが大切だと思いますね。

仲谷 鳰さん(以下仲谷):作者はどうしても漫画の世界を説明したくなるんですけど、それをキャラクターが喋り出すとおかしなことになりますよね。「キャラクターは一体誰に説明しているの?」って。伝えたいことを伝えすぎない、ということはいつも気にしています。

作品内で見えている部分ではなく表現の中で省略された部分にも世界は広がっていて、その中でキャラクターたちは実際に生活をしている。中には作者とは違う考え方のキャラクターも勿論いるわけです。そういう世界を描きながら、「誰の視点でその世界を写すか」、「誰が何を喋っているところをピックアップするか」というところで作者の意思を表現できたらいいなと。「この世界はこの世界であって自分とは関係のないもの」だとも考えてますね。

竹宮:描く側の人たちは、その世界を説明する際、作品世界を受け入れてもらうため、読者に迎合しようとする感覚を持つことがあると思うんです。「相手はきっとこういうことを望んでいるだろうな」と思ってサービスのようにしてしまうんですね。けどそうではなくて、自分の本当に伝えたいことの大事な部分は固く守りつつ、作品の中で読者に拾ってもらうことが大切ですね。

仲谷:読者が気づく方が印象に残りますからね。

竹宮:「気づき」を促すために描いているのであって、そこの部分は説明せず残しておくべきだと思いますね。

漫画という表現方法

司会:なぜお二人は、自身の作品の表現方法に映画や小説ではなく漫画を選んだのですか?

竹宮:昔、漫画というのは社会に認められたものではなかったんですね。手塚さんのような漫画家はいたんですが「漫画は主食になったか」という言葉が出たほど、漫画が「おやつ」でしかなかった時代は長かったのです。私の若い頃はその時代が終わった頃で、漫画が主食になりつつあった時代でした。その「おやつから主食」へ移り変わるときに見えた、漫画のもつ可能性の大きさに小説や映画が飛んでしまったんですね。自分の手元の小さなスペースでできるということにも魅力を感じました。

仲谷:私の頃には漫画は主食なのが当然というふうに感じていました。竹宮さんたちのおかげというか、作ってもらった道の上を通ったような感じなのですが。私は漫画を選んだというか、子供の頃に絵を褒めてもらってからずっと自分は漫画家になるんだと思い込んで大人になってしまったので、漫画を選んだ時期というのはないんです。ただ「自分1人で物語をコントロールしたい」ということは昔から思っていましたね。話を作ってネームでコマ割りして演出して絵も描いて、ということをしたかったんです。実際には編集さんやアシスタントさんがつくわけなんですが、「この絵を描きたいからこのシーンはこうしよう」、「ここの絵に力を入れたい」というのは漫画だからこそ自分1人ででコントロールしやすいかと思います。そうすると自由度が高くなり、したい表現もしやすかったため楽しかったですね。

同性愛をテーマにすること

司会:なぜお二人はそれぞれでBL、GLを題材に選んだのでしょうか。竹宮学長が『風と木の詩』の連載を開始された1970年代というのは、海外ではヒッピーやフラワーチルドレンといったような人々が現れた時代です。その人たちはあらゆる分野で垣根をとりはらおうとし、既存の価値観や伝統を打破しようとしたことで知られています。そのような時代の中で、題材として少年同士の恋愛(BL)を選ばれたということにどのような理由があったのでしょうか。

竹宮:もちろん、時代の機運があったと思います。年齢差であるとか、性差を超えて人間として相手を愛する、ということが時代のとても大事なテーマだったのです。ところが少女漫画の世界はとても旧態依然の状況で全く変わる気配はありませんでした。恋をして相手に想いは通じる、恋をしながら自分の目標を遂げていくというような話が多かったわけです。そういう環境に「こんな右ジャブじゃだめだ!アッパーじゃないと効かないよ!」と喧嘩腰に思っていて(笑)

そこで読者のショックを承知の上で、『風と木の詩』では少年同士のベッドシーンから始まる物語を展開することにしたんです。その当時の少女漫画の読者にとって、男女のベッドシーンは生々しいため直視しづらかったんですね。ベッドの中で手を握るだけとかそういう表現しか行われなかった。だから、少年同士ということが「フェイク」なものとして受け入れられやすいのではないかと思ったわけです。結果として、読者にはフェイクということで受け入れてもらえたと思っています。

ただし、社会の動きに則するのは漫画家の役目ではあるんです。最先端を見ながら描かなければと思っていたので、その場合編集者の常識が一番越えるべき高いハードルでした。当時、編集部のおじさん達は少女のことを聖域のように捉えていて、少女には少女らしくあって欲しいと思っていたんです。女の子が二の腕を出すのさえいけないと言っていたんですね(笑)。ただ、自分も含めて少女達は自立したいと思っていることに気づいてもらいたい、と考えていたのは若い漫画家たちでした。

仲谷:実は私、恋愛がテーマになったり、そういった要素が強い漫画やドラマを見るのがあまり好きではなかったんです。恋愛こそが素晴らしいもので、みんな当たり前に恋をしていて、恋が何よりも優先されて描かれている「恋愛至上主義」的な話を自然に受け入れられなかったんです。それに対して、私にとって読みやすかったのがBLやGLの物語だったんですね。男性同士や女性同士の話になると、大抵のものに「友情じゃなくて恋愛なのか」という葛藤があり、友情と恋愛の間がシームレスで繋がっていることや、「この恋愛をしてもいいのか」と登場人物達が「あえて」恋愛を選択する描写が多いのです。以前もインタビューで、「『やがて君になる』のGLのど真ん中を描こうとしています」と回答したことがあったのですが、私にとってのGLのど真ん中というのは、前提が恋愛ではなくて、「登場人物が恋愛を選び取るかどうかの選択をする」こと、そしてその葛藤なんです。そしてそれは同時に、GLの一番重要な部分であると思っています。

性の表現と社会

司会:女性が性に関心を持つことがタブーとされていた時代において、女性の性の解放にBLが一役買っているという見解についてどう思いますか?

竹宮:誰も「女性は〇〇をしてはいけない」と言っていないのに「そう言われるだろうな」と自主規制していた時代が長くあったと思います。長い間の社会通念が少女達を縛っていた時代ですね。その時代の読者たちに新しい息をふき込むために、どうしても少年同士の恋愛が重要なキーワードでした。

男性であると別の生き物みたいに思ってしまうんですが、これが子供や少年であると、女の子は垣根を感じずに同調できるのではないかと。そういう仕掛けをしたので、『風と木の詩』は少女読者にとって「性愛」というハードな一面もあるテーマを受け取りやすくできたのだと思います。それが女性の性の解放に繋がったのなら嬉しいですね。

司会:BLの文学史において『風と木の詩』はどのような位置づけにあると思いますか?

竹宮:BLという言葉で区分けすると「『風と木の詩』はBLではないよね」と言われることもあります。ただ、今に繋がるものの可能性を広げた作品だったと思っています。私もここまでBLが大きく発展するとは思っていませんでしたが、それが読者にとって必要なことだったと思っています。

司会:竹宮先生にとってのGLとはなんでしょうか。

竹宮:当時から、GLであってもBLと全く同じ価値でした。だから仲谷さんの作品を読ませていただいて、現代の「ありうる」GLを丁寧にきちんと描き起こしていて、誰にでも飛び込んでいける世界だと思いました。

司会:『やがて君になる』では登場キャラクターの心象風景の中に女性同士で恋愛することへのハードルやタブー意識、同性愛嫌悪(ホモフォビア)をあまり感じられないな、と思う時があります。『やがて君になる』の中で女性同士の関係を描写するに際して、日本のセクシュアル・マイノリティが置かれている状況を意識することはありますか?

仲谷:意識はしていますね。気を使って描いています。現代の物語なので今の日本と同じ割合で、同性愛について何の偏見もない人もいますし、同性愛者もいますし、同性愛嫌悪の人もいると思って描いています。ただ、嫌悪をしている人をあまり映さないように描いてはいます。

司会:GL史における『やがて君になる』の立ち位置はどういうものだと思っていますか?

仲谷:GLの王道の作品だと言われることもありますし、特殊な作品だと言われることもあります。「タブーに触れること」や「禁止されていることをしちゃう」というのは、物語の魅力的な要素になりやすいんですね。物語の中では、2人だけの秘密や背徳感にはドキドキしますし、それでも2人が結ばれるとなればカタルシスがありますから。

しかし、現実世界では、同性愛についてのハードルもタブー意識もあってほしくありません。『やがて君になる』のメインキャラクターの2人には、同性であることとは別の理由から、恋愛関係になることの困難さが用意されています。主人公の先輩であるヒロインは、過去のトラウマなどで自分のことが好きになれない子で、誰かが自分のことを好きになると、その人に失望してしまうんです。なので、この作品は、登場人物がこのヒロインに対して好きという気持ちを持ったとしても伝えられない=「秘密にしなくちゃいけない」という要素を含んでいます。つまり、GLが今まで持ってきた「相手に気持ちを伝えてはいけない」というタブーゆえの魅力を、それとは関係のない要素で描こうとする試みがあるんです。それが、王道とも特殊とも言われるゆえんだと思います。

司会:仲谷さんにとってBLとはなんでしょう。

仲谷:私もBLだからどうこう、ではなく2人の人物の恋愛や友情、またはどちらとも言いがたい関係を楽しむ作品としてBLもGLも同じような楽しみ方をしてきました。ただジャンルとしては、BLって作品数が多く専門誌もたくさんありますし、設定の凝った漫画もたくさんあるので、そういうところはGLと比べると羨ましいなあって思いながら見ている部分もあります。


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