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【大泉サロン:徳山大学論叢第78号】2014年06月

竹宮恵子の京都精華大学学長就任(2014年4月1日)を受けて「大泉サロン」について書かれた、なかはらかぜ、紙矢健治両氏による文章
https://www.tokuyama-u.ac.jp/_file/ja/article/6570...


大学を拠点とするマンガ創作教育のあり方
「大泉サロン」の教育的役割を通じて

なかはらかぜ・紙矢健治

史学:210
キーワード:少女マンガ、大泉サロン、24年組

I.はじめに

24年組、あるいは大泉サロンの最も重要な役割を果たした竹宮恵子氏が2014年4月1日に京都精華大学学長に就任する。まさに少女マンガを含むマンガが、表現芸術として、学術として、名実ともにその地位を確立した記念する日を迎える。

くしくも1982年10月より放送開始し、その前日の3月31日に終了したフジテレビの番組『笑っていいとも!!』に、安倍晋三内閣総理大臣が出演したことについて、メインをつとめた森田一義(芸名:タモリ) 氏が、「バラエティを認めていただいた」)と発言したことを見ても、テレビ番組やマンガは、「大衆文化」として文学や絵画、音楽などの芸術に比べると、格が低く位置づけられる感は否定できなかった。映画は、東京芸術大学にも映画学科が設立されているように、その学術性も近年認められてきた。一方、マンガは『のらくろ』を書いた田河水泡から手塚治虫まで、戦前戦後において、人々の心をとらえ、少年(男性)マンガとして発展してきた。

これにややおくれて少女マンガがあらわれたが、「24年組」が登場するまで、少女マンガは、既存の少年マンガと比べても格が低くみられた。この状況に反旗を翻したのが「24年組」の中心的なマンガ作家を輩出した「大泉サロン」である。

増山法恵を中心人物とするこの大泉サロンは、ヨーロッパにおける本物の文学や哲学、芸術さえも余すことなく吸収し、その後、今日において少女マンガを表現芸術として洗練し続け、とりわけ竹宮の代表作『テラへ』創造の基礎をつくったことはきわめて意義ぶかいことであった。

ついにマンガ界全体にとって、竹宮の大学学長就任という歴史的な新次元を迎えたといえる時代が来た。

本稿では、近年若手研究者によって研究が進んでいる「大泉サロン」の果たした役割とその特徴に注目し、2010年代中盤を迎え、大学が表現芸術としてのマンガ創作のためのサロンとしての役割を果たすために、「大泉サロン」の役割や特徴をここであらためて検証し、経営学系の大学のマンガ教育の新時代とはいかなるものであるべきかを論じた。


IV.「大泉サロン」その理念

「大泉サロン」とは、増山法恵を中心に竹宮惠子や萩尾望都など「24年組」と呼ばれるグループの一部から成立した。

堀あきこ(「欲望のコード マンガにみるセクシュアリティの男女差」臨川書店、2009年発行)によれば、(花の)二十四年組とは昭和24年ごろに生まれた少女マンガ家のうち、萩尾望都や竹宮惠子・山岸涼子・大島弓子・木原敏江などを指す。彼女らは「少女マンガに文学性を与えた」と評されている作家であり、それまでの少女マンガにはなかった主人公の自己との向き合いや、性に関する話題、親子関係といったテーマを追求し、また表現技法にも新たな手法を取り入れた。彼女らによって少女マンガに革新がもたらされ、その影響は広くマンガ界全体に渡ったといわれている。

荒俣宏は、竹宮惠子とのインタビューで「竹宮惠子さんといえば、どうしても、少女まんがを革新する多数の同志が集った『大泉サロン』のことが気にかかる。竹宮さんはその中心にいた。これは、戦後生まれの少女まんが家たちによる第二の『トキワ荘』物語ともいえる。」また、荒俣は「大泉サロンを日本近代のまんが史に登場した『漫画を革新する新集団』」との表現を用い、日本近代マンガを革新した勢力」として高く評価している。

竹宮はこのインタビューの中で、大泉サロンの成立について次のように明快に述べている。

竹宮「トキワ荘」の噂を聞いて、心踊らない人はいないと思いますよ、まんがやっている人にとって。やっぱり自分もそういうコミュニティにいられたらいいのに、って、みんな憧れますよね。それを、「大泉サロン」っていう形で、再現しようと目論見を持った人がいたわけです。...(発案者は)あの増山さんっていう...。...私と萩尾さんがいればきっと、惹かれてというか、いろんな人が来てくれるに違いないということで、自分のうちの近くに部屋が空いたので住まないか、ってことになったんです。練馬区の大泉の、増山さん宅の斜め向かいに。
(石田美紀「密やかな教育〈やおい・ボーイズラブ〉前史」(2008年11月発行)洛北出版)

竹宮の発言から、「大泉サロン」を創造することを企図して、萩尾や自分に引っ越してくるように勧めたのは、増山法恵であったことがわかる。竹宮はまた、増山法恵が戦後マンガ作家を世に多数輩出した「トキワ荘」のような、マンガ作家のコミュニティを、(増山法恵)自らが中心となって、能動的に自分や萩尾望都を誘い、新しいコミュニティである「大泉サロン」は形成したと述べているように、やはり増山法恵がキーパーソンであったことがわかる。

この対談を忠実に引用しておこう。

荒俣:それは、竹宮さんの発案じゃなくて?
竹宮 :いや、私じゃなくて、萩尾さんでもなくて、あの増山さんっていう...。
荒俣:あぁ、増山法恵さん。やっぱりあの人がそういう計画を持ったんですか。
竹宮:その通りですね。彼女が目論んで...。
荒俣:あぁ、そうですか。
竹宮:私と萩尾さんがいればきっと、惹かれてというか、いろんな人が来てくれるに違いないということで、自分のうちの近くに部屋が空いたので住まないか、ってことになったんです。練馬区の大泉の、増山さん宅の斜め向かいに。
荒俣:そうすると、増山さんが竹宮さんと萩尾さんに声をかけてきたんですか?
竹宮:最初は、増山さんと萩尾さんがペンフレンドで。私は萩尾さんにアシスタントしてもらってから、その仲間に入りました。そうこうするうちに、いろいろ私達のところへ読者から手紙が来ますよね。
荒俣:えぇ。はい。
竹宮:それで、手紙が来た人の中で、この人はいけるんじゃないかっていう人に、「遊びにきませんか?」って声をかけて、遊びに来てもらうんですよ。
荒俣:はい。勧誘ですね。
竹宮:で、そうやってやりとりしてみたり、泊ってもらったりしているうちに、みなさんがまんが家になっていったりするわけです。

1950年生まれ、「漫画の原作者」で、小説家でもあった増山法恵は、「大泉サロン」の主催者として、数多くの少女マンガ作家を輩出し、竹宮惠子とは共同制作を行うようになる。(石田美紀「密やかな教育〈やおい・ボーイズラブ〉前史」(2008年11月発行)洛北出版)

「少女マンガは少年マンガのような生産の仕方はできないですね。これは遅れているからとかではなくて、質が違うのです。少女マンガはなかなか分業制にはできない。たまたまわたしと竹宮は物語の作り手と描き手として、丁々発止のやり取りができましたけれど、これは珍しい例だと思います。今から思えば、竹宮は徹底した、天才的なまでの職人でした。」共同制作とは、アイデアとシナリオを作家が提案し、マンガ作家がその芸術的価値を共有して創作活動を行うようなプロデューサーと制作者によるものである。

荒俣:あそこから出てった人々って、ほとんどが後に偉い人になっている。才能を見抜いて、勧誘したからかな?
竹宮:金沢の「ラブリ」っていう少女同人サークルの、坂田靖子さんと、花郁悠紀子(かい・ゆきこ:1954-1980)さん、波津彬子(はつ・あきこ:1959-)さんたちとも、「大泉サロン」で合流しました。
荒俣:はい。それから、森川久美さんとか。
竹宮:はい、そうですね。
(中略)
荒俣:こうやって振り返ると、みなさん、個性的で、自分の世界をもっていましたね。内容がなんか不思議だったですよね。あれはやっぱりそういう所に集まっていると、みなさん仲が良いんだけれども、やっぱり切磋琢磨の気分がひとりでに生まれてくるというか...。
竹宮:自分の趣味的世界っていうのを、なんとか形にしようと、頑張るっていう感じでしたね。早く自分だけの世界を持たなくちゃ、と...。

「大泉サロン」は増山によって作られ、その後の少女マンガの表現芸術として、大きく転換する気風を吹き込むことになる。


V.「大泉サロン」前後の少女マンガ

24年組や「大泉サロン」出現前においては、少年漫画(というよりは男性漫画)に比べて、少女マンガは格下におかれていたことは否めなかった。

飯沢(飯沢耕太郎「戦後民主主義と少女漫画」PHP研究所、2009年発行)は、 男性原理とか女性原理とかいった紋切り型の言葉はあまり使いたくないのですが、社会の中に何かのシステムを作り、支配し、管理し、機能させるという場合は、どうしたって男性原理的なものが優位になり、合理的で生産的でポジティブなものに目が向いて...、気ままで矛盾に満ちた、どちらかと言えば受け身の感受性は、発言の場を与えられずにどんどん後回しにされていきます。そして、男性原理が圧倒的に強いところでは、無視された当の本人すらそのことに痛痒を感じないわけです。

可児(可児洋介「24年組をめぐる二つの運動体」マンガ研究vol.19、2013年発行)は、増山法恵の『漫画新批評大系』第2期第4号(通巻10号)での、「すなわち『大泉サロン』なくしては革命は成し得なかった」という発言に注目し、「自身が主宰した『大泉サロン』には選ばれた革命の同志=戦士が集まった。サロンはマンガ状況への抵抗の武器=砦として、あるいは互いに切磋琢磨する道場として、少女マンガの変革に貢献した」と大泉サロンの意義を明確にしている。

では、そのマンガ状況について、前出の飯沢の言を借りると、

彼女たちには非論理的なところがあります。直線的な論理性に対する無意識の「違和」があって、論理的であろうとする時にでも、情念や感覚と対となってあらわれてくることが多いようです。だから戦後民主主義が多分に男性原理的な要素が強かったとすると、少女たちは反戦後民主主義、あるいは半戦後民主主義というところがあります。

また、

戦後民主主義には個人の主体性を重く見すぎるところがありました。自分の意志ですべてを決定するということを、絶対的なものとして見なす態度です。少女たちには、その枠をもともと超えているところがあります。男性が主体—客体という区分けにとらわれ、主体が客体に働きかけてそれを支配し、コントロールするという方向に傾きがちなのに対して、彼女たちはいつも主客が一体となって行動し、両者が融けあっているところがある。むしろ彼女たちの基本的な行動原理は、主体と客体の間にある間主体性であるという言い方ができるかもしれません。

可児が重要であると考えた増山の認識は、実に痛快なものだった。増山は、「我々(可児によれば、我々とは増山法恵、竹宮惠子、萩尾望都の3人である)が決裂しなかったのは、とことんマンガが好きなのだという共通の情熱と、(略)評価の対象にもされなかった少女マンガを、何とか少年漫画に負けない物にしたいという共通の意地」「結局は、『COM』時代の人間でしょ。(略)やっぱり我々にとって、共通の話題、共通の情熱だったし、当時はあそこに集まっていた連中っていうのは、はっきり改革意識があったんですよね」とその意義を述べている。飯沢いう男性原理のマンガに対する変革と、その行動原理たる主体と客体の間にある間主体性であるという主張に行き着く。

繁富(繁富佐貴「少女まんが論の生成期と『24年組』神話」『人間社会研究科紀要』第16号、2010年発行)が言うように、「24年組以前には少女マンガは感覚的にわからないと述べていた男性論者が『24年組』時代になると一変し、その可能性に魅力を感じるという姿勢をとった」のであるが、それほど「24年組」の表現する芸術性は高いものであった。


注:繁富論文は、「『24年組』を基準とすると、少女マンガとみなされずにこぼれ落ちてゆくものがあまりにも多い。むしろそこにこそ、「語られない」少女マンガの特質があるのではないだろうか。そのため、1970年代の『24年組』基準から少女マンガを論ずることに距離を置き、新たな少女マンガ論を構築する必要がある」と結論づけられている。


それまでの少女マンガの社会的な位置づけに対し、増山法恵や竹宮惠子を中心とする「大泉サロン」を形成した「24年組」の主要なる「メンバー」は、「共通の情熱」と「改革意識」を持ち、表現芸術としてのマンガの世界に従来は社会的タブーといわれるテーマさえも提起し、それらを余すことなく見事に表現した。

「大泉サロン」が、少女マンガを最高の表現芸術として、社会の常識を変えたことは、竹宮惠子が1981年にアニメ映画『テラ(地球)へ』(東映)を制作し、大ヒット作品となったことに象徴される。

少女マンガ史の「金字塔」である「大泉サロン」を大学の中において再現しようという発想から本稿を書きはじめたのであるが、ここにきて「大泉サロン」自体の存在が、影響がそれほど大きかったことを実感しないではいられない。

VI.大きく変えたもの〜欧州冒険旅行

筆者(なかはらかぜ・紙矢健治)は、「大泉サロン」のような、そういったグループを大学に拠点を置こうとしようと思ったのであるが、ことを簡単に考えすぎていた。ただ、大学の経営学科系のコースにおいてマンガという表現芸術を教育するという取り組みに、「大泉サロン」は手がかりをくれていた。

荒俣と竹宮の会話をもう少し分析してみると、竹宮氏の才能を開花させたのは、欧州への冒険旅行であったことがわかる。

荒俣:あぁ、そうですか。あと、どんなメンバーがいましたか?「大泉サロン」には。
竹宮:えぇっと、大泉サロンの噂をきいて、山岸凉子さんが興味を持って、訪れてくださって。その時は、もりたじゅんさんも一緒でしたね。(中略)もりたさんは、私たちが描こうとしている世界と全然関係ない世界の人だったんですけれども私は会ってみたい人だったので。
荒俣:えぇ。
竹宮:山岸さんは、同じ系列な感じだったので、交流が深まりました。
荒俣:はい、そうですか。豪華なメンバーですね。
竹宮:まぁ、そこからずいぶん親交が広がっていきまして、みんなでまんがの勉強したり、本を読んだり映画を観たり、旅行もして...。すごい大冒険にも挑戦したんですよ。あるとき、みんなでヨーロッパへ行こうっていう話になりました。

この欧州旅行では、1972年。横浜から出ていたナホトカ航路を利用して、竹宮惠子、増山法恵、山岸凉子ら4人が、ハバロフスクまでシベリア鉄道、その先は航空機を利用してモスクワへ至る。欧州諸国をめぐった。海外旅行が一般化した現在とは異なり、当時は海外渡航が自由化されて8年後の時代であったのに加え、ソビエト社会主義共和国連邦や東ヨーロッパは社会主義、共産主義の時代の真只中であり、40日間の旅の途中、「街についてから『さてどうしよう』と決めるやり方」で、まさに冒険旅行であった。

増山法恵は、この冒険旅行で竹宮惠子が「まったく変わった」と述べている。

増山は1972年前後の日本社会を「欧米の流行が入ってくるのに、半年から一年かかった時代」であり、竹宮惠子や萩尾望都等は「全身が海綿体みたいなもので、旅の間にすべてを吸収しつくして、パンパンに膨れ上がって帰ってきた」と、その旅行の意義を述べている。

帰国後、4年の年月が経過して、1976年に『風と木の詩』を『週刊少女コミック』に連載し始めたのであるが、ボーイズラブという社会的なタブーを豊かな表現芸術として発表した時の様子を

サイン会にはかるく五千人を超えるファンが集まりました。それからありとあらゆる世界に間口が開いたというか......様々な分野の方々とお会い出来ました。寺山修司さん、萩原朔美さん、河合隼人先生、遠藤周作先生......思わぬ方から『サインをください』と言われて仰天しました。

増山法恵は、「大泉サロン」のメンバーをこの冒険旅行を通じて文化的刺激を与え、表現芸術としての少女マンガを創造することに大きな貢献をしたと言える。

また増山法恵は、アイデアを「大泉サロン」のメンバーに示し、共同して創作するという独特なるスタイルを構築した。いわば創作連携であるが、このことについての詳細は、紙幅の関係で別の機会に申し述べようと思う。

VII.おわりに

本稿で伝えたいものは、表現芸術としての少女マンガを築いた「大泉サロン」の歴史を通じて、大学の経営学科系のコースにおいて、同様のサロンを構築できるのではないかと考えである。それで増山法恵や竹宮惠子の足跡の万分の一を申し述べたのである。しかし「大泉サロン」の歴史的、文化的価値は大きすぎ、地位は高かった。

徳山大学の知財開発コースが位置する「学園台」は、表現芸術であるマンガを経営学科系のコースとしてプロデュースする場である「学園台サロン」を構築できる可能性があることを知ってもらいたいと願う。我々は、経済学部経営学科系のコースにおけるマンガ教育という独特の教育の場にいる。創作とは、何らかのエネルギーや理念が必要である。増山法恵や竹宮惠子のような天才であっても、彼らのサロンがあってこそ天才の境地にまで至れたのである。要は、人と人のまじわりなのである。「大泉サロン」の史的考察を行い、我々が取り組まねばならないのは、作画だけではなく、哲学や国際的視野といった人材の育成を通じて、世の中に教養と潤い、そして驚き、解決するべき課題を見せていくことではないかと感じた。 最後に、本稿を執筆するに当たり感じたことは、マンガという学術の主人公であるマンガ作家が、もっと語るべきではないかということである。とりわけ少女マンガを表現芸術にまで押し上げた「大泉サロン」を確立した主人公に、もっと多くの思いを語ってもらいたいと思う。竹宮惠子氏の京都精華大学学長就任は、それだけ大きな意義ある出来事だと言える。

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