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【大沢健一:竹宮作品について】サンルームにて(サンコミックス)

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竹宮恵子傑作シリーズ1
サンルームにて(サンコミックス)
発行日:1976年05月20日
発行所:朝日ソノラマ




ひらかれた扉のカギ
大沢健一(TVディレクター)
(図版に続いてテキスト抽出あり)





ひらかれた扉のカギ
大沢健一(TVディレクター)

竹宮恵子さんの作品を読むたびに、この人は、いったい何を思考しながら、描いたのであろうかと考えて、眠られぬ夜を過ごすことが、多いのです。そして、奇妙な充実感と、にぶい衝撃を抱いたまま、いいようのない孤独の思いにひたって、明けやらぬ朝の街を散歩するので
す。

「竹宮恵子さんの登場が、少女漫画の流れを変えた」といわれています──というよりは、日本のコミックスに新しい表現領域を切り開いた──というほうが、より正確だと思うのです。たまたま作品を発表する場所が、少女漫画雑誌であったということであり、作品を発表する場所に対する偏見の眼差しで、コミックスはコミックスなのだという認識を、長い間、僕達はわすれていたように思うのです。

僕自身、コミックスを「鉄腕アトム」(SF)「サザエさん」(ホームドラマ)「ムーミン」(お子様ランチ)「天才バカボン」(ギャグ)「忍者武芸帖」(劇画)というように勝手に分類して、唯一、日本のコミックスが開拓した分野は、紙芝居、絵物語から受けつがれた劇画路線ではなかったかというような気がしていたのです。

「巨人の星 」は恐らくその典型的なパターンでしよう。が、単純にいえば、そこに語られるものは、登場人物、例えば男と女人間と人間の確執と、時代背景を利用して、僕達が生きている時代の情況への問いかけと、プロテストを行なっているに過ぎず、分類してみてもストーリー漫画にかわりはなく、ひとつのストーリーはストーリーとして完結してしまいます。

竹宮さんの作品との出逢いは、そのようなジャンル別の分類がまったく無意味であったことを、僕に教えてくれたのです。たしかに、テレビジョンや映画は観るための時間が必要であり、小説やコミックスも読む時間が必要です。当然ながら、ストーリーは必要です。

ある作品で、竹宮恵子さんが、陽だまりのサンルームからストーリーを展開させ、陽だまりのサンルームで、ストーリーが終ったとしても、竹宮さんがそこで語ろうとしたものはと考え始めた時、いままでの思考のパターンがまったく無意味であることに気がついたのです。たとえていえば、小説が言葉を選ぶという理性のモノサシを通して感性に訴えるのに対して、竹宮さんはコミックスという観ながら読むという、単純でありながら、きわめて不合理な表現世界で、自分が語ろうとするテーマを、ストーリー性を超えて、僕達に提示しているのではないでしょうか?《陽だまりのサンルームで語られるストーリーは、けっして陽だまりのサンルームで終わるわけではありません》ひとつの作品にFINのクレジットが挿入された時から、竹宮恵子さんが語ろうとしたものを再発見する旅が始まるのです。

「ディズニイが始まりだった」というコミックス作家は、キラ星のごとくいるはずです。が、竹宮さんは、いろんな表現ジャンルの中から、自己主張をするのに、もっともふさわしい場所としてコミックスを選択したに過ぎないと、僕は思うのです。

FINのクレジットのあとで、竹宮さんが僕達に問いかけたものは、個人的見解をいえば、青春のレクイエムにみえる作品であっても、人間の存在そのものへの根源的問いかけを提示しているのではないかと思うのです。僕という存在、あなたという存在──すべてのストーリーは、その事を語るための道具立てに過ぎません。それから先、竹宮さんが提出したものを、僕達は開かれた扉として、受けとめなければなりますまい。

そのような表現が、今まで日本のコミックスの中で存在したかどうか.……?

僕達は、竹宮さんのなんたるかを知らず、随分、長い時を過ごしたように思えるのです。

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