最終更新: mototemplate 2022年03月26日(土) 08:43:37履歴
【竹宮:中学時代に描いた2400枚と興味を持った時期】
*「81話、2400枚」について、ブレが見られる
1980年「少女マンガ家になれる本」→「八十一話、二千四百枚描きためました」
1988年「河合隼雄対談集 あなたが子どもだったころ」→「一篇三十枚ぐらいのものが八十数話」
2000年「週刊文春「家」の履歴書」→「八十話連続で、一話が三十枚ぐらい」
2016年「京都精華大学アセンブリーアワー講演会」→「1話につき16ページから32ページくらいのシリーズもので、98話」
2021年「扉はひらくいくたびも」→「高校に入る頃には80数話にもなりました」
*「81話、2400枚」を描いた時期
1980年「少女マンガ家になれる本(」→「ストーリーマンガを中学校の三年間に、八十一話、二千四百枚描きためました」
1988年「河合隼雄対談集 あなたが子どもだったころ」→「中学から高校にかけて、シリーズものを一つ描きましてね。一篇三十枚ぐらいのものが八十数話」
2000年「週刊文春「家」の履歴書」→明確な時期は言っていない「中学生のころから、毎日毎日、こつこつ描いてました」
2016年「京都精華大学アセンブリーアワー講演会」→「そのころに(←自身の小学生から『マンガ家入門』を読んだ頃について語っている文脈において)1話につき16ページから32ページくらいのシリーズもので、98話まで描いていました」
2021年「扉はひらくいくたびも」→「高校に入る頃には80数話にもなりました」
*「81話、2400枚」を焼いた時期
1980年「少女マンガ家になれる本」→「中学を卒業するとき、親に見せてから燃やしてしまった」
1988年「河合隼雄対談集 あなたが子どもだったころ」→「プロになろうと決めたときに、それを焼いちゃいました」
2000年「週刊文春「家」の履歴書」→触れていない
2016年「京都精華大学アセンブリーアワー講演会」→「石ノ森章太郎先生の『マンガ家入門(1965年08月発行なので竹宮は高校1年生になっている)』を読んだ」ことを理由にあげて「ただただもう恥ずかしくて、すべて燃やしてしまいました」
2021年「扉はひらくいくたびも」→触れていない
1980年02月「少女マンガ家になれる本」116-120ページに以下の記述あり
●二千四百枚も描いた原稿を焼きすてた
「だんだんストーリーマンガも描くようになりました。初めて一本の作品を描きあげたのは、私が中学生のときです。そのころからシリーズものを描きはじめていて、同じ主人公を使って何話もストーリー マンガを作っていました」
「そうしたストーリーマンガを中学校の三年間に、八十一話、二千四百枚描きためました。でも、それは全部燃やしてしまいました」
「中学時代に描いたストーリーマンガは、読者といえば自分自身しかいなくて」
「両親にも見せられませんでした。だから全部隠しておき、中学を卒業するとき、親に見せてから燃やしてしまった」
「まず、私が自分で作った話を映画のストーリーだといつわって友だちに話し、それから家に帰ってきてその日に話したことをせっせとマンガに描いていた」
「友だちには自分の作った話だなんていわないで、あくまで映画のストーリーということで聞かせる」
「中学三年の終わりごろ、友だちに、実は映画のストーリーではなかったと事実をうちあけ」
「そのときから私は、以前はなんとなく隠れて描いていたマンガを公然と描きはじめました」
参照【竹宮:2400枚も描いた原稿を焼きすてた】
1988年06月「河合隼雄対談集 あなたが子どもだったころ」に以下の記述あり
竹宮 はい。五年生ぐらいのときに、コマ漫画みたいにして続き漫画にせりふをつけて描いてったんです。とにかく、小さいときから白い紙を与えとけば静かなんだといつもいわれてたんですね。中学に入って、毎日毎日、藁半紙に日記のように描き続けたんです。
河合 ほんとにやらずにおれないという感じでしょうね(笑)。それはそれとして、学校へは一応行っておられたんですか。
竹宮 そうなんです。うちはそんなに教育的な家庭じゃなかったから、そこそこの成績を取っていればよかったんです。だから、もう、ひたすら……(笑)。中学から高校にかけて、シリーズものを一つ描きましてね。一篇三十枚ぐらいのものが八十数話。
河合 すごいですね。
竹宮 プロになろうと決めたときに、それを焼いちゃいましたけど。これはやっぱり心情吐露であって、人に見せるもんじゃないと。
参照【対談:河合隼雄・竹宮恵子】
2016年05月19日 京都精華大学アセンブリーアワー講演会にて
そのころに、「ぼくはハヤブサ・純」という、ちょっと少年探偵団のような話のマンガを描いてました。1話につき16ページから32ページくらいのシリーズもので、98話まで描いていましたが、結局、ただただもう恥ずかしくて、すべて燃やしてしまいました。
参照【竹宮惠子による講演】
2021年03月「扉はひらくいくたびも」28-33ページに以下の記述あり
(図版に続いてテキスト抽出あり)
3.漫画家への道
30ページの複雑ドラマ
中学生になると、ストーリーマンガを描くようになります。今思えば恥ずかしくて口に出せないようなストーリーです。例えば双子の片方がさらわれて、もう1人が助けにいくとか、そんな稚拙な物語でした。私だけしか読まないから描ける話ですね。
その頃、テレビで外国映画が放映されるようになったので、よく見ていました。中学2年か3年の時には、話が全部つながっているシリーズものも作り始めました。一つの話が30ページぐらいで、高校に入る頃には80数話にもなりました。
当時の少女マンガでは、バレエものが人気テーマでした。そこで、姉がバレリーナ、弟がウィーン少年合唱団員という姉弟を主人公にして物語を作ったことがあります。よく見ていた外国映画の影響もあったのでしょうか、すごくドラマチックな作品に仕上がりました。
当時、学校で「あの映画は面白かったよね」と話す友人がいました。ふと、その友人にこの作品を見せたらどうだろう、と考えました。いきなり持っていって見せるのは恥ずかしいし、ちゃんとできているかどうかもわからない。そこでストーリーを話して聞かせました。
すると友人は「そんな映画あった?」って言いながら私の話をずーっと聞いてくれました。そして「すごく面白いじゃない。そんな映画私見なかったけど、いつやってた?」。
そう言われて初めて、「実は自分が作った」って白状しました。マンガに描いてあると話すと、彼女が「ぜひ見せて」と言うので、家に遊びに来てもらいました。他人に自分の描いたマンガを見せたのはその時が初めてですね。
石ノ森作品 バイブルに
中学2年生の時に、講談社の第1回新人漫画賞に応募してみました。
(註:1964年「少年マガジン」「ぼくら」「少女フレンド」「なかよし」四誌共同公募の第一回講談社少年少女漫画賞 )
結果は「もうひと息」で落選。名前だけが誌面に載りました。賞を取ったのは、高校2年生だった里中満智子さんです。その作品『ピアの肖像』は、吸血鬼が出てくる物語で、洋画みたいで格好良かったです。里中さんと自分の力量の差がよくわかりました。
【竹宮惠子:漫画に興味を持った時期】
また、自身が漫画に興味を持った時期については竹宮が発言した年齢や媒体によって以下のように差異がみられる
参照【竹宮惠子:漫画に興味を持った時期】
「漫画に興味を持ったのが遅くって高校生の頃でした」
*参照【対談:里中満智子・竹宮恵子】
「子供のころから石ノ森を読んでいた」
*文化庁メディア芸術プラザ|Manga Meister - Vol.2|竹宮惠子インタビューでの発言
「中学時代からコマを割って物語として本格的に描き始めていた」
*手塚るみ子(手塚治虫の娘)の番組:2008年11月放送
「五つぐらいになると、近所の理髪店などで、置いてあるマンガの本を片っ端から読むようになり」
*2021年03月「扉はひらくいくたびも」19-20ページ
五つぐらいになると、近所の理髪店などで、置いてあるマンガの本を片っ端から読むようになり、髪を切りにいくとなかなか帰ってこないね、とよく母に言われました。近所に住む年上の女の子にマンガの本を見せてもらうこともありましたね。
*「81話、2400枚」について、ブレが見られる
1980年「少女マンガ家になれる本」→「八十一話、二千四百枚描きためました」
1988年「河合隼雄対談集 あなたが子どもだったころ」→「一篇三十枚ぐらいのものが八十数話」
2000年「週刊文春「家」の履歴書」→「八十話連続で、一話が三十枚ぐらい」
2016年「京都精華大学アセンブリーアワー講演会」→「1話につき16ページから32ページくらいのシリーズもので、98話」
2021年「扉はひらくいくたびも」→「高校に入る頃には80数話にもなりました」
*「81話、2400枚」を描いた時期
1980年「少女マンガ家になれる本(」→「ストーリーマンガを中学校の三年間に、八十一話、二千四百枚描きためました」
1988年「河合隼雄対談集 あなたが子どもだったころ」→「中学から高校にかけて、シリーズものを一つ描きましてね。一篇三十枚ぐらいのものが八十数話」
2000年「週刊文春「家」の履歴書」→明確な時期は言っていない「中学生のころから、毎日毎日、こつこつ描いてました」
2016年「京都精華大学アセンブリーアワー講演会」→「そのころに(←自身の小学生から『マンガ家入門』を読んだ頃について語っている文脈において)1話につき16ページから32ページくらいのシリーズもので、98話まで描いていました」
2021年「扉はひらくいくたびも」→「高校に入る頃には80数話にもなりました」
*「81話、2400枚」を焼いた時期
1980年「少女マンガ家になれる本」→「中学を卒業するとき、親に見せてから燃やしてしまった」
1988年「河合隼雄対談集 あなたが子どもだったころ」→「プロになろうと決めたときに、それを焼いちゃいました」
2000年「週刊文春「家」の履歴書」→触れていない
2016年「京都精華大学アセンブリーアワー講演会」→「石ノ森章太郎先生の『マンガ家入門(1965年08月発行なので竹宮は高校1年生になっている)』を読んだ」ことを理由にあげて「ただただもう恥ずかしくて、すべて燃やしてしまいました」
2021年「扉はひらくいくたびも」→触れていない
1980年02月「少女マンガ家になれる本」116-120ページに以下の記述あり
●二千四百枚も描いた原稿を焼きすてた
「だんだんストーリーマンガも描くようになりました。初めて一本の作品を描きあげたのは、私が中学生のときです。そのころからシリーズものを描きはじめていて、同じ主人公を使って何話もストーリー マンガを作っていました」
「そうしたストーリーマンガを中学校の三年間に、八十一話、二千四百枚描きためました。でも、それは全部燃やしてしまいました」
「中学時代に描いたストーリーマンガは、読者といえば自分自身しかいなくて」
「両親にも見せられませんでした。だから全部隠しておき、中学を卒業するとき、親に見せてから燃やしてしまった」
「まず、私が自分で作った話を映画のストーリーだといつわって友だちに話し、それから家に帰ってきてその日に話したことをせっせとマンガに描いていた」
「友だちには自分の作った話だなんていわないで、あくまで映画のストーリーということで聞かせる」
「中学三年の終わりごろ、友だちに、実は映画のストーリーではなかったと事実をうちあけ」
「そのときから私は、以前はなんとなく隠れて描いていたマンガを公然と描きはじめました」
参照【竹宮:2400枚も描いた原稿を焼きすてた】
1988年06月「河合隼雄対談集 あなたが子どもだったころ」に以下の記述あり
竹宮 はい。五年生ぐらいのときに、コマ漫画みたいにして続き漫画にせりふをつけて描いてったんです。とにかく、小さいときから白い紙を与えとけば静かなんだといつもいわれてたんですね。中学に入って、毎日毎日、藁半紙に日記のように描き続けたんです。
河合 ほんとにやらずにおれないという感じでしょうね(笑)。それはそれとして、学校へは一応行っておられたんですか。
竹宮 そうなんです。うちはそんなに教育的な家庭じゃなかったから、そこそこの成績を取っていればよかったんです。だから、もう、ひたすら……(笑)。中学から高校にかけて、シリーズものを一つ描きましてね。一篇三十枚ぐらいのものが八十数話。
河合 すごいですね。
竹宮 プロになろうと決めたときに、それを焼いちゃいましたけど。これはやっぱり心情吐露であって、人に見せるもんじゃないと。
参照【対談:河合隼雄・竹宮恵子】
2016年05月19日 京都精華大学アセンブリーアワー講演会にて
そのころに、「ぼくはハヤブサ・純」という、ちょっと少年探偵団のような話のマンガを描いてました。1話につき16ページから32ページくらいのシリーズもので、98話まで描いていましたが、結局、ただただもう恥ずかしくて、すべて燃やしてしまいました。
参照【竹宮惠子による講演】
2021年03月「扉はひらくいくたびも」28-33ページに以下の記述あり
(図版に続いてテキスト抽出あり)
3.漫画家への道
30ページの複雑ドラマ
中学生になると、ストーリーマンガを描くようになります。今思えば恥ずかしくて口に出せないようなストーリーです。例えば双子の片方がさらわれて、もう1人が助けにいくとか、そんな稚拙な物語でした。私だけしか読まないから描ける話ですね。
その頃、テレビで外国映画が放映されるようになったので、よく見ていました。中学2年か3年の時には、話が全部つながっているシリーズものも作り始めました。一つの話が30ページぐらいで、高校に入る頃には80数話にもなりました。
当時の少女マンガでは、バレエものが人気テーマでした。そこで、姉がバレリーナ、弟がウィーン少年合唱団員という姉弟を主人公にして物語を作ったことがあります。よく見ていた外国映画の影響もあったのでしょうか、すごくドラマチックな作品に仕上がりました。
当時、学校で「あの映画は面白かったよね」と話す友人がいました。ふと、その友人にこの作品を見せたらどうだろう、と考えました。いきなり持っていって見せるのは恥ずかしいし、ちゃんとできているかどうかもわからない。そこでストーリーを話して聞かせました。
すると友人は「そんな映画あった?」って言いながら私の話をずーっと聞いてくれました。そして「すごく面白いじゃない。そんな映画私見なかったけど、いつやってた?」。
そう言われて初めて、「実は自分が作った」って白状しました。マンガに描いてあると話すと、彼女が「ぜひ見せて」と言うので、家に遊びに来てもらいました。他人に自分の描いたマンガを見せたのはその時が初めてですね。
石ノ森作品 バイブルに
中学2年生の時に、講談社の第1回新人漫画賞に応募してみました。
(註:1964年「少年マガジン」「ぼくら」「少女フレンド」「なかよし」四誌共同公募の第一回講談社少年少女漫画賞 )
結果は「もうひと息」で落選。名前だけが誌面に載りました。賞を取ったのは、高校2年生だった里中満智子さんです。その作品『ピアの肖像』は、吸血鬼が出てくる物語で、洋画みたいで格好良かったです。里中さんと自分の力量の差がよくわかりました。
【竹宮惠子:漫画に興味を持った時期】
また、自身が漫画に興味を持った時期については竹宮が発言した年齢や媒体によって以下のように差異がみられる
参照【竹宮惠子:漫画に興味を持った時期】
「漫画に興味を持ったのが遅くって高校生の頃でした」
*参照【対談:里中満智子・竹宮恵子】
「子供のころから石ノ森を読んでいた」
*文化庁メディア芸術プラザ|Manga Meister - Vol.2|竹宮惠子インタビューでの発言
「中学時代からコマを割って物語として本格的に描き始めていた」
*手塚るみ子(手塚治虫の娘)の番組:2008年11月放送
「五つぐらいになると、近所の理髪店などで、置いてあるマンガの本を片っ端から読むようになり」
*2021年03月「扉はひらくいくたびも」19-20ページ
五つぐらいになると、近所の理髪店などで、置いてあるマンガの本を片っ端から読むようになり、髪を切りにいくとなかなか帰ってこないね、とよく母に言われました。近所に住む年上の女の子にマンガの本を見せてもらうこともありましたね。
最新コメント