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【竹宮インタビュー:少女マンガパワー!展目録】2007年10月14日(57歳)



竹宮惠子インタビュー
取材日:2007年10月14日取材
(図版に続いてテキスト抽出あり)
資料提供
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/164353...








ーマンガ家になられたきっかけをお聞かせください。

竹宮 やっぱり石ノ森先生の「マンガ家入門」を読んで、確実に固まったということはあります。 中学3年ごろだったと思います。それまでは自分の楽しみでこっそり描いていたのですが中学3年のときに投稿してるんですよ。実は里中満智子さんがデビューされたときとまったく同じ回の講談社の新人賞に。

ーそれは何を描かれていたか覚えてらっしゃいますか?

竹宮「水鳥」ってタイトルだったと思うんですが。日本が舞台で。ジャクリーヌ・ササールのまっすぐな髪が好きで、そういう少女が出てくる話でした。もうどんなストーリーだったのかは、ちょっとよく覚えていないんです。全然ダメでしたね。

一大学の教育学部に進学なさっていますよね。

竹宮 母が、マンガ家なんて、そんな水商売はダメ、と言ってました。「紅にほふ」という作品にも描いたんですが、うちはもともと客商売の家系なので、それが大変なことをわかっているから余計にね。でも私はできれば早くマンガ家になりたかった。同人誌活動もすでにしてて、それを母も知っているけれど、四国の田舎にいて、プロになれるなんて二人とも思ってなかったんです。でも私は修学旅行中に石ノ森先生に会いに行ったり、同人仲間と会ったりしているうちに、もしかしたら可能性はあるのかもと思い始めたんです。それでもう一度応募してみることを考えたのが、高校3年のときでした。同じ頃、母に「大学いくのか、就職するのか決めろ」って言われて、まだ大学のほうがマンガ描く時間があるかも、と思って慌てて試験勉強をしたという(笑)。戦略を立てて、色々考えた末、教育学部の中学校の美術課程を選びました、絵で得点できるから。

一 一般的にデビュー作は「リンゴの罪」でいいのでしょうか。

竹宮 私は『COM』掲載の「かぎっこ集団」と、『週刊マーガレット」増加に掲載された「リンゴの罪」と両方をあげてます。

ーその頃は投稿をたくさんなさっていたんですね。

竹宮 そうですね。ほとんど同じ頃に応募して、「かぎっこ集団」のほうは 『COM』の月例新人賞というところで通ったんですよね。で、その結果がわかった頃ぐらいに、私の作品をたぶん同人誌の中で見るきっかけがあったんだろうと思うんですけど、西谷祥子さんから直接「『週刊マーガレット』 に応募しませんか」って手紙をいただいたんです(参照【竹宮:西谷祥子先生から直筆の手紙が届いた】)。西谷さんはすごく好きな作家さんだったし、そこまで言われたら投稿しないわけにはいかないと、受験勉強ほっといて(笑)即座に描いて出しました。それを倉持さんっていう編集の方が拾ってくれて、佳作入選したんですよ。それで、こちらが早く雑誌に掲載されました。倉持さんはずっとそのあとも、新人である私の原稿をよく使ってくれました。『小説ジュニア』のほうでとか。

一倉持功さんは少女マンガの世界にすごい貢献なさってるんですね。

竹宮 ああ、そうですよね。マンガを「小説ジュニア」の中に載せるっていうこと自体、初めての試みでしたから。私は初めての試みっていうのによく会うタチなんですけど。徳間書店のムック本「竹宮恵子の世界」とか、少女マンガでは最初です。それとか、「フラワーコミック」って本があったんですが。「プチフラワー」という雑誌の前身みたいな雑誌ですけど、その立ち上げのきっかけの時にも声をかけられました。あと「JUNE」も。

一そういうときに声をかけたくなる方なんですね。

竹宮 山本順也さん(小学館の少女マンガ担当の名編集者)は私のことをチャレンジャーだって言うんですけど、そういうところにおいたのは誰なんだって私はいつも思うんですよ(笑)。山本さんが徳島に足を運んで来られなかったら、東京に出ていかなかったと。田舎が好きで、東京のガヤガヤしたところで泳いでいけるほど器用じゃないなと思ってたんで。

ーデビューなさってから一番嬉しかったことは。

竹宮 嬉しかったっていうか、あ、こんな世界なんだなって思ったのは、「ガラスの城」の受賞パーティーに出席したときですね。わたなべ先生のファンでした 。で、初めてそういう大マンガ家さんっていうのを拝見したんですけど、そのときにほんとに、バラの花びらのような薄いピンクのパンタロンスーツを着てらして、すごいきれいだったんですよ。いや一華やかな世界なんだなーって思って、それこそ上田トシコ先生とかもおられて、みんな華やかで、みかん箱の机で描く世界だと思っていたのにって。マンガ家の地位の低さみたいなのを、なんとなく感じていたので、別に必ずしもそういうわけじゃないんだなって、売れればちゃんと認めてもらえるんだなって、逆に思いました。

一わたなべ先生はどんな方だったのですか?

竹宮 わたなべ先生はですね、私にとってはほんとに一番最初に真似をしたマンガ家さんの一人なんですよね。「やまびこ少女」の絵がそらで描けましたよ。あの世界っていうのが、私にとってはすごく憧れでした。着物がすごくきれいで。上品な大人の女性を描ける人です。

ーマンガ家になられて、悔しかったこととか、悲しかったことなどは?

竹宮 そうですね、悔しかったことはやっぱり空回りしてた頃かな。「こうな、りたい!」という理想はあるんだけど、そこに行く道が見えなくてイライラしていた。「空がすき!」の二部を描いていた前後(1972年の末)ですね。足りないものがいっぱいあるっていうのだけがすごくはっきりわかっていて、知らなきゃいけないことばっかり山のように確認できて。描く作品描く作品が気に入らない時代でしたね。

一短編を多くお描きになっている頃ですね。

竹宮 もうこの時すでに「風と木の詩」を描きたいと思ってるんですよ。でも描く力が、実力がないと思いました。今やったら駄目、失敗すると思ってて、大切だからやりたくないし、でも描きたい、だからそれのための練習、習作のようなものをずーっと描いてたんですね。

一これだ、っていうものを描けたように感じられたのは。

竹宮 「ミスターの小鳥」(1976年)で制御しきれたなって。私はちゃんとした脚本の作り方も勉強せず、描いて描いて勉強していったほうなので。それと違って、萩尾さんは最初からしっかりお話づくりができてる人で、すっごいうらやましかったです。どこでどう勉強すれば、それが得られるのかも知らなくて。今もこのカバンの中に脚本の本持ってますよ。学生に教えるためなんです…。

一竹宮先生が人を指導なさるのが上手なのは、ご自分で模索なさったからなんですね。

竹宮 やっぱり自分がどれだけ苦労したかわかってるので(笑)。

一その長いスランプの時期をどうやって越えられたのですか。

竹宮 スランプのときっていうのは、すごいつらいです。でも克服するために描いてるんだっていうことですよね。今回も駄目かもしれないけどやってみようっていう、それだけですね。気ばらしして克服できると思ってないので。ただ、近くに、一時期私のアドバイザーをしてくれていた増山のりえという友人がいて、私があまりに煮詰まって体重が40キロ切りそうだった頃、連れ出してくれました。そのときね、60万はたいて毛皮買ったんですよ。「いいなー」って私がちょっと興味を示したら、彼女が「買えば」って。それで、買っちゃった。そこまでのことをしたらようやく気が晴れた。それをさせる増山ってすごいなと思いました。

一すごい。「明日から生活するために、また仕事をしなさい」みたいな感じなんですね。

竹宮 そうですね。同じように「空が好き!」の二部を終えた時、ヨーロッパ旅行に行きました。得るものが欲しくて行ったんです。そのときに自分の中になにもないことがすごくわかっていたんで。何かをいっぱい詰めこんで帰って来るんだから、一銭もなくなってもいいやと思って。ほんとに帰ってきたとき、500円もなかった。スカッとしましたね。稼がなきゃって気になったから(笑)。

ーどんな旅行だったのですか?

竹宮 萩尾さんと、増山と、山岸凉子さんと一緒にヨーロッパに行きました。その時、山岸さんに「アラベスク」の連載で絵柄を変えたのはなぜかって聞きました。それまではどっちかというと、大和和紀さんに似た絵を描いていらしたんです。そしたら「私はもともとこういう絵なの」って、それが私の個性だけど、今まで編集さんに止められていた。けどこれが私の本当の姿だからって。連載する時、「駄目だったらあきらめる、絶対1位とってみせる」ってはじめたそうです。その時、仕事としてそこまで自覚することって、すごい必要なことなんだなって、つくづく思いました。

ーじゃあ、先生の勝負時はいつでしたか。

竹宮 私はやっぱり「風と木の詩」でしょうね。ほんとに勝負したのはその時だと思います。「ファラオの墓」のときは、「風と木の詩」のために1位を とるまでやる、と思ってやっていました。「一般に受ける」ってどうすればいいのかを探ってたのが「ファラオの墓」ですよね。ナイルキアとスネフェルが恋に落ちるシーンをものすごく大事に描きました。私は恋愛シーンがすっごく苦手だったんですが(笑)。でも、しっかりした恋のシーンがあると、すごく反応があるんだなって、その時実感しました。

一少女マンガの特徴って何だと思われますか。

竹宮 少年マンガとの違いはやっぱり、読者が少女だっていうこと(笑)。少女はこっちを向いてもらうのがものすごく難しい対象だと思うんです。彼女達が好きなことを具体的に見せることさえできれば簡単に向いてくれるんですけど、でも狙っても微妙なバランスなのですごく難しい。ただ、一回興味を持って、こっちを向いてくれたらしばらくは見ててくれるっていう安心感があるんですね。だから、「発見してもらうこと」が、少女マンガにおいては少年マンガよりも大事ですね。

一近年、少女マンガが海外で受け入れられつつありますが。

竹宮 このあいだ「地球へ…」の刊行の関係でアメリカにサイン会に行ったので、ファンの人たちに会うことができたんですが、海外のマンガファンというのは、日本の少女マンガのファンとすごく似ていると感じました。こっちを 向いてくれるまでは大変だけど、もう気づいてくれたので、こういう人たちは力になるって思いました。絶対離れないという感じ。あと、日本式のマンガを海外に根付かせようとしているトーキョーポップという会社の編集さんでボーイズラブ担当をしている、青い目の女性に会いました。彼女はなんでボーイズラブを読むのかっていうことについて、はっきりした意識をもっていて、「男女の物語を読むと、自分は女だからどうしても女に感情移入しなければいけない。でも、男同士の話だったらどっちに入れ込んでもいい、だから読むんです」っておっしゃっていて、それはすごく的を射た意見だなーって思いました。

一美術館でマンガを展示することの意味や、楽しい展示にするためのアイデアなどを、できればお聞かせください。

竹宮 そうですね、そのマンガはどういう時代にどんなふうに受け入れられてたのかなど、美術館ですからそういう歴史的、社会的なことを見せてほしいですね。

一原画(ダッシュ)をはじめられたきっかけは。

竹宮 最初はごく個人的な理由でした。自分のカラーがどんなに凝っていても、それが印刷ではぜんぜん出ないんですよ。中間色とかが。出版物を全部自分に合わせてもらうわけにはいかないから仕方ないんですが、でもいつもずっと不満で。コンピュータっていうものがでてきて自分でも使えるようになって、もしかして調整をしたら、ちゃんと自分の思う色が出るのかもしれない、と思ったんです。昔の絵を取り込んで、それをハガキにしようという様なちょっとした作業の中で、それをやってるうちに、ぴったりの色が出るようになって来て、ずっとやっているうちに、だんだん楽しくなって今までの恨みを晴らしてやる(笑)、なんてそういう感じになったというか。

ーそこからアーカイブ的なものにする方向に考えが発展したのはどうしてですか。

竹宮 きれいで原画そっくりのものを、小さくしたら机の周辺とかに飾れるんじゃないかと思って、それを個展に出したんです。そしたらほんとに一瞬で無くなっちゃって。みなさん欲しがっていらっしゃるんだな、と。そうこうしている内に、同じふうに印刷に不満な作家さんはいっぱいいるだろうな…と思い始めたんです。私は原画の色の説得力っていうのがすごい好きだったんです。もちろん石ノ森先生の家でも原画を見ていたし、他の方のもね。山岸さんのところに電話をかけて、印刷に色がちゃんと出てるかどうか聞いてみたこともある。そしたら山岸さんもすごく不満を持ってた。「出ないよね、やっぱりね」みたいな話をずっとしてきてたので(笑)。他の人のもそうやって作ってみたら、もっと別な意味が出てくるんじゃないかって。印刷の不満以外にも、自分の原画が無くなったり、破損したりとかいう話も聞くので。それが本当に起きてしまう前にアーカイブするべきじゃない かなって。それと同時に、プリンターで印刷するっていうことは、陽の光にも強いし、水にも強いものができるというメリットもある。マンガの原画は元々飾るためには出来ていないので、脆いんです。そういう意味で、原画よりきちんと取っておけるものになるかもしれないと思って。

ーホワイトの修正の跡であるとか、鉛筆の書き込みがあるとか、そういう部分もそのまま印刷して修正しない。それがダッシュでしょうか。

竹宮 私の規定としては「原画(ダッシュ)」はそうあるべきだと考えています。原画そっくりに出ているものであれば、ダッシュといえると思います。まだ「これがダッシュである」とキチンと定義づけしているわけではないですけど。ダッシュかどうか認定できるのはまず、それが原画から起こされたものであること、いうことですね。そして原画の持ち主が、ダッシュですと認めて、裏書で証明してくださればダッシュだということになると考えています。

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