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【竹宮恵子:ライフヒストリー】
テレビランド増刊イラストアルバム5 竹宮恵子の世界


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テレビランド増刊イラストアルバム5 竹宮恵子の世界
出版社:徳間書店
発行日:1978年05月30日

資料提供
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/163456...




テキスト抽出にあたり、竹宮発言と編集部の解説をわかりやすくするためそれぞれの冒頭に「編集」「竹宮」を付加しました

ライフヒストリー
「竹宮恵子の世界」37ページ


★最初の漫画

編集:竹宮恵子が、最初に自分の漫画と呼べるようなるのを描いたのは、小学3年生のころであった。それは、自分の描いた人形にふきだしをつけた程度のものであったけれど……。

竹宮:小学1年生のころ、私の家では少年少女文学全集を毎月とっていました。でも”りぼん”や”なかよし”などの漫画は買ってもらえませんでした。優等生的教育方針だったんですね。いつのころからか、貸本屋の渡り歩きが始まって、1月に2冊ずつくらい漫画を読むようになりました。わたなべまさこさんの”白馬の少女”が印象的でした。そして、いつのまにか、自分の描いた人形の気持ちを表現するには、ふきだしをつければいいんだ、と自然に思うようになっていったんです。

編集:こうして、ごく自然に生まれた一コマ漫画が、中学生のころには鉛筆描きではあったが、コマ割りのストーリー漫画にかわっていった。月1本のペースだったという。

竹宮:中学3年生のとき、こんな漫画を描いたんですよ。ひとりの男の子と女の子が交際を始めるんです。ところが、男の子がヨットにのっている最中、事故にあって記憶喪失になっちゃう。でも、最後には記憶がもどって、ハッピーエンド、というストーリーでした。これを、友人にきのう見た映画の話だといって話すことにしたんです。その話、休み時間ごとに友人に話したんですけれど、授業が終わるたびに『つぎは、つぎは』と催促するんですよ。うれしかったなあ〜。このとき以来、自分の世界で他人を説得、魅了する味をしめちゃったんでしょうね。


★仲間たちのなかへ

編集:竹宮恵子が本格的漫画を描くようになったのは、石森章太郎の”マンガ家入門”を読んでからである。

竹宮:石森先生の漫画への情熱が伝わってくるこの本が、とても気に入りました。そして、読み終わったあと、私もどうしても仲間がほしくなって、先生に手紙を書いたんですよ。「どこでもけっこうですから、同人誌を紹介して下さい」って。先生は顧問をしてらした、宝島という同人誌を紹介して下さいました。

編集:竹宮は、漫画家たちがひしめく東京に自分がいないというあせりと、ペンを動かすことの喜びにつきあげられるように”宝島”にせっせと原稿を送った。「ナイーダ」「水鳥」「エスパーくん」など多くの作品が”宝島”をうめていった。そして、いつのまにか”宝島”内で、彼女は質量ともに、エース格となっていった。
当時、少女漫画界は、高校生の里中満智子が”少女フレンド”で新人賞を受賞してはなばなしくデビュー。出版社は、若い才能に注目し始めていた。高校生でプロになる現象が流行し、20歳を越えたら新人としてデビューできないとまでいわれていた。

竹宮:里中さんの「ピアの肖像」は私のニガ手な分野である心霊、怪奇のファンタジー世界の作品でした。『私に描けない分野をこんなにおもしろくかけるなんて、スゴイ!!』とショックでした。でも、私だって描いてみせる。私だって高校生のあいだにデビューしてみせる。こう思ってがんばって描きました。


★あこがれの第一歩

編集:同人誌でエース格となると、つぎに商業雑誌に目をむけるようになった。そして、いまではまぼろしの名誌と呼ばれる”COM”に投稿し、実力を問うことにする。”COM”は当時、漫画家の登龍門であり、この本の新人賞に入ることは名誉でもあり、漫画家としての第一歩でもあったからである。結果は「ここのつの友情」が佳作入選。

竹宮:近所の洋館に、隠れるように外国人の子どもが住んでいました。子どもたちは金髪が美しく、ロマンチックで、私のあこがれのまとだったんです。だから、なぜ人目を避けるように生活していたのか不思議でした。この経験と、山中恒の”青い限”を読んでの感動が重なってこの話が生まれたんです。

編集:”COM”に入選した竹宮は、より広い読者をもつマーガレット、へ投稿する。「リンゴの罪」が、一度の投稿ですんなりと掲載決定、竹宮恵子、本格的デビューであった。



「竹宮恵子の世界」39ページ


★青春のまっただなかで

編集:高校卒業後、プロ生活に入ろうと、彼女ははりきっていた。しかし、両親は漫画家という不安定な道に進むことに反対。そこで、漫画を描きつづけながらも、一応、大学進学を決めた。試験科目のデッサンに自信のあった、国立徳島大学教育学部美術科を受験。落ちたらプロになる気でいたので、受験勉強などしないでいたが、なぜか合格し、大学生活をスタートせざるを得ない状態となった。
こんな入学のしかたではあったが、大学での2年間は、竹宮恵子ののちの創作活動にかなりの影響をおよぼしたのである。

竹宮:いつもテニスシューズをはいていたステキな人と恋愛もしたし、ダンスパーティにも通ったし、青春のまっただなかという感じでした。特に私にとって忘れられないのは、70年安保闘争を経験したこと。まわり中が「国家とは?」「人間としてどう生きるか」と熱っぽく語り合っていたので、私自身も懸命に考えて、自分なりの生き方、方向性を見つけようとしました。”漫画家になりたい”といえば ”じゃあ、きみは漫画を通して何をするんだ?””漫画なら、ラジカルな思想をもつ白土三平のような漫画を描け”といわれたり、多くの課題が山積みされました。悩むあまり、作品が描けなかった時期もありましたね。

編集:このような問題をかかえこみながらも、竹宮恵子は、漫画家として作品を発表するようになる。徳島の彼女のもとに、出版社からの原稿依頼も入るようになった。


★出会い、そして、ジャンプ

編集:新人ばなれした技術と、いままでにないジャンルを描く個性の持ち主として、竹宮恵子は各出版社の注目をひいていった。徳島の彼女のもとへ誘いの手がかかってきた。そのな かでひとりの編集者が彼女の心をとらえた。それは、創刊してまもない”少女コミック”の編集者だった。

竹宮:彼と会って、ああ、この人、何かやりそうだなという手ごたえを感じました。それにできたばかりで、海のものとも、山のものともつかない雑誌なら、自分を主張することができると思いまして……。

編集:この編集者とは、後日、萩尾望都、大島弓子を開花させた現少女コミック編集長・山本順也氏であった。
こうして、竹宮恵子は、”少女コミック”を中心に本格的プロ生活に入るようになった。そして、初の週刊誌連載「森の子トール」(少女コミック)をきっかけに山本氏の誘いもあり、徳島大学を2年と3ヵ月でいさぎよく中退して上京したのである。


★最初の陰り

編集:本格的なプロ活動をはじめて2年のあいだに、連載6本、読み切り1本という多作ぶりを竹宮恵子は器用にこなしていた。しかし、この器用さが、時として不幸になることを彼女は知ることになった。それは、ある友人のつぎのような言薬に端を発していた。
『あなたの作品は、いつも頭で発想している。ラブコメでも、時代ものでも、頭のいいあなたは、小器用にまとめあげている。でも、本当の漫画の作り方は、そうじゃないはずだ。もっと、からだの奥底からつきあげてくるものを契機にして生まれてくるべきものだ。自分の感性、本心の叫びを大切にしなさい。』
この友人は、つぎのようなこともいった。
『私は99%の努力と1%の才能とをくらべたら1%の才能が勝つと思う』
この言葉に、彼女は迷い始める。「私に才能というものがあるのだろうか」「私の本心の叫び、つまり、私自身とは、何なのだろう」と。最初のスランプへの突入である。
しかし、悩みはかかえながらも、プロとして仕事はつづけねばならなかった。悩みは作品にあらわれる。「魔女はホットなお年頃」は、一本の作品でありながら、コメディや、イメージだけを追ったファンタジー、そしてシリアス、最後はホームドラマになるという内容の多様さである。方向をさぐる作者の心情がそのままあらわれている。


★少年を愛す

編集:上京後、桜台にアパートを借りて半年間は一人暮らし。その間に、萩尾望都と知り合い、二人で練馬区大泉学園に下宿するようになる。萩尾望都との出会いは「アストロ・ツイン」を連載中のことであった。ある編集者が、デビューしたての新人・萩尾望都を紹介してくれたのだ。
二人は、私たちの描きたい漫画は、現在の少女漫画とは絶対に違う、もっと違うジャンルを、思想のある漫画をと、意気投合し、「同居してがんばろう」ということになったのである。
萩尾望都との出会いと同時に、もうひとり、 竹宮恵子にとって欠くことのできない出会いがあった。萩尾望都の友人・増山法思さん(現マネージャー)との出会いである。
『あなたの作品は、支離滅裂だが、少年だけは、ビクッとするほど魅力がある。いまの少女漫画にはかわいい少女は登場しても真に少年らしい少年を描いている人はいない。あなたなら少年同士の心のふれあい、少年愛が描けるかもしれない』
長いあいだの悩み、自分の感性をつきつめたところにあるものは何なのか、という問いに、1つの結論がでた。

竹宮:私は少年同士の心のふれあいが好きだ!! これを描きたい!!

編集:ある晩、竹宮恵子は、新しいストーリーを、8時間という長電話で増山氏に語って聞かせた。これこそ「風と木の詩」の誕生であった。しかし、少女漫画に男女のキスシーンでさえ はばかられた当時、少年同士のベッドシーンから始まる「風と木の詩」の構想を編集部が扱うはずがなかった。
竹宮は、まず、そのときとりかかっていた読み切り漫画を、どたん場で、少年と少女の友情物語から少年愛の色濃い物語へと変更した。編集部は、まっさおになった。書き直させたくても、時間がなかった。「サンルームにて」 (旧題「雪と星と天使と」)は、こうして世に出た のである。
この作品「サンルームにて」は、編集部に、少年愛という内容を含むスキャンダラスな作品「風と木の詩」を扱わせるための一つの布石であった。構想上でも、セルジュをすでに創り上げ、ジルベールの変形エトアールを登場させるなど「風と木の詩」へのスタートをきっていた。
さらに、画風の上でも、一つの幅を広げることになった。石森章太郎の影響による太めの、のびやかな線だけでは「風と木の詩」は表現できなかったのだ。もっと繊細なペンタッチの線が、ここで始めて登場する。


「竹宮恵子の世界」41ページ


★”タグ”という名の少年

竹宮:少年が好きなんじゃない。自分が少年になりたいんだわ。

編集:人間同士の心のふれあいとしての少年愛を一つの方向性として見きわめた彼女は、その感性の奥深くで、自分が少年でありたい、少年と同じ体験をしてみたい、と願っていることに気づいた。

竹宮:「空がすき!」の主人公・タグは、当時の私そのものでした。私は、ふつうの女性のように、家庭や結婚に縛られるのがイヤでした。もっとボヘミアン的に、もっと自由気ままに生きてみたかったんです。だから、現実の社会状況のなかで私にできないことを、ぜんぶタグにやってもらったのです。着てみたい服を着せ、歌いたいうたを歌わせたのです。

編集:このようにして生まれた「空がすき!」の連載は10回の約束だった。読者の反応は、はかばかしくなかった。連載漫画は、読者の好評を得ればどこまでもつづく。竹宮は、この作品でタグの周囲のパリっ子たちの話を描き、マルチ方式的に作品を長編化させたいと望んだ。しかし、編集部は読者の反応を見て、予定どおり10回で連載を打ち切った。打ち切ったとたん、ワッと人気がでた。当時、ある編集者が、こうなげいたという。
『竹宮の作品は、発表直後は人気がでない。発表1年目、漫画家仲間たちの内容的コピーが始まる。2年目、編集部が竹宮の作品に類似する作品の多さに、気づきだす。3年目、 多数の読者が竹宮作品をドッと支持する』
それでも、自分の描きたいものを見つけだした竹宮恵子は、少年を主人公につぎつぎに好短編を発表した。

「ガラスの迷路」
竹宮:この作品の主人公マモルも、タグとはまたべつの意味で私自身でした。当時、熱気にあふれた友人たちに選まれた大泉サロン(後述)のなかで、私の感性を掘りさげた世界は皆と少しずつ違うことに気づいたのです。たとえば、サロンではレイ・ブラッドベリがもてはやされました。でも、私は「アトムの子ら」や「スラン」「宇宙船ビーグル号の航海のようなSFが好きでした。サロンでの共通話題であった少年についても、私は健康的なケストナーの小説のなかに出てくる少年が好きだったのですけど、サロンでの大勢はヘッセの小説中の少年のように、線が細い貴公子タイプの少年が美しいとされていたんです。 こんなふうに全体の流れのなかでとり残されていく感じを受けました。私にとって、自分の感覚を人に理解してもらえない。支持してもらえないことは、とてもしんどいことでした。このころから、2度目のスランプにはまっていったように思います。私は、自分の気持ちをわかってくれる人を求めました。それが、この作品でマモルが友だちを求めてさまよう姿にオーバーラップしています。

「暖炉」
竹宮:レイモン・ラディゲの「肉体の悪魔」を読んで、その感想文として描いた作品。

「もうっ、きらい!」
竹宮:某少女漫画家が自作のなかで『あん、愛してる』というセリフを使っているのを見て、その使い方が、「うまくない」と感じたんです。で、私ならこう使うわ、という意味で描いた作品です。


★若い熱気、大泉サロン

編集:かつてときわ荘、があった。安いアパートに、手塚治虫、石森章太郎、藤子不二雄、赤塚不二夫といった若者たちが集まって、日夜、漫画への情熱を燃えたたせていた。いわば、その少女漫画家版が大泉サロンである。
東京・練馬区南大泉の一軒長屋に、竹宮恵子と萩尾望都が住みついた。二人とも、まだ新人ではあったが、その絵柄においても、またジャンルにおいても、当時の少女漫画にはなかったSF・ギャグを描くということで、 個性的であった。現状の少女漫画に不満を抱いていたマニアたちが、二人に注目しだした。
マニアたちは、二人を訪ねて作品観、世相観を話しこんでいくようになる。そしていつかこの下宿は、大泉サロンと呼ばれ、ささやななえ・山田ミネコ・山岸凉子・伊東愛子・坂田靖子・花郁悠紀子・城章子・佐藤史生・たらさわみち、といった漫画家、そして、漫画マニアたちのたまり場となっていった。
『あそこは汚なくって男ぽくって、女性が住んでるとは思えなかったよ。でも、漫画についての討論は迫力あったなあ。萩尾さんは、その討論で得たものを必死で作品に反映させようとしていた。竹宮さんは、わりとマイペースで描いてたよ……』 当時、サロンに通った一ファンはこんなふうに語っている。


★作家と作品、この不思議な関係

編集:「空がすき!」の人気は連載終了後もいっこうに衰えず、続編を望む声が高まった。編集部が第2部を描くよう申し入れてきた。しかし、竹宮に描く気はおきなかった。

竹宮:タグのように、そのときの自分と密着しているストーリーは、描くタイミングがあるんです。最初の連載のときは、描きたいことが山ほどあったのに、10回で終わらせろというのでギュッと濃縮して描いたんです。それをもう一度、ふくらませろなんて…。無理です。

編集:読者の強い希望で「空がすき!」第2部をスタートさせたとき、彼女は最初ほどの情熱はなかったのだ。それでも、読者が喜んでくれる作品にしようと、必死で努力した。
そして、第2部をやっとの思いで仕上げると竹宮恵子は、初のヨーロッパ旅行へ、萩尾、山岸、増山氏らと出発した。自分の感性が他の人間とはちがうという不安による2度めのスランプからの脱出の期待をこめて……。
ヨーロッパの石畳の冷たさ、天井の高さ、ドアのとっ手の細工、カーテン……など細かい部分が、後の作品を描くうえで大いに役立った。しかし、当時の心の不安は、やはりこの旅行でも埋まらなかったのである。スランプはますます深まっていった。


「竹宮恵子の世界」43ページ


★ひとりぼっち

編集:少女漫画界に異変がおこってきた。若い作家の新ジャンルの漫画が、受けはじめたのだ。
「ポーの一族」による萩尾望都の成功、大島弓子の台頭、この二人の活躍は、少女漫画の画風をガラリと変えていった。繊細なペンタッチと女性独得のイラストふう画面を大流行させたのである。
しかし、少年漫画の、特に石森章太郎の躍動的少年をみごとに描くテクニックを、竹宮恵子は好んで使った。内容も、ヨーロッパ的精神主義より、カラッと明るい生命感あふれるものを好んだ。が、世間の大勢、読者の大半が流行に合わせた作風を要求してきた。『あなたの絵は古い』『線があらあらしく、汚ない』『動きが多過ぎて、読みずらい』と……。
大泉サロン内で、彼女が不安に感じていた”自分の感性が全体の流れとちがう”という不安が、より巨大な力でのしかかってきた。

竹宮:才能のあるなしの悩みは、作品を描きつづけていき、作品のなかで問いつづけ、証明していくことができます。自分の求めるものは何かという悩みは、自分自身の感性への追求のなかで発見していくこともできます。でも『持ち味を変えろ』という要求に対する悩みは、解決を見ることはありませんでした。自分の感性を曲げることは、どうしてもできなかったからです。

編集:竹宮は、一つの結論をだした。

竹宮:少女漫画が、このまま一方向に流れていくとは思わないわ。いつか、この流行にあきて少年漫画ふうのダイナミックな画面を求めるファンが出てくる。それまで、描き手として生きのび、待つしかないんだわ。

編集:こうして彼女は自分をまげ、画風を変えさえすれば、のりこえられたこの低迷期を、あえてひきうける形となる。流行というバスから飛び降りたのである。萩尾望都と同居すれば、どうしてもその絵柄や内容に類似点がでてくる。竹宮は萩尾望都と離れた。必然的に、大泉サロンも解体。彼女は流れに追われながら、自分の持ち味を再点検することになる。


★闇の中への急降下

編集:このころ、彼女は「ウェディング・ライセンス」や「ブラボー!ラ・ネッシー」などのコミカルな話を描いた。

竹宮:どんなに精神状態の悪いときでも、描くことだけは、やめない。そして、描く以上は読者を楽しませる作品を描こう。

編集:と、自身をムチ打った。しかし、漫画界の流れのなかで自分の位置が見いだせない、という苦悩は頂点に達した。必死で、自分を支えようとする気持ちが、主人公の口をかりてつぎのように語らせる。
”流れのままに流れてきたニコルの恵まれた天才より、自分で運命を選び、自分で流れをかえてきたあなたのほうが……。” (ロンド・カプリチオーソ マチアのことばより)


「竹宮恵子の世界」45ページ


★新しい気持ちで……

編集:長い長いスランプ期。自分の位置がつかめなかった竹宮恵子にやっと転換期が訪れた。
竹宮恵子は”少女コミック”専属の作家と思われてきた。当時少女漫画家は、一社の専属となっていて、他誌には作品を発表しないことが、常識とされていた。そんな竹宮のところへ”花とゆめ”編集部から作品依頼が入ってきたのだ。
『新しい気持ちで作品に挑戦してほしい』という花とゆめ、小森編集長の言葉が、竹宮恵子にとってなんとうれしくひびいたか……。

竹宮:小森さんの新しい気持ちでという言葉は”花とゆめ”が、新雑誌ということと共鳴しあって、私の新しい世界がひらけるかもしれな
いという希望をうみました。久々の他流試合ということも、私のファイトをかきたてたんです。

編集:大学時代の教育実習経験を作品化した「つばめの季節」が、こうして生まれた。この作品をバネにしたかのように、竹宮は波にのり始めた。音楽シリーズ「ヴィレンツ物語」誕生。このシリーズは、現在も継続中である。

竹宮:あのシリーズには、もっともっと描きたいことがあります。ウォルフの息子アレンとエドナンの息子ニーノとの宿命の出会いとボブの話とか… 楽しみにしてて下さいね。


★キャッチボール成功!!

編集:しばらくぶりで連載も開始した。「ファラオの墓」である。この作品は、大泉サロン解体後のスランプ期に描いた作品である。

竹宮:自分の作品が受けいれられないなら、大勢の人が読んでくれる作品って、こんなかしら。

編集:と描いておいたものである。それが偶然編集者の目にふれ、連載決定となる。

竹宮:この作品で私の読者層が変わりました。年齢的に若い、小学生、中学生のファンがついてくれたのです。小学生から『ナイルがかわいそう』『スネフェルなんて、きらい』などのかわいいファンレターをもらいました。アップが多くって、絵も華やか、題材的にも大ス ペクタクルということ、いわゆるエンターテイメント作品だったからでしょうか……。
「空がすき!」のころの私は、内容、絵柄の価値の高さをまず問題にする、いわゆるマニア受けする作家でした。でも、ごく一部の人にしか、受けないのは不満だったんです。もっと、エンターティナー竹宮恵子になりたかった。だから、このファン層の変化はうれしかったのです。作品を通してのキャッチボールの相手がふえるってことは、ステキなこと!!

編集:この連載を始めたころから、竹宮はスランプを脱出し始めた。仕事の依頼も急上昇的に増加し、彼女は、悩むヒマを自分に与えないかのように精力的に描いた。完全燃焼していた。平均睡眠時間5時間。つぎつぎに油ののった作品が生まれていった。

初の本格的SF 「ジルベスターの星から」
竹宮:これは、ラストシーンだけを夢に見て、ネームがスラスラと浮かんだんです。いつも、頭をかかえてネームを考えることが多いんですけど、この作品は、あっというまに創出しました。創作って不思議なものですね。

編集:さらに、”あなたにとって漫画が言葉、僕にとってピアノが言葉”というセリフに象徴される、竹宮恵子のメッセージ漫画「ウィーン協奏曲」など……。
この時期の忙しさは想像絶するほどだった。それでも、スランプの地獄の中で、のたうちまわった苦悩にくらべれば、幾千倍も楽であったという。読者の反応も確実に変化していった。『絵が古い』という評価が『あなたの絵は新鮮です。動きがあって、生き生きとしている』に変わっていったのである。

竹宮:私自身は、変わっていないのに……。


「竹宮恵子の世界」47ページ


★私のすべて「風と木の詩」

編集:好評のうちに「ファラオの墓」の連載を終了すると、残るものはただひとつ、念願の「風と木の詩」の発表である。あちこちの出版社に発表の場を求めたが、どの編集部も、衝撃的過ぎるということでオーケーをださなかった。しかし、彼女の7年間の熱意に、少女コミックの編集部がおれた。

竹宮:「風と木の詩」という作品は、一本の木だとおもうんです。枝葉がこんもりと繁った木なんです。人は、その人ごとに木をいろいろな角度から眺め、角度ごとに、その木のさまざまな表情を発見してくれると思うのです。つまり、いろいろな人間を発見してくれると思うんです。でも、私自身を、木の幹を見てくれる人はなかなかいないなあ。私自身でさえ、幹を掌握しきっていないのだから、しかたがないのだけれど……。

編集:この作品に、竹宮は現在の彼女のすべてを投入している。そして、描くことを楽しんでもいる。

竹宮:オーギュストとボナールの決闘シーンがいままで描いてきたなかで一番好き。オーギュストの犯罪をおかすときの冷静さに魅力を感じるから。私、人間の悪らつさを描きつくすことに快感を覚えちゃうんだなあ……。

編集:「風と木の詩」は現在も進行中である。多数の読者が、その読者の感性で、さまざまな人間に会い、竹宮自身と出会うのだろう。これからが、いよいよ楽しみな作品である。
この大作を描きながら、竹宮はデビュー当初からの夢だった少年誌への進出をはたす。”マンガ少年”「地球へ…」の連載開始である。

竹宮:ときどき「地球へ…」を描いている竹宮恵子といわれるんです。これ、どういうことだと思います? 少女誌に10年描いてきたことよりも、少年誌一誌に連載をすることが、どんなに大きな意味をもつか、少年誌と少女誌の浸透度のちがいかしら。
できるだけ多くの人に作品を読んでもらいたいと思っている私。その意味で、この連載はうれしかったのです。

編集:さらに、ヴィレンツシリーズの本格的月刊連載もスタート。「アンダルシア恋歌」「皇帝円舞曲」と作品が生まれていった。同じ音楽もの「アンドレア」も誕生。ウィーン少年合唱団好きの彼女ならではの作品。今年2月には、彼女はヨーロッパに渡り、ウィーン少年合唱団と単独会見を実現させている。その入れこみようがわかろうというものだ。
さらに新境地開拓とばかりに「リリカ」で大泉サロン時代の友人・奈知未佐子と共同でカラーイラストを発表しはじめる。

竹宮:これは、色の実験なんです。私の絵が、奈知さんの個性とぶつかると、色と色の境がソフトになります。私の絵もやさしくなるな、というかんじ…。私、他の人間との共同作業って大好き。いろいろな良さや悪さがでておもろしろい。私が、アニメーションを作りたいと思っているのも、この楽しさを味わいたいからなんです。


★これから私は……

編集:デビュー以来10年目を迎えた竹宮恵子のもとには、漫画の依頼のみならず、詩、エッセイ、レコード吹きこみ、新人歌手のイメージ構成など、多種多様の仕事が入ってくる。10年目にして、竹宮恵子の世界が広く世に認められるようになったのだ。
大学生だった竹宮が、当時の少女漫画に対し”もっとおもしろい漫画を”と感じ、少女漫画革命と呼ばれる質の転化を計ろうとしたころ、少数の人々だけが彼女を支持していた。

竹宮:少女漫画にも思想が必要です。漫画を通して、何を語りかけたいのか。作者のメッセージと、読者の反応がなければ漫画を描いている意味がないと思います。

編集:この信念をもちつづけてたことが、伝統を固持する編集者をも説得して「風と木の詩」を世に出し人々の支持を獲得したのだろう。

竹宮:漫画を描くことが大好きなんです。漫画を描くためだったら、どんなにつらいことも苦になりません。漫画以外の仕事もやっていきますが、主力はあくまで漫画です。漫画は、私の言葉です。言葉を発せずに、私、生きていくことはできないのです。

編集:28歳で新居完成、アシスタント常時3名、 時には10数名、ファンクラブ会員1200名、入会希望者700名、平均睡眠時間3時間、 いまやビッグネームの少女漫画家のひとりとなった竹宮恵子。けれども、彼女が”漫画”という言葉を発する限り、またいくつかのスランプを越えなければならないだろう。手塚治虫や石森章太郎が越えてきたように。
けれども彼女にはそれをはねかえす力がある。
少年のようなしなやかな力が……。
そして鋭い感性が……。
──翔べ、竹宮恵子、さらに、高く!!

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