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【竹宮恵子:自筆年譜 】
ぱふ1982年8-9号「特集竹宮恵子part2」(32歳)

ぱふ1982年8-9号「特集竹宮恵子part2」
発行日:1982年08月01日
出版社:雑草社


資料提供
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/163189...








昭和43年(1968年) 徳島大学教育学部美術科入学
『COM』に「かぎっこ集団」入選のあと、すぐ姉妹誌『ファニー』に連載を始める。大学にいた2年間、おつきあいをしていた人がいた。学生運動、社会問題に真剣に取り組み始め、マンガを描かなくなる。自分の中でケリをつけるまで描かないと決心したらしい。漫画生活に1年のブランク。(実際は完全なブランクではなく、メジャー誌に描いていなかっただけ。)

昭和45年(1970年) 上京
ブランク明けに描いた1作「ラブ・バッグ」が他の編集氏の目にとまり、本格的なメジャー誌連載が始まる。「森の子トール」「魔女はホットなお年頃」。「魔女…」の打ち合わせに千里丘陵のTV局へ行き、ついでに万博見学。連載漫画家にはなったものの、どうやって自分の個性を出したものか悩む。友人、増山法恵と出会い、大泉サロン(?)創設。

昭和46年(1971年)「空が好き!」連載開始
増山の吹きこみ(?)で、少年を描くことに専念し始める。試行錯誤の連続。スランプ前哨戦。

昭和47年(1972年) 初渡欧
「風と木の詩」を描きたい、という想いを抱えながら他の作品を描くことに疲れ、ヨーロッパへ脱出。しかし、スランプはますます悪化。結局大泉サロン解体に至ってしまう。輝きと戦いの詩、自己嫌悪と自尊心に満ちみちた2年間よ サヨウナラ。

昭和48年(1973年)「ロンド・カプリチオーソ」
主人公ニコルを描くはずが、スランプの苦しさのあまり、同じ立場のアルベルを描くことに終始してしまう。今でもしんどくて読めない作品。もちろん描くのもしんどかったが、当時は叫ぶ言葉(作品)がそれしかなかった。

昭和49年(1974年) スランプ脱出!
『花とゆめ』創刊じ乗じて、小学館一本で描いていたのを止め、名実ともに(?)フリーに。再び連載の依頼が来て「ファラオの墓」を開始。「風と木の詩」をやりたかったが、まず下地をつくってから、と自重。同時期「トーマの心臓」が始まったのは、故に手痛かった。「ファラオの墓」の成功のあとに、と思っていたので投げ出すわけにいかず、終了まで1年半、ガムシャラに仕事するより他、平然としていられる術がなかった。

昭和51年(1976年)「風と木の詩」連載
半年間やってみても実現したのが嘘のようで、1年たつと古い作品を描いているような気になった。始める前はこれ一本描けば満足する気がしたが、結局「変奏曲」「地球へ…」も同時進行。

昭和55年(1980年) 小学館漫画賞受賞
実感があったのかなかったのか、今もってわからない。忙しすぎて全てまぎれた。ドッと虚脱感。アニメ「地球へ…」の全国キャンペーン後、ウィーンへ逃げる。

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