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【竹宮恵子:男性だけの座談会】
ぱふ1982年8-9号「特集竹宮恵子part2」(32歳)

ぱふ1982年8-9号「特集竹宮恵子part2」
発行日:1982年08月01日
出版社:雑草社


資料提供
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/163189...


男性だけの座談会
(画像4枚に続いてテキスト抽出あり) 






男性だけの座談会
出席者
草場純(小学校教員)
野島由臣(フリーライター)
野庭晴久(SFデザイナー)
本間晴樹(歴史研究者)

自走性の作家

ーーでは、まず竹宮恵子の作品を好きになったきっかけから

草場 傾倒していた『ガロ』がある意味で低調になってしまったあとの空白で出逢ったのが、萩尾望都の「11月のギムナジウム」だった。やはりあれを読んでショックで、本間君のとこへ萩尾望都を持って行った。そしたら彼は僕の持って行った「遊び玉(註:あそび玉)」に目をつけないで「愛の調べにのせて」を見てこれはいいって言うわけ。で、僕の方が再発見したわけです。ある意味ではその前の「ヒップに乾杯」とか「魔女はホットなお年頃」とか心にとめてたんだけど、やっぱり出逢いはその再発見ですね。で、それからどんどん魅かれていったということです。僕が好きな作品なんかは他の人と違うんじゃないかな。例えば「暖炉」とか「姫くずし」にすごく魅かれるんですよ。だから僕はきっすいの竹宮ファンとは言えないんじゃないかな。ただ、そういう立場だからこそ、自分自身のまんが体験に照らし合わせて、いわゆるファン活動をしている様なファンとは、また違ったところから眺められるんじゃないかなという気はします。

本間 72年の二月末のことでしたけど彼(草場さん)がぜひ読んでみろというので二冊置いていって、読んでみると一定の感想しか出てこないわけ。みんなハンで押したように話の出来方というのが、男がいて女がいて、お互いにドシンとぶつかって、もう一人いやなやつが出て来てゴタゴタして、でも最初に出て来た男と女が最終的にくっくという。それでいいかげんうんざりしているところへ、72年3月号の『別冊少女コミック』を見たら、女っ切れの全然出てこないまんががあった。それ が「ロベルティーノ」(「愛の調べにのせて」改題)だったんです。

野島 私の場合は中学1年の頃、母が『別冊少女コミック』買ってきて、自分で読んでたんですよね。で、萩尾さんの「メリーベルと銀のバラ」が載ってたんですよ。それで少女まんががあったら買おうというふうにかなり一時期狂いましてーー出ている少女雑誌を買いそろえて、古いのまで買ってーー大体その頃竹宮先生の多分「サンルームにて」、あれで初めて見たんだと思いますが、非常に抵抗がありまして、 あっこれは変態だという。竹宮先生の作品を初めて見て面白いと思って読んだのは「ジルベスターの星から」で、もしかしてこの人はすごい人なんじゃないだろうか、とかなり感動しました。

ーーみなさんが想像する竹宮恵子像というのはどの様にあるんでしょうか。

草場 一番端的に言って、僕は作者には二つのタイプがあると思う。短期型と長期型というのかな。全体の構想をはっきり組んで、それから最後まで描き入れていくタイプと、出たとこ勝負の、才能を呼びさますものに奔放に光をあてるタイプと。竹宮さんは本質的には後者なのね。出たとこ勝負型。この型の偉大な作家はすでにいまして、手塚治虫さん。竹宮さんっていうのは手塚治虫方式だっていうか、ある意味で後輩なんですね。だから思いついたままにどんどん出して行くというのが彼女の一番いいところなんですね。そういうのが本質なのに、竹宮さんの場合はえらい理念の混乱があると思う。だから、本質的にそういう人間なのに構想みたいなのを優先しようとする意識があるわけ。構想を立てて、しっかり描きこんでいくという方式をとりたがっちゃう。僕はそれはまちがいだと思う。「風と木の詩」も、もう随分長いでしょ。物語の全貌を頭に描くってことは絶対必要なことだと思うけど、物語の自走性っていうのももう一方にあると思う。物語の展開が次の展開を呼びおこすという。二十歳の時に、もし描かれていたならば、自走性のものが描けたと思うんだ。

71年という局面

ーー竹宮は石森先生からスタートしまして、竹宮自身も、私は石森学校の優等生でしたと言います。ところが、誰から見ても、手塚先生の方なんですよね。どこで切り換わったのかーー

野島 それは違うと思うんだよ。例えば先生がAだとしたらA班にならなきゃいけないって問題じゃなくて、本人の思いつきや感性というのもあるし。反面教師という言葉もあるから、こう言うこともできる。教師と生徒は反対である、というテーゼをあてはめると手塚さんの反対が石森さんで、石森さんの反対で元へ戻ったということになるかもしれない。

本間 彼女が長編を描くと不安なんですよね。つじつまがちゃんと合うだろうかって。

草場 僕なんかはその辺、つじつまを合わそうとするんじゃないかってのが不安なの。それと、読者が高年齢化するでしょう。すると、色んなことを気がつくと思うの、全体の構想がどうとか。それが果していいことなんだろうか。まんがの持ってるムチャクチャのでたらめの性格が、抜けてるんじゃないか、それに竹宮さんが自己規制しすぎるんじゃないかと思う。

本間「風と木の詩」の第三章か四章だかで、ぴったりつじつまが合った時にはうれしかった。長編を描くんだったら、一回完結方式をつみ重ねていった「変奏曲」の系列、ああいうのいいと思う。安心(笑)多分、つじつまで作っちゃうことはない。

野島 しかし、まんが作品を、心配、安心の側面から読んでいくという(笑)。

(ここで遅れて野庭さん登場。竹宮さんの作品を好きになったきっかけを聞く)

野庭 SF仲間の影響で少女まんがを読むようになってから「空がすき!」の第二期を読んで、人から断片的に見せられた第一部をちゃんとした形で読んだら、それで完全にのめり込んだ。

草場 「ロベルティーノ」を最初に読んで、女が出てこない少女まんがということ自体がショックでしたからね、あの頃は。

本間 今にして思えば、71年という決定的な局面を知らずに過ごしたことがもう悔んでも悔んでも悔みきれない。「雪と星と...」「空がすき!」そして 「かわいそうなママ(萩尾望都)」「秋の旅(萩尾望都)」「11月のギムナジウム(萩尾望都)」、71年という転換期ですねえ、気がつかなかった。

野庭 元々は、ファンの方からさわぎ出したわけでしょ。

草場 そりゃ作品として、一番自然な傾向だね。

野庭 一番熱心に読んでるのがファンだ。

本間 あの頃小学館は単行本を出してなかったでしょ、少女まんがでは。だから、たまたま「暖炉」が載っている のを古本で見つけた。

野庭 70年頃から『りぼん』『りぼんコミック』あたりで、24年組が出始めたんですよね。71年の決定的状況というのは、大体69年の終り頃から70年に始まったんですよね。この頃を全然知らずに過ごしたのは

草場 結局、玉名混淆(玉石混淆?)で網にひっかからないって状況ね。

本間 何かの話で竹宮さんと萩尾さんが同居しているという事を聞いて、両方共男に違いないと勝手に思ってたんです。

女の子と少年

草場 僕は何故竹宮恵子を読むべきかというと、この人はまんがの可能性に賭けてるのが分る。まんがは、例えば文学、映画、芝居、あるいは絵画とか、そういった表現活動一般と並列だと思うのね。それぞれの特徴があって、それを生かしていくことができる人、それに賭ける人、展開していくことのできる人だなっていうのが、竹宮さん、萩尾さんにあるわけ。で、そういうものを獲得していくことが、作者のつとめだと思う。

ーーガーンときた、夢中になった作品 は!

本間 やっぱり「空がすき!」だね。 中短編というか。

野庭「集まる日」なんかもあせったな。

野島 個人的趣味で言うならやっぱり「私を月まで連れてって」がいいです。

野庭 SFと呼んでいいのかな。

野島 SFタッチのラブコメディというのが、一番表現的には当たってるんじゃないでしょうか。基本にあるのはラブコメ的な流れが非常に強くて、それをセンスよくまとめてるなあと思うんですね。

ーー女の子と少年は違うと思うんですけど、どうでしょう?

草場 ある程度それはあるでしょう?

野島 僕の内にある少年の姿ではある。例えばロリコンって、自分の内にある現実と異ったひとつの理想にすぎないんだからね。だから女性が描いているという点で、完全に男にはなってない。そりゃ作中人物だから、どうやってもいいんだけど。

野庭 男の人は女の子は描けない。

野島 だから、異性からの観察という点と、同性からの観察という点ではまるっりき別ものだから。

草場 僕はそうは思わない。男の人が描いても男の子が描けない場合もあると思うんだよね。だから女の人だって男の子が描けないわけじゃない。

野島 ある意味で、創造力はその方が飛ぶということもあるんですよ。男が描いてると、どうしても自分自身が重なってしまって、どっかひっかかると ころがありまして。

本間 僕思うんだけれど、男子寮のまんが、どうもひどく欠落しているようなものがあるような気がしてね。実際の男子寮のバーバリズムーーこう言っ ちゃ単純すぎるかなーーうすぎたなさというかね。その男子寮、現実の男子寮になくてはならぬものが、ひとつ欠落してるという感じでね。

描き続けるプロ意識

ーー竹富恵子を作家として、人間として、どう見てらっしゃいますか?

本間 ファンとして、作品でしか読者を見れないからね。

野庭 僕は竹宮恵子や他の作家も含めて、あまり期待せずに来たんですよね。つまりダメな作家は消えて行く。でも目をつけておいた作家ってのは必ず何か別のことをやる。そういう生まれ変わりを何度もしてくれる人が僕にとって有難い作家。こっちが余計な事を言わなくても何かやってくれるんじゃないかなあと。

ーー作品をあれだけ量産できることについては??

草場 僕はもう答が出てる。自走性だよ。つまり、そういう具合にして描く。

野庭 プロ意識なんじゃないかな、まんが家としての。描くことが仕事であると。描かなけりゃまんが家じゃない、というプロ意識があるんじゃないかと思うんですが。

本間 僕は沢山描いてもらえれば、それだけ読めるからいいんですけどね。

草場 (描き続ける原因は)不安じゃないですか。自転車は止まると倒れてしまう。一般論として、まんが家の地位がまだ低いと。つまり、小説家みたいに一年に一本書けばゆったり暮せる。まあ小説家の中でも大家だけどね。そういうわけにもいかない。生活不安というか、売れてるうちが花だと。売れてるうちに稼がないとね。いつでもコンスタントに月に一本描けるという機械のようにはいかない。三年も四年も描けなくなった時どうするのか、というのがあるんじゃないかと。

野庭 少女まんがというのは新陣代謝の激しい所だし、三年いないと忘れられちゃうというし...

本間 僕なんか6年越しで増山さんから、忙しい忙しい、ってのを聞かされ てるから、昔は同情したけど、今はこれが普通なんだなァと(笑)。今言われてみて、4本並行しているのは大変なことなのかと。実感がない。

野島 私は常にフル回転でやってると、いつヒューズがとぶかわからないから不安ではあるけど。

本間「はみだしっ子」のセリフだけど、崖っぷちを走っているのは面白いんだよ、落ちるまでは。

草場 せっかく生まれて、せっかく何十年かの時間を与えられたのだから、 満足のいく様にいかに生きるかというのが問題で、ある意味ではあれでいいんだよね。

本間 ベテランと呼ばれる作家の人たちが仕方なしに描いてるまんがって見かけるでしょ。彼女のは描きたいネタが溜りに溜って、生産力の方が足りないだけだという。すばらしいというか、うらやましいというか。もう描きたくなくなって惰性で手を動かすようになったら、その時こそ見たくない。どうぞやめて下さい、と。

草場 アイディアというのは忙しい時ほど出るような気がするし。

ホントのSF

ーー「フライミー」をみなさんが、とても賞めるのですが、どういうことからだと思いますか?

野庭「フライミー」が何故成功したかというと、大衆まんがなんですよ。

草場 面白く作ってある。

野庭 面白がらせようと作ってある。

野島 ある意味ではギャグ。

野庭 読み終って、ああ面かった、とポイと投げ出しても悪い気はしないという。

野島 僕はニナちゃんがかわいいと。あの手の話は下手に深刻ぶるより、徹底的に遊んだ方がいいみたいですね。

野島 僕は竹宮さんにはSFを描いてほしくない。

草場 同じく。

野庭 そう。「地球へ...」にしても「アンドロメダーー」にしても、SFの古手のファンからいえば、SFになってないと言っては言い過ぎなんですが... とにかく光瀬龍の原作は、あまり上手くまんがに出末ない。もう少しアニメ的センスの持ち主の原作が付いたら。

草場 僕は竹宮さんにホントのSFを描いてほしい。ホントのSFというのは科学的整合性があるとか、ロケットやエスバーが出てくればSFかといえば、そうじゃないんですよ。SFというのはそれまでの思考法では到達できないところへ突込んでいくと、だと思うんですよね。だからロケットも何も出てこなくても、SFはSFだということができると思うんです。

ーー「イズァローン伝説」については。

本間 両生体、あれがどうも彼女の持ち出すにはつまらんネタというか、あまり効果を上げてないんですよね。両生体というものが、ストーリーの上で効果を出すのは愛情関係の複雑さ、一種異様さだと思うね。ケーコさんはそういう意味での異様さはとっくに通り越しているから。元々、男か女かわか んないのはいっぱい出て来たし。

草場 私は「イズァローン伝説」が好きです。感動しているというかな。何がすごいかというと、手塚治虫的に一回一回のラストのコマを大きくとる。連載のコツですね。連載の古典的パターンですね。毎回転換点を過ごして行くということ。あっという間に城攻めが終って(笑)。あれを「風と木の詩」の調子でやってたら、半年はかかったと(笑)。ああいうところがいいのと、謎をばらまくというのもすごく期待感が持てるのと、もっと本質的には文化とは何かということ、なのです。敵国へ行って地下の書庫へ入るでしょ、ああいうところなんかすごく面白い。次々と新しいことが起こってくる、って描き方は竹宮恵子らしさを感じます。願わ くば、一部のファンの声に惑わされずに、そのペースで進んで行ってほしい。

ーー竹宮恵子という作家の良い点と悪い点を、あげてみて下さい。

野庭 最近の作品はあまり読んでなくて、どうも「空がすき!」あたりに落ち着いてしまうんですよ、自分の好みといえば。「イズァローン」なんかにしても、話はまだ始まったばかりだから、まだ面白さが見えてないのかもしれないけれど、ああいったタイプの話だと他のまんが家の方が上手く描くという気もしますし。「地球へ...」に関しても、ああいう話をもっと上手く描ける人は現実にはいないかしれないけれど、SF的にそれほど高度とはいえないが、まんがに向いてる設定を使いながら、話をもっと膨らませられなかったという点で残念ですね。

草場 僕が見る竹宮さんの良い所、悪い所というのは、良い所は読者を意識するということ。で、悪い所も同じだと。やっぱり(まんがは)読者とのキャッチボールである、読者との対話である、という教えを大切にしていくのはすごくいいし、大衆作家として必須ではないかと。ただ、自分自身の構想はそういうものと、ある意味で無関係っていう自信がありつつも影響を受けつつありますね。作品は作者が作るものだから、読み手が何をしようと押しつけるみたいな、押しつけがましさがあるといいんじゃないか。で、一番してほしいことは、恥も外聞も捨ててくれればいいなぁと。で、もっと幼稚なのを描くといいですよ。僕が一番評価してるのはストーリーテラーというところ。ストーリーまんがの創始者は、ある意味で手塚治虫だと思いますが、くり返しになるけど、手塚さんの後継者としてのストーリーテーリングとして高く評価しますよ。で、竹宮さんのストーリーテーリングのコッというのは思いつきだと思うんですよ。僕は「集まる日」はショックだったんだけど、あれは一つの思いつきでできていると思うわけ。

本間 僕にとってのあの先生は、いつも存在しているまんが家ということが強いから。ともかく読みたくなったら読んでしまう。ある意味では空気に近いというのもあるんだけど。常に一定の水準以上のものが、一定量以上読めるというまんが家であるので、この次はいいものを描いてくれるんじゃないだろうか、って期待がある時パッと満たされる。で、また次は...って。

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