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【竹宮恵子インタビュー:漫画の学校】

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平凡社カルチャーtoday──8
育てる
著者:鶴見俊輔+河内紀+鎮目恭夫+竹宮恵子+原ひろ子
発行日:1980年02月20日
発行所:平凡社




「育てる」154-177ページ
漫画の学校──インタビュー形式による──
竹宮恵子
(図版に続いてテキスト抽出あり)











↑164-165ページキャプション:明治の小学校─ポンチ絵。明治25年。















漫画の学校──インタビュー形式による──
竹宮恵子



──幼少女期にどういう教育を受けてきたのか?

私自身はそんなに両親から干渉されたという感じは全然もっていないんです。ごく人並みに「漫画ばかり読んでないで勉強しなさい」と言われたり、それに対する反抗も適当にあって、何から何まで中庸だったんです。とくに過ぎるところは全然なかったのですが、ただ田舎(徳島)だったので、勉強がどうとかというより、遊びから学ぶこととか、集団の中での友達との関係のほうが多かった。

遊ぶほうは、家にいるときは友達なんか呼ばないで一人で絵を描いていたりということが多かったのですが、外に出ると五、六人のグループで走り回っていた記憶があるんです。テレビにしても、テレビが出始めたころ、家が軽食の食堂をやっていて、そこに店のテレビがあったくらいでしたから、あまり自由に見せてもらえなかったこともあり、決してテレビっ子ではないんですね。親が忙 しかったせいであまり干渉されなかったのかもしれません。

小学校四、五年のころはグループの人数が多くなって八人から十人の気の合う仲間で遊んでいた んですが、それぞれに違った性格がありますから、それによってお母さん役とかお姉さん役とか、家族の構成を全部やっていたんです。みんな女の子だったんですが、家族構成の中にお父さんとお母さんがいて、おじいちゃんとおばあちゃんがいて、その下に娘たち、息子たちというのがいるでしょ。そういうのの性格的な配分をやりましてね。

なにせ田舎だから幼稚園と小学校が一緒にありましてね。その幼稚園の木に巣と言ったらおかしいけど、そんなものを作って、木の上で遊んでいました。それぞれ枝一本が自分の部屋みたいになっているわけです。学校にいるときも休み時間はお母さん役の人、お父さん役の人とランクができていて、休みがくると続きが始まるわけです。芝居をやっているのと同じことでしたけど……。

小学校時代はとにかく目立たない子だったから、中間層で見捨てられていたというたぐいですね。悪くもなく良くもなかった。先生が興味をもつのはそのどちらかですよね。いわば何の心配もない中間層ということでしたので、私の場合はとくにかわいがられたという記憶もないんです。

私自身は先生というものを、わりと相手が意識していたほどには意識していなかったんじゃないかと思うんです。よっぽど重大なことがあったときの相談相手だとでも思っていたのかなあ、あまり真剣に好きになったりということはなかったです。やはり先生よりは親や友達のほうが近いと思っていましたし、先生というのは、偉いということで親しくなれないものだと思っていたんですね。

中学に入って美術という科目があったわけですが、自分が漫画を描くのが好きだということが美術の成績に悪い影響を及ぼしたことは一度もなくて、むしろいいほうに出ていたんです。美術の先生もとても気に入ってくれてて、という得なところもありましたしね。それに、私は漫画が好きで、それを描いて遊んでいるということはだれにも明かしていなかったんです。下敷に絵を描いたりしているのを見て、「こういうのが好きなのか」と言って先生が笑ったぐらいなもので、それを打ち明けてみたということもありませんでした。だから、ほんとうに何もしなかったというか、無為だったんですね。ただただ周りの状況をため込んでいた状態でした。

読書に関して言えば、私は外で遊ぶことのほかに、家で本を読んでいるということも多かったですね。 図書室に行くのも好きだったし、両親が毎月一冊、文学全集を買って与えてくれていたから、本が届けられると一両日中に読んでしまうんです。

私が好きだったのはケストナーの本なんです。だからといってそれをとくに好んで集めて読んだということはないのですが、何度も読んだものとしてはやはりケストナーで、小学校、中学校時代に初めて好きな作家として名前が挙がってくるとすればケストナーですね。



──日記をつけるというようなことは?

漫画を毎日描いていたものだから、日記をつけるというようなことはなかったんです。 毎日習慣的にやるのは漫画を描くことで、これは決してだれにも見せませんでした。親の知らないところでチョコチョコッと続きを描いて、詰まると次の日に回すわけですが、そういうかたちで毎日毎日描いていましたから、とくに日記はつけませんでした。高校のときに突然思い立ってつけ始めたのですが、これも何かあった日につけるという自由日記で、それは大学の初めまでやっていました。

とにかく小学校、中学校時代は何の変哲もない生活を送りましたし、高校進学のときも、自分でこれがやりたいということもはっきりしていないで、先生がいきなさいと言うところにいったようなわけですが、成績のことで人より上に上がりたいというような意欲もなかったから、遊んでいるようなものだったですね。ただ、毎回の試験の結果で順位がついてくるというのはとても面白かった。それで自分が何番かはわかったんですが、だれが自分の前にいるかということはわからないわけです。

まだそのころは点数が自分を区切るみたいな、教育のひずみみたいなのは全然感じていなかったんです。ただ数字で決めるというのが面白くてしょうがなかった。それほど成績が悪くなかったせいかもわからないんですけどね。それが高校になると、一科目一科目の平均点が出て、自分の点数を書かれて、あまりはっきり出すぎるので、あれはちょっといやでした。 赤点なんていうのもありましたしね。中学のときはそういうのはいっさいなく、単純に、あなたの成績はこの辺ですよ、ということを示すのみだったからまだよかった。



──高校は共学?

ええ、でも元女学校だったので一割ぐらいしか男子がいませんでした。

高校三年でもうプロだったので、その辺は普通の高校生と全然違うと思います。大学へ行くため に必死になるということもなかったし、漫画に夢中になっているために、高校のときはどんどん成績が下がっていましたからね。

だいたい最初は中学のころ描いていたのを中学時代の親友に見せたところ、とても喜ばれたので、親に見せたりとか、投稿してみたりとか、どんどん広げていったわけですね。そして高校へ入ると、ほかの子たちは一年生のときから大学へ行くことを考えていまして、遊べるのは一年のときだけて、二年になればもう受験勉強を始めなければいけないんだという話になっていたわけです。私はそれに対して、いや、それは違うんじゃないかというような気持でいたことは確かですが、クラブを盛んにやって仲間意識をどんどん強めていこうとする人とも違ったんですね。一人でさっさと学校を出て家に帰り、漫画を描いているというほうが多かったです。

それが一九六七、八年でしょうか。 徳島にいながら東京の人とやりとりをして、文通によって漫画の仲間をもっていましたから、その辺はほかの人とちょっと違ったかもしれませんね。

少女漫画の特殊性の一つで、今もその傾向は変わっていないんですが、とにかく十代でデビューしなければいけないみたいな風潮があったんですね。ほんとうにプロを目指しているのなら、高校のときにデビューしなければ、二十歳以上は編集部が相手にしてくれないということがありました。

私の場合、十五歳のときが初投稿でした。わりと東京のほうばかり気持が向いていたわけです。自分が出ていくことは考えないにしても、目指すのはあそこなんで、こういう所の人たちではない という気持はあったんですね。そういうことから、周囲とは違う生活を単独でやっていた。そして、ほかの人よりもずっとたくさん希望を持っていたから、寂しいとか、そういうことは全く考えませんでした。

それは漫画に熱中している者の一つの特徴かもしれません。全く漫画以外のことは考えないという毎日ですね。



──大学進学(徳島大学)と漫画とのかかわりあいは?

大学の行く先というのはいけるところにいければいいという考えていましたね。十八歳で一応本には載ったものですから、大学へ行くのはやめて、東京に出て描きたいとは言ったのですが、そのときは、こういう商売は水物だから娘を出すわけにはいかないというので、親に説得されちゃったんです。向こうの言っていることのほうが当然だと思ったし、長男がいなくて自分は長女なんだということがすごくひっかかっていたから、いずれは親の面倒をみるはめになるのかなというようなことを考えていたりしましてね。そういう意味では、自立していたのがかえって災いしたのかどうか、そのときはついに踏み切れなかったんです。

友達には、二足のわらじを履いているといずれどうとかだなどと言われたのですが、大学を落ちた場合は漫画にいけるからいいんだということを考えていたんですね。でも、それがために落ちたというのも口惜しいから、ただそれだけで頑張ったわけで、受験勉強も高校三年のときは一生懸命やりました。ただ、かなり要領のいいほうなので、十二月過ぎるまでやっていなかったような気もします。

印象的なのは、今でも残っているらしくて恥ずかしくてしょうがないんだけれども、学級ノートというのがありまして、それにだれも何も書かないので、ただただ童話を書いていたのですが、それにしっかりベトナム戦争の影響が表われていましてね。今思うと恥ずかしくて、帰って取ってこようと思うぐらいです。今は手元に写しもないんですが、それを見たお茶の水女子大を出て私たちの学校にきた担任の先生から、童話作家になったらどうかと言われたことはあります。

その先生はちょっと面白かったですね。古文の先生だったのですが、その学級ノートを授業中、みんなに何かをやらせているときに読むわけです。それがどうしようもなく恥ずかしかったんですが、一人一人呼んで進路相談みたいなのをしたときに、私のほうから「漫画家になりたいんですけど……」と打ち明けちゃったんです。先生がそういうふうに授業中に私の文章を読んでいるのを知っていたから言ったのですが、今ごろからそういうものをもっている人は少ないと言われ、そのときは褒められたんですね。それがすごく意外だったのですが、今でもその先生に対しては好意をもっています。

それで大学に行きまして、それまで何となくもっていた戦争に関することとか、大学紛争に関することが、はっきりその中で確かめられたわけで、そういう意味ではすごく勉強になったと思うんです。私が大学に入ったのが六九年で、七〇年安保は二年のときでした。東大の全共闘などが活発なころで、徳島の大学では学生だけで二千人のデモをやったんです。とにかく数は多かったわけです。ただ、あそこは完全に民青系(註:日本民主青年同盟、「民青」は略称)なので、とにかくおとなしいデモで、どこがデモのリードをとるかでゴタゴタしたりするくらいでしたね。そのときに、大学というのは社会に出る前の社会勉強だなあとまず思ったんです。

だから、グループの友達と話し合うことというのは、理想論的な国家論とか、いかにして社会を変えていくかといったような話ですから、全く現実の問題からは遠ざかっていたんですね。

まる一年、漫画をやめて、とにかく悩むことが多かったんです。国家論で悩んだり、「共産党宣言』 を読んでしばらく考え込んだりとか、そういうバカなことをやっていましたので、何月号に漫画を描かないかという注文がきたりするとシラケるわけです。ただひたすらシラケましたので、その話は今度にしてくれと言って一年間休むことを宣言してしまった。デビューしたばかりで仕事を断わるというのも、わりと変わっていたと思うんです。普通だったら夢中になって描くんじゃないかと思うのですが、発表することだけでなく、描くこともほとんどストップ状態でした。それまでは出すものを向こうがすんなり受け取ってくれて、しばらくそのまま描いていたのですが、大学で私が描いているものを見せるでしょ。みんなはすごく頭でっかちになっていてそれを読むわけですよ。私は、単に子供が読むおとなしい少女漫画を描いていただけだったから、『カムイ伝』などを読んでいる人にとっては、そんなものはつまらないものという印象しか与えないてで、いろいろ突っ込まれたんです。そういうこともあって、しばらく内容を考えて、自分の中身を変えてからもう一度描きたいという気持もあったし、単なる空想上の物語ばかり描いていて何になるかという疑問もあったものですから、しばらく描くことをストップしていたわけです。当時は白土三平全盛時代でした。



──好きで漫画を描いてたころとプロになってからでは?

私の漫画というのは、初めて中学校のときの親友に見せた後から変わったんです。人に見せる漫画になり、起承転結も適当なページ数の中にあるものを描くべきだということに、私自身の中でなっていったんです。本の折りによって十六ページが基本であったり、三十二ページが基本であったりするのですが、プロの新人になるにはそういうページ数に慣れるのが得だという情報もありましたので、自分の中で型にはめてしまったということもあるんですね。だから、人に見せようと思ったときからすでにそれがワクになったわけです。

ただ、私の場合はたまたま会った編集者が、作家というのは自由な立場を守るべきだという思想の持ち主だったから、会社本意に育てられるということもなくて、その点は運がよかったし、デビュー当時から(つまり、何も知らない状態のときに)、いろいろなところから注文がきて、それを単に私の判断で請け負っていたものですから、一つの出版社が作家を囲い込んで、あっちに描いてはいけないなんていうこともなかった。遠くにいたせいで、編集者には触れられなかったということですね。その辺は徳島にいたから得をしたのだと思います。後日、「各社が引き抜こうと狙っていたのに、一年間全く描かなかったなんて考えられない」と言われました。

電話を掛けてくる人を片っ端からどうやって断わったのか、今となってはよく覚えていないんですが、「一年休みますから」というようなことをしっかり言って、退いていたような気がするんです。突然、その次の年の五月に『なかよし』でしたか、ディズニーの映画の漫画化をやらないかと言われ、映画を見もせずに描いたんですね。その途端に別のところから電話が掛かってきて「休むというからこっちは退いているのに、あれは一体何事か!」と怒鳴られ、ああ、そういうことってあるのかと思ったぐらいでして、あまりそういう自覚はなかったみたいですね。だから、漫画のワクも、人に見られるものなんだということで、先に自分で決めていたという感じですね。一年休んでいる 間にきっとツケがたまっていたんでしょうね。ドッとたくさん仕事がきてしまった。とても東京に送っていたのでは間に合わないような状態になってしまったんです。

そこで東京に出てきて、一人でいろいろな旅館をグルグル回って三ヶ月ほど居たんですが、たくさんの人に会ったりしているうちに、やはり東京にいなくては本格的な作家活動はできないんだと思いました。それでも、とにかく親が帰ってこいというのでいったんは帰ったんです。帰ったら、大学の雰囲気なんかが私から遠のいてしまっている。私自身が半分大人の社会に踏み込んでしまっていたせいか、大学生というのは甘ったれだなあとただただ思ったんですね。

大学の勉強も、初めから自分の漫画に活用しようという気持で授業を受けていました。高校のときにプロになると決めてからは、生活すべてが漫画のためだったという感じですね。編集者と付き合うことも、ちょっとずつ仕組みを知っていくこととか、早く相手の個性をつかむこととつながっていましたし、大学で習う教育学、心理学も、ただ漫画のためにのみ覚えていたというところはありますね。それだからこそ興味深かったのかもしれませんが、生物なんかとても面白かったです。それに、私が言いもしないのに、漫画を描いていることが先生に知れていたりしたので、それはたぶん先輩が告げ口していたのでしょうね。

あのころは中山千夏さんが、すごく若いのに、あちこちに好戦的な文章を書いていましてね。 あまり年も違わないということもあって、私自身も自覚しなければならないと思ったし、文章を書くというのはこういうことなんだ、みたいな意識はありましたね。だから学級ノートにもそういうものを書いていたのだと思うし、書くものを通じてほかの人にアピールするということはしていました。文化祭のときに劇の脚本を書いたりもしましたし……。

ただ、そうは言いながらも一応の勉強はしていました。自分が漫画を描くことを犠牲にしないかぎりの勉強はしていたんです。それは先生や親をだますためのみの勉強で、その辺はすごい打算でしたが、その打算にこたえられる教育法で、点数のみ問題にしていましたね。あまり監視の目が強かったら、漫画家になることも難しかったでしょうね。



──あなたにとって〈教育〉とは?

私はとにかく学校教育はたいしたものではないと考えていたんです。教科書に書いてあることを読めば、先生は同じことを言っているわけで、教科書を横においてまとめてさえいけば、何も先生なんかいらないじゃないか、と思っていたんですね。つまり、コミュニケートできない先生は好きにはなれなかったし、とにかく信用していなかった。学校の勉強というのは単なる知識だったんです。

中学校のころから、「私の教えてほしいのはそんなことじゃないんだ」みたいな不満はずっともっていたんです。たとえば、すごく疑問に思ったのは両親と自分の関係ですね。親を尊ばなければ ならないという教えが昔はあったんでしょうが、本の上であっても一応、私たちの教育にもあるわけで、文章化されていると改めて考えさせられるでしょ。それも途中からなくなってしまったのに、そういうことについて教えてくれる人がいなかった。たとえば、友達とけんかしたときにも、どっちが正しいのか判断してくれる人はだれもいないわけですよね。それで、教えてほしいことってこういうことなんだけどなあ、というような疑問がいつでもあったんです。本質的なことを教えてほしいんであって、本に書いてあるようなことではないと思っていたんです。

教育って何なのだ。先生は何のためにいるのだ。親と子の関係というのはどの程度大事なのか。自分が親になった場合に、子供と親とどっちが大事なのか。そういうことがすごく知りたいのに、だれも教えてくれないので、自分でいろいろ反復したり、本を読んだり、週刊誌のごく他愛のない三文記事を読んでは考え、それをため込んでいって、ほんとうの人間関係というのはこうあるべきじゃないかという理想みたいなのをぶつけたわけなんですよね。

それもいま大きくなってしまっている人はどうでもいい。私がいちばん知りたかった年ごろの人たちにぶつけてみたかったわけです。それが今の私の漫画作品の中での教育というんでしょうか(決して「教育」だとは思っていません)。私の考えを「教える」ということじゃなくて、ドラマを通じて問題提起をしているんです。私の主人公はこういうふうにして反応してこうしたのだとする。それも主人公の成り行きに感動させるだけではなく、周囲の人の立場などもしっかり描くわけです。それを見て、こういうときに私は主人公のような行動はとれないわと思う人もいるかもしれないし、いや、それが正しいんだと拍手する人がいるかもしれないが、とにかく自分で考えてほしいということなんです。



──それは一年のブランクのあと?

大学で自分がこうやって悩んできたことが一体何になるのかということは全然わからなかったのですが、いったん東京へ出て三ヶ月仕事をして帰ってきたら、大学が堂々めぐりのつまらないところになっていたんですね。そして、学生運動なんて、親のスネをかじりながらああいうことをしているのは許せないという私の親の教え、これは若者に対する親の反発だと思うのですが、こっちのほうが理論としては正しいと思ったんです。それで大学には見切りをつけて、自分に教えてくれるものはなくなったという形でやめてしまったわけです。

それから東京に出てきて、全くの独りになって、今度は同じ漫画を志す人と友達になったわけで、それからみんなでいろいろ話し合っていく中で、現在の下地になるものが育っていった。ですから、自分のものをつかむまで、その後二年ぐらいはかかっているんじゃないかな。 その時期に萩尾望都さんとか増山法恵(現マネージャー)さんと出会ったんです。



──大人はだめで、その前の世代の人たちに語りかけようというのは?

最初は一応編集者を意識して漫画を描いていたのですが、結局、人気を得なければ発言権はないんだということが、わかってきた。そうすると、喜ばせるのは編集者ではなくて読者なんだ、読者の気持をつかまなければ、編集者に対して偉そうなことも言えないし、何もできないわけで、そういう状況であのかたちが徐々にできてきたわけですね。 ですから、大人はだめだという感覚も、編集者の頭が固くてだめだというところから来ていたんでしょうね。あのころは二十ぐらい、ろくな漫画も描けないくせに、みんな生意気な口をきいていたということはあります。

編集者には私の漫画の価値がわからないというより、たぶん役に立たないんでしょうね。だから、面白くないと思うのでしょうが、読者のほうはもっと敏感に私の言いたいことを受け取ってくれて、熱狂してくれるわけですよ。その熱狂をしてもらえなければ何の力にもならないと感じて、まだ思想や自分なりの考え方が出来上がっていない子供のほうが、題目としてわかっている大人よりは説得する価値があるのではないかと思ったんです。それは五年ぐらいやっていく中でつかんできましたね。理論は後からついてくるというかたちですから……。

二十歳から二十五歳までは作家としての自分の姿勢を模索する時期で、これはどの作家にもいえると思いますが、その間は理屈よりも何よりも、自分が一体どういう人間かという、グラグラと不安定なところを何とかつかもうとする時期でしょうね。

だから、その時期の個性豊かな萩尾さんたちとの共同生活(大泉サロン)が勉強になりましたね。常に自分はこういう人間で相手はこうなんだ、その違いはここで、というようなことを考えさせられていた。同じ一つの問題に対してもみなそれぞれ反応が全然違うんです。

今は私たちがやっていた大泉サロンの中から、当時ファンだった人たちが新人としてデビューしてきているんです。そういう人たちがまたサロンを作りたがっているんです。かつてトキワ荘時代というのがあって、石森章太郎さんとか手塚治虫さんが同じアパートに住んでいた。私たちにはそ の印象が強くて、似たようなことをしたいと思ったわけです。

大泉サロンに集まった人たちは漫画界の反逆児みたいのが多かったですね。登校拒否児童だったり、社会的には変わった連中が多かったです。ゲリラが集まったという感じでした。彼らの中には何か新しい漫画世代を作りたいみたいな動きがありましたね。今までの大人たちの常識を破りたいというようなところを、みんなもっていたのではないかと思います。



──大学のことのブランクといい、大泉サロンから離れて別のものを作ったことといい、行動が作家活動の区切れ目と共通しているようだが……。

そうですね。私はそういうところはわりと打算的なほうだから、考えていることが煮詰まってきて、その煮詰まってきたものが原動力になって行動するという、二段ロケット、三段ロケットみたいな積み重なりで先へ進んでいくというタイプなんでしょうね。いま振り返るとそういう感じです。

だから、スランプなんかになっても同じなんですね。最初は「自分を人が認めてくれない」という不満から始まって、だんだん変わってきて、究極のところ、「それは自分がやらないからだ」というところへ落ち着くまで、思考が続くわけです。そういうかたちで前に押し出されていく。性質からきたものかどうかはわからないんですが……。



──読者からの手紙は?

手紙は相当な数ありますが、私のほうからはいっさい返事をしないんです。最初は書いていたのですが、文章というもののあいまいさというものを感じ、「言葉って空しいねえ」という話になりましてね。向こうがいろいろ質問してきたことに対して答えても、言葉ではうまく私の思う通りに伝わらないんですね。そういうじれったさも次の漫画を描くためのエネルギーになっていったということはあります。文章ではだめという不満がたまっていって、思うように伝わらないというのが一番の理由で、ついに返事を書かなくなりましたね。

常連のファンの人たちは、毎日、日記のようにして、先生とのいざこざ、親とのいざこざを書いてきたり、もっと深刻なのになると、家出の相談とか、自殺癖のある人、病気で悩んでいる人が手紙をくれます。私が返事を出さないとわかっていながら無記名で相談してくるんです。返事がこないんだから相談にならないわけでしょ。それでも無記名で悩みごとを書くというところは、ディスクジョッキーにハガキを出すのと似ていると思うのですが、ディスクジョッキーのほうは、取り上げられれば放送にのせてくれるわけですが、私のほうはいっさいそれがないんですよね。名前を書いてこないのだから返事を出すあてもないし……。 だから、それは漫画の中で漠然とした思想で答を伝えてくれることを望んでいるんじゃないかなと思うんです。ほとんどの人がそうなんでしょうね。私はたくさん手紙をくれるけれども返事は書けませんということを、いろいろなところで常に発表しているわけですから、たいていの人は知っているはずなんです。最初は「お返事ください」というのが多かったですが、最近はそういうこともないです。

便箋に百枚、二百枚なんていう熱狂的なファンもいて、「思いのたけを綴れるだけつづってみました」といって、分厚いのがくるんです。こういうのは漫画の主人公に対する感想というのは少なく私個人に宛てたものなんです。漫画の感想は学校の友達とか、同じ私の漫画のファンと話しているようです。その辺は私のほうに言ってきてもしょうがないというのがわかっているんじゃないのかな。



──最終的に、自分の生きざまというのは自分の漫画の世界だと思うか?

それはそうでしょうね。ただそれは、私に手紙をくれる人たちの人生観まで含まれてきてしまうわけですから、すごく広い世界なんです。私の作品というのは一つのタイプに偏らないで、人間の種類がたくさん出てくるんです。

それに漫画を通じての読者との付き合いというのは、思想的な付き合いというんでしょうか。その人の理想と私の理想が付き合っているということで、生身の人間で付き合っているんじゃないんですね。

昔は読者も自分と同じぐらいの年齢で、真剣にお互いが友人として考え合っていたところがあるんですが、今は私のほうが情報は多いし、一つの理論とか思想が形づくられるのは早いですよね。だから、向こうからぶつけてくることに対して一緒になって悩んでしまうことはなくなったんですね。こちらからぶつけるものが膨大になってしまったので、読者にとっては言っていることが高すぎて難しすぎると思うんです。

でも、まだ何とか自分を引き下げてでも自分を読者にぶつけたいと思うし、そうなってはじめて私に教育者という部分が出てくるんじゃないかなと思うんです。分割するというか、自分の中で教える順番を決めるというか……。今のところは、自分がわかっていることの全部をバッとぶつけている状態で、わかってもわからなくてもとにかくここまできてほしいのだということを言っているわけです。

ただ、最近はあまり年齢が離れすぎてストレートにぶつけるのは無理があるなということは実感してきているんで、もっとわかりやすく描いたものも、あってもいいんじゃないかと考えはじめているんです。わかりやすい作品から難度の高い作品までいろんな段階を踏んでいるものを全部同時に出していれば、常に小さい子はやさしいものを読んで、もうちょっと大きくなると中ぐらいのを読んで、最後は、これだけのことを私は言いたいんだというものを読んでくれるわけだから、ほんとうはそうなるのが理想なんです。なにせ作品の数があまり描けないので、その辺が悩みの種なんです。

もちろん読者に押しつける気はないんですね。ものすごく膨大なものを、こういう考え方もある、こういう考え方もある、こんな人もいるのよ、というかたちでいろいろな物語の中に配置して、では一体あなたは何なのだ、と相手に考えさせる。今はそういうやり方をとっているということですね。押しつけるのは話の成り行きだけで、発想は各自自由に、ということなんです。



──その辺が鶴見さんが盛んに「学校はだめ、漫画は正しい」と言っていたところだと思うが……。

そうですね。自分が何なのかということを読者が考え、さらに私自身はどうなのかともう一度私がつきつめるという関係が最終的に望ましいと思うんです。そういう意味で、読者と自分のつながりを考えているというところは、少女漫画のほうが発達していますね。少年漫画はわりと一人一人の作家の思想の押しつけみたいな感じがしますけれども……。



──梶原一騎氏とか……。

「コラッ!」なんて叫ばれてもねえ。いろいろな考え方があってもちろんいいと思うんですけれどもね。その意味では少女漫画のほうが可能性というか、場の広さみたいのはありますね。それだけ個性豊かな作家がそろっている時期ともいえますね。



──逆に少女漫画の世界も少年漫画のようにパターン化する危険性もあるのではないか?

悪いことに、まだ作家自身がごく普通の女の子という場合が多いものですから、発想がパターン化してくると、ものすごく狭い所でパターン化してしまう。男の人というのは(あまりすんなりとは受け入れられないにせよ)、一応思想みたいなものをもって漫画のストーリーを作っているからいいけれども、女の子というのは単なる感受性のみで書いている部分があるから、すごく狭い所でパターン化してしまう。それが怖いですね。



──いま少年漫画は女性も読むが、少女漫画を男性も読むか?

増えてはいます。 少年漫画、少女漫画の区切りも崩れてきているし、作家のほうが少女漫画と意識して描いていないですね。一方に、乙女チックロマンという、十年一日のごとく愛だの恋だのという作家群がいて、もう一方に個性派作家の一群がいる。これだけはっきり分かれている時代も珍しいですね。両派が勢力を争っているといいますかね。

あとはどっちが勝つかの問題ですね。
乙女チックの人たちというのは必ずあるパターンがあって、読者は自分が主人公にすり替われるんです。すばらしく美しくて、いつもきれいなドレスを着て、お花を背負っている。

乙女チック漫画というのは、個性派作家たちが少女漫画のパターンを破ってしまったのに対して、復古調という形で出てきたわけです。その前はわりに古いパターンの母子ものとか、バレー漫画のたぐいだったのが、個性派が出てきたために駆逐されてしまったような状態になったあげく、反動で出てきたわけです。

乙女チックロマンに集まるファンというのは、楽しみのために漫画を読むのだけれども、個性派に集まるファンというのは、物事をじっくり考えたいと思ってものすごく真剣に漫画を読む。はっきりと一つの教科書として漫画を読んでいるわけです。そういう意味で、漫画のイメージが変わってきたなと感じたのは、中島梓さんとか橋本治さんなんかが出てきたことですね。あの人た ちにとっては、少女漫画を語ることとフェリーニを語ることとは今や全く等価値なんです。あの方たちが二十四、五ですから、私たちより四、五年下なんですね。この間東大の駒場祭の討論会に出席して感じたのですが、大学生だから二十二、三歳なんだけれども、やはり同じように、漫画を映画や文学と同等に扱っていました。

面白いことに、あの人たちは私のファンに小学生がいるということを知ってギョッとしたんです。「あなたの作品を小学生に読ませていいんでしょうか」って。「どうしていけないの?」と言ったん ですよ。私はむしろ小、中学生にこそ読んでほしいと思っているんです。たいていの人が私の作品の内容を見ると、これは子供の読むものではないと思うらしいんです。

でも私は『風と木の詩』の中で書いていますが、主人公ジルベールというのは大人の本を読んで育った子供で、彼自身はそばにいた人のせいで妙な子供に育つけれど、知識としてはおかしくなるわけじゃない、ということなんですね。漫画を芸術というのは嫌いですが、漫画家を志したときから、文学や何かと等しく評価をされたいと思っていたんです。今となっては、私小説的なものではなく、映画や文学の価値を語るのと同じ意味で漫画の価値を語ってほしいという考えになっています。だから、子供にいい映画を見せようというのと同じで、程度の高い漫画を読んでほしいなと思うんです。

私のファンにはすでに親になっている人もいるわけですが、そういう人は自分の息子が四つだというので、ジルベールのように育てますと言うわけです。普通の大人がそれを聞いたらギョッとしますよね。何もホモセクシュアルを教えなくてもなんて、ごくつまらない短絡的な考えをするかもしれないけれども、その人にとってはジルベールの教育法というのが最高の教育法なんだろうし、そうとってくれていることが私はたいへんうれしいんです。そういう子が育ってくるとどういうパターンの人間に入るだろうという楽しみはありますけれども……。

今は同じ漫画を親子で読むという形になっていますし、高校生ぐらいの子になると、子供から親にすすめる、というのもありますね。子供が親に読ませたら夢中になったというケースもあります。



──主人公を少年にするというのは?

私はかなり前から主人公は少年のみになっていまして、しかもその少年が、男の人なんかから見ると、少女とも少年ともつかないみたいなところがあるらしいんですね。つまりどっちでもないんで、一個の人間として考えなければならないことをいっているんです。ただ、常識的に見て男の子が主人公のほうが問題を広げられるということで選んでいるわけです。そういう意味では女性に対する偏見もあるわけなんです。

少年を主人公にすると、それがなんらかの形で社会とかかわってくるわけですね。友情問題を取り上げても、それが社会につながってくるんで、ストーリーに広がりをもたせられるんです。女の子はまず全部自分の価値にすり替えてしまう。

私自身は中山千夏さんなんかと違って、女の自立の問題というのはどこかへいってしまっているわけです。それを超えてしまった部分で話をしていますからね。



──読者は、やはり圧倒的に女性?

書き手としては別に意識していません。 少女漫画で描いているから一応女の子が多くなるということで、表現方法も、女の読者がまずは多いだろうから、そっちに準じてやさしい顔を描いたり、華やかにしてみようとかの工夫はあります。あとはすべてストレートで、あまり女の子は受けつけたくないようなことを言っているんじゃないかと思うんです。今は男の子、女の子という意識も全然なくてやっていますから、そういうことで恋愛を描きづらいということもあるんです。



──「育てる」ということに関して何か考えているようなことは?

漫画で学校の教育では教えないことを教えていくべきだというんでしょうか。たとえば、今言ったようにジルベールみたいなのが自分の隣に出てきた場合にどうするかということですよね。そういう問題を突きつけてみるということです。



──外から特別な刺激を受けたわけでもなく、ごく小さいときから自然に自立していったような気がするが……。

私自身の「生」に対するエネルギーのボルテージが高いんじゃないかという気がするんです。つまり、状況が常に不満だったのではないか。「満足しているわけじゃない」という不満なのですが、何か欲しい、何か欲しいというかたちで、いろいろな問題を突っつき探していくという癖があったんですね。

それこそドブの中で風で紙クズが舞っているのを見て、一体どこから風がくるんだろうということを計算してみたりする子供だった。日常生活に対してはすごくボーッとしたところがあって、別のほうにエネルギーを使っているような感じがあったわけです。

他人から見たら、ただただボーッとしている、ろくでもない、どうでもいいような人間のように見えたと思うんです。他人のしていることを、ただじっと見ていて考えるというようなところがありましたね。そういう感情も「描く」ことで消化される部分があるのかもしれません。自分で言うのも変ですけど、すごく幸運だったと思うんです。小さいときからごく自然に自己表現の道が決まっていた。普通の人はまず自己表現の道を探すのが大変でしょ。仮に自分の的を定めたとしても、漫画でいえば新人の苦労時代というのがあって、原稿を編集部に持っていっても、持っていっても蹴られるということがあるんですが、私は全くその経験がない。最初から原稿依頼がたくさんきましたし、売れないという時代も全然なかった。

だから、恵まれすぎているところが不満で、逆に自分で状況を壊していくようなところもあるんです。 何も知らない時代だから、その波に乗れば向こうに迎合するような漫画を描こうと思えば楽に描けたわけです。それを描かなかったのは、あまりにものせられちゃうようでいやだったという気持もあったのではないか。とにかく破壊主義なんですね。いま状況がすごくいいれども、実はうそなんじゃないかしらと言って隣を見たがるという癖はあったみたいですね。

私が教育として興味をもっているのは思春期というか、何か開けてくる時期だけなんです。それまでのところは、どんな不良に育っていても変わりないし、そういうのは是正できると思うんです。精神的病気にかかっていないかぎりはね。

単にグレたり、いじけたり、突っぱっているタイプの子たちは、とにかく真理に突き当たりさえすればパッとそっちを向く。私自身、それは本能的にわかるんです。ああいう人たちはほんとうはそれがすべてにわたって欲しいからだと思うんです。何でもいいからそれに突き当たりたくて、焦るあまりにそうなっているという気がするんです。もちろん私の漫画だけじゃなく、世間でもそういうものに突き当たらなくては、性質なんかは直らないだろうけれども、せめて私の作品が考えるきっかけになれればということもあるんですね。

逆に心配なのは、私の根本的なところはまるで見ない、ただただうわべだけの漫画ファンになるというところなんです。



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