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【竹宮惠子:「家」の履歴書】週刊文春2000年06月01日号


「家」の履歴書(279)
週刊文春2000年06月01日号164-167ページ
(図版に続いてテキスト抽出あり)
資料提供
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「家」の履歴書(279)
週刊文春2000年06月01号164-167ページ


キャベツ畑の中の「大泉サロン」で七〇年代に萩尾さんと共同生活を

竹宮:今年の四月十二日が最初の授業だったんですよ。まだ、「こんなことしようと思ってるんだけど、どう?」って学生たちの反応を見てるところですね。

週刊文春:漫画家の竹宮惠子さんは、今春から京都精華大学芸術学部マンガ学科の教授になった。今年新設された学科だが、全国的にも初の試みなだけに注目を浴びている。

竹宮:京都精華大学には前からマンガコースというのはあったんです。そこで教えてらした先生が、私の描いた『エルメスの道』を読んで大学で教えるのが向いていると思われたらしいのです。あれは、エルメス社の社史ですから、私の個性を消して描いた。それが「技術的」だということで。今回、マンガ学科ができるにあたって、正式にお話をいただきました。
すぐさま教授というのは珍しいんでしょうね。一芸入試というのがありますが、私の場合は一芸教授です(笑)。
学科には四十人の学生がいますが、三分の一は、将来漫画家になりたいという子です。あとの三分の二は、漫画雑誌の編集者とか、デザイナーとか、漫画や絵画の周辺で仕事をしたい人。
今は週に一コマ「脚本概論」という授業を担当しています。でも、来年から演習も入って、三コマになるんですよ。
一コマのために毎週京都まで通うのは大変だから、別の先生と授業を分け合って、隔週で二回ずつまとめて教えています。授業が朝の十時四十分からなので、前日から京都に入らないといけない。行き来する機会が増えたので、それはチョット大変ですが。
学生に教えることで、自分も何かを得ている気はします。学生のころって、とにかく漫画家になりたいという情熱をもっている。それが、とても新鮮なんですね。私も同じだったから。彼らと付き合うことで、私も初心に返ることができるみたい。
もちろん競争相手でもあるんです。学生の中には、早々とデビューした子もいますから。まだ、何も教えていないのにね(笑)
あと、漫画専門の編集者も出てきてほしいですね。ただ原稿をもらって、そのまま載せるのではなく、漫画家を掘り起こす作業ができるような力をもつ人。
とにかく、京都に通いはじめて、よく動くようになりました (笑)。これまでは座ってばかりいましたから、いかに緩んでいたか実感しています。


中学時代から漫画を描き始めたが自室で畳んだ薬半紙にこっそりと

竹宮:生まれたのは徳島市の助任本町です。母方の実家で、五歳ぐらいまでいました。
母の実家はそれほど大きくなかったんですが、板野町にあった父の実家のほうは、戦前まで旅館をやっていたせいで大きかったです。四国八十八ヵ所の三番札所の前にある旅館ですから。
竈のある大きな土間があって、藁葺き屋根で、厠が母屋の外に建っている。父の兄が住んでいましたが、お盆には親戚中が遊びにいくんです。 私たち子供にとっては、格好のリゾート地でしたね。
父は軍人で、戦時中はインドネシアに行ってました。戦後、帰ってきてから徳島市の建設会社に勤めたんです。
それで、私が五歳ぐらいのときに、会社に援助してもらって、北前川町に自分の家を建てました。徳島駅から歩いて三十分ほどのところです。その家には母方の祖母が一緒に住んでました。
実は、父は陸軍中野学校出身なんですよ。生真面目でしたが、とてもリベラルな人でした。ただ「中野学校出身だということは入に言わないように」って(笑)。そのくせ家の中では自慢してるんですよ。きっと本人には複雑な思いがあったんでしょうね。
私は、かなり幼いころから漫画に触れていました。わたなべまさこさんの絵をマネて描いたりしてたから。
小学三年生のときに、板野郡北島町という、市内から車で二十分ほどのところに引っ越したんです。
母が「お店をもちたい」ということで食堂をはじめました。カレーライスやラーメンがメインのいわゆる大衆食堂です。なぜが、店名が「Aボン」。大衆食堂らしからぬ、シャレた名前なんだけど、意味は判らないの(笑)。多分、店を居抜きで譲ってもらったので、そのまま名前も引き継いだんじゃないでしょうか。
お客さんはたくさん来てましたよ。すぐ前に東邦レーヨンという会社があって、お昼どきと夕方は混むんです。
住居と店とが一緒で、一階に店と厨房と小さな居間。二階が両親の部屋と、私と妹 部屋。とにかく狭いところでしたね。
店の部分は四人がけのテーブルが五つか六つ入る広さで、廚房と店を通らないと外に出られないんです。おまけにテレビが店にしか置いてない。子どもの好きな番組なんて見られませんよ。いつも野球とか相撲中継だから。
そうそう、店にはソフトクリームを作る機械があったんです。だから、おやつはいつもソフトクリーム。これは楽しみでしたね。
厨房の奥の居間というか、食事をするところは二畳ぐらいしかないの。ちゃぶ台を置いて、家族五人が座るといっぱい。
かといって、全員揃って食事をしないと片づけられないでしょ。食べたら、さっさと立って部屋に戻る。
そして、部屋でぼーっとしていると出前を頼まれるんです。岡持ちを持たされてね。 体が小さいからラーメン二つぐらいしか持てないんです。この出前はイヤでしたね。東邦レーヨンの社宅には、何人か同級生が住んでいたんですよ。中には、ちょっと好きだった男の子がいたり。そこに行かされるのが、恥ずかしくてね……。
でも、私の性分として、イヤだから手伝わないのも許せない。イヤだけど、頼まれれば運んでましたよ(笑)。
店は、祖母が亡くなった後に、やめました。私が中学生になったころですね。
このとき、食堂部分を居間に作り替えて、少しは茶の間らしくなりました。
ここに、私は上京するまで在むんですが、途中で半年だけ、別のところに引っ越したことがあるんです。父の仕事の関係で、長くなりそうだからって、転校までしたんですよ。涙ながらに、友だちにさよならを言ってね。それが半年後、元の家に戻ることになっちゃった(笑)。あのときは、どういう顔で学校に行けばいいのか悩みましたね。
自分で漫画を描きはじめるようになったのは、中学生のころからです。
初めは本当に趣味としてで、他人に読ませることもなく、鉛筆を使って描いてました。毎日毎日、こつこつ描いてましたね。八十話連続で、少年探偵団みたいな漫画を描いてたこともあります。一話が三十枚ぐらいですから、相当に長いですよ。
でも、部屋ではこっそり描いていたんです。親が部屋に来たら、すぐ畳んで隠せるように、藁半紙に描いてたの。まだまだ漫画は子どものものと思われていた時代ですからね。中学になると「いつまで漫画読んでるの」って怒られたりしましたもの。
きっと私たちは、そうやって漫画を読みつづけて大人になった初めての世代なんだと思うんです。ですから、漫画が他の文化に劣ると思ったことが一度もないんですね。
高校に入ってからプロになることを意識して、それでペンを使いはじめました。
ちょうど里中満智子さんが高校生漫画家というので紹介されたのを見て、私も同じ賞に応募してみたんです。ところが、箸にも棒にもかからなかった(笑)。初めてペンで描いた漫画を応募したんだから、当たり前なんですけど。
私、大学に行くつもりはなかったんです。ただ、大学に行ったほうが描く時間があるだろうということで、入れるところならどこでも良かった (笑)。
とにかく、在学中にプロの漫画家になるつもりでいたの。今から考えれば、大学に対して失礼ですよね(笑)。
入学が昭和四十三年。「COM」の新人賞に入選して、最初の連載が決まったのが大学に入ってすぐです。


上京直後の居はファンだった石森章太郎先生のご近所・桜台に……

竹宮:そのうち、連載が増えてきて、地方にいてはどうにやっていけないと痛感して、上京することを決意するんです。大学三年の五月に、大学は辞めて上京しました。
東京に出てきて最初に住んだのが練馬区桜台。ファンだった石森章太郎(当時)先生の近くに、という理由です(笑)。
大きなお宅の離れの部屋で、六畳一間に台所。お風呂はなかったですね。
部屋には何もなくて漫画本とタンスが一つだけでした。
上京して、すぐに仕事でしたから、誰とも口をきかない毎日なんです。私、一人で部屋にいた経験がないでしょ。だから、一人の状態はつらかったですね。八百屋のおじさんに声をかけられただけで涙が出そうになったこともあり ました。
そのころ知り合ったのが萩尾望都さんなんです。彼女も新人でした。
半年ぐらい経ってから、萩尾さんをそのかして(笑)、一緒に住むことにしたの。二人なら賑やかだろうし、広いところが借りられるだろうということですね。
練馬区大泉の、キャベツ畑の中にある二階建ての家です。部屋が三つに台所があったんですが、一つ一つの部屋を別々に使うんじゃなくて全部を二人で使うということにしてました。ちょうど七〇年ごろでしょ。そういう共同体的な暮らしって、あの時代には流行りだったみたい。誰が来ても良いし、勝手に寝泊まりしていくというような場です。
私は大勢の人がいる中で籠もるのが好きなのね。いくら周りが騒がしくても気にならないんです。「大泉サロン」とか言われてましたね。
そこには二年間、住みました。
二年の間に、二人ともかなり忙しくなってきたの。このままじゃ仕事に支障が出るということで、共同生活は解消して杉並区下井草に移りました。このときから、住居と仕事場を分けるようになったんです。アシスタントも四、五人になりましたから。
当時は、寝る暇がないくらいですね。月に百三十ページほどですが、だいたい少女漫画は八十ページで、普通に忙しい状態なんですよ。ですから限界を超えている(笑)。


『地球へ…』の映画化後の妙な虚脱感の中で、えいっとアトリエを

週刊文春:竹宮惠子さんの名を広く印象づけたのは、「少女コミック」に連載された『風と木の詩』だろう。ホモセクシャルを題材に、当時の少女漫画としては異例の性的描写が、男性週刊誌などでもセンセーショナルに扱われた。
しかし、その直後、SF『地球へ…』を発表。映画化もされたことで、その幅広い作家性が認知されることになったのだ。

竹宮:それまでの少女漫画が性について語ることがなかったからでしょうね。
雑誌などでの扱われ方に戸惑いはありました。でも、誤解はつきものだと思ってましたし、「書かれてナンボ」という気もしてましたよ(笑)。
私の読者は高校生ぐらいの子が中心ですよね。逆に、そういう読み手が、よく判ってくれていたので安心していたところもあります。
二十七歳のときに家を建てたんです。練馬区下石神井です。父の仕事の関係で、ちょうど両親が東京に出てきていたので、二世帯住宅にしました。三階建てで、一階が両親の住居、二階三階が私の住まいでした。
その五年後には、上井草にアトリエを作ったんです。『地球へ…』の映画が終わって、妙に脱感がありましてね。それで、えいっとばかり に借金をして建てたんです。この建物は今もありますよ。産婦人科のお医者さんに売ったので、そこで開業しているんじゃないんですか。
以前は、何のためにこんなに忙しいのかなと悩むと、突発的に大きな買い物をしてしまってたんです。毛皮のコートだとか(笑)。買った日は良いんですよ。すっきりしてる。でも、すぐに、また煮詰まってくる。その点、家を建てるのは準備期間も長いので、かなり満足できるんですよ。
今住んでいる鎌倉に移ったのは、海の見えるところに住みたかったのと、自分の描くペースが判って、締切りが読めるようになってきたからです。平成元年の秋ですから、もう十年経つんですね。
この家も私がレイアウトしましたから、すっかり間取図を引くのが得意になりました。
昔から家の設計やインテリアに興味があるので、次はそんな方面での仕事もしたい! と野望だけはムクムクと……(笑)。

(取材・構成 山村基毅)

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