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【竹宮惠子:70年代に起きた少女マンガ革命についての証言】
2011年11月12日 竹宮惠子、個人史を中心に語る(参加者リポート)

資料提供
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/162685...


第2回 映像メディア学サミットLOOP-02
https://www.fm.geidai.ac.jp/loop/index.html
「マンガ・アニメの映像メディア学的再考〜なぜマンガ・アニメは面白いのか〜」
■日時:2011年11月12日(土)14:00〜18:00(開場30分前)
■出演:第1部:竹宮惠子/第2部:押井守、キム・ジュニアン
■聞き手、モデレータ:第1部:桂英史 / 第2部:岡本美津子
■会場:東京藝術大学上野校地 美術学部中央棟第一講義室
■入場料:入場無料、要事前予約(募集定員180名)
■主催:東京藝術大学大学院映像研究科


【70年代に起きた少女マンガ革命についての証言】
参加者リポート(mixi日記)
https://open.mixi.jp/user/137593/diary/1795888882

(以下mixi日記本文)
<LOOP-02>第一部 竹宮惠子、個人史を中心に語る
●第2回 映像メディア学サミットLOOP-02 11月12日(土)
【マンガ・アニメの映像メディア学的再考〜なぜマンガ・アニメは面白いのか〜】
テーマセッション1「竹宮惠子《少女まんが》の想像力」
竹宮惠子+桂英史

70年代に起きた少女マンガ革命についての証言という形で、個人史を中心に話される。当初30分ほどということでしたが、竹宮先生、1時間はゆうに越えるプレゼンでした。

副題は、小さな場所で何が起きて、次の時代を目指したのか

<個人的経緯と、業界、そしてライヴァルの動向>
個人的な歴史ではあるが、その時代の同世代のライバルたちにも目を向けて業界の状態を、70年代におきた少女マンガ革命についての証言したいと思う。
少女マンガはそれまで、編集者が男性ということもあって、少女の狭い世界での動きしかなかった。そこに物語的なものを入れたというのが、70年代の大きな特徴。

<昭和45年(1970)>
私にとっての大事件という意味でも昭和40年(65)石ノ森章太郎「マンガ家入門」が出版された。それから3年後にデビュー。
中2のときに、テレビアニメ「鉄腕アトム」が放映された。
マンガの神様と言われてる手塚先生だが、小学校くらいから「リボンの騎士」などの少女マンガにふれてきている。ただ、まだその頃マンガと自分が近しい関係というわけではなく、マンガを描くこともなかった。中学から描き始めるようになる。
雑多にマンガを読んでいたが、手塚先生だけは特殊なことをしていると感じていた。とにかく華やか。今だったら宝塚の影響があり少女マンガを構築したとわかるが、そのときは知らない。とにかく他の少女マンガの色とは違う。色の幅が広いと。
中学になって、手塚治虫がディズニーとはりあってテレビアニメをつくるんだと聞いたとき、それがどれほど凄いことか、日本で、アニメーターやアニメ会社というのではなく、個人の漫画家がやるということにショックを受けた。中学2年の冬、鉄腕アトムのテレビ放送が始まったときは正座して敬虔な気持ちで見ていた。 

マンガを描く時間が欲しくて大学に行った。就職するとマンガを描く時間がなくなるから。2年間の教養課程の間にデビューが果たされ、徳島大5月中退。上京して半年間の頃には「風と木の詩」の構想はできていた。半年たった頃、大泉サロン。萩尾望都と同居。当時の原稿料は800〜1000円。大卒初任給37400円の頃(Wiki情報)。30P描くとそのくらいになる。
17歳に応募して、18歳高校デビューしてる。ただ当時は大学にいくこととプロになることで悩んでいて、すぐには食べられないだろうから、家にいながらマンガを描こうと思った。

初期作品の絵柄は少年マンガのタッチに近い。高校を入学したくらいに、手塚治虫がつくった漫画専門誌COMが出版された。ガロと双璧。漫画界、新人たちをリードしてた。自分が描くものはどちらかといえば児童マンガ、少年マンガを志向していた。投稿していたCOMの影響が大きい。

<昭和47年(1972)>
自分にとっては重要な、転換点になった年。
2月にツアーでない欧州旅行を敢行。メンバーは萩尾望都、山岸凉子、増山法恵(元ブレーン)、竹宮惠子の4人。当時はお金持ちくらいしか行けなかった(バックパッカーはいた)欧州旅行だった。自分を変えたくて旅行計画を練った。40日間、マンガから離れて、日本ではない世界を見るということに希望を抱いていた。大泉サロンで友人関係にあった萩尾さん、山岸さんを誘ったわけだが、なぜ4人かというと。3人寄れば文殊の知恵ということで、言葉もわからないし4人いればなんとかなるんじゃないかと敢行した冒険旅行だった。お金がないので、シベリアまわりの北欧着。最後はウイーンから帰国。

それが自分たちの描くものを変えた。そういう旅行だった。
萩尾望都は『ポーの一族』、山岸凉子は『アラベスク』を執筆中だった。自分は『空が好き!』第一部を終了したところ。
ちなみに前年ノンノ、アンアン創刊。その頃アメリカでなく、欧州志向が高まってヨーロッパ特集がよく組まれていた。欧州に対する憧れをかきたてられていた時代であった。

旅行で、雑誌に描いていないような、細かいヨーロッパの知識を得て帰ってきた。その後描くもの、ヨーロッパの生活感がリアルになった。裏打ちになったと思う。些細なことだが、描いてる虚構世界を信用してもらえた。少女マンガの世界で、ヨーロッパを舞台にした作品を展開していけたのは大きかった。

(『空が好き!』の主人公タグ・パリジャンの絵を見せながら)自分自身のアイデンティティを形作る前の話。
少年を主人公にしたいと言うとダメだしをする編集とかなり争った。人気がなければ切るからと言われ、10回連載をもったのが『空が好き!』。そして10回終わった。その当時は反響は読者の手紙、ファンレターでしかわからなかった。連載時は今までと変わらずだったが、10回目が終わった途端、終わるなという手紙がたくさんきた。今まで少女を主人公にして描いてきたものとは格段に違うと自覚した。

児童マンガを目指していたので、それまでも少年を描いてはいたが、なぜ好きなのか、根源的なことに目を向けたことがなかった。自分自身、少年を描くほうが自分の身に合っていたが、それを描く、確たる必然がなかった。ためしにどうしてもと描いてみたら反響が前と違っていた。

<昭和48年(1973)>
帰国後、3年間のスランプに突入。萩尾さんとの同居を解消せざるを得なかった。萩尾望都は『ポーの一族』の前段になるものを描いていた。いく方向がすっきり決まっている状態。自分は見つかってなくて悩んでいた。同居してるのがつらくなってご近所生活に変えていったという経緯。当時、大島弓子は『ミモザ館でつかまえて』発表。女性の女性たる部分をしっかりとらえてる作家のひとり。萩尾さんも。
そして自分はどうかというと見つかっていない。スランプの原因は「自分探し」だった。未知の自分を探して、自分の中に踏み込む。自分ひとりでどうにかしなきゃいけない状態だった。
スランプだったが、マンガを描くことは辞めなかった。生活だけはできる状態にしてた。

<昭和49年(1974)>
毎月仕事をを引き受けてたが、描いたもの全て気に入らなかった。20年間培ってきたものを全部捨てないと、新しいものが理解できないというくらい「乖離」があった。乖離を感じるなにか、それは大島さんや萩尾さんがきちんと捕まえてる「女性性」だったと。自分が女の子というものがわかってない。女の子がどうしても共有したいものが理解できてない、という自覚だけはあった。
「少女」というものを、「少女マンガ」を理解できない、ヘテロタイプな自分を認識。
自分があまり女の子を意識せずに育ち、男の子に近い遊びをしたがる。綺麗な洋服を着たいということにも関心がなかった。だからこそ、男女の差別がない児童マンガを描きたいと思っていた。
男の子になりたいわけじゃなかった。男の子と同じようにやりたいだけ。このままでどうして男の子と同じようにしちゃダメなのと。そうやって生きてきたので、女の子らしさとか、女性性とかあまり考えたことはなかった。それで理解ができないんだと、友人にも相談するけれども、どうしても自分の理解の範疇じゃない、少女マンガを描けるタイプとは思えなかった。
そういうなかで、少年を描くということが、自分を救ってくれた。少女マンガという世界の中で、少年を主人公に描くことだけが、自分にとって救いだった。しかも読者もついてくれた。同意を得られたということ。唯一の頼みの綱だったわけだが、それがちゃんと物語の中におちてくれない。物語として構成できないとグルグル悩んでた時期。

もしかすると大きな転換になるのは『風と木の詩』だと、どこかで思ってる。東京に来てすぐに構想はうまれてる。しかし描くわけにはいかない事情がたくさんあった。友人に話をするのが精一杯で、絵にしよう物語にしようとした30Pくらいのものを、編集に見せたらとんでもないと言うだけ。風と木の詩の冒頭、少年同士のベッドシーンから始まる。その部分から描きたい。それを描かせてもらえたら、自分はなにか変われるんじゃないか。それが皆が目指してる女性性に近づくとは思ってもいなかったけれども。なんとか作家的な一歩を築きたいと思っていた。

編集者はまず読者アンケートをとらなければ、説得力を持たなければダメと。
『風と木の詩』連載実現のため、アンケート1位を目指し、『ファラオの墓』(1974年〜76年)連載開始。自分自身もその2年間で変わっていく。
当時、白泉社「花とゆめ」創刊。自分は花やゆめから遠いので、合わせなきゃいけないのが嫌だなと思った。大きな強い流れがあるのに、それに自分がのれない。

(『ファラオの墓』のスライドを見ながら)少年マンガっぽい。全員上半身裸。古代エジプトという設定だから裸の胸を描ける。海外の海賊版では黒いブラジャーをつけられたことも。とにかく裸の胸を描くことは重要で、『風木』を描きたいがため読者を慣らしたいと。(スライドは扉絵、サリオキス、そしてスネフェルとナイルキアの出会いシーンとか)

物語の構成法を『ファラオの墓』連載中に自覚。週刊誌なので失敗しても次の週にぬりかえることができる。いろいろ勉強できた。たとえば戦いの知識があまりなかったので、脚本家を紹介してもらい、物語の中にはどんな戦闘法があるのかいろいろアドバイスしてもらった。
また男女の純愛を描くことに大まじめに取り組み、少女マンガの重要なポイントを理解する。自分のリハビリになった。愛情というものがどんなふうに育って壊れていくのかとか。
でも、少女の気持ちを追うというのは、自分にとってあくまでも後付けの学習だった。少女マンガの描き手でありながら、その方法を知らなかったことにようやく気づく。

対象である読者が、自分の物語の中で「虚構世界を構築してくれる」んだと。そういうやり方になれたことが重要。新人の頃は自分の主張ばかり。 読者の心理を操るために「神になる」ならなくては魅せることができない。
連載終了2週前に、アンケート1位はとれなかったけど、2位はとれた。悲願を果たす。風木連載許可につながる事実。1位は細川智栄子さんだったか?

<昭和50年(1975)>
スランプ脱出。きっかけ『ミスターの小鳥』という作品。自分で全てコントロールできたと思えた作品。読み切りをきちんと描くというのは、自分には長い作品を描くより難しい。
1974年暮れ『落葉の記』 (『風と木の詩』の一部)発表。読者の反響に意を強くする。ひとりの少年が裸で、委員長タイプを誘惑するというシチュエーションだけの作品だった。
当時、大島弓子『いちご物語』。萩尾望都『ポーの一族』、山岸凉子『アラベスク』を続けていた。花ゆめは月刊から隔週へ。
自分は出遅れたが、出口は見えてきた状況。

ヌードの少年を描くということは、自分自身の大事ななにかを物語ってる。素のままというか、少年の形そのものが自分自身に近い、子どものようなものと。

スライドは『ミスターの小鳥』。物語のあらすじを説明。
『ガラスの迷路』
『ブラボー!ラ・ネッシー』『トゥ・リップルくん』原点に返ろうと児童マンガ。
出口期 『真夏の夜の夢』

<昭和51年(1976)>
2月、構想7年目にして『風と木の詩』連載開始。同性愛を正面から扱ったことで、様々な方面から注目されることに。
寺山修司、河合隼雄、鶴見俊輔、中島梓などの大きな援護射撃のおかげで、少女マンガポルノとしか見られない偏見を脱する。(風木スライド、説明)

一色でない自分の色を示すため、多作に走る。週刊連載しながら月刊では読み切りを。『変奏曲』やウィーン少年合唱団もの。合唱の歌声の中の少年性については、稲垣足穂の本を読むとよくわかる。

<昭和52(1977)>
1月、朝日ソノラマ「マンガ少年」に『地球へ…』連載開始。『風木』週刊連載と2本立てに。
『地球へ…』は少年マンガの資質と、あとから覚えた少女マンガ手法がうまく融け合った作品と感じてる。

この頃、朝日ソノラマ、サンリオ、新書館など大手3社ではない出版社の少女マンガ参入。
76年サンリオから「リリカ」創刊。白泉社「LaLa」創刊。各社林立できるほどの市場が拓けた。
1974年キティ誕生。リリカは最初のキャラクタービジネスではなかったか。
また、白泉社からマンガ以外の絵のついた詩集チェリッシュブックやチェリッシュギャラリー。変わったもの、高いものを買う読者が増えた。
他には駸々堂書から出したイラストカレンダーの紹介。 メディアミックスのはじまり
朝日ソノラマから豪華本が(変奏曲シリーズ、大島弓子名作選など)

<24年組の時代へ>
少女マンガの特殊な時代が花開く。それは少女マンガの王道とは異なるもの。
水野英子、石ノ森章太郎(赤塚不二夫も含めてU.マイア)が拓いた、実験的虚構世界を引き継ぐ「物語」の時代の幕開け。
少女たちの「リアル」を求めた人もたくさんいた。もりたじゅん、一条ゆかり、もっと違う方向に引っ張っていった。→女性誌へ?
24年組という括りについては様々あるが、ここでは萩尾、大島、山岸、竹宮。研究者によってもいろいろでいい。

<革命期の終わり>
80年代になり、さまざまなことが終わっていく。
金融バブル時代を前に、ゆっくりと少女マンガの革命期は終わる。
虚構物語の夢に酔う、うっとりできた時代は過ぎて、少女(女性)は現実の夢をみる時代へ突入。
女性マンガ誌の創刊が相次ぐ。 
80年「YOU」「BE・LOVE」81年「フォアレディ」。もっと前に講談社から出てた「MiMi」は早かった。この時代はユーミンが有名に。大仕掛けのコンサートなどの時代。

<メジャー系の動向>
70年田渕由美子、72年陸奥A子、73年太刀掛秀子デビュー。(マーガレットとありましたが、リボンですね)乙女チック路線を展開。24年組のような、王道からはずれた作品群になじめない読者を集める。
小学館だけ少し違う色。少年を描くほうに寄っていた。「少女コミック」にも王道はあって、『つらいぜボクちゃん』男の子っぽい女の子が主人公だった。

77年、大和和紀『はいからさんが通る』連載終了。
その後、小椋冬美、岩館真理子、くらもちふさこの時代へと繋がる。80年代になると紡木たく「ホットロード」。非常にリアルな少女のありかたを描いてる。

<「マイナーメジャー」が席巻した少女マンガ革命期>
振り返ると、メジャーとはいえないものが売れた、あの時代こそ特殊だった。逆にいうと、少女がそういったものを欲しがった。つまり時代として欲しがったんだと思ってる。
「物語」への強い傾倒、少女マンガとは呼びづらい種類のストーリーは、新たな雑誌を創刊させる方向へ。BLとかファンタジー系。
90年代、紡木たく、吉田秋生など、等身大の少女をとてもリアルに描く傾向へ。読者を女性誌へ繋ぐ、完全に新しい時代に入る。

これでプレゼン終了。最後のほうは駆け足。


桂英史氏の話も興味深く、質問含めて面白かったのですが、わたくし力尽きました。
この後は大幅にハショりまして、竹宮さんの話を断片的に。

・フェミニズム関係者からの評価も高かったけれども、本人は意図したものではなかった。
・少年の姿を借りて表現すると、読者が受け入れやすいこと。
・読者は少年と思ってみてない。自分自身と思ってみてる。
・寺山修司「セルジュのような堕天使に負けるなジルベール」と言ってくれたのが印象的だった。存在の意識を保ち続けるという意味では、ジル亡き後も、ジルベールはセルジュの心を支配してる。
・河合隼雄「少女の内界をここまでしっかり捉えてることが非常に希有なことです」と書かれてショックだった。少女の内界を描いたつもりはなかったので、えっバレてるの?と。

都条例問題、表現規制について
倫理の問題でなく法律になる、というのが大きな表現規制になると反対してきたが、条例がとおってしまった。
規制はあるべきか、ないほうがいいのか。まず、法律ではあってほしくない。法律でなければ、あったほうがいいと個人的に思ってる。倫理の上でタブーがあるのはいい、それを乗り越える表現をつくるのが大事と思ってる。眉をひそめる人がいて、もっと自由でいいよという人がいて、その中でいろんな作品がつくられていくというのが大事。あまりにもオープンになりすぎて、今の状態に対して規制したくなるという、今の警察にもある程度の理解はできる。
しかし、表現者としては絶対反対しなくてはならない。

条例化したら線ができてしまう。
編集者は発禁になったら怖いからまず線引きをする。
かつて『風と木の詩』がはじまった頃、ベッドの上で足3本がからんでなければいい。2本までならOKと編集者から言われた。規制とはそんなものなんだ。
どこかで具体的な規制を加えるようになってくるはず。
今はそういうようなものを描かないでくださいと漠然としてる。それで描くのを辞める人がたくさん出るかと思う。描かずにはいられない、描かなくてはならないと強く思う人は、いかにしてクリアするか考える。学生にはどこにでも規制はあるのだから、クリアするように頑張れと言いたい。

<質問コーナー>
『風と木の詩』の構想ができたとき既に絵柄もできていたが、描いてる絵がヌードばかりだったので、これはまずいなと。今の状態では無理。しばらく待とうと。
先生の中の倫理コードは?という問いに、自分の中に倫理コードがなかったのが問題だった。

現在のエロマンガのような少女マンガについて。
自分が描かなくなった頃から、エロティックというかあけっぴろげな表現になってるのは知っていた。編集者がもう少し介在してもいいのでは。教育問題、親と子の関係が崩れないか気になっていた。
編集にとって週刊誌の販売部数はとても大事で、売れなくなると大変なことになるというのと、現状の高校生たちのセックスにオープンな形が、作家にも影響してる。そういうものを描かないと響かない。読者のほうが先にいってる。現実の少女たちが反映されてる。

BL、やおい、ショタコン、オタク的世界広がってきた需要については。
同人誌の世界も含め、必要なものであると理解してる。

『ミスターの小鳥』で初めて自分のマンガを完全にコントロールできたということについて。
マンガを描くとき、新人などはネーム、マンガの形で描き始める人多い。いいときと悪いときの落差がある。
完全にコントロールできるというのは、理性で起承転結やコンストラクションがちゃんとできてるという意味。理解してないページがひとつもない。全てのコマ、ポーズ、ふきだしの位置からオノマトペまで、すべてコントロールできたということ。

以上です。

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