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【竹宮惠子インタビュー:ダ・ヴィンチ1997年07月号】

資料提供:https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/167702...



ダ・ヴィンチ1997年07月号
発売日:1997年06月06日
出版社:メディアファクトリー




マンガ家インタビュー
まっとうな読者が愛した境界上のマンガ家たち

竹宮惠子
夢を発酵させた「大泉サロン」
あの場所が今の私の原点ですね
(図版に続いてテキスト抽出あり)



私の漫画家としての原点は上京して半年後、萩尾望都さんと同居をした2年間でしょうね。

共通の友人だった増山のりえさん(作家)の勧めで、萩尾さんと二人「少女マンガ版トキワ荘」をやろうと「大泉サロン」(※1「大泉サロン」=竹宮惠子と萩尾望都が1970年頃同居していた家が練馬区大泉にあったことからこのように呼ばれる)と呼んでいたんですが、まぁ「サロン」といっても実際は二軒長屋で男所帯みたいでした(笑)。

どこが誰の部屋というのも決まってなくて、2階を占領して誰かがネームを考えてる。遊びに来た人たちは1階の4畳半にギューッと集まって、萩尾さんが「何も入れるものがなくて」って作ったイチゴ入りの玉子焼きを食べたり(笑)、漫画界の現状をワイワイ話し合ったりしてました。山岸涼子さんもよく来てましたね。泊まってもよかったから、ささやななえさんなんて常駐してましたよ。

そういう中で私自身にもライバル意識みたいのが生まれてきたんですね。それまでは楽しく描ければそれでいいというタイプだったのが、自分だけの作品っていうのを温めてる人たちを知って、自分のウリってなんなんだろうってすごく考えた。

時代も「次の少女マンガ」を期待していたし、自分も次代を開く予備軍なんだという意識は持ってましたから。いわゆる私たち、24年組といわれる漫画家 たち(※2「24年組」=昭和24年前後に生まれた女性マンガ家たち。竹宮惠子、萩尾望都、山岸凉子、大島弓子らを指す。それぞれが独自の感性を持って新しいマンガを生み出していった。)っていうのは全員自分がひっぱるんだという気持ちだったと思う。自分がひっぱって、読者を説得してその気にさせちゃうんだって考えでしたね。

私の最初の単行本『空が好き!』も男の子が主人公、恋愛ヌキ、しかもミュージカルという(笑)当時の少女マンガの条件をまるっきり無視した作品でした。あの単行本が売れたことが私の最初の手応えだったかも。私の作品って単行本は売れるのに、読者アンケートの人気投票ではいつも苦戦でしたからね。

あの『ファラオの墓』もアンケートだと6位くらい。ここで頑張って、次は『風と木の詩』をやろうと思ってたので、どうしよう! 内心焦りましたねえ。

なのに『ファラオの墓』のサイン会をしたらファンが2000人も集まって(笑)。夏の暑い日、デパートの屋上だったのに誰も帰ろうとしない。書きましたよ〜、サイン2000枚。あれは編集さんにも目に見える説得力だったな(笑)。アンケートも最終回直前でガンガン反応がきて、最後は2位。 やった、これで『風と木の詩』を描ける!と。



検証:とんぼの本カレイドスコープ(新潮社2016年09月163ページ)によると「初のサイン会にて。3000人のファンが集まった

検証:少年の名はジルベール(小学館文庫2021年05月第二刷213ページ)によると「気恥ずかしい想いで臨んだサイン会だったが、3百人も来ればいいかと思っていた会場に、なんと3千人もが集まっていた

当該インタビュー(1997年)→「2000人
とんぼの本カレイドスコープ(2016年)少年の名はジルベール(2021年)→「3000人



(ダ・ヴィンチインタビュー続き)
大泉サロンの2年間に30ページくらい、すでに描いてあったのでまず見せた。編集部全員ビビリましたよ(笑)。少年愛の話で、冒頭がいきなりベッドシーン。怖くて手を出したくない……と言うのを、
「『ファラオ』がなんとかなったら、やらせてくれるって言ったじゃないですか!!」
って食い下がったんです。



検証:【竹宮惠子:京都精華大学アセンブリーアワー講演会 2016年05月19日】「最初の50ページは早い段階から下書きのような形で描いていました
検証:とんぼの本カレイドスコープ(新潮社2016年09月12ページ)によると「最初のクロッキーノートには、すでに冒頭50ページをコマ割りまで描ききっていた

検証:とんぼの本カレイドスコープ(新潮社2016年09月160ページ)によると「1971年(昭和46年)21歳 1月「風と木の詩」の冒頭50ページを最初のクロッキーノートに描き上げる

検証:扉はひらくいくたびも(中央公論新社2021年03月94ページ)によると「最初の50ページを、デッサンなどに使うクロッキー帳に描き、編集者たちに見せました」

当該インタビュー(1997年)→「30ページ
とんぼの本カレイドスコープ(2016年)扉はひらくいくたびも(2021年)→「50ページ



(ダ・ヴィンチインタビュー続き)
いざ連載を始めたら、いきなりすっごい数のファンレター。でも私にしても最初は怖くて見られなくて、10週に達するまでは手紙はあえて読まなかった。

女の子は恋をすることに夢を見るけれど、あの作品では恋はバトルなんだ、自分と相手の存在の戦いなんだということを描こうと思ったんです。愛してなくても体の行為はできちゃうってことまでみんな描いたけど、女の子たちは、求めてた答えはこれだ!と思ったんじゃないかな。少年愛ではなく自分たちの話として読んだ。セックスについて女の子にはあのころ誰も何も言ってくれなかったから。

私も答えを出す以上嘘はつけない、テンションは常に高かった。ジルベールの助命嘆願もたくさん来たけど、殺すはずの人を助けるなどまったく考えられないこと。真剣に自分の話の流れの落ちる先だけ見てました。

今でも私が大事にしてるのは描いてて自分が楽しいということ。そして描くときには自分が知ってる、自分が絶対本当だと思うことを描こうということなんです。知識だけではなかなかその気になれないというか、絵の表情に出てこないですよね。恋もひとつすれば人間のいろんな感情のすべてを経験する羽目になるし、少なくとも自分が描く感情のすべてを私は知ってると思って描いていますね。


ダ・ヴィンチ1997年07月号

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