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【伝説の喫茶店・コボタン物語:Spectator 22】


Spectator 22号
発行日:2010年07月01日


資料提供
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/163059...


説の喫茶店・コボタン物語
(図版に続いてテキスト抽出あり)






説の喫茶店・コボタン物語

『COM』のことを包括的にとらえるためには「コボタン」のことを紹介しないわけにはいかない。
196年代半ばというからサイケ・アングラの時代、つまり『COM』創刊と同じ頃、新宿御苑にコボタンという新しいカフェが誕生した。
コボタンは漫画家志望者や自由業者たちが終日たむろするコミュニケーション・スペースだった。
店主が構想したのは、単に熱いコーヒーを飲ませる洋風喫茶というだけではなく、開放的な雰囲気のある「文化サロン」だったのではないか。
手塚治虫が突然アニメーションの試作フィルムを持参して、店内で上映会を始めたり、宮谷一彦や永島慎二の原画展が開催されたり、萩尾望都が岡田史子となにやら真剣に話しあっていたりと、『COM』編集部とも縁の深いカフェだったという。四方田犬彦の『ハイスクール1968』にも当時、コボタンに通っていた高校生時代の筆者の話が出てきた。コボタンにいると情報も早かったそうで、たとえばーーコボタンに通っている客たちは当時、力石徹が死ぬエピソードは『少年マガジン』の出る三ヶ月も前から知られていたという。
ビジネスとしてはコボタンは失敗だったようで、71年4月頃に閉店。
同年11月、『COM』も、コボタンのあとを追いかけるように休刊した。

以下は1981年、『漫画の手帖』三号から六号まで連載されたコボタンの回想録です。コボタン常連の一人だったY氏がインタビューされています。同誌発行者・藤本孝人氏のご厚意により掲載しました。(補筆と註釈を加えてます)

『COM』派の根城だった

ーー「画廊コボタン」と当時『COM』にのった広告にありました。どれくらいの規模のスペースだったんでしょう。

Y氏 一階と二階があって、一階はカウンター、二階は確か4人掛けのテーブルが6つ、2人掛けのテーブルが3つ。30人でいっぱいなのになぜか50人くらいのときもありましたね。

ーーコミュニケーションの場だったんですね。

Y氏 数人ずつのグループがいっぱいで来てる訳ね。顔のきくのは、あっちのグループこっちのグループと渡り歩いて話し込む。マンガの話できない人は来てない訳だからね。ほら、それまでの漫画家の卵ってのは、ウチにとじこもって一人でマンガ描いて、心をゆるせる友達がいないのが普通だったでしょう。特に地方出身者は。だからコボタンみたいな場は魅力的でしたね。あっ、お宅も描いてるの、って感じですよ。遠くからわざわざ出かけてくる人もいて、大抵2、3時間ぐらいは帰らなくて店の中をウロウロしてた人が多かった。

ーー原画展なんかもあったんでしょう。

Y氏 劇画展、『COM』展、永島慎二展、宮谷一彦展、岡田史子展、同人誌展、いつもプロの原画を目の前で見ることができる。でもよく原画ぬすまれたりしたんで大物は原画貸してくれなくなっちゃったみたい。
宮谷一彦展のときもとうとう原画出てこなかったみたいね。『COM』に広告載ってましたね。別の原画あげるから返して下さいって。あれまにうけて返しに行ったらなぐられるね、ぜったい。

ーー宮谷一彦の奥さんは確か…。

Y氏 そうたぶんコボタンで知り合ったんじゃないかな。実際あそこでは、カップルもかなりできたみたいだった。だから女の子めあてのもいっぱい来てたね。
それと、ちやほやされたい若手のプロもよく来てた。でも顔知られてないでしょ。で、あんたおれのアシスタントにならんか。とかプロの原画見せてやる、とかわめく訳。そういうのは、ばかにされた(笑)

ーー大物のプロはこなかったんですか?

Y氏 よく誰々を囲む会とか、そういうのはよくやってたけど…。来てもつかれると思うよ。若者あいてに話すのは。いきがってるから、挫折がどうのとか、変な質問ばかりする。
手塚先生もはじめの頃は何度か来てくれてたみたいだけどね。永島さんなんかよく来てたかな。特によく来てたのは真崎守と宮谷一彦。真崎さんなんて、ああいう雰囲気好きなんでしょうね。真崎さんが『COM』の流れをつくったというところもあったから尊敬されてましたしね。
コボタンのムード自体『COM』的でしたね。でも真崎さんは今だに『COM』的ですね(笑)

ーー当時は、理屈っぽいのがはやりでしたね。

Y氏 理屈っぽくて生意気で…。みんな一番で、みんな天才だった(笑)。口に出さない人でも心の中では、みんな自分のことをそう信じてた。人の絵見て、うまい絵ですねー。なんて口では言っても、心の中じゃ、なんだおれのほうがうまいやって(笑)

ーー作品を見せ合うことも多かったんですか。

Y氏 新しいのを描くたびに持ってきたりしたね。みんなたいていスケッチブックかかえてた。デッサン教室にかよってるとか言って、かっこつけてた(笑)

ーーみんな鼻息が荒かった?

Y氏 明日からでも、その気になればすぐプロになれるんだって感じ。来週デビューするっていつも言ってたのもいたよ。
永島慎二的な客が多かったですね。永島はしかって知ってます? 当時の漫画家の卵が一度はかかると言われてた。
新聞配達でも何でもやって、苦労しても、誰もわかってくれなくても、好きなマンガ描いていられたら死んでもいい、これが青春なんだ! と言う感じ。逆にそれが自信につながっていて、まあ今にして思えば、甘いというか、ロマンチックなのかな。


コレクターたちのエピソード

ーーマンガ描く人が多かったんですか?

Y氏 いや、コレクターとか、評論家風なのも多かった。だから描けないくせにいろいろ言うやつを、ばかにした意味で、お宅は評論家? って言ったりした。もっとも毎日コボタンに来る人に自分のマンガ描く時間なんて、あるはずないでしょう(笑)

ーー毎日行く人もいたんですか。

Y氏 マンガの好きなフーテンとか、漫画家の卵でフーテンになったのとか、当時新宿にはフーテンがごろごろしてたでしょう。ひまだから開店から閉店までいるの。
僕はアシスタントやってたから日曜しか行けなかったけど、朝は開店と同時に行って席をとって、夜10時の閉店まで居る。閉店後はまっすぐ帰るから、毎週新宿に行ってもコボタン以外のところはまるで知らなかった。

ーー1日いて食事はどうするんですか?

Y氏 途中で食事に出て、またすぐにもどってくるの(笑)。コーヒーが120円で、トーストが80円。コーヒーよりこっちの方が安いもんですから、トーストだけたのんで断られたり(笑)

ーーマスターはどんな人?

Y氏 講談社かどこかで昔編集をやっていた人らしいけど、マスターが話の輪に加わると言うことは、ほとんどなかったので詳しい事は知らない。

ーー今有名になってる作家では誰が来てましたか。

Y氏 岡田史子、萩尾望都といっしょに話をしてたね。山田ミネコ、和田慎二、同人誌仲間と来てた。弓月光も仕事が終わると必ず来てたし、コボタンでアシスタントあつめてた。一条ゆかりのとこもチーフが確かコボタン出じゃないかな。まあ、そういううわさは一番早く入ってきたよね。コボタンに居れば…。

ーー当時マンガコレクターなんかは来てなかったんでしょうか。

Y氏 もちろん来てましたよ。そういうグループがちゃんとあって、さかんに情報交換やってたみたい。もっとも真崎守なんかもコレクターのはしりみたいなもんだし。それから和田慎二もね。彼も熱心なコレクターでしたよ。はやくから松本あきら(零士)の昭和30年代の少女マンガ必死にあつめてた。当時から絵はうまかったけど、少女趣味な女の子の絵ばかり描いていましたね。
彼が「アンチ」とかいう肉筆同人誌にものすごくこまかい絵描いてて、このグループは一部にはかなり注目されてた技術水準の高いグループだったから、ここからアニメへ流れてった人もかなりいると思うよ。
それから新撰組の沖田総司が好きだったね。彼は当時テレビドラマで新撰組をやってたでしょう。あれ見て一人でうけてましたね。
和田慎二の絵って真崎守や村野守美に影響うけてるところもあるけど、やっぱり松本あきらの少女ものの影響は無視できないよね。コレクターだちが松本あきらってさわぎだしたのはここ数年のことでしょう。彼はすでにその頃あら注目してあつめてたんですよ。もっとも当時は、漫画本と骨董みたいにあつかう風潮はなかったし、安かった。
でも、ぼくたちはむしろ古いマンガなんかよりこれから先のマンガがどうなって行くかという問題で頭がいっぱいでしたね。何か新しいマンガを我々の手でつくり出そうって。


岡田史子とコボタン

Y氏 当時の新しいマンガの流れみたいなものに『COM』派とか『ガロ』派って言うのがあって、コボタンてところは、いわば『COM』派の根城だったわけ。『ガロ』派か『COM』派をばかにしてて「あいつらの作品には何かありそうに見せかけてるだけで実はなにもない。おれたちの作品はなんにもなさそうに見えて実はちゃんとしたものがある」つまり相手にならんってわけでもちろんコボタンにも来ない。
『COM』ではスターだった岡田史子が、『ガロ』に原稿を持ってったことあるらしいけれど、まるで相手にされなかったらしい。ああいう感じは高野さん(高野慎三。当時、青林堂『ガロ』編集部に在籍し、つげ義春「ねじ式」を世に出す)のセンスに合わなかったんでしょうね。
コボタンでは岡田史子展なんかはやくからやってましたけどね。
岡田史子展では展示した原画やイラストを最終日に全部売っちゃったんですよ。
生活費欲しかったんじゃないかな。

ーー彼女の印象は?

Y氏 才能はありましたね。きっと自分でも天才だって思ってたんじゃないかな、そういうとこあったもの。
北海道から一人で上京してきてね、彼女、奇人クラブの同人だった。コボタンではよく二階で奇人クラブの会合やってたから彼女も出入りするようになったんだよね。
そう言えば、やはり奇人クラブの同人だった大友克洋も来てましたね。たけど当時まだ15、6の少年で、全然めだたなかったし、だれも注目していなかった(笑)
岡田史子は一時期、奇人クラブの会長になったこともあったけど、会長になったとたん会合に顔出さなくなっちゃったもんだから、すぐおろされちゃった。すごい気分屋のところもあるんですね。

ーー例の岡田史子の自殺未遂事件は?(岡田史子は69年12月頃ーー70年12月頃が正しい説ありーー当時恋人関係にあった『COM』担当編集者と北海道の雪山に登り、睡眠薬を飲み心中を計画。結果、そのまま筆を折ることになった。当時、事件を知らされた『COM』編集部は大騒動で、岡田の漫画が掲載予定されていた『COM』71年2月号には急遽「名作劇場」としてちばてつやの旧作が掲載された)

Y氏 コボタンにまず入ってきた情報では、岡田史子が死んだぞっ! て…

ーー生きてますよ、ちゃんと(笑)。北海道で子供もいるし。ところで自殺未遂の原因はなんだったんでしょう。

Y氏 当時彼女は内面的にもかなり不安定だったのではないでしょうか。それが彼女の作品の魅力につながっていたことも否定できませんけど…他にもいろいろあったようだし、精神的にまいっていたんでしょうね。


少女マンガ家もあつまってきた

ーーコボタンに来ていた常連で、少女マンガ関係では、どういう人がいましたか。

Y氏 ファンタジック・クラブ(北海道にあった同人会。1966年、若木書房から貸本屋向けの同人誌『銀河』を発行。7号まで)が、あそこの二階でよく集会を開いてたけど、有力メンバーだった大和和紀は、当時まだ北海道にいたんじゃないかな。ほかには、とにかくうわさの絶えなかった一条ゆかり。それから山田ミネコ。彼女はほぼ毎週来てたよ。当時はまだ女学生でね、今井かおるなんかとも仲間で、とく同人誌展なんかに出品してましたよ。絵は展示用に描いたイラストがほとんどで、サランラップなんかかけて展示してるもんだから、「なんでビニールにしないの?」って聞いたら「ビニールよりこっちのほうがいいんです」って。なぜだろうね。

ーー萩尾望都なんかは?

Y氏 岡田史子と萩尾望都は、コボタンで会ってたようですね。岡田史子はああいう感じだから、萩尾望都の方が岡田史子のファンって感じで…話しこんでましたね。

ーー竹宮惠子は?

Y氏 なぜか、コボタンには来てなかったみたい。

ーー一時期、萩尾望都と竹宮惠子が大泉で家を借りて同棲してたでしょう。

Y氏 そうそう。少女マンガ家予備軍やマニアが多い時で6、7人、いつも入れかわりたちかわり、ワイワイ共同生活やってたらしいね。

ーー世に言う大泉サロンですね。萩尾さんの印象は?

Y氏 あの人は、コボタンではマニア相手によくしゃべってたから、しゃべるのは好きだったみたい。

ーーあれ、彼女のマニア嫌いは有名ですよ。

Y氏 じゃ、それでこりで嫌いになったのかな(笑)。彼女は「時間をこえて」っていうのが口ぐせでね。そればっかり言ってた。未来も過去も超えてって…SF的発想なんだよね。なんか、解ったようで解んない(笑)

ーーコボタンと『COM』とは何か直接のつながりがあった訳でしょうか。

Y氏 よくわかんないけど持ちつ持たれつの関係だったみたい。原画展やったり、『COM』展なんてのもあった。『COM』の中に「ぐら・こん」ってのがあったでしょう。あれはすでに『COM』の前からあった組織でね。真崎守なんかが中心になって動いてた。ぐら・こんをあそこまで全国運動にしたのは彼の力ですね。コボタンにもよく来てたし、尊敬されてましたね。真崎守は昔『街』っていう劇画誌でみやわき心太郎なんかと新人賞争ってたんだけど、当時からもう、『COM』的な臭いのする作品描いてた。当時から評論家風で、自分の単行本にまで評論載せたりしてね(笑)。でも、あの人は今だに『COM』的ですね。ちっともかわってない。情熱を失わないというのか。


最後はマニアにつぶされた?

ーーコボタンはいつ頃つぶれたんですか。

Y氏 いつつぶれたんだろうね(71年閉店。現在、コボタンの跡地はドトールコーヒーに)。いつの間にか行かなくなっちゃったって…だってもうコボタンへ行かなくとも仲間に会える訳だし。

ーー行く必要がなくなったと。

Y氏 なにもコボタンにまで来て話をする必要もなくなってきた。もうプロになりかけているのもいたしね。自分達の生きる方向がある程度定まってきた。

ーーコボタンで自分の生き方を悩む必要がなくなってきた。

Y氏 結局コボタンは、ある限られた若者達のサロンだったんですね。学校出て社会に巣立っていくように、彼らもコボタンから巣立っていっちゃった。

ーーじゃあコボタンがつぶれたのは彼らが来なくなったから。

Y氏 いや、結局マニアがつぶしたようなもんでしょう。コーヒー1杯で丸一日いる客ばっかりじゃ。普通の喫茶店じゃ考えられないよね。1時間位いて何もたのまないで帰ってったり、すわるとこなくてもどこからかイス持ってくるし、そのうちあくからって立ったままだったり、毎週本かっぱらいにくるのもいたしね。週刊誌全部(笑)

ーーそれじゃつぶれなかったら不思議ですね。普通の客も入りづらいでしょう。

Y氏 もともと普通の客なんかいなかったよ。店としちゃあ普通の客欲しかったと思うけど、警察なんかはよく来てたけど、家出少年さがしに(笑)
で、しばらく行かなくなって、ふと前を通ったら店がかわってた。要するに1年位あつい時期があって、あとの2年位は他に行くところもないしって感じで…原画展もやらなくなったし、一度マニアを締め出して普通の喫茶店にしようとしたらしいけど、うまくいかなかったみたい。場所も悪いしね。
マニアの方もちょっとずつ減ってきて、雰囲気も初めの頃の感じはなくなってきた。お互いほぼ知りつくしちゃって、今行ったってあいつしかいない。あいつと喋ってもしょうがない、という具合にね。

ーー新しい出会いの場としての魅力が失われたと。

Y氏 それがコボタンの魅力の全てだったんですよ。

ーーメンバーの新陳代謝はなかったの。新人は入りづらかったのかしら。

Y氏 それもあるでしょう。新顔が入ってくると、オヤッて横目でにらんで、誰が最初に話しかけるのかなって感じで(笑)。だってコボタンに入るって、だまってコーヒーを飲むということはありえないんですね。どこかあいてる席にすわる訳でしょう。知らない人と向き合ってしゃべらない訳にはいかない。確かに一人じゃ入りづらかったでしょうね。コボタン独特の雰囲気があったし、なにか高度な話をしているように聞こえる。実はろくなこと話してないんだけどね(笑)。ひどいのもいましたよ。お金全然持ってなくて、知り合いが来るのを待ってるの。コーヒー代と帰りの電車賃借りるために(笑)

ーー知り合いが来なかったら、どうするんですか(笑)

Y氏 ま、当時はそういうこと出来たから(笑)。でも結局、常連がほとんどだし、客が固定化して出会いの場としての魅力は失われていく。つきあいたい人間とつきあうのは別のコボタンじゃなくったっていいわけでしょう。ぼくにとっての、コボタンの役割が終わったという訳ですね。でも、じゃあ、それが何だったのかしらと、今から考えると不思議だね(笑)。みんな、随分遠くからも来ていたみたいだったし、ほんとに何だったんだろうなあ。

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