5ちゃんねる【萩尾望都】大泉スレ【竹宮惠子】に関する資料まとめサイト

東京大学見聞伝ゼミナールでのインタビュー
取材日:2011年08月29日
場所:池袋皇琲亭にて
インタビュアー:小林瑛美
http://kenbunden.net/general/archives/2138

2011年8月29日、私は緊張のあまり興奮するのも忘れ、ただ耳を傾けていた。

何しろあの萩尾望都が目の前にいるのだ。

萩尾望都は、『トーマの心臓』『ポーの一族』『11人いる!』『半神』『残酷な神が支配する』等の作品で、私たちに深淵な世界を見せてくれる――愛と憎しみ、人間の儚さ、理解と赦し、諦め――美しい筆致と入念に作られたストーリーによって構成されたその作品は私たちを魅了せずにおかない。

こんな漫画を描く人は何を考えてきたのか、知りたい。

そして何よりも、萩尾望都に会いたい!(12歳で出会って以来、大好きな漫画家なのです。考えてみてほしい!)

このような単純だけれど熱狂的な思いで行われた萩尾望都へのインタビューは2時間半にも渡り、萩尾先生には、自作において繰り返されるテーマである家族の問題を始め、愛と憎しみが混在する人間の不思議、SF、ボーイズラブ、そして『なのはな』以降の連作のテーマとなっている原発事故まで、幅広い話題について話していただきました。

※本文中では敬称を略させて頂きました。

1 :「家族」という「問題」

家族の抱える一番の問題は “支配” と “従属”

――萩尾先生は家族の葛藤をどのように作品に落とし込んだのですか?

萩尾:いやあ家族は手ごわいです。

萩尾:家族の抱えている一番の問題は支配と従属ではないかと思うんですね。

萩尾:わたしの実家の場合ですと権力の位置が親にあり、有無を言わせないですね。

萩尾:友達が出来たというとその人の住んでいる場所や家について聞き、もしその友達の家がブルーカラーならばなんだかんだいわれて遊ぶことを許してもらえない。だからと思って一緒に勉強するというと、もし一緒に勉強した友達がいい成績をとったら損をするといわれ、一緒に勉強することも許されないんです。それくらい徹底して反対されます。親に悪意はないのですが……。

萩尾:家庭っていうのは子供が安心して育つことの出来る環境で、世間の方が厳しい、とよく言われていたんです。けれど世の中に出てみると、仕事をしている限りにおいて家庭よりも全然厳しくないんですね。支配と被支配の葛藤から逃れることが出来て、なんて楽な世界なんだろう、本当に家庭は不思議なところだなあって感じました。

――支配と従属から解放されたという感覚を抱いてデビューしたのですか?

萩尾:早く家を出て、親のいない環境の中で漫画を書きたいというのが第一の夢でした。高校卒業後に進学したデザイン学校に在学中にデビューをしたので、その時はまだ実家にいました。だからまだ養われている身でしたので、親との間に契約のようなものがあって、仕事の時間や手伝い、食事や風呂などは全て決められ、干渉されていました。マイペースではいられないんですね。だから、洗濯や炊事は自分でやるので、いつ寝てもいつ起きてもいつ漫画を描いても許される自由な生活したいと思っていたんです。

家族の50%は得体のしれないもので出来ている

――萩尾先生にとって家族というのは、肯定できる、もしくは肯定されるべきものなのでしょうか?

萩尾:人間の子どもが親に保護されないと育たないという形で生まれてくる以上、やっぱり家族がいないと生きていけないから、とりあえず家族があるのはしょうがないから認めよう、というかんじですね。育ちながら自分で学んでいくしかない。自分が学べる相手というのは親だけじゃないし。最初は家族の中で過ごすにしても、本もあるし、友達もいるし、周りにいろいろある。その中からたくさんの価値観を学んでいけばいいと思う。

萩尾:家族は100%いいものというわけじゃない。50%ぐらいはいいものでできているかもしれないけど、残りの50%は何か得体の知れないものでできている、というかんじです。悪いときには虐待とかも起きちゃうし。でも大抵の家族では、親の影響を受けながら、考えたり反発したりして、曲がりなりにも子どもが育っていく。

萩尾:そして、それでいいんじゃないかなと思います。それで、もういっぱしに口が聞けるぐらいの年齢になったら、親があまりに理不尽なときには、親を説得できるぐらいのコミュニケーション能力をなんとかつける。そしてなんとか家族の問題の嵐を切り抜けていく。嵐ばっかりあるわけじゃないんですけど(笑)

完璧な親なんてどこにもいない

――『残酷な神が支配する』で、ジェルミがイアン(*1) に、「子供を親に育てさせちゃいけない」(*2)と言うシーンがあります。それは先生にとっての実感だったのでしょうか?

萩尾:親のこどもに対する愛情ってのは、ある種非常にバランスが悪いと思うんですね。完璧な親ってのは、どこにも居ない。でも人間という生き物はどうしても未成熟で生まれるものですから、保護されないと、精神面も行動面もうまく発達しない。ただし、ある一定時期になると、親からは別人格として、自立しないといけないという精神構造になっていく。子供のほうも、親のことを100%頼っていく時期から、だんだん、ちょっとこいつは…っていう反抗期にうまーくスライドしていかないと、大人になって付き合えなくなっちゃう。

萩尾:ジェルミの場合は、育てられ方に失敗してしまったんです。お母さんの意のままになろうと思って、自分を投出してしまったんだけど、本当はもっと強くならないといけなかった。でも、「親に子供を育てさせてはいけない」というきつい言葉も、彼が母親のサンドラから、一歩一歩抜け出すための一言になっている。

サンドラはジェルミにお別れのキスをする

――『残酷な神が支配する』のラスト近くに、ジェルミが墓地に行って、サンドラに殺人を告白すると、サンドラの亡霊がジェルミを抱きしめてキスをする、というシーンがあります。その後ジェルミはイアンに「殺人者でも人を愛することを試みてもいいのだろうか」と言います。そのサンドラの亡霊との邂逅は、ジェルミにとって、自分は愛されていたという証になっていたのでしょうか?

萩尾:あれは、お別れのキスなんです。お母さんに告白するというのは、お母さんに別れを告げるということと一緒。見えない何かでお母さんに支配されていた状態から抜け出すんです。

萩尾:お母さんがお墓から出てきてキスするんですけど、実は私にもどうして出てくるのかわからないんですよ。でも、イメージの中ではどうしても出てきてしまう。これは、サンドラがジェルミに許しを求めているのか、告白しても許さないわよと言っているのかどっちだろうと思いながら描いていました。未だに実は分からないんです。どっちなんでしょう。両方かもしれない。

――そのシーンでサンドラは微笑んでいますよね

萩尾:そうでしょう。怖いでしょう私も描きながら怖いな…と。私にも、サンドラが何を考えているのかはよくわからなくて。

(一同笑)

2:漫画という芸術

漫画は紙とペンさえあれば誰でも描ける。だから面白い。

――今日のマンガのあるべき姿についてお聞きしたいのですが、マンガが日本人の誇るべき文化といわれる一方で、「漫画は子供の読むべきもの」として下に見たり、都条例のように漫画を規制しようという動きもあります。そういった状況を乗り越えて、マンガは万人に受け入れられるものになり得るのでしょうか?

萩尾:表現の形態としては、いいものができれば皆が読んでくれるということなんです。いろんな表現のジャンルが、出来た時から完成されたものではなかったし、いろいろ変化してきたものだし。だから色々な見方があると思います。ストーリー漫画というのは、戦前にもありましたが、手塚先生が始めたような構図の取り方とか展開っていうのは、また新しいやり方として戦後に生まれたんです。能とか狂言とか歌舞伎とかも、平安室町には河原者がやる物として軽んじられていましたが、今はどれも芸術として認められています。やっぱりあのくらいの年月がかかるんだと思います。

――時代を越えて読み継がれていく中で、洗練されていく?

萩尾:そうですね。やはり、感動を呼び覚ますと変わりますね。訴えたいことをもっている人が、この世界に入ってくるんです。

萩尾:特に漫画で面白いのは、紙とペンさえあれば誰でも描けるので間口が非常に広いってことなんです。絵を描くのに、デッサンが完璧に出来てなければならないってこともないし、ストーリーも完璧でなければならないってこともない。その分玉石混淆というか、いろんなものが出てきてるんです。そこが面白い。ある時は都条例みたいにバッシングにも遭います。手塚治虫先生でも、若い頃は漫画は悪書だと言われ、PTAで全部燃やされたという伝説もあるくらいですし。けれどそれだけ影響力は非常に大きいのだと私は考えています。

読んだときに呼吸が伝わるように漫画を描く

――オペラやバレエなどの観劇で得たインスピレーションを作品に昇華させることはあるのでしょうか。

萩尾:うまく何かやってくれば役に立ちますが、それがどんなふうにやってくるかは分からないんですよ。バレエは好きでよく見ていましたけど、バレエものを描こうと思ったのは舞台を見ていた時というより、レッスン風景を見に行ってからなんです。みんなレオタードを着て、バーに並んで、音楽に合わせて同じように踊っているんですが、なまじ役割が決まっているわけではないので、ダイレクトに個性が見えるんです。ぽーっとしている人であるとか、神経質そうな人とか、それがすごくおもしろいなぁと思いまして。

――バレエやオペラといった三次元的芸術を二次元の平面に映すと、どうしても動きが止まってしまいますが、先生の描くバレエ漫画(『ローマへの道』(1990)、『フラワーフェスティバル』(1988,1989)等)はすごく躍動感があります。描く際の工夫やポイントはあるんでしょうか。

萩尾:舞台って動いているじゃないですか、音楽と一緒に。いい舞台って、呼吸と一緒に展開するんですね。呼吸と展開した雰囲気のようなものをここ(作品)に持ってきて、これを読んだときに呼吸が伝わるように描いています。ネームができると自分で読んでみて、呼吸伝わっているかなって考えます。コマのここを2ミリずらしてみたらどうだろう、あ、呼吸出た、とかって試してみるんですね。うまくシーンが描ける時って、画面が自分ともすごく呼吸が一致していて、乗ってるって言うのがわかるんです。逆の場合もありますが(笑) 空気を描こうと心がけています。

3:萩尾望都の描く「愛」

男の人は本当に大人になったのか?

――先生の『マージナル』(*3)などの作品では母性のような存在による再生が強く描かれているように感じました。萩尾先生にとって、母性というのは大きなテーマの一つなのでしょうか?

萩尾:私はもっと、母性というものは信じてもいいんじゃないかと思うんです。女の人の強さはどうもそこから来てる部分が大きいんじゃないかなと、「マージナル」を描きながら思ったんです。あの、イケメンばっかりの、女の出てこない作品ですけど(笑)

萩尾:「マージナル」を書く前に、男性ホルモン女性ホルモンについて調べようと思い、何冊か本を読んだんです。その本によると、副腎のそば、つまり子宮のそばにある場所から出てくるホルモンの活動が、第二の脳だと言われるぐらい、活発だったそうです。「女は子宮で考える」という言い方がありますよね。だから女は感情的なんだ、と非常に悪い意味で使われるんですが、これは逆じゃないかと思ったんです。つまり、本能で考えるからこそ、これは正しいとわかることが結構あるんじゃないかと。

萩尾:世界の宗教というのは、最初、母源的というか、女の人が神様ってところから始まるんですけど、それが途中から、男の人が神様と呼ばれるように変化していくんですね。キリスト教もそうだし、仏教もそうだし。その変化の時に、神話の中で必ず男の人は竜退治をするんです。須佐之男命が八岐大蛇を退治したり。ジークフリートがファフニールを倒したり。竜っていうのは、巻きついて子供を飲み込んでしまう母親のイメージなのだそうです。それを克服して、男の人は一人前に、つまり人間になる。それを助けるために宗教というのはあるんだと。イスラム教もキリスト教も仏教も、男の人を助けるための宗教なものですから最初は女性参加を認めていないんですね。男はアイデンティティを確立するために、宗教的な概念が必要だったと本には書いてあったのです。

――つまり、母の象徴である竜を倒さなければ、男は一人前になれないということですか?

萩尾:そう、そうしなければ自我の自立ができないというね。

萩尾:原始アニミズムの宗教、女が支配してる時はどうだったのかというと、男の人は大人になれなかった。もちろん、成長もするし、髭も生えるのに。物語として伝えられているものに、宗教催事として、畑に作物を実らせるために少年を連れてきて切り刻んで肉片をまいてそこから芽が出る、というものがあります。女の人が子供を生むために、そのぐらいしか男は役に立たないという、切り刻まれてしまうような存在だったんですね。その世界が終わって、男の人は大人になったわけです。本当に大人になったのかな?というのが最近考えてることです。

(一同笑)

ボーイズラブを読んで愛に浸る

萩尾:男の人がいる前で話すのはちょっと照れくさいのですが、ボーイズラブっていうジャンルがありますよね?

萩尾:あれが世の中を席巻したときに、すっごく不思議で、どうして女の人は男女の恋愛ではなく、男同士のものを読みたがるのか、読んでる人を捕まえては聞いて、書いてる人も捕まえては聞いてしていたんですよ。そしたらある審査会で、新人の原稿を見たときですが、男性二人がモラトリアムに生活している話があったんです。近所の仲良しで、いい大人で二人暮らしして、あるときはたらたらと団子を食べたり、ある時は絵を書いたりして過ごしている。ある女性審査員が「あ、これはBLだと思って読むと面白い」って言ったんです。でも別の高齢の男性審査員はBLを知らないから「BLって何?」って聞いたの。で、「男同士の関係が恋愛なんじゃないかと思って読んで楽しむんです」って言ったら、「ああ、ゲイか」って。そしたら女性審査員のほうは「ゲイじゃありません!女の人が、この二人は恋愛関係にあるんじゃないかって見て楽しむという女の人視点からみたものが、ボーイズラブというものです!」って言ったんです。そこで私は「そうか、確かにゲイじゃないわ。妄想を膨らまして楽しむものだわ」って気付いた。

萩尾:何故女の人は妄想を膨らまして楽しむのかというところに、男女の恋愛のヒントがあるんです。今の世界では社会のシステムかなにかに縛られていて、飛躍した発想で人を愛せない。もっと自由に人を好きになり自由に恋愛をしたいというのは、現実では確実に無理だから、ボーイズラブで楽しむということだそうです。

――ボーイズラブには純粋な恋心が投影されていますよね。

萩尾:私、恋愛ものが読みたい時というのがあるんですが、日本の恋愛もの読むと、これがしっとりしすぎて味気ないんですよ(笑)それで海外のちょっと古目の18世紀19世紀の恋愛ものとか、後はボーイズラブを読んでみたりすると、たっぷり愛に浸れる。

愛、理解、赦し

――萩尾先生はいろいろな愛の姿をお描きになりますが、先生にとっての愛のイメージとはどのようなものなのでしょうか。

萩尾:いろいろありますけど、結局は「理解」と「赦し」かなぁ。

萩尾:若いころって、すごい完璧な男性が現れて、私をさらってくれないかなぁ、という王子様願望とかがあるんですね。ところがだんだん歳をとってくると、親にしてもそうなんですが、完璧な人間などいないということがわかってくる。そうすると完璧でないことが許せなくなってくる。だけどそれを越えますとね、まぁそれはしょうがない、と思うようになるんです。自分の親だって完璧じゃないし、まず自分からしたって完璧ではないし、担当編集だって完璧ではない(笑)

――以前立花ゼミの取材を受けてくださった際に、『残酷な神が支配する』を「愛があればうまくいくなんていうのは、ユメなんだなあ」と考えながら描いたとお答えになりましたが(*4)、それでは愛のほかに例えば何が必要だとお考えですか。

萩尾:お金?違うか(笑) 何がいるでしょうかねぇ、それは非常に深い質問ですねぇ。リラックス?(笑) 私もすぐにはその質問には答えられないですね。みなさんも考えてみてください。

漫画を描いて理解の方法を探っている

(??)僕は萩尾先生の作品を読んでいると、それは「諦め」なんじゃないかと思います。『スターレッド』(1978,1979)や『午後の陽ざし』(1994『イグアナの娘』収録)『残酷な神が支配する』など、萩尾先生の作品は確かに救われて終わっても、完璧なハッピーエンドではなく、すべてが解決するわけではない。物語の中盤などで発生した問題は受け入れて、諦めて、残った愛などを頼りに生きていくような形が多いと思います。

萩尾:一頃「人間は幸福になるために生きているんだ」とかっていうフレーズがはやったんですけど、「じゃあ幸福になれなかったら、どうしたらよいのか」と思っていました。そしたらある本で、アウシュビッツに収監された方ですごいシビアなことを書く方が、「人間は幸福になるために生きているのではない、なぜならば、幸福になれなかったら死んでもいいということになってしまうから。幸福になるために生きるのではない。生きることそのものが大事だ」とおっしゃっているんですね。長い人生のスパンに幸福も不幸も愛もいろんなものがつまっていて、らせん状にいろんなものを経験しながら生きているんだろう。そう考えると、生き続けるためにはある程度諦めなくてはならないと思い始めたんです。

――萩尾先生の作品には、私たちが他者と関わるときに理解できているのは、その人のほんの一部であることが繰り返し描かれていますよね。

萩尾:「みんなから嫌われているおじいさんは常に不機嫌だけど、その裏にはこういう事情があるのであって・・・」といったことを描いてるわけですね。

――確かに『残酷な神が支配する』でも、親から「自分の子供ではない」などと言われた過去を持つグレッグにイアンが思いをはせるシーンがあります。

萩尾:理解とコミュニケーションっていうのは非常に難しい。家族というものは自分と一緒に生活している人だから理解ができるはずの相手なんだけど、家族ですら本当に理解するのが難しい。だから漫画を描いて理解の方法を探っているって感じです。

萩尾:なまじわかりあえると思わないほうが・・・たまに奇跡のように分かりあえる瞬間がある、と思った方がいいんじゃないかな。

愛=憎しみ

――『半神』(*5)でもそうですが、自分と一緒だったときには相手を激しく憎んだりするけれど、切り離されて初めて大きなものを失ったことに気づく。その悲しみというものが非常に強く押し出されていると思います。

萩尾:愛というものがこちらの端っこにあって、すごく愛してた。憎しみというものがもう一方の端っこにあって、すごく憎んでた。でも掘り下げていくと、どっかで一緒になっちゃうんですよね。表面では別々に存在しているけど、中が一緒。ほんとに人間って複雑ですよね。

萩尾:日本は広島と長崎で原子力爆弾の被害を受けて、その後で「世界の核実験に反対する」というグループがいくつかできましたよね。でもその人たちは、海外の核実験反対の人たちの「日本は原爆の被害を受けているのに、どうして原発をあんなに作っているんだ」という問いに答えられなかったんです。要するに「原子力発電は核の平和利用だから原子力爆弾と同じものではない」というふうに途中で考えを切り替えたんですね。それで、こんなに大きな被害を受けたからこそ、原子力のエネルギーを平和に利用できるんだったらそれは素晴らしいことじゃないかと思って、私たちは原子力に頼る生活を始めた。そんなふうに言ってらっしゃる方がいます。

萩尾:なんだかそれは、暴力的な父親の下で育った娘が「絶対にこういう男とは結婚しない」と思いながら、実際は暴力的な男と結婚してしまう、同じことを繰り返すという話を想像してしまう。

――過去に自分の身に起きたことを認めたくない、それを正当化したい、という思いが現在に影響を及ぼしているということでしょうか?

萩尾:そういうことになりますね。何か克服しようという思いがあるからそんなことになるんでしょうね。人間は体験内でそれを克服しようとするんだけれど、あれはあれ、今の私は私、と考えるには、やっぱり時間も自己分析も必要なのかもしれない。

萩尾:日本は、これから原子力発電についての自己分析を部分的に始めたところです。まだどうなるかわかんないですねえ。

萩尾:なんでそんなに原子力がいいのか、というのが不思議と言えば不思議。原子力発電というのは電力会社の試算ではそんなに安いわけでもないのに。水力でも石油でもガスでもいいのに、なぜ原子力なのかというのがわからない。しかも後始末も大変だし。だから風力とか太陽光で独占してもうけて構わないから、そっちでビジネスやってくれないかなあと。それとも25年とか30年に1回(事故が)起こるのを容認しながらでも原発を続けたほうがいいんだろうか。つまり、文明の発達にある、例えば交通事故のリスクと同じようなものだと思って。どうなんでしょうねえ。まだまだ,考えて行かないと。

4:私たちの世界は絶対ではなく不安感を含んでいる

原発事故が起きてから、じゃあどうしたらいいのか、考えなくては前に進めないと思った

ーー「flowers」8月号に掲載された、『なのはな』を読ませて頂きました。先生が原発事故についてお描きになったのはどのような思いからでしょうか。

萩尾:3月11日に、私はちょうど埼玉県の家にいました。東京直下かなと思いながらTVをつけてみましたら、しばらくして大津波の映像が映って。日を追って刻々と原発の情報も入ってくるし、信じられない、というような思いでした。

萩尾:そのあと、4月の始め,原発に非常に詳しい女性の方に、チェルノブイリでは土壌汚染を改良するために麦とかひまわりとか、なのはなだとかを植えているそうですよ、ということを聞く機会があったんです。何年もかかるけど土壌が改良されるらしいんですね。原発の事故が起こってすぐに菅さんは、もう福島の避難区域に人は10年は住めないだろうと言ってマスコミなどに大批判されましたけど、私は、なぜ批判するのかな、えっ、これは言ってはいけないの? って思ったんです。でも,きっと,避難した方々にとってみれば,今聞きたくはない言葉だったのですね.住めないけれど、でも住めないなんて、あんまりだ、じゃあどうしたらいいのか、ということをなんとか考えなきゃ、前に進めないと思ったんです。

萩尾:それならやはり土壌汚染を何とかしなければいけない。しかも菜の花は福島でも非常に広域に咲くらしい、じゃあそのイメージで、とダイレクトですけれどああしてひまわりとか麦とか、なのはなを植えるっていう話を書かせて頂きました。

――『なのはな』は再生のあり方を描いていますが、同時に「再生」に向かう人たちの思いを描きたかったのでしょうか?

萩尾:私は福島の原子力発電所が爆発してから、ものすごく落ち込んでしまったんです。爆発した後すぐに、枝野さんがこの地域の人は避難することになりましたって発表しまして、その範囲がすぐに広くなりましたよね。その時に管さんが追いかぶせるように、十年は住めなくなるだろうってコメントしていましたが、じゃあどうしろっていうんでしょうか?生活も何もかも奪われて。何とかしてよ!それはあんまりじゃないですかって感じがして。誰かの首を絞めて何とかしろって叫びたくなりましたよ。私短気なんですよ。だから自分の怒りを鎮めるためっていうのもあって、『なのはな』を描きました。

10万年とどう付き合っていけばいいのか

――『プルート夫人』(「flowers」2011年9月号)では、半減期の長さが強調されていましたが、先生が一番衝撃を受けたのはその点だったのでしょうか?

萩尾:永遠に無くならないことですよね。

萩尾:『100,000年後の安全』(http://www.uplink.co.jp/100000/)という映画があって、その十万年というのはプルトニウムの半減期が2万4000年で,さらに半分ずつ減って行ってほとんど無害になる歳月を表しているんです。もっと長い半減期もあるんですが、プルトニウムは原発によって大量に出るものなので、この十万年とどう付き合っていけばいいのか…

萩尾:私たちは電気を使うことで産業を発達させ豊かな生活を送っている。でも電気の一部分を作るウランから発生する、プルトニウムをどうするかっていうことについては、まだ多くの人が真剣に考えてないんだと思うんです。誰かが考えるんじゃないかって思ってる気がする。

萩尾:人間ってわりと能天気なもので、やはり飛行機がいくら落ちても、「自分の乗ってる飛行機は落ちないから大丈夫」って思ってしまう生き物なんです。私も福島の事故が起こるまでは、日本の技術者ってすごいって思ってましたから。楽観的にならないと何もできなくなってしまうんですよね。

――あの語り口で原発の話に踏み込むのはとても新鮮でした。

萩尾:真面目に話してもつらいですからね…

萩尾:大地震がダイレクトに来て、楽しい話が一時期考えられなくなってしまいました。

萩尾:地震は復興すれば1年で直る可能性はあるけれど、原発の事故は10年では変えられるとは限らないですよね。戻らないんです。永久に続く。どうするんだろうかと思ってしまいます。現地の人に知り合いがいるわけではないのですが。特に年配の方々の気持ちを想像してしまいます。その土地で育ち働き結婚し半世紀以上住んだ人はもう流浪の旅、迷宮にさまようようですよね。オペラで言えば『さまよえるオランダ人』といったところでしょうか、まさかこのような事態がくるなんて…

私たちの世界は絶対ではなく不安感を含んでいる、ということを書くSFが好き

――先生がSFをお好きな理由というのは、遠くを見ているはずなのに人間の営みは変わらないというところにあるのでしょうか?

萩尾:それもありますが、他にも…私の生きてきた時代の空気は、法律主義が第一で、無駄なものは切り捨ててみんなが幸福になるために頑張っている、というものだったんですね。でも非常に息苦しいんです。私がSFで一番好きなのは、ディック (*6) やブラッドベリ(*7)の描く悲しく崩壊していく社会なんですが、滅びの美学とでも言うのか、なんだかそっちのほうに惹かれちゃう。

萩尾:頑張って貯めこんで、まだその世界には未来を信じている人もいるのに、隅の方から砂みたいにさらさらと崩れていく。そういう匂いというか味があるもの。

――萩尾先生の作品にも儚さを感じるのですが、そんな匂いを描きたくて?

萩尾:そうですね。逆にそういうものを描くことで、なにか自分を安心させているのかもしれないし。

萩尾:私たちの世界というのが、絶対ではなくて不安感を含んでいる、ということを私は感じるんだけど、日常ではそれが見えないでしょう。

萩尾:けれど実際はどっかで壊れていっているんじゃないか、ということを描いているのがSFなわけで、だからそれを読むと逆に隠されていたものが見える気がして安心するんですね。

萩尾:原発だって「絶対安全」と言っていたけれど、でも…という事態になっている。「でも」の世界をSFで見て、「そう、起こるかも しれないよね。ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(*8) みたいな世界だってくるかもしれないよね」と思って自分の抱えている「こればっかりじゃないんじゃないかな」という感覚に安心するかんじですね。

終わりに 小林瑛美

萩尾望都が口にした「人間が理解しあうのは本当に難しい。なまじわかりあえると思わないほうがいい」という冷たい決意のようなことば。しかしそれは単なる諦めではない。その後には「たまに奇跡のようにわかりあえる瞬間がある」と続く。

他者を理解するのは不可能である。しかしだからこそ、時に訪れる、人とわかりあうことができる瞬間は、うつくしい。これこそが、青臭くも「人は理解しあえない」「人間は孤独だ」という真理に気付き悲しんだ中学・高校時代の私に、萩尾望都やその他の少女漫画家が教えてくれたことだ。

他にも、萩尾望都は人間の複雑さについて・社会の抱える矛盾について妥協せずあくまで論理的に考え続ける―優れた創作者なのだ、ということが、私たちの拙い質問に言葉を選びながらゆっくりと答えてくださったその姿勢からひしひしと伝わってきた。とても素敵な時間だった。



(*1)『残酷な神が支配する』
1992年―2001年にかけて『プチフラワー』誌で連載された萩尾望都の最長編。15歳の少年ジェルミは母と2人で暮らしていたが、母・サンドラの再婚によりその日常は一変する。再婚相手のグレッグはサンドラの幸福を楯にジェルミに肉体関係を迫る。追い詰められていくジェルミ。そして彼の告白を聞きながらも一度はそれを否認してしまう義兄、イアン。この2人を軸に、萩尾望都は「愛」「理解」と名付けられた暴力、それに絡め取られていく人間たちの姿を描き、その上で暴力や依存の形をとらない愛や理解、再生の道を探っていく。

(*2)「子供を親に育てさせちゃいけない」
『残酷な神が支配する』(小学館文庫) 第10巻 p.291

(*3)『マージナル』
1985年〜1987年にかけて連載されたSF作品。汚染された海と不妊を引き起こすウイルスにより静かに消滅に向かう世界。その世界は、ただ一人の聖母マザと彼女の生んだ数万の息子たちから成ると信じられていた。だがそのマザが祭礼の日に暗殺されてしまう。
女のいない、男だけのこの世界で生命の営みは続いていくのか?

(*4)『二十歳のころ〈2〉1960‐2001―立花ゼミ『調べて書く』共同製作』 (新潮文庫) p.291

(*5)『半神』
1984年に発表された短編。ユージーは双子の妹とユーシーは生まれつき腰のあたりで繋がっている。妹に栄養分が偏った結果醜い容貌のユージーはいつも、頭は弱いが美しいユーシーの世話をしなければならず、楽しみである勉強も妹に邪魔される。二人が成長するにつれてユージーの苛立ちはつのっていくが、ある日ドクターから二人の分離手術が提案される。「ユーシーと別れられるなら死んだっていい」とユージーは手術を受けることを決意する。手術から目覚めたユージーが見たものとは…。
たった16ページの短編であることが信じがたいほど濃密な物語が展開される。

(*6) ディック
Phillip K.Dick(1928〜1982) アメリカのSF作家。代表作に『アンドロイドは電気羊の夢をみるか?』『高い城の男』などがある。

(*7) ブラッドベリ
Ray Bradbury(1920〜) アメリカのSF作家。代表作に『火星年代記』『華氏451度』などがある。美しい文章で未来の世界の儚さを描く。
萩尾望都もブラッドベリの短編を選び『ウは宇宙船のウ』として漫画化している。

(*8) 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1968年)
舞台は放射能に覆われた地球。多くの人類が地球の外に移住する中で、地球に残った男は火星から逃亡してきた8体のアンドロイドを処理しようとする。

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