最終更新: mototemplate 2021年08月26日(木) 11:26:11履歴
【竹宮惠子のマンガ教室】244-247ページ
発行日:2001年06月20日
出版社:筑摩書房
大泉サロンと“花の24年組”
萩尾望都さんと暮らし始めたきっかけ
ーー竹宮さんは若い頃、一時期、萩尾望都さんと一緒に住んでらしたんですよね。キャベツ畑に囲まれた、有名な「大泉サロン」。最初はどういうきっかけだったんですか? 描いているものが近いからとか、そういう……?
竹宮 もともと単純に彼女の世界が好きだったんです。それで、こういう人とつきあいたいな、って思ってた。そこへたまたま、私が『なかよし』の締切りに負われてカンヅメになってた時に、編集さんから、「今、萩尾さんも東京に来てるから、アシスタントに来てもらいますか?」って言われて、「チャーンス!」(笑)。一もなく二もなく「よろしくお願いします」って。そこから始まったんです。『爆発会社』でしたっけ、あれがすごく好きで、最初は「この人、男じゃないか」と思ってたんですよ。「男だったらつきあいたい」(笑)って。そういう感じだったんで……。
ーー『爆発会社』のどのへんに惹かれたんですか?
竹宮 話のあやつり方に、私なんかとは全然違う視点の高さみたいなのがあって、本当に話を操れてる、演出できてる感じがいい、と思ったんで、「こういう人のそばで勉強したいな」という気持ちもあった……。
ーー「最初は男じゃないかと思ってた」っていうのは、どのへんで?
竹宮 構築的なところです。最初から最後まできっちりと計算されて、ギャグとかもちゃんと配分されてるってとこが、「いやぁ、全然違う」と思いましたね。私のやってることっていうのは、ただストーリーの流れで起承転結を作るっていう、教わった通りの正統的なやり方。だけど彼女のはもっと深い、っていう感じがしたんですよね。たとえば私のだと起承転結の縦の流れしかないけど、彼女のには、縦糸に対して横糸がすごくたくさんあって、それがすごく軽妙に入ってくる。「これはやっぱり勉強するべき相手だな」っていうふうに思いました。
ーーそうやっていつも学ぶ対象を探している。
竹宮 そう。だから私も、最初からできたわけじゃないんです。本当に最初は石ノ森章太郎先生の『マンガ家入門』で勉強したことしか知らなくて。
一方萩尾さんは、ドップリはまった手塚ファンだったんですよ。そういう意味で彼女は本当に、映画も好き、小説も好き。だからこそ、細かい演出の部分がすごく好きだったんだと思うんですよね。小説に関してもマンガに関しても、細かいところをすごくよく覚えてる。それは、増山のりえさんも同じなんですけど。
なのに私はその頃マンガ馬鹿で、本はあまり読んでなかった。だから、細かいイメージというのをどうやって話の中に差し込んでいくかっていうことが全然わかってなかった。説明のために多少は細かい演出を加えていく、というぐらいのことしかできない。
でも萩尾さんの作品を見た時、そうじゃない描き方もあるんだ、って思って。
ーーそれで勉強のため一緒に暮らし始めた(笑)。
竹宮 ええ。そのカンヅメで手伝ってもらったことで親しくなって、読んだ本の話とかしているうちに、すごく楽しくなってきた。で、以前からあった共同生活への憧れもあって、「一緒に住まない?」みたいなことを私が言ったんです。「私も徳島の田舎モンだから一人で出てくるのは怖い。でもあなたもやっぱり出てこようかとか思っているわけでしょう?」みたいな。
ーーその頃、萩尾さんは?
竹宮 九州の福岡なんですけれども、その頃は出てくるというところまでは考えていなかったと思うんです。彼女はその頃、東京に住んでいた増山のりえさんと文通していて、東京に来るときには彼女のところにやっかいになっているんだ、みたいなことを聞いた。私はそのときのはまだ東京に友達はいませんでしたから、「へえー、いいなあ」と思って。でもその頃はまだ、私は増山さんとは知り合いじゃなくて、萩尾さんに一生懸命「一緒に住まないか?」ということを言っても彼女がなかなかのってこなかったんで、私はとりあえず練馬の桜台で、一人で生活を始めたんです。
桜台を選んだのは石ノ森先生がいるという理由。あそこのアシスタントさんたちと知り合いになってたから、やっぱり足場としては、そのへんにしようかなと。その間に増山さんと知り合いになって、電話でよく話すようになって、その会話から『風と木の詩』が発展していったりして。
彼女はそれからしばらくして、私のブレーンをやるようになるんですが、彼女との話の中で「誰か一緒に住む人がいないと生活が殺伐としてくるから、萩尾さん誘ったら、出てきて一緒に住んでくれないかなあ」というと、彼女が「じゃあ私が部屋を探そう」といって、自分の家のすぐ目の前の二軒長屋かなんかを「人が出ていったから、あそこどう?」。
それで急遽、話を進めることになったんです。
発行日:2001年06月20日
出版社:筑摩書房
大泉サロンと“花の24年組”
萩尾望都さんと暮らし始めたきっかけ
ーー竹宮さんは若い頃、一時期、萩尾望都さんと一緒に住んでらしたんですよね。キャベツ畑に囲まれた、有名な「大泉サロン」。最初はどういうきっかけだったんですか? 描いているものが近いからとか、そういう……?
竹宮 もともと単純に彼女の世界が好きだったんです。それで、こういう人とつきあいたいな、って思ってた。そこへたまたま、私が『なかよし』の締切りに負われてカンヅメになってた時に、編集さんから、「今、萩尾さんも東京に来てるから、アシスタントに来てもらいますか?」って言われて、「チャーンス!」(笑)。一もなく二もなく「よろしくお願いします」って。そこから始まったんです。『爆発会社』でしたっけ、あれがすごく好きで、最初は「この人、男じゃないか」と思ってたんですよ。「男だったらつきあいたい」(笑)って。そういう感じだったんで……。
ーー『爆発会社』のどのへんに惹かれたんですか?
竹宮 話のあやつり方に、私なんかとは全然違う視点の高さみたいなのがあって、本当に話を操れてる、演出できてる感じがいい、と思ったんで、「こういう人のそばで勉強したいな」という気持ちもあった……。
ーー「最初は男じゃないかと思ってた」っていうのは、どのへんで?
竹宮 構築的なところです。最初から最後まできっちりと計算されて、ギャグとかもちゃんと配分されてるってとこが、「いやぁ、全然違う」と思いましたね。私のやってることっていうのは、ただストーリーの流れで起承転結を作るっていう、教わった通りの正統的なやり方。だけど彼女のはもっと深い、っていう感じがしたんですよね。たとえば私のだと起承転結の縦の流れしかないけど、彼女のには、縦糸に対して横糸がすごくたくさんあって、それがすごく軽妙に入ってくる。「これはやっぱり勉強するべき相手だな」っていうふうに思いました。
ーーそうやっていつも学ぶ対象を探している。
竹宮 そう。だから私も、最初からできたわけじゃないんです。本当に最初は石ノ森章太郎先生の『マンガ家入門』で勉強したことしか知らなくて。
一方萩尾さんは、ドップリはまった手塚ファンだったんですよ。そういう意味で彼女は本当に、映画も好き、小説も好き。だからこそ、細かい演出の部分がすごく好きだったんだと思うんですよね。小説に関してもマンガに関しても、細かいところをすごくよく覚えてる。それは、増山のりえさんも同じなんですけど。
なのに私はその頃マンガ馬鹿で、本はあまり読んでなかった。だから、細かいイメージというのをどうやって話の中に差し込んでいくかっていうことが全然わかってなかった。説明のために多少は細かい演出を加えていく、というぐらいのことしかできない。
でも萩尾さんの作品を見た時、そうじゃない描き方もあるんだ、って思って。
ーーそれで勉強のため一緒に暮らし始めた(笑)。
竹宮 ええ。そのカンヅメで手伝ってもらったことで親しくなって、読んだ本の話とかしているうちに、すごく楽しくなってきた。で、以前からあった共同生活への憧れもあって、「一緒に住まない?」みたいなことを私が言ったんです。「私も徳島の田舎モンだから一人で出てくるのは怖い。でもあなたもやっぱり出てこようかとか思っているわけでしょう?」みたいな。
ーーその頃、萩尾さんは?
竹宮 九州の福岡なんですけれども、その頃は出てくるというところまでは考えていなかったと思うんです。彼女はその頃、東京に住んでいた増山のりえさんと文通していて、東京に来るときには彼女のところにやっかいになっているんだ、みたいなことを聞いた。私はそのときのはまだ東京に友達はいませんでしたから、「へえー、いいなあ」と思って。でもその頃はまだ、私は増山さんとは知り合いじゃなくて、萩尾さんに一生懸命「一緒に住まないか?」ということを言っても彼女がなかなかのってこなかったんで、私はとりあえず練馬の桜台で、一人で生活を始めたんです。
桜台を選んだのは石ノ森先生がいるという理由。あそこのアシスタントさんたちと知り合いになってたから、やっぱり足場としては、そのへんにしようかなと。その間に増山さんと知り合いになって、電話でよく話すようになって、その会話から『風と木の詩』が発展していったりして。
彼女はそれからしばらくして、私のブレーンをやるようになるんですが、彼女との話の中で「誰か一緒に住む人がいないと生活が殺伐としてくるから、萩尾さん誘ったら、出てきて一緒に住んでくれないかなあ」というと、彼女が「じゃあ私が部屋を探そう」といって、自分の家のすぐ目の前の二軒長屋かなんかを「人が出ていったから、あそこどう?」。
それで急遽、話を進めることになったんです。
最新コメント