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【飯田耕一郎:編集者たち】2017年発行
「COM」の野口勲さんという編集者について書かれた文章です
山本順也さん、萩尾望都、岡田史子両氏についての記述も

資料提供
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/162083...



漫画文化評論誌「BIRANZI」39号 147-156ページ
2017年発行

〈連載〉マンガたちよ!
編集者たち その2
飯田耕一郎
(図版に続いてテキスト抽出あり)









〈連載〉マンガたちよ!
編集者たち その2
飯田耕一郎

大いなる才能を持った漫画家は漫画の歴史を変える力を持っているが、それもその才能を引き上げる 編集者の存在があってこそだと思う。
いやいや、才能のある者はどんな状況でもいずれは必ずどこかで注目され認められるものなんだよ、という意見もあるかもしれないが、世間には成功した例しか表に出ないから本当はどうだかはわからない。素晴らしい才能を持ちながら編集に恵まれずに消えていった作家もいるのではないだろうか。やはり出会いとタイミングというものはあるのだと思う。
いや、その出会いとタイミングも才能だということも言えるのかもしれないが…。
そういえば、去年の暮れに東京の森下文化センターで、聖悠紀氏とみなもと太郎氏がゲストの「SFを語る」というトークイベントがあったのだが、作画グループの会長の故ばばよしあき氏が、五十年前にこの才能にあふれた『超人ロック』という作品を同人誌から雑誌で展開させようと各出版社を回ったが、どこも{SF}はと言って受け入れてくれなかった、という話をみなもと氏が話されていた。
時代に早かったその作品は媒介する編集者の理解が及ばず、結局十年遅れてやっと発表の場を与えられ、そして不滅の作品となって大ヒットにつながっていくのだが、やはり媒介者としての編集者の存在がなければ先に進むことは出来ないのだ。

野口勲という編集者は、その作家の才能を見い出す力を持った職人タイプの編集者だった。1965年、大学を中退して虫プロ出版部に入社。手塚治虫担当をメインに、「COM」の前身である 「アトムクラブ」に終刊まで関わり、「COM」の立ち上げに大きく貢献した編集者である。
前回で少し触れたが、1971年1月号「COM」に掲載された萩尾望都の『ポーチで少女が子犬と』は手塚治虫の『火の鳥』の原稿が落ちて、その代原稿だったのだが、それを後押ししたのが野口氏だった。 もう手塚氏の原稿が間に合わないこととなり、代わりの原稿をどうするかと考えていた時に、そういえば「こんな作品があるけど、でも少女漫画なんだよね」と石井編集長が机の引き出しから出してきた作品がそれだった。
この時期、萩尾望都は既に講談社の「なかよし」でデビューしていたが、自分の描きたい作品と年齢層の問題で悩んでいて、新たな発表の場を求めて複数の編集部に作品を送っていたのだが、その中の一 作だったと思われる。
石井編集長はそれを数か月も机の引き出しにしまっていたのだが、読んだ野口氏は大きく衝撃を受けた。個性的で新しい感性、類まれなる才能に溢れた短編だった。
「これ、いいじゃない!なんでいままで放っといたのよ!」ということで即効で代原稿として掲載することになった。
この作品がきっかけになったとはここでは書けないが、実は小学館の名高い編集者で、この萩尾望都や竹宮惠子を育てたと言われている山本順也氏は、この頃「COM」の編集部に顔を出していて、いい新人はいないかと物色していたという。そして、この時期に萩尾望都を「週刊少女コミック」や「別冊少女コミック」の作家陣に加えて、好きな作品を描かせた。そうして水を得た魚のように萩尾望都は斬新な作品を次々と発表し、やがて[SF]をも開花させて少女漫画の歴史に大きく舵を取る存在になっていく。参照【山本順也編集長について

その萩尾望都が何故「COM」 に原稿を送りつけたかというと、新人漫画家への門徒を開く「COM」であることと、そして岡田史子の存在があったからだろう。
「COM」でデビューした岡田史子は原石のような才能を持った作家だった。その才能に多くの者が魅了されたが、萩尾望都にとっても岡田史子は大きく衝撃を受けた作家だった。
その岡田史子は、それこそ野口氏がいなければ世に出たかどうかはわからないのだ。1967年の「COM」2月号の新人投稿欄に掲載された『太陽と骸骨のような少年』は7ページの短編だったのだが、なんと縮小サイズながら全ページ掲載したのである。投稿欄そのものが4ページなので半分をその短編のために割いたのだ。それは特別なことだった。
「ぐら・こん」という真崎守氏が命名した〈まんがを愛好するでっかい仲間たちの広場〉という枠のなかに、全国から漫画家志望者のための登竜門として設けたものだが、なるべく多くの新人を紹介するのが目的なのに、岡田史子ひとりに2ページを割いたため残りはたった三人の投稿しか掲載出来なかった。
それに怒ったのが当時の編集長だった山崎邦保氏で、「なんだこのページは!やりなおせ!」と台割りを組んだ野口氏を怒鳴りつけた。
山崎編集長はカットひとつでも拘る人で、編集者たちは事あるごとに叱責されていた。特に野口氏は自分の信念を強くを持った個性的な編集者だったので、とりわけ山崎氏とはぶつかることが多かった。
なので、それまでにも二度辞表は書いていたのだが、まあまあと取り持つ上司がいてなんとか仕事を続けていたのだ。
しかし、今回はどうにも我慢がならなかった。まだ創刊2号目で投稿作も少なく、レベルも低い作品しか集まらず、そんなものを数を並べても仕方がない。それよりもこの今まで誰も見たことのない感覚を持った新鮮な一編を全ページ載せることの方がどれだけ意義深いことか、それをこの編集長は理解しようとしないのだ。
「これが通らないなら私はやめますよ!自分でやってください!」
とまあ、そんないきさつで、『太陽と骸骨のような少年』は、首をかけての掲載となったわけだった。
いままでに読んだことのないインパクトのある作品。野口氏が感じとおり、この作品は全国の漫画家志望者に衝撃を与えた。たった2ページに載った7ページの作品がこの号の人気投票では巻頭の手塚治虫の『火の鳥』よりも反響が大きかったのだ。「ぐら・こん」は一気に活性化した。

他人事のように書いているが、自分もその例外にもれず(作品の内容はまったく理解していなかったが)思わずファンレターを書いている。そしてファンレターの返事をもらって感激し、その後上京して岡田女史のいる同人誌グループ「奇人クラブ」に入会することにまでなってしまう。まったくなんてことだ。
ちなみにこの時、全国からファンレターは二百通くらい来たらしく、そのすべてに返事を書いたそうである。
もうすこし正確に記しておくなら、この作品は投稿作ではなかった。岡田史子はこの作品を最初「ガロ」に持ち込んだが、うちには合わないと断られ、それで所属する同人グループ「奇人クラブ」の会長だった村岡栄一に預けて、村岡の師匠である永島慎二氏のところへに渡ったものだ。それを担当編集者だった野口氏が目に止めたものである。
この時、作品は二本ありもう一本は『フライハイトと白い骨』という作品でこれも投稿作として同年4月号に佳作で掲載されている。野口氏は、『フラ イハイト〜』の方が絵も華やかだが『太陽と〜』の方がまとまっていてインパクトも大きいと感じてこちらを選んだのだった。

結局、その翌号の3月号までの編集をして野口氏は虫プロ商事を退社した。
その後、光文社の豪華版の手塚治虫全集の編集をする仕事に就いたが、「COM」のことは気になっていたので時々虫プロ商事には顔を出して、同期の校條満氏とは会ったりしていた。
岡田史子の反響を聞いて、自分の判断に間違いはなかったことを確認したが、山崎編集長から戻ってこいという話はなかった。
しかし、その後の岡田史子の三作目『ポーブレト』(参照【竹宮恵子:岡田史子作品との類似】)という作品は二四ページもあったにもかかわらず再び縮小サイズで全ページ掲載されている。岡田史子の反響の大きさには山崎氏も認めざるを得なかった結果だと思うしかない。
そして翌年の1月号で月例新人入選作として初めてフルサイズで掲載されたのが岡田史子の代表作となった『ガラス玉』(参照【萩尾望都:ガラス玉あとがき】)だ。これを機に岡田女史の短編が毎回「COM」の誌面を飾っていくことになる。
もし野口氏が山崎編集長に折れて通常枠だけの掲載だったら、こんな結果は出なかっただろうと思う。テーマ百点ストーリー性0点という採点もインパクトがあったが、それだけ偏った作品を野口氏のようにその才能を見抜く力を持った編集者がいなかったら、その後のデビューにまで至ったかどうかもわからない。

漫画は絵がうまいから、物語が素晴らしいから、というだけで評価が決まるわけではない。もちろん通常それは有効な話なのだが、「なんだかわからないがとにかくスゴい!」というそういう評価が確実にあるのだ。それは読者の胸には響くのだが、プロの編集者にはその判断はつきにくいものではないかと思う。編集者はたくさんの作品を読んで技術的な判断をする力は養えるが、「なんだかわからないが面白い」という評価をくだせるのは漫画を読み込んできた本当に漫画にどっぷりはまった編集者だけではないかと思ったりする。
そんな編集者は「面白いけど何かが足りない」「そうだ毛を3本足してみたらどうですか」といったことを論理的ではなく発想していくのだ。たかが毛が三本なのにそれが隠し味になって大ヒットにつながるのである。
野口氏がいなければ、どうなっていただろう。そんなタラレバは考えても意味のないことだが、実はそうなることが運命だったかのようにふたりの間には強い因縁を感じるのは、再び野口氏は「COM」編集部に戻ってきて岡田史子の担当になるからだ。

1969年、虫プロ商事は組合闘争で多くの社員が退社した。そのことがあって、大塚豊や萩原洋子など、編集未経験の新人が入ってくることになる。自分もこの流れがあったからこそ、後に「COM」の編集者になってしまうわけだ。
そんなバタバタしている翌年早々に、山崎編集長が亡くなったしまったのだ。いきつけのお店を出たところで車に跳ねられたということだった。
脇道にそれるが、この時まだ漫画家志望の持ち込み少年だった自分は、このすぐ後に池袋西口のサパークラブでバーテンとして働くことになった。狭い階段を下りた地下一階にある店だったのが、ママがずっと顔を出さなくて変だなと思っていたら、ある日、カツン、カツンと松葉杖の音を響かせて着物姿の女性が降りてきて「長いことお世話をかけました」と挨拶をするので、実はそれがこの店のママで、なん と山崎編集長と一緒に車に跳ねられて脚を骨折したということがわかった。見送りに地上に出たところで暴走した車が突っ込んで来たということだった
こういう偶然もあるのかと思うが、自分もそれなりに「COM」との縁はあったのかもしれない。

後を継いだ石井文雄編集長の下には若手のまだ素人同然の編集者ばかり。そこで、山崎編集長に代わって出版部長になった校條満氏が野口氏に復帰の話を持ちかけた。
「山崎さんが亡くなったのだからもう戻ってきてもいいだろう。「COM」を立て直すためにいずれ は君に編集長をやってもらいたい」
それでその年の夏、野口氏は虫プロ商事に戻ることになった。ちょうど「COM」では『火の鳥』が復活編に入ったところだった。
とはいっても「COM」にすぐ戻ったわけではない。とりあえず嘱託として、校條さんの下で虫コミックス担当部を手伝いながら、助っ人として「COM」の立て直しをはかっていく形だった。
虫コミックスでは「COM」の増刊号なども作っていたので、坂口尚の『クレオパトラ』(虫プロの長編アニメーション「クレオパトラ」の描きおろし漫画版)などをつくっていた。
そんな増刊などを作りながら、新生「COM」のために再び永島慎二や真崎守に新作を描いてくれるように交渉をしながら、因縁の岡田史子の担当につくことになった。
岡田史子は、自分を発掘してくれたのがまさか野口氏だとは知らなかったので、この時は新入りの編集者なのだろうと思っていた。
でも作品に合わせてフォントを変えたり、アミのかけ方を教えてくれたりと岡田史子にとって野口氏は意欲的に作品に向かわせてくれる良い担当者だった。
しかし、一方でこの時期は生きることが苦痛だった。自分のことを天才だと思っていた岡田史子は、おなじ作品を描くのがいやで、毎回画風を変えて読切りを発表していたが、レギュラーとなって毎月描くことで疲弊していった。日々が虚無感に包まれて眠れない日が続くようになっていった。
一方で、野口氏には編集長の役はまわってこなかった。
既に石井編集長の体制で整っていたので、校條氏も石井氏をおろしてというのは難しかったのだろう。
しかし、野口氏としては編集長になるからということであれこれ企画を進めていたのだ。例えば百人のまんが家へ直筆アンケート用紙を配って集計したのも「COM」への協力度を探る目的があったし、 「COM」に届いた全ハガキ七百二十四枚を分析して「COM読者白書」という特集を組んだのも、今後の「COM」の方針を考える事前調査だった。そうした展望を見据えて「COM」を再建するつもりだった。

1971年、「COM」の2月号には永島慎二のスペースが台割りに組んであった。
ずっと交渉を進めてきて、年末になんとか新連載の約束を取りつけたのだ。
ところが、年が明けて打ち合わせに永島慎二のところへ行くと作品は描けないよと言われてしまう。
「君が編集長になるというから描く約束をしたが、編集長どころか未だバイトのような嘱託じゃないか。それじゃ原稿は描けないよ」と断られたのだ。
仕方なくピンチヒッターとして真崎守のところに泣きついたが、そこでも「編集長になれないんじゃ仕事は受けられない」とおなじ反応が返ってきた。
それでいったいいつ編集長にしてくれるのかと校條氏に問い詰めると、「君はまだ若い。編集長は石井ちゃんにしばらく続けてもらう」と言われ、野口氏は進退が窮まってしまった。
おなじその2月号では岡田史子が初の長編を執筆していた。四八ページ。いままで描いたことのない枚数だ。「COM」の方も表紙に名前を入れてのかなり力を入れた企画だった。
しかし前述したように、既に岡田史子は創作に疲れていた。なんとか気分を上げようと努力はしたが、どうにも意欲は上がらず、ただ描くことが辛かった。
そこへ、にっちもさっちもいかなくなった野口氏が岡田史子のアパートにやってきて愚痴をこぼした。
「あ〜あ、もう厭になっちゃったよ」 ふたりは共鳴しあった。

後、たった一枚だった。
その一枚を描けば四八ページの原稿は上がったのだ。
だが、担当編集者と作家はその一枚をおきざりにして部屋を出た。
本当はどちらが先に「死にたい」と言ったのかはわからない。岡田史子は自分が先に言ったように記述しているし、野口氏の方では自分が先に言ったと思っている。
どちらにしてもふたりは意気投合したのだ。岡田史子にとって野口氏の話はよくわからなかったが、そんなことはどうでもよかった。ひとりでは死ねなかったから、一緒に死んでくれるというそれだけで充分だった。
「北海道へ行って、雪山で睡眠薬を飲もう」
という野口氏の提案に喜んで賛成した。
翌日はちょうど給料日だった。とはいっても、この当時、給料は月二回に分けるという支払いだったのでたいした金額ではなかった。
ふたりは一緒に池袋に行き、岡田史子は喫茶店で野口氏が給料を貰ってくるのを待った。野口氏は給料と睡眠薬と精神安定剤を買って戻ってきた。
それから、岡田史子がマキシーのコートを着て死にたいというので、そのコートを買ったら、残り 北海道までの旅費くらいしか残っていなかったが、それでも充分だった。どうせ死ぬのだからそれ以上のお金は必要ないのだ。
その後の「COM」編集部では、当然のことだがそれはそれは大変な事になった。
原稿の締切りはとっくに過ぎて土壇場になっているのに、担当の野口氏とは連絡がとれず、たまりかねて別の編集者が部屋を訪ねてみると、描きかけの原稿がそのままで誰もいない。
仕方なくその原稿を持ち帰り、なんとか仕上げて形にしようとはしたが、結局それは出来ないということになった。
代わりの原稿を探すしかないとなったものの四八ページという長編のストックは簡単には見つからなかった。あれかこれかと探し回った末、ちばてつやの『風のように』(1969年講談社の「少女フレンド」初出)という作品が枚数的にもおなじとわかり、校條氏がちば先生に頼み込んでなんとかそれで入稿した。
本当にギリギリだったのでこの2月号にはどこにもにもちばてつやの名前はない。目次に岡田史子『地下室』というタイトルがそのまま載っている。

北海道の札幌に着いた時には夜中で、終夜営業の喫茶店に入って朝を待った。
その時に野口氏は「もし死に切れなかったら結婚しないか」と言った。
そんなことは絶対にないと確信していた岡田史子は「いいよ」と返事をした。
朝になってバスで札幌郊外の温泉街に行き、コップ入りのお酒を買って山に入ったふたりはそれで睡眠薬を飲みながら無我夢中で山を登った。
できるだけ人に見つからないようにと、必死で雪を手でかきわけて登った。手には冷たいという感触はまったくなかった。すこしでも奥へ奥へと、そして、意識を失った。
気がつくと、岡田史子は病院のベッドで寝ていた。
凍傷になった腕には包帯が巻かれていた。
誰かがふたりを見つけて通報したのだ。心中は未 遂に終わった。

未遂に終わって本当によかったと、こうして書いていてもあらためてそう思う。
こんなにも漫画に身を費やした編集者がこんな形で命を失うことはあまりに哀しい。
こんなにも漫画への影響力を残した素晴らしい才能を持った作家がこんな形で命を失うなんてあまりに残念すぎる。
その後、ふたりは約束通り結婚することになるのだが、長くは続かなかった。何故なら、ふたりには愛がなかったからだ。それでも、未遂に終わったことのショックはとても大きかったので、結婚したことは救いだった。野口氏のおかげで立ち直ることが出来たと後に岡田史子は語っている。
当然のことだが、ふたりは「COM」への出入りも禁止となり、野口氏は編集者から身を引くことになる。 岡田史子は再婚し、再び漫画を描く時期もあったが、残念ながら2005年に五五歳という若さで病死してしまう。
野口氏は実家の種屋の仕事を継いでいまも活動している。

作家と結婚した編集者はいくらでもいるが、心中未遂をした編集者は野口勲氏くらいではなかろうか。 いや、あれは心中ではなかったと岡田史子は語っている。愛しあってのことではなく、たまたまそれぞれの事情が一致しての行動だったのだから、断じて心中ではないのだと…。
それにしても掲載されることのなかった四八ページの原稿。いまなら、その一枚を白紙の形にしても掲載したのではないだろうか? なにせラフネームだけでも、鉛筆の下描きだけでも載る時代なのだ。
けれどそれが出来なかった時代。未完の作品を載せるなんて、作家にも編集側にもそんな甘い考えはプライドにかけても出来なかった時代だった。

いやいや、だから昔はとかいうつもりはない。親の死に目にも会えないなんてことを正当化するような時代じゃない。昔のそれは、昔の環境とセットになっているので比較するものではないのだと思う。
ただ、あの頃、みんな漫画に真正面から立ち向かっていた。その真剣さゆえに時には命をかけてでも突っ走るしかなかったのだ。
そんな時代のことを語っておきたくて、敢えて書かせてもらった今回の話だ。そんなにも漫画が好きで編集者という仕事に身を投じた者たちの話は、もうすこし続くだろうか。

*ちばてつや先生の『風のように』は、偶然ながら去年アニメ化された。昨年暮れ、たまたまちば先生に会う機会があったので「COM」に再録されたことがありますよね、とお話したら「ええ、ほんと?」と驚かれてさすがに憶えてはおられなかった。そりゃもう四六年も前の話ですものねぇ。
〈参考文献〉 『岡田史子作品集』2004年3月 飛鳥新社

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