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【文庫本「精霊狩り」あとがき】


「精霊狩りー傑作短編集」文庫
発行日:1976年12月20日
出版社:小学館
解 説:大島弓子
カバー画:新井苑子




あとがき:萩尾望都


昔々、S・Fマガジンで「ソンブレロ」というタイトルの短編を読んだことがある。作者を覚えていないのだけれど、実は、それがわたしがそれまで理想の未来人と考えていたE・S・P能力を持つスーパーマンたちが、けっして、幸福にばかりなれるものではない、逆にその特異な能力のために、社会のアウトサイダーとして、迫害されることだってあるのだ、と、知らしてくれた最初の話だった。
そのときのショックは今でも忘れられない。そうして、その星のE・S・Pたちが毒ガスで死滅してしまうという、あまりに悲しい結末のために、まるで追悼の辞のように書きだしたのが、精霊狩りを始めとするわたしの一連の作品です。



解説:大島弓子
二十世紀末 異端者?



血を吸って生きるポー族が、シリアスかつ悲劇的なイギリス的キャラクターで、その、ティータイムは音もなくバラの香りにつつまれるのに反して、同じ人間に迫害される生物(いきもの)でありながら、ダーナ・ドンブンブン(なんてすてきな名だ))一族のお茶時は、高笑いと世俗的会話に満ちたいわばイタリア風キャラクターで成りたっている。

ダーナはまずそのちゃめっけで、精霊狩りの月夜に空を飛んでみせるが、運悪くとらえられて裁判に至る。その裁判の模様は拷問こそないが、中世紀キリスト教国の異端審問をチラと見せる。「精霊や否や?」の質問に答えて「そうだ。なぜ有罪なのだ」とダーナは言う。「精霊は社会の害になる。有罪だ」「だれがそう決めたの」「そのハレンチなポーズ。」「若き乙女ですもの。「精霊は木の幹から生まれる。よって有罪」「自分達にできないからってひがまないでよ」「なにがなんでも有罪」かくして彼女は刑場に引かれる。彼女は「死ぬなんていやだ」と泣くがどうしてこの場からのがれようかとは考えない。精霊とて生命を保持する本能はあるはずで、読者としては仲間がたすけに来るまえにあとひとつエピソードが欲しいと思う。そのあとからは、がぜんおもしろくなって、ダーナの出産に至っては、おもわず拍手を送ってしまった。

彼女達は常に追われる身でありながら、「今がたのしけりゃいいじゃないの」とお茶をいれる。このダーナのせりふは、さきほど刑場に引かれる時の”あきらめ”からくるものではなく、あきらかにおとなの、子どもに対する配慮からのものだが、やっぱり「なにか言って」と思ってしまう。 とすかさず、2歳の子に(2歳!?)「本当に幸福になるにはどうしたらよいの」と考えださせるその結びはやはり拍手でありました。

ダーナが楽天的でにぎやかであるなら、キャベツ畑の魔女達はそれに輪をかけて陽気で彼女達がそれぞれの感情の流れにそつなく、奇想天外なさわぎをまきおこすので、あっけにとられたり、あこがれたりしながらたのしく読んでしまう。一人はぐれたプリンにグレープル・ポージィには宇宙人を配するという作者の心配りもしゃれていてすてきだ。

ともあれ2歳のチャシーもキャベツ畑のターブーもこれから先どんなふうに生活して行くのか知りたくてしょうがなくなるのは、わたしばかりではきっとないでしょう。

よい映画は、一種の奇跡だとボールジンマーマンさんが言ったが、その言葉はよくできた漫画とてあてはまる。テーマの斬新さ、構成のむだのなさ、伏線のたくみさ、ネームからネームへ、コマからコマへ、ページからページへ転じる空間と時間の配分、そのリズム感、画面のロングとアップの調和、せりふ。ダーナ一家の海辺の逃避シーンなど、湿った夜の空気が香ってきそうです。

今日雑多に横行する漫画の中で、こうしたよい作品を見きわめられる読み手が、大勢ふえました。そして一方では、大勢が漫画を低級なるもの、愚劣なるものとして排除しようとします。ここに至ってみると「精霊狩り」三部は、魔女狩りや異端審問よりずっと現代のこの状況に近いのではないかと思われてきます。異質なるものと迫害視するもの。

わたし達はそこで、ケセィラ セラと笑ってすごすか、チャシーのように考える時間は充分にあるとするか、それとも魔女審問のように時がことを摩耗してしまうのを待つか…「いずれにせよハワード邸のオペラ歌手のように、狩られてしまってはいけないよ。」と、作品は言い一巻をおわるのです。



Twitterより転載
https://twitter.com/ninikatu/status/82421099322390...
2017年01月25日

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