5ちゃんねる【萩尾望都】大泉スレ【竹宮惠子】に関する資料まとめサイト

【訪問者:単行本あとがき】
「訪問者」制作の背景と担当編集山本順也氏(文中では「Yさん」)について書かれている


関連項目
山本順也編集長について
 ●山本順也さんのお話を聞く会
 ●山本編集長定年退職を祝う会データ
飯田耕一郎:編集者たち
「COM」の野口勲さんという編集者について書かれた文章です
山本順也さん、萩尾望都、岡田史子両氏についての記述も


訪問者
初出:プチフラワー(創刊号)1980年春の号

訪問者(単行本)
発行:1981年04月15日




”訪問者”前後
萩尾望都

年に一度ぐらい、マンガどころではないという状態がやって来る。鬱というほどひどくはないが、自己嫌悪の一種で、多少なり落ちこむ。気分の転換を計って旅に出たりする。帰宅するころには、”何かやらなきゃ”という気分でいるが、落ちこみは持続している。
「プチフラワー」が創刊になるので100ページかかないかという話が来たのはそういう時で、’79年の10月ごろだったと思う。編集と作家の関係は、やじろべえの支柱と重りのようなもので、支柱がちゃんと立っていてくれれば、重りは創意的に動くことができる。小学館の担当編集のYさん(註:山本順也氏)とは私が「少女コミック」でかくようになってからのつきあいで、この人が支柱として立っていられる時は、私は大変仕事がやりやすく、何も考えず作品をかくことだけに集中することができた。但し編集には異動がつきものなので、いつも担当になってくれるとは限らない。Yさんが「プチフラワー」で担当になってくれるというのは、数年来のことだった。それで私は”訪問者”をかくことにした
”訪問者”は、’74年 「週刊少女コミック」に33回の連載をした”トーマの心臓”の中に登場するオスカー・ライザーの子供時代の話である。予定では、週刊連載中に”訪問者”のエピソードを組みこむはずだったが、そうなると問題が”トーマ…”の舞台となった学校からそれてしまうので、これはそのうち単独でかけばいいと、とり除いてしまった。「そのうち」ということばは、クセ者である。一年、二年とたつうちに、”もう父親が母親を殺してなどという前時代的なネタは古い。今さら書いても”と、かく気が減退してしまった。「そのうち」なんて、こんなもんである。
ところが…、一本の映画を見た。松本清張原作・野村芳太郎監督の「砂の器」で、テレビで放映されたものである。
「砂の器」の小説の方では、犯人の音楽家は殺人につぐ殺人をくりかえしていて、好きにもなれず同情もできない男で、これを追跡する刑事の労苦がテーマである。映画は180度の転換で、殺人を犯した男の少年時代がテーマである。殺人まで犯した男の原点、後半の30分、音楽家としての成功を約束された舞台で演奏し続ける彼の音楽の原点が、すべて幼少のころ、病気の父親と二人で村々を渡り歩いた貧しい放浪の生活に帰結してゆく。散る花、散る雪、冷えた手を野営の焚火にかざし、そして病院に入ることになった父親との駅での別れ。あの音楽。
そこで、私はオクラにしていた”訪問者”をかきたい気持がうろうろ起こってきた。
「旅。そうだ──、お母さんをぶち殺した父親と一緒に、オスカーも一年、旅をしたんだわ。花の春、霞の夏、あっというまに過ぎる秋、長い冬、映画の父親は、当時の不治の病で、村々を遍路して歩くのだけれど、グスタフさんは、自分の良心に追われ追われて逃げ続けるんだわ──」
当時、私はもうひとつ私自身の問題をかかえていた。両親から、「そろそろ漫画家をやめたら」と言われていたのである。両親にしてみれば、結婚もせず、昼夜を逆転した不健康な生活をしている姿を見て、お金も貯まったし、後は趣味で童話でもかけばいいと思ったらしい。私が漫画をかいているのは、お金を貯めるためでもなく、単に気楽に絵をかいて楽しむためでもないのだが、私はついに、なぜ、たいていのことを犠牲にしても漫画をかいていきたいのかを、両親が理解できるように説明することは出来なかった。
この出来なかったことのために、なぜ、親と子の間にこれだけの意識のギャップがあるのかを知りたくて、そのころ、心理学、精神医学、カウンセリング、教育・育児関係の本をかなり読みあさっていた。
”訪問者”の中の親と子の関係をかくにあたっては、かなり、当時の自分が”出来なかったこと”で悩んでいたことが作品に影響した。
そんなわけで、ちょうど、一番好きな編集さんが担当になって、100ページかくようにはげましてくださったこと、ちょうど、映画「砂の器」を見て、かきたい気持をゆさぶられたこと、両親が私に、私が考えざるをえない課題を提供していたこと、などが要因として重なり合った結果、私は、”訪問者”をかきあげることが出来たと思う。
ちょうど去年の今ごろ、私は”訪問者”のネームをやっていた。 あれから一年、どうなったかというと、あらゆる問題は未解決のまま、現在にいたっており、日々新たな問題がもち上る中で、三月うさぎのお茶会のように、どうしようもない毎日を過ごしている。
’81年1月23日

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