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【娘のこと:萩尾浩】

Twitterより転載
1977(昭52)年発行の萩尾望都作品集第16巻「とってもしあわせモトちゃん」の巻末に収録された、お父様の萩尾浩氏による『娘のこと』─この本以外には収録されていないようで、新しく目にする機会は少ないと思われるので…
https://twitter.com/ninikatu/status/99514957136900...
2018年5月12日

資料提供
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/162580...








娘のこと

 娘の望都が、エンピツで紙になにやらわけのわからない絵を描き始めたのは、二歳頃からであった。子どもはみんな二ー三歳になって手にエンピツやクレヨンがにぎれるようになると、やたらに落書きをしたがるものであり、望都もその例外ではなかったわけであるが、ただ違ったところは、他のどんな遊びよりも絵を描くのが好きで、しかも熱心だったことである。壁やふすまに落書きされてはたまらないので、広告の裏紙など不要の紙を取っておき、そのつどこれを与えていた。望都は紙を受取ると、なにやら一人ごとをつぶやきながら、ていねいになにかを描くのであった。
 幼児が絵を描くことは、知能の発育を促進させると言われていたし、私もその通りだと固く信じていたので、娘のこのような傾向は、私にとって楽しいことでもあった。また、子どもたちが喜びそうな絵本なども、機会あるごとに、できるだけ多く買って与えることにしていた。
 望都が二歳半ぐらいになったある日のこと『お母ちゃま、見て、これがねえ、赤ちゃん(最近生まれたばかりに二歳下の妹)これがお母ちゃまよ』
と、ニコニコ顔で一枚の絵をさし出した。なにげなく紙に目をおとした妻は、一瞬不思議そうな顔をした。通常二ー三歳の幼児の絵は、顔があって、その顔から手足が出ていてそれでおしまい、というのが多いのだが、この絵は形は思わずすき出したくなるような、変てこなものであったが、胴体もあり、手や足にはちゃんと指が五本ついていて、顔は目鼻口耳がそろい、頭には、髪の毛まで描いてあった。その髪も、お母ちゃまはパーマネントで、赤ちゃんのは、ペロンペロンと数本が生えたものであった。
『これ本当に望都ちゃんが自分で描いたの?』『ウン』『今描いたの?』『ウン』『……じゃね、今度はお父ちゃまを描いてごらん。それからお姉ちゃんも』『ウン』
 小さな指ににぎられたエンピツの先から描き出された絵は、間違いなく本人がこれを描いたものであることを証明した。
 近所のおばさんがこの絵を見て、『望都ちゃんは絵の才能がありますよ』と評した。
 私は小さな子どものかいた一枚の絵だけで、才能があるなどとは考えもしなかったが、ただ、絵が好きで、描きたがる才能を持っていることだけは間違いないと思った。好きこそものの上手なれ、のことわざ通り、この、好きで描きたがる才能とやらを助長してやるのは親の責務である。もし望都が音楽が大好きなあったら(「大好きであったなら」の誤植か?)私は躊躇することなく一個のバイオリンを小さな手に持たせようと思っていた。しかしバイオリンでなくてもよい、絵が好きなら、バイオリンのかわりにただだまってエンピツと紙を持たせることにしよう。幼児が絵にしたしむのは、知能発達の助長だけでなく、情操教育上からも良いことだ。私は娘の絵を親馬鹿まる出しで、いつも満足しながら、のぞき込んだ。そして時どきほめてやることも忘れなかった。望都の絵は月日とともに、少しずつうまくなってゆくように思われた。

 望都が小学一年生になってまもなくの頃、宿題で描いた鯉のぼりの絵について、先生からこんな話があった。
『この鯉のぼりは、頭としっぽが見えていた、胴体の一部が屋根にかくれています。つまり、屋根のむこうがわに、鯉が泳いでいるんですね。でも、こんなデリケートな構図が小学校に入ったばかりの子どもに、描けるとは思われません。それに背景のかきかた、色のぐあいなどもそうです。子どもにはやはり子どもらしい絵が良いのですから、父兄は子どもの作画に手をかさないでいただきたいのです』
 先生は親の手助けで描いたものである、との疑いを固守してゆずろうとされなかった。
 娘の絵は飛躍しすぎだろうか。私は絵を描くことを強要したこともなく、特別な指導教育を受けさせたわけでもない。絵の好きな娘に、ただ自由に描かせたにすぎない。あとは、娘が自分の小さな力で、画用紙に次から次へとイメージを組み立てていったのである。今後もまた今まで通りに絵を描きたがるだろう。その時どう対処すれば良いのだろうか? 私はしばし考えた。

 二年、三年と学年が進むにつれて、娘は読書にも興味を持つようになった。おとぎ話、名作童話、偉人伝、冒険物語など。なかでも「青い鳥」や「不思議の国のアリス」などのような、空想と夢の物語が好きなようであった。一方、絵の方はあいかわらず熱心であったが、読書に影響を受けてか、内容に優しさと繊細さが加わり、なにものかを訴えているような意図が、次第に強く感じられるようになった。絵の種類も漫画、劇画、紙芝居などと多様化し、それを自分で創作することもあった。特に自作自演の紙芝居などは、学校のクラス会での人気番組となっていたし、家庭では、妹弟や近所の幼いお友だちをすごく喜ばせていた。学校では演劇のけいこにも熱心で、出演者よりも、プロデューサーの役を好んで引き受けでいた。また絵のほかに、作文や作詩も得意な学課で、日常のありふれたこを題材にした詩を、好んで作ったりしたものだった。

 ともあれ娘の作風は多様化して成長していった。そしてこのことは、とりもなおさず娘の心の成長に記録だと思った。私は今後もさらに成長してゆくことを望んだ。そしてエンピツと紙を与えることにやぶさかではなかった。

 しかしその私が、やがて何年かののちに、望都が絵を描くことに反対し、エンピツと紙をとりあげることになろうとは、まったく予想もしていないことであった。なぜそうなったかについては、いずれまたお話する機会があるかもわからない。
      一九七七年 夏

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