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立花隆「調べて書く」ゼミナール(東京大学)
テーマ「二十歳のころ」における萩尾望都インタビュー
取材日:1996年09月30日
場所:池袋メトロポリタンホテル
インタビュアー:平尾小径、三原武俊
http://web.archive.org/web/20071111131244/http://w...

状況
福岡に住んでいました。デザインの専門学校を卒業したころ、デビューが決まりました。漫画家のデビューというのは、最初に雑誌に原稿が載って、原稿料を頂くということです。
投稿は高校のときに始めて、十作目ぐらいで採用が決まりました。ずっと漫画家になるのが夢でしたから、デビューできてすごく嬉しかった。描きたい話がいっぱいあったんです。親はずっと反対してたんですが、原稿料が入るようになってからは、しょうがないと思ってくれたようです。

ペンネーム
「萩尾望都」って、本名なんです。男っぽい名前なので、投稿中からペンネームをつけようと考えていたのですが、思いつきませんでした。
望都という名前の由来ですが、父に聞いてもその度に違うことを言うんです。九州の歌人に、おもとさんという名手がいてその人からとったんだとか、『浜辺の歌』ってありますよね、あの歌の歌詞「夕べ浜辺をもとおれば」からだとか、思いつきなんです。モーツァルトのモとトを合わせたんだというのもありました。父は趣味でバイオリンをやっていたものですから、姉は小夜、セレナーデですね。妹は和歌子、弟は絃一郎というんです。ですから、モーツァルトからというのが本当かもしれませんね。

こどものころ
漫画を読むのは禁止でした。うちの両親は教育パパママで、建前でしょうけれどもテストは全部百点取らなきゃいけない、教科書以外は読んじゃいけない、そんな調子でした。戦後高度成長期の、学歴信仰が最も厚い世代です。でもわたしは、中学で完全に競争社会から脱落してしまいました。漫画の世界に逃げ込んだんです。
ごく小さいころから、物語と絵が大好きでした。幼稚園でも時間があれば絵を描いていました。小学校に入ってからは、図書館に入り浸って本を読んでいました。ギリシャ神話や世界名作全集。子ども向けのSFシリーズも出始めたころでした。そういうものを読んでいることがばれれば母に叱られますから、学校でこっそり。本当は、母に許可を取らなくてはいけないんです。これを読んでいいか、と。
日曜日になると、図書館の先生が鍵を貸してくれました。そこでずっと読む。外遊びをしなかったわけではないんですが、土曜日に読みかけだった本が気になって仕方がないってこと、あるでしょう。
わたしが育ったのは、大牟田市という炭鉱町です。わたしが子どものころはまだ、三池闘争の後遺症がのこっていて、町全体の雰囲気がとげとげしかったのを覚えています。トラックにたくさんの男の人が乗って、マイクでそれぞれの主張を叫びながら走り回っているわけです。ときどき小競り合いがあったりして。でも物語の世界では、暴力的なことがあっても最後にはきちんと解決がつく。完結したバランスの取れた社会ですから、とても気持ちが安らぎました。わたしの大抵の漫画も、救いがあるとか癒されるとか、そういう結末を目指しています。もちろんそればかりではありませんが、どちらかといえばやっぱりきれいに解決するものが好きですね。

漫画歴
父の遠縁に、本屋をしてる人がいたんです。遊びに行くと好きな本を読ませてくれました。そこではいつも漫画を読んでいました。当時女性の漫画家といえば、七人くらいしかいなかったんです。牧美也子さん、わたなべまさこさん、水野英子さん、今村陽子さん、赤松セツ子さん、上田敏子さん。あとはだれだろう。とにかく少ないので、手塚治虫さんや石森章太郎(現在石ノ森)さん、赤塚不二夫さん他たくさんの男性漫画家たちが少女漫画を描いていました。
好きだったのは、手塚治虫さん、水野英子さん、横山光輝さん、赤塚不二夫さん、わたなべまさこさん、牧美也子さんでしょうか。小学生のころは、見よう見まねで絵を写していました。いろいろな角度の顔の描き方を真似するんです。右向き、左向き、正面と後ろ、とか。目の描き方も、わたなべまさこ先生はこう、牧美也子先生はこんな目、と。オタクみたいですね、なんだか。
漫画はだいたいこう描けばいいんだ、という一種のパターンが、量を読んでいるうちになんとなくわかってきたんです。飽き足らないと思ったり、批判精神なんてものはあまりなくて、読んでいて楽しいから自分も描きたい、その程度のことです。きれいなバレエ漫画を読んだりすると、ああわたしも何か、可愛い女の子が踊る話を描きたいな、とかね。動機は単純なんです。

デビューまで
中学校で、漫画を描く友達がいました。彼女が、自分の描いた漫画を本に載せて、他の人に見てもらえる方法を教えてくれたんです。当時は赤本と呼んでましたが、雑誌ともいえない、貸本屋に出る本があったんです。そういうところで、新人作品を募集していたんですよ。漫画家はみんな、作品を投稿して漫画家になるのだということをそのとき知ったんです。彼女が言うには、まず一枚の紙の、裏表両方に描いてはいけないと。そんなことも知らなかったんです。ワク線を定規で引くってことも知りませんでした。
そのうちに、週刊フレンドで、一六歳の里中満智子さんがデビューしました。ああすごい、それまで全く知られていない人が、いい作品を投稿するだけで雑誌に載せてもらえるんだと実感しましたね。
高校に入ると、漫画の基礎的なことは一応覚えて、投稿を始めました。とは言っても、友達と見せあってわいわい相談しながらで、まだ文化祭のノリです。
それが変わったのは、高校二年の終わりごろでした。手塚治虫さんの『新撰組』という作品の単行本が出たんです。小学校のまだ低学年のころに、前半だけを読んでいたんですね。続きが気になっていたので、お年玉を待って買いました。そしてもう、すごい感銘を受けたんです。
手塚さんの作品にときどきある、古い世界と新しい世界の狭間で揺れ動く青年の物語でした。他には『陽だまりの樹』なんかがそうですね。とにかくすごかった。一週間くらい呆けてました。それから、本当にプロの漫画家になりたくなったんです。
プロになるのがいかに大変かという話は、仲間うちでもさんざんしていました。石ノ森章太郎先生の『マンガ家入門』『続マンガ家入門』が出たころでした。自分たちがどんなふうに苦労して漫画生活を続けていたかが、リアルに書かれているんです。大根を一本買ってきたら、その一本で一週間過ごすとか。わたしは根性とは無縁ですから、大根一週間は耐えられそうにないな、とぼんやり考えていたんです。でも『新撰組』以降は、大根一週間でも大丈夫かもしれない、と思いました。ただ大根は嫌いだからじゃがいも一週間にしよう、なんて考えました。
それからは本気でデビューに向けての努力を始めました。十作ほど投稿して、結局デビュー作になったのは投稿作ではなかったんですが。
一度漫画雑誌の編集部を見てみたくて、同郷の平田真貴子さんという漫画家さんのつてで講談社に案内してもらったんです。そのときに編集さんに原稿を見てもらうことができたんですね。すると、何か短いものを描いてきてください、また読みますからって言われたんです。いつまでに送って来れますか?と聞かれたので、これはもう忘れられないうちに送るしかないと思って、「二週間後に送ります」って返事しました。それで二十枚か二十四枚描いて送ったのがデビュー作になりました。

ボツ時代
わたしは『なかよし』でデビューしたんですが、『なかよし』の読者層の中心は、小学校三年生ということでした。その歳の子どもが理解できる話を作らないといけないのです。ところが、低学年向けに話を作るのは非常に難しい。まず使える漢字や言葉の範疇が狭いんです。わたしは『鉄腕アトム』の会話を参考にしようと思って読み返しました。そうしたら本当にわかりやすい会話をしてるんですね。しかもそれで高度な内容を伝えている。
「電送人間の巻」という話があったんです。人間を原子に分解して送信する、人間ファックスみたいな「電送機械」っていう機械が出てくるんですよ。その実験中に事故が起こって、人が実体になれずに影のようなオバケになってさまようという話なんです。そのオバケが悪さをするのでアトムが退治しにやってくるのですが、そのオバケがアトムにモールス信号を送ってくるんですね。それで自分の事情を説明するんです。そういうSF的な複雑な設定を、本当にシンプルな会話で伝えている。すごい、と思いました。
デビューが決まって担当の編集者がつきました。今度は完成原稿を送るのではなく、プロット、つまり粗筋の段階から編集のチェックが入るんです。そのあとネームっていう、簡単に下絵の入った鉛筆描きの原稿を送り、それも合格して初めて完成原稿にできる。それがねえ、ほとんどがプロットのところでハネられるんです。プロットが通っても、その次のネームでボツ。八作くらいそんなふうにボツになって、さすがにちょっと悩みましたね。この仕事向いてないんじゃないかって。
自分が面白いと思うものを描いているのに、「子どもには難しすぎる」「こういう題材は受けない」なんて指導をされるんですね。「今スポーツものが人気だからやってみたらどうか」とか。スポーツものが好きなら描けますが、どうも苦手なんです。今どうしてSFがはやってないんだろうと本気で思いました。SFなら描けるのに。そんな時期が、二年くらい続きました。
まだ新人で、読者にも名前が売れていない。とりあえず地位が安定するまで編集さんの言う通りにヒット路線で描いて、その後好きなものを描いたらいいんだろうかなんて思ったりもしました。でも、やっぱり描きたくないものは描けない。逆に言うと、「今このジャンルが売れているから」といって描いている人も、やっぱりそのジャンルが好きだから描いているんだろうと思うんですよ。で、どうやらわたしは適応できそうにない。
悩んだ挙げ句に、とにかく漫画が好きだからこの仕事に就こうと思ったんであって、好きなものを描けないなら意味がないという結論に達しました。やってみて駄目だったら諦めよう、と。

上京
出版社も東京にあるし、やっぱり早く上京したかったんです。でもなかなか両親が許してくれなくて。そんなころ、アシスタントに呼ばれたのがきっかけで、竹宮恵子さんという漫画家の方に出会ったんです。彼女は徳島からすでに上京していました。そこで、わたしも上京したいんだけど、親が反対しているという話をしたら、一緒に住んだらどうか、ということになったんです。三軒続きの長屋みたいな家を知り合いの人が見つけてくれて、ようやっと上京できました。二十歳の十月ごろです。
家は大泉学園にありました。そこで二年間くらい共同生活をしました。その間に山岸凉子さんとか山田ミネコさん、ささやななえ(現在ななえこ)さんとか、いろんな人たちと知り合えたのがとても良かった。漫画友達が多くなかったので、朝から晩まで漫画の話ができるのが楽しくて楽しくて。親の目を気にしないで、一日じゅう絵を描いていられるし。

『トーマの心臓』への道
大泉学園時代に知り合ったお友達に、すごく本を読んでいる人がいたんです。その人が、本をいろいろ勧めてくれました。ヘッセの『デミアン』だとか。ヘッセは『車輪の下』を読んで、結末が暗かったので他の作品は敬遠していたんです。でも『デミアン』があまりにも面白かったから、その後全部読みました。
その人が、少年愛の世界がすごく好きだったんです。その手の、いわゆるポルノまで勧めてくれたんですが、そっちはわたしは全くだめでね。どうしてこんなのがいいの?って、読んでは突っ返していたんです。そうしたら、そばで同じように読んでた竹宮さんの方が夢中になってしまって。その後竹宮さんに、映画に誘われたんです。当時は『悲しみの天使』というタイトルで公開されて、今は『寄宿舎』というビデオになっている映画でした。
一三歳の少年が主人公で、その子を好きな上級生の話なんです。もう本当にきれいな映画でした。学校の中で恋愛が展開していって。で最後には、主人公が、裏切られたと誤解して自殺しちゃうんです。わたしはそういう、理不尽で救われない話が嫌で、その主人公がとても可哀想に思えてしかたがなかったんです。こんなふうに、裏切られたと思い込んで死んでいくのじゃあんまりだと。なら、死んでしまうのだけど、そのあとに彼が何かを取り戻す話を描こうと思ったんです。それが『トーマの心臓』の、元ネタですね。その映画に関しては、わたしも批判力があったということでしょうか。

閉鎖空間〜少年の世界
閉じている空間がわたしは好きなんです。だから宇宙船の内部でのドラマとか、どこかの星に移住した人々の話とか、それじゃあ読者に人気も出ないわね、という設定の話をいくつか描いたんです。その閉じた世界が、どうして少年の世界へスライドしていったかというと。
まず『トーマの心臓』は、もともと『悲しみの天使』に反発して描き始めた私的な作品で、どこにも発表するあてはありませんでした。そういう遊びで描く作品を、当時いっぱい持っていたんです。遊びで描いていますから、当然完結しません。でも『トーマの心臓』は、描いているとすごくよくキャラクターが動いたんですね。で、この話はちょっと発表できないだろうけど、設定を生かした短編を一本描いてみようと『十一月のギムナジウム』を発表したんです。
掲載誌が少女誌でしたから、主人公が男の子ではまずいかなと思って、女の子版と男の子版の二つのプロットを作ってみたんですね。すると女の子版の方は、どうも関係がネチネチしてしまう。どうして男の子だとうまくいくんだろう、と考えてみて、思いついたことがあるんです。
ある程度年齢を経ると、世の中の男女の役割分担を心理の中にインプットされてしまって、そこからどうしても自由になれなくなる。特にわたしたちの世代はそうです。それが、男の子だけの話を描いてみると、その制約を全く受けない。自分で描いていても、すごい驚きでした。それが少年の世界を描く面白さですね。

現在の作品、『残酷な神が支配する』をめぐって
最近は、愛と暴力の表裏一体性に興味を持っています。ポーランド系ユダヤ人のアルフレッド・レヴィナスという哲学者がいて、彼は強制収容所からの生還者なんです。彼は要するに、「世界自体は今既に崩壊している、この世界をもう一度呼び戻すには、愛しかないんだ」と言うんです。もっと複雑な言葉を使っていますが、わたしに理解できる言葉の範疇で言えば、そういうことです。
さらに、「わたしたちには他の人に対する有責性がある」というんです。自分の知っている人に対してもあるし、知らない人にもある。自分が今ここで何かすることによってどこかの誰かが影響を受ける、それにも責任があるんですね。そう考えると、わたしたちには神の英知が必要になるじゃないですか。それで、レヴィナスに話を聞いていたインタヴュアーが、「みんなを公平に愛するのはとても大変じゃありませんか? ある人をたくさん、この人はちょっとしか愛せない、ということがあるんじゃないですか?」と聞いたら、レヴィナスは、「そうです、愛には順列がある、そこに暴力性が存在します」と答えるんです。溜息をつきたくなりますね。愛があればうまくいくなんていうのは、ユメなんだなぁと思うんです。そういうことをずっと考えているのが今の『残酷な神が支配する』です。

現在と「二十歳」
現在と二十歳のころを比べると、二十歳のころは、体験と知識が少ない分臆さないところがありました。信じるものが揺るがないんです。二十歳を過ぎると、生命体としてもどんどん老化へ向かって、自己保身にはしりやすくなるんですね。
例えばピュアなキャラクターを描こうとしても、二十歳のピュアと、三十歳のピュアは違うんです。感情移入のことを言うと、二十歳のころなら、純粋なキャラクターにもすっと感情移入できます。三十になると、嘘つけと思ってしまう。おまえはこことここを見落としてるからそんなことが言えるんだ、と。
そうですね、二十代だから描ける作品と、三十代だから描けるキャラクターていうのがあるんですね。やっぱり、歳取ってから描こうなんて思っちゃ駄目ですね。その場その場で、恥を晒しながら描かないと。三十を越したら、『トーマの心臓』なんて描けませんよ。今だって、恥ずかしくて読み返せないんですから。

現在の「二十歳」へのメッセージ
社会に出て実感したのは、一番の基本は人間関係だ、ということです。一流大学を出て一発で出版社に入社して、で挫折した人は結構見ましたよ。人間関係がうまく作れないと、出世コースからも取り残されてしまう。それでますます孤立して。社会に出て一番必要なのは、信頼される人間関係です。気持ちをわかってくれるとか、つき合いやすいとか、約束を守ってくれるとか、そういう誠実さの度合によって人脈はできていくんですから。
でもまあ、メッセージといえるほどのものはありません。好きなことを見つけて、好きにやるのがいいと思います。好きなことをして、それで駄目だったら諦めがつくでしょ。ただ、大人社会がどーんと出てきてあれがいいこれがいいと言い始めると、やっぱり迷いますよね。でも、迷うのもいい。人生無駄なことはないです。

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