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【PasseCompose 竹宮恵子インタビュー】



PasseCompose パセコンポゼ 過去完了形
出版社:駸々堂書店
発売日:1979年04月20日(初版)
大型本:175ページ
資料提供:https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/165642...




「PasseCompose パセコンポゼ 過去完了形」150-155ページ
竹宮恵子インタビュー
デビューする日まで
インナー・スペース竹宮恵子
(図版に続いてテキスト抽出あり)









竹宮恵子インタビュー
デビューする日まで
インナー・スペース竹宮恵子

聞き手:秋山協一郎



秋山 生まれたころの話から順に、お聞きしたいのですが。

竹宮 昭和25年2月13日朝の10時頃とか言ってたけど、はっきり聞かないとわからない。徳島の市内で生まれました。

秋山 記憶に残っている一番最初のことってどんな風景ですか。

竹宮 渾然体って感じで……私はお祖母さんの家で生まれたんです。小さい頃の思い出っていうと、その家の光線まで憶えてる。光がどっち側から差し込んでいたか、どういう間取りで家が建っていたかってことまで。古い家だったから、日本間で丸窓があって、竹みたいなのが入ってる、こうぬけてるの、廊下のつき当りなんかに……そういうのとか。ザラッと窓開けると、向こう側に道路が走ってるのね、そこから金魚屋さんがみえる(笑) 家の前に畑があって、その横に花畑があったんですよね。春はナデシコ、初夏はイチゴ。

秋山 幼稚園の時何組でした?

竹宮 もみじ組じゃなかったかなー。

秋山 えっ、そんなのあるの? バラ組とかチューリップ組とか(笑)

竹宮 違うー、そんなにハイカラじゃないの(笑) 松組とか竹組とか梅組(笑)とかそういうの。

秋山 そーお、ぼくはさー横浜の名門校だからね(笑)

竹宮 幼稚園に名門なんてあるんですか。大人の足だと徒歩1分って所だったんですけどね。

秋山 ハイ、次は小学校です。

竹宮 小学校はね、その頃父親がカメラ狂いだったの、それで1年生の時、新しいランドセルで写真写すでしょ。近所中、似た歳の子がズラッと並んで沢山いるのね。

秋山 そうだ、昭和25年生れというのは、ベビーブームの最後の年ですね。

竹宮 だから隣りもその隣りも居たし、向いにも居たし(笑) 向いの隣りにも居た。本当ゾロゾロ、一声かければイッパイだったの、その小路だけで。

秋山 えーここいらへんで、初恋の人なんて。

竹宮 いやだー。イヤ、いたかな。近所の子でね、赤トンボとりに行った記憶がある。スゴイ悪ガキで、それこそ手を引かれてね。ドコソコ行こうって、夕方ね赤トンボとりに近所の空地まで行ったとか……何か変な気分だったというのは、憶えてるんだけど。

秋山 で、小学校3年で転校しちゃうんでしょ。引越先は遠いの?

竹宮 市内からちょっと郊外の、工場地帯みたいな所へ行っちゃったの。それは、お母さんが突如お店をやりたいみたいなこと言いだして、お店を捜して移っちゃったの。

秋山 アッそれが「風と木」に出てくる、暖炉。

竹宮 ソウ、鉄でできた石灰くべるカマド。

秋山 突然マンガの話になるけど、いつ頃から?

竹宮 そのころはまだマンガっていうのは描いていません。マンガは中学に入ってから、お絵描き程度だったら5歳くらいから、ずっと描いてる。似顔絵みたいなのもあったり、絵日記なんか、まだ持ってたと思うんだけど。

秋山 マンガを読み始めたのは?

竹宮 やっば5歳頃から読んでたと思う。近所のお姉さんとかにみせてもらった「少女」とか「少女ブック」。要するにわたなべまさこさんの「白馬の少女」や「やまびこ少女」。

秋山 ワァー、カンドー!(笑)古典!(笑)

竹宮 それは好きでねー、あれだったら、ソラで描けるよって言って、自慢して描いてたような気がする。すべり台の上に昇らないと見えないってくらいモノスゴクおっきい顔を校庭に描いたりしてた。この話は転校する前のこと。
小学1年生から3年まで、日本舞踊をやっていた。舞台の上でどっちに回っていいかわかんなくなって、ついでに振りもド忘れしちゃったの(笑)

秋山 別に恥じゃない。そういうことは、よくあるでしょ。

竹宮 ウンある。というか楽天家だから忘れちゃうのね。緊張していてじゃないのよ。

秋山 それは3年からはやってないの?

竹宮 転校しちゃったから、お師匠さんがいなくなってやめたの。で、高校1年くらいから又、その頃一緒に習ってたイトコが、師匠になったから、じゃあ出げいこしてよってことで、家まで来てもらってやってた。

秋山 ところでTVはいつ頃からありました。

竹宮 TVは引越してからだから、小5くらいの時から、美智子妃殿下の結婚式っていうのは友達の家でみた記憶があるから、その時はまだなかったみたい。

秋山 転校した時の思い出なんかは?

竹宮 そうだなー前の小学校の時にね、一度給食になってるんですよね。それが転校したら、お弁当になったのよね(笑)

秋山 それが一番の記憶ね(笑)

竹宮 そう(笑)で、すごく嬉しかったの、ウッウッウッ。アノ脱脂粉乳とか嫌いだったから。お母さんが手仕事が好きでね、お弁当袋とか、洋服とかも自分で作ってた。中原淳一が好きで、そっくりの絵描いてるでしょ。中淳のスタイルブックばっかり見てね、あれこれ作ってもらってた。すごくハイカラだったんじゃないかな、あんなイナカにしては。

秋山 その頃流行ってたオモチャとか。

竹宮 私がすっごく欲しかったのは、イトコの家にあったオモチャでね、それは後でゆずり受けたけど、ミニチュアの家具とか、そろえるのあるでしょ。木で全部できてたんだけど、こんな小さな椅子とか、ピアノとか、そういうのを少しずつそろえていくのが流行っててそれが一番、私は好きだった。

秋山 じゃ、やっばし女の子の遊びかな。

竹宮 というか、今でも好きなの、ソレ。建築っていうか、インテリアデザインみたいなことがすごく好きなのね、今でも。お人形を愛でるっていうよりは動かして遊ぶことが好きっていうか、設定を作ることが好きなの。お父さんに頼んでその小っちゃな家具を並べるためにワザワザお家を作ってもらった。大工仕事みたいなのが好きでシーソー作ってくれたり。そのオモチャの家がしまいに小鳥の家になっちゃったの。十姉妹かなんか飼って、それが小2くらいかなー。

秋山 こんなしつけされたことある? 新聞とか活字ふむと新聞におじぎしなさいとしかられるようなこと。

竹宮 それはノンタンも言ってるみたい。私はそんなことなかった。何だろう都会の人はそういうこと許さないのかなー。おヒツの上にのっちゃいけないとか、またいじゃいけないとか普われた。

秋山 他人に迷惑かけちゃいけないとか、そういう形の言われ方は?

竹宮 あいさつができないって事を言われたな。妹はしっかりできるのに、私は全然ダメ、照れるのね、でよくおこられた。それから、何かに没頭するとポケーッと口を開けて、バカ面としか見えないような顔をするらしいのね、今でもそうなんだけど(笑)イチイチ注意されたの口開けないでって。

秋山 なにか考えていたわけ。

竹宮 空想癖というより没頭癖なの。何をしててもそうなの。とにかくやることにシッカリ没頭しちゃうのね。お茶いれてるんでも、お皿洗い始めると、悩み事なんかどっかへ行っちゃうのね。必死に物を組み立てるとか。

秋山 それは直ってないみたいね(笑)

竹宮 資質とでもいうしかない、いいにつけ悪いにつけ。

秋山 二つのことをいっぺんにするなんてことは。

竹宮 うーん。例えば食事するんでもね。いろんな種類のオカズがでるでしょ。普通だとまんべんなく食べるでしょ(笑)だめなの、一つのものに執着してんの。全部食べちゃってからでないと、次に移れないの。今はそういうのなくなったけど一時はそれが顕著に表われて(笑)

秋山 では、中学に移って、勉強はどうでした。

竹宮 中学に入って突然成績というものを意識し始めたの、何でかっていうと、入った時いきなり5番かなんかになったの。ただオモシロイナーと思ったの、順位がつくってことは。小学校と違うなー張合いが違うなーという感じがした。しかも、あの頃は9科目制度だったから、体育とかも全部ペーパーテストがあって他のでかせげるわけ、音楽と保健体育とかで得点かせげる性質だったし。その次のテストで、全くのまぐれだったんだけど、主要科目がほとんど100点で。あんまり満点ばかりだものだから、皆におかしいワって言ったのね、そしたら皆にゲゲっ1番じゃないのって言われて……案の定1番だった。

秋山 それからどうなったの?

竹宮 その後、36番に落ちたというバカバカしい限りなんだけど、親に笑われてしまった。最後にも1番だったのかな。正規のテストじゃなくて、入試前の模擬テスト。

秋山 科目は何が得意だった?

竹宮 理科がおもしろいんですよね。1・2年はチンプンカンプンで全くわからなかったの。それが、3年の時の理科の先生が変な人でマンガを描くわけ、電気の分解なんかプラスっていうのを女の子、マイナスを男の子にしてね。と、どーしてもくっつく話ができるでしょ(笑)必ず。下手でもいいから生徒に描かせるの、それがすごく気に入って、いっぺんに1年から3年までわかっちゃったの。

秋山 スゴイ。

竹宮 イイ加減なのね。

秋山 この頃からでしょ、マンガは? それはコママンガ ですか。

竹宮 コママンガになり始めてたみたい。その頃は鉛筆でワラ半紙に裏表に描いていた。折りたたんで教科書の間にいれないと親が来た時、マズイから足音に聞き耳をたててたら、耳が良くなったの。人が来る気配とかにものすごく敏感なの。今でもそうだけど、だから地獄耳って皆に言われるんだけど、ヒソヒソ話とかみんな聞こえちゃうの。

秋山 どんな話ですか。描いてたのは。

竹宮 主人公は何か南の島の生まれでわたなべまさこさんの影響じゃないかと思うのだけど(笑) ターザンぽい生活をしていたの、自由に。それが東京に来て、少年探偵団みたいのに入っちゃうのね。スーパーマンみたいに身軽で、ピョンピョンとび回るの、チビなくせに強くて、正義漢で。81話も描いた。全部30枚くらいの話だったけど、恥かしくて焼いたの。それだけは焼きたいと思って焼いた。人に見せることを意識して描いたのが中3の頃ね。

秋山 えっ、誰にも見せないで焼いてしまったの。

竹宮 見せてない。親もウスウスは知ってたみたいなんだけど、何も言わずにほっといたってカンジ。

秋山 最初に描いた絵はどんな絵ですか。

竹宮 西谷祥子さんに似てた。下敷にしているな、とは思えるみたい。

秋山 どのくらい描いていたのだろう。

竹宮 シリーズ物だったから、出てくる人とかは同じだけど、その前に30話くらい、空手を使える男の子の話も描いていたし、どのくらいあるかな。毎日毎日日課のように描いてたのね、続きを。学校でも、その話の続きが気になって気になってしょうがない。二千枚以上かな。

秋山 バックもアシスタントなしで。

竹宮 入れてたちゃんと(笑) 描きにくい構図とかポーズとかも。人にみせることを意識してかいた作品が4、5作、今ここにあるのだけど、読むと、何というか、御都合主義っていうか、ひたすら信じられないよーな話なんだけど、絵としてはワリとしっかりしているみたい。

秋山 お話作りの訓練なんてしましたか。

竹宮 友だちとお互いに、見たTVの洋画の話をしてたの。そしたらその子が、私は一日中家にいて見たはずなのに、そんな話はなかったっていうんですよね。結局、私が作った話を混ぜて話してたってことがバレちゃったんだけど。

秋山 最初に見せた人は。

竹宮 その親友に見せようと思ったの。その時、人を楽しませる話は違うんだなって、初めて意識した。今までは描きたくないコマは描かずにとばしたでしょ、楽しみで描いている時はね。

秋山 そのころですか。石森さんの「マンが家入門」が出 たのは。

竹宮 そう、これぞ私の欲しかった本というカンジで、もう知りたいものが全部入ってたというか、何ていうか、聖書になってしまった(笑) それが一番大事な本だった。

秋山 マンが家になろうと思ったのは。

竹宮 うん、「マンガ家入門」を読んで初めてなの。それまで皆がマンガ家になるの?って話はしていたんだけど、私は親がマンガ家なんて水商売だって言うし、私もそうだと思ってたから、もっとまともな職業につこうと、ひたすら思ってたのね。素直に、親の言うことは、皆信じちゃうのね(笑)

秋山 具体的に、ペン入れした作品の題名は?

竹宮 それはねー小山田君(同人誌会長)が持ってんの。初めてペン入れした作品ですって送ったのが「水鳥」って題だったと思う。悲恋の話(笑)

秋山 えーっ考えられない(笑)

竹宮 うっくっくっくっ、 最初は少女マンガ描いてたんだから。立派な。

秋山 あーそーですか。

竹宮 あんまりマツゲはなかったけど、石森さんの影響じゃないかなーやっぱり。石森先生を投稿仲間で同人誌を作ったって、楽しい経験のことを「マンガ家入門」の中で書いてる訳。そういう仲間を求めるにはどうしたらいいのですかと手紙を書いて送ったの石森さんとこに。そしたら、石森先生の所に「宝島」の同人誌の会計の人が遊びに来てて、先生が、ホラ、こんなのが来てるよって渡したらしいのね。で、じゃあ試験をしましょーってことで、何か送ってくれっていうのが来たの。緊張しちゃって描けないわけ。まってくれって手紙ばっか送って、しばらく描かないでいたのね。そしたら、石森先生が入れてあげればいいんじゃないっていったらしいのね。ワーイと喜んでね、それからもう、皆がドッとあきれる程の量を、ドドドッと送ってた訳。

秋山 それは対談のところにも出てくるもんね。

竹宮 それが31枚、最初の作品。高1じゃないかな。ところが、一年に一回くらいしか刊行できないのね。皆の作品が集らないから。で、私のなんかいやでも(笑)たまっちゃうわけ。一ヶ月に一本位描いてる訳でしょ、私のだけで1号できちゃったりして。

秋山 スゴイネー(笑)

竹宮 それがねー、その中に「戦争と平和」を受験戦争の話で描こうとした作品があったんだけど、その頃、マンガ哲学みたいな形で、「週刊朝日」にいろんな同人誌が取り上げられたのね。その時、私の作品が1ページ、まるまる載ったの。びっくりしたあの時は。何の断わりもなく同人誌の中から抜きとったらしいんだけど。

秋山 それが活字になった最初かな。

竹宮 活字っていうか中1の頃、「マーガレット」とかにカットを投稿するみたいなことはやってたけど、しっかり載ってましたよ。一度も落選なし。

秋山 高校は、県立城東高校ね。

竹宮 高校はねー1ランク落としたっていうのか、無理すれば城南っていう所があるんですね。そこは県でトップの学校、受験校で、でも城東の方が楽だから。

秋山 マンが家になるつもりは、まだ?

竹宮 ウン、つもりだけはあったけど、自信はまだね。だから、高校へ行っても、ガリガリはすまいと思ってた。むしろ、マンガの方を一生懸命やりたいと思ってたから。勉強の方は、ほどほどで……

秋山 そのころはどんな本読んでいました。

竹宮 正統SFなんて読んでなかった。SFはね何かおかしいの読んだんですよね。双子をいっばい集めて、その片方を宇宙旅行に出しちゃうの。で浦島効果でさあ、帰ってくると年とった相手と再会するって感じで、何かテレパシーを使って通信をするために皆双子を選んだっていう設定のSFを読んだことがあるけど。

秋山 何か竹宮さんのSFの原点みたいじゃないの。

竹宮 わー、そういう話はやめましょ(笑) 後はホント児童文学ばっかり。ケストナーとかもそうだし。日本のも、そう「青い目の番長」とか、プロレタリア児童文学ってのね。

秋山 東京へ行って同人誌の人たちとは会いましたか。

竹宮 高2の修学旅行の時に石森先生とこに行きますって言ってね。桜台まで迎えに来てもらって、石森先生とこで会合したの。小山田くんなんか、お互いデッカイ目の人だなーって思ったんじゃないかって(笑) あの人もね、おや目だ君ってくらい目が大っきい人なんだけど。そこで、初めて永井豪さんともあった訳。

秋山 劇的な瞬間ですなー。

竹宮 劇的っていうかねーワタ菓子を食べてたのが印象的だった。縁日だったの。桜台駅前の。土曜日ごとにやるのかなー、アレ。

秋山 東京の思い出っていうのは? それが初めての東京でしょ。

竹宮 本郷三丁目の地下鉄の近くに泊ってたの。きったない宿で信じられなかった。東京だというのに。わりかし東京っていうのは薄汚い、ってカンジがした。高速道路になんか入るとものすごいキレイなんだけど。

秋山 一応国会議事堂とかも回った?

竹宮 行ったんだけど、そっちの印象より、なにせハイウェイなんか向こうにはないでしょ、印象が強かったみたいね、とにかく気分がいいっていうか。

秋山 石森さんとはそのとき話した?

竹宮 石森先生はその時、色々実験的なことやってたでしょ。クレパスで絵を描いたり、とかっていうのを、どうやってやるのかって聞いたような気がする。

秋山 何て答えてた?

竹宮 だから、クレパスで描くとは思わなかったから、そういうので描くんだよって言われてビックリしてた。

秋山 初めて原画見せてもらったんでしょ。

竹宮 ええもちろん初めて。でも、自分のが印刷された時の方がショックだったなー。

秋山 トーンとかは使ってた?

竹宮 それは使ってない。だから初めての原稿料もらった時、それ買った(笑) 作者のところへ行ったらサインしてもらえるんだってこと全然考えてなくて、え、何も持ってこなかったのって、アキレられた。で、紙の切れはしに描いてもらったの。「サイボーグ009」。
この頃すでに大学入るかどうか悩み始めてた。「COM」に投稿したら、佳作になったでしょ、「ここのつの友情」の最初のヤツが。

秋山 ところで「COM」なんて、いつ頃から読んでた?

竹宮 創刊号から。高校に入ってからできた友達が手塚ファンで、その人がこんな本がでてるよって言って、私に見せてくれたのが始まり。何が読みたいかって「火の鳥」でも「ジュン」でもなくて「まんが予備校」だけが読みたくて買ってたの。

秋山 その割には投稿してなかったんですね。

竹宮 投稿レベルに達するまで待とうと思ったんじゃない。しばらくして描いてみて、それがどの程度までいくかで、次の目標を決めようと思って、「ここのつの友情」を出したわけ。せめて名前だけは載って欲しかった、と思ったら、まあ、いいとこまでいっちゃったから、じゃ今度は入選とかいって、しばらく、また出さなかったの。ちょうど1年出さなかったのかなー。

秋山 少女マンガ誌のほうには?

竹宮「マーガレット」に高3の秋ごろ出したのね、でクリスマス前に佳作と決まったけど、どうしても載せたいからっていって、1月の増刊号に載せてくれたの。

秋山 原稿料って初めてもらったのは?

竹宮「マーガレット」でもらったのが初めて。「COM」はもらった印象がない。まず「マーガレット」で「COM」に入選するより先に賞金くれたの、3万円だったか なあー。

秋山 いーね。あの頃の3万円ったら高いもん。

竹宮 入選が山本優子、準入選が湯村たい子で、その湯村たい子とせったっていう話だけは聞いた。でも、徹夜でねー。大いそぎで描きあげたから。その前に、西谷さんから、石森さんとこで同人誌を見たのだけど出してみませんかって手紙が来て、ファンだったから、出してみよーって思ってガンバったんだけど無理だろーなと、むしろ思った。その話はむつかしかったし、もうその時は「COM」の影響受けちゃってたから、少女マンガ向きじゃなかった。

秋山 でその賞金が原稿料?

竹宮 いや原稿料は別にくれた。

秋山 すごいなー、どーして集英社いかなかったの

竹宮 知らない(笑) 縁がなかった。

秋山「COM」では次が「かぎッ子集団」、3作出したの全部入選したの?

竹宮「COM」では「ここのつの友情」が佳作になって。でその冬の『木枯し』の時に載ったの。8頁、「弟」って作品。それが「マーガレット」に「リンゴの卵」が佳作入選するのと同じ頃だったみたい。でもそれは習作ということになるでしょ。だから、あれは数に入れない。

秋山 43年の1月号の「マーガレット」といえばもう大学受験の頃じゃないですか。

竹宮 うんそう、だから受験前の忙しい時期にネ、試験勉強で徹夜するなら、まだしも、マンガ描いて徹夜して学校行って3時間目あたりから眠くなってね。とてもじゃないけど耐えられなくなって早退しちゃった。無断早退。で、あくる日先生に呼び出されて、昨日帰ったんだ って? どうしたの? っていわれて、実は投稿するためのマンガをテツヤで描いてて、来てみたんだけど、ネムくて授業にならないから帰りましたって言ったの(笑) そしたら、ならいいけど、今度から断ってから帰ってねって。それでおわったの。

秋山 もうその頃は、マンガ家になるって言ってた。

竹宮 2年の時にもうすでに面接で、マンガ家になりたいって話したんですよね。

秋山 大学1年のときは?

竹宮「かぎッ子集団」入選のアトすぐ「ファニー」で連載を始めた。

秋山 それから、大学に行きながら順調にマンガ家の道へ、割と苦労しなかったみたいですね。

竹宮 デビューは誰でもできるのよね。そこから先が、オソロシイの。可能性だけで勝負できた頃はよかったなあ。ここから先は、幸運不運入りみだれ、波瀾万丈。今でも良かったのか悪かったのかわからないのよ。

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