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【PasseCompose 本棚から】



PasseCompose パセコンポゼ 過去完了形
出版社:駸々堂書店
発売日:1979年04月20日(初版)
大型本:175ページ
資料提供:https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/165995...




「PasseCompose パセコンポゼ 過去完了形」130-136ページ
本棚から
小松左京
手塚治虫
水木しげる
脇明子
鏡明
(図版に続いてテキスト抽出あり)










「地球へ…」 かぎりないみずみずしさと、 若々しさの中に
小松左京

ここ数年来、私のようなロートルSF作家をオタオタさせている現象に、SFの分野における、若手女流の目ざましい進出があります。──数年前の山尾悠子さんの登場を皮切りに、萩尾望都さん、青池保子さん、中島梓さん、新井素子さん(新井さんなどは、デビューが十六歳で、いまだに素子チャンとよびたくなるくらいですが)そして、竹宮恵子さん、というわけです。しかも、この若い女性作家たちのものする所が、小説であれ、評論であれ、漫画であれ、SFとしてきわめて「本格的」なのです。この点、私のようなロートルが、表面オタオタしてみせながら、内心ニタニタ喜んでいる所以です。

これら若い女性の進出は、その少し前の、山田正紀、かんべむさし、横田順彌の諸君といった「男性若手」の出現同様、喜ばしい事であり、私個人としては、日本のSFが、きわめて順調に成長しつつあるあかしと思っています。古事記、源氏の、あるいは一葉、かの子の例をひくまでもなく、日本における文学への女性の貢献度の高さには世界に冠たる伝統があります。なぜそうなったかの説明は面倒になるのではしょりますが、すくなくともこと文学に関するかぎりは、日本の場合男性女性それぞれの役割りはほぼ完全に相互補完的であり、新しいジャンルについても、女性の読者、作者の出現は、そのジャンルをよりゆたかにすると考えて、まずまちがいはないでしょう。──もっとも、SFに関しては最近アメリカでも若手女流の進出が目ざましいのですが、しかし、日本の場合は、この分野に女性漫画家の果敢な進出がある、というだけでも、世界的にみてユニークだというべきではないでしょうか?

さて。

この果敢にしてユニークな、SFを試みる女性漫画家の中に、最近また、萩尾さん、青池さんにつづいて、竹宮恵子さんという大型作家が登場してきました。それも、壮大な、未来宇宙文明を題材とした、大河SF「地球へ…」をひっさげてです。──彼女の短編は れまで二、三読んでいましたし、基本的な「SF性」というものをしっかりつかまえている点が印象に残っていましたが、この未完の大作の第一部、第二部を通して読んだ時、そのスケールと意気ごみの大きさにおどろかされました。たしかに、中島梓女史もどこかで指摘していたように、ここには「SFの原点」というものが、かぎりないみずみずしさと若々しさの中にとらえられています。──「SFの原点」なるものを一言でいえば、「科学を媒介として、宇宙のひろがりと深さと、その中にある自己の姿を知った人類」の産物ということになりましょうか。二十世紀の初頭に、おそらくH・G・ウェルズによって、はじめて自覚的に設定されたこの原点は、その後のSFの中にも圧倒的に保持されつづけて来ましたが、SFが、「子供文化」や「大衆娯楽」に広く浸透し、また既存の文芸諸ジャンルとの接触を深めるにつれ、その多彩な発展の中に、まぎれそうになる事もよくあります。しかし一方では、若い人たちが、みずみずしい覚でもって、新しいジャンルやメディアの中で、原点からの「線の引きなおし」を行い、その床に、SFは新しい生命を得てよみがえり、新たな地平線がひらかれてきました。

竹宮恵子さんの「地球へ…」は、まさに、こういった、若い世代による 「原点からの再出発」の、最近における絶好例といっていいでしょう。人類が、老いた地球をはなれ、広漠とした宇宙空間へ拡散し、高度に発達したメカに包まれてくらしはじめたはるけき未来! 作品は、こういった典型的なSF的シチュエーションから、それこそひたむきで、力いっぱいの語り口ではじまります。暗黒の宇宙とコンピューターに統治されるひややかなメカニック・ワールドという、ほとんど虚無的な未来環境の中に展開して行くのは、若々しく、さわがしいばかりの活気にみちた「少年たち」の物語なのです。コンピューターによって管理され設定された人工的社会の、「仮構の」あたたかい底辺で、仮りの「両親」のもとに育ち、現在の子供たちと全く同じように学校へ行き、友達と遊び、ふざけ、競争し、時にはエスケープして、元気いっぱいにくらしている少年が、成長して行くにつれ、「生命」自体の持つ暗黒の意志と、開花してくる特異な資質にみちびかれて、完璧に幸福に調整された「人工環境」に反逆し、その壁をつき破って「宇宙」や「運命」と裸で対決して行くようになる──。そういった力強い、物語が、若い女性漫画家の手によって描き出されて行くのを見た時、私は驚くと同時に感動しました。それが、「漫画」という、いわゆる「子供文化(チルドレンカルチャー)」のフレームの中で展開されている、という事も、この際どうでもいい事でしょう。「宇宙」という桁はずれの時空スケールを前にする時、私たち人間の暦数年齢など微細なもので、その中で「子供」だ「おとな」だといってもあまり意味のない事ではないでしょうか? 晩年のニュートンは、自 らを知識の太洋の前で無心に遊ぶ「子供」にすぎない、と自覚したではありませんか? 表現形式や手段はどうあろうとも、この作品の基には、まごう事なき「SFの原点」がしっかりととらえられ、若くみずみずしい才能による「原点からの再出発」が、果敢に、全力こめて──時にはあやうさを感じさせつつも──こころみられている、という事が感動をさそったのです。竹宮さんは、「少年」を好んで描く、といわれます。(もっとも、彼女は長編「風と木の詩」の前半で、愛らしく可憐な娼婦を見事に描いてはいますが)この作品でも、登場人物のほとんどは少年で、たった一人出てくる美少女フィシスの眼は、何かを象徴するようにかたく盲しいたままです。そして、少年たちは、宇宙の虚無と、その虚無の固い防壁のような、高度に管理された人工環境に挑む、「若々しい活力にあふれたいのち」の象徴として、あらゆる異常な事件や大きな圧力にあい、悩み、苦しみ、闘いながら、物語を展開して行きます。──少年たちが、あまりに愛らしく、美しく、理想化されて描かれているとしても、そこは、女性作家の「特権」ではないでしょうか? 数多い文学の中で、もっとも理想化された女性像は、しばしば男性作家の手によって創造されました。平安時代の一貴公子の人生を、最も美しく、理想化して描いたのは、紫式部でした。光源氏は一方ではあまりに理想化されているように見えながら、その事によって、特定の実在人物のなまなましい描写をこえた、「人生の象徴」としてかぎりない存在感を持つようになったのですから。


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少年の目
手塚治虫

竹宮恵子さんの描く男の子は、なによりも横顔の目がいい。ぼくが夢中であこがれた、デビュー当時のオードリィ・ヘプバーンの横顔の目に似ている。竹宮さんの絵に似てるな、と感じるマンガ家の卵たちの描く顔は、たいていこの目のタッチを第一に似せるようだ。

竹宮さんの作品は、かなり以前から──ほとんどデビュー直後のものから、週刊誌で拝見していた。敢て「ファラオの墓」までを第一期とし、「風と木の詩」以後を円熟の第二期としたい。「地球へ…」 はSFブームにのった作品だが、今後描く男の子が、おとなの視点からアイロニーをこめたものとなったとき、第三期の竹宮恵子がはじまる……彼女なら、必ずその脱皮をなし得る才能ありと、ぼくは確信する。


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竹宮さんの世界
水木しげる

明治の始めごろ、東北に「ざしきわらし」という小童が、小学校に出て、それがまた、小学校の一年生にしかみえないので、大騒ぎになった話があるが、

やはり、普通の人間には感ぜられないが、ある特殊な感じ方をする、能力をもった子供とか、人間には「ざしきわらし」だろうが、「妖精」だろうが、たしかに感ぜられるものだ。

ニューギニヤの原地人は、人間は死後、鳥になるというが、東京のドまんなかで、そんなこというと、とてもじゃないが信じてもらえないが、日本と同じ位の広さで、三百万人たらずの人口という、全土ジャングルにおおわれ、常に植物の精とそれとなく会話しているといったような生活をしていると、人間が死後、なんとなく鳥になるのではないか、という実感がするから、奇妙なものである。

植物の精との会話というのは、大げさな言い方かもしれないが、初歩的なものとしては老人が盆栽を愛する、といったようなこと、などにもみられるわけだが、それが無人島なんかで、植物におおわれている島などに行くと、植物の精に招かれる感じがするものだ。そういう中で生活していると、いつしか植物と会話しているものだ。

そういった感覚の持主は、また妖精とか妖怪といったようなものも感ずる能力をもっている。

即ち、目にみえない、もう一つの世界をおぼろげながら、感じる力をもっているわけだ。

この世は「目に見える世界」だけしかないというのは、そういう感覚のぜんぜんない人のいう言葉で(これがまた地球の全人口の九十九・九パーセントをしめているから、情けない話だが)……。

さて、我が丸顔の美女、竹宮恵子女史は、そういう目にみえない妖精のたぐいを、身近に感ずることのできる数少ない作家であり、そのスルドイ感覚は少年愛」などという、宝塚歌劇顔まけの新発明をやってのけ、我々老劇画家?ですら、女とまがう美少年同志がキスしたり、果ては抱きあったりしていると、思わず、
「ありゃまァ」
と、ためいきともおどろきともつかぬ、奇妙な気持になり、さまざまなことを連想したりする。

それが「音楽」だとか「天才」だとか「ヨーロッパ」などというものと組合わさっているから、食べてみてわりかし上品なケーキとなっている。

ヨーロッパの妖精で裸に近い形でえらくセクシーなのがいるが、そういう妖精に出会った感じの漫画である。

これからは、もっとセクシーな宇宙人や、死後の世界とか、さまざまなファンタジーの世界がみせてもらえるものと期待している。


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反「美少年」論
脇明子

正直言って、私は「美少年」とか「少年愛」とかいう言葉がどうも好きになれない。誤解してもらっては困るが、別に同性愛を認めないというのではない。「男の子と恋をしたらどうしていけない?好きになるのに男も女もありゃしないよ」というホルバート・メチェック氏の主張にはまったくなんの異議もないし、むしろ諸手をあげて賛成したいくらいだ。だが「美少年」とか「少年愛」とかとなると、そこにはかすかに饐えたような悪徳の匂いがつきまとっていて、私はそれにはどうしても辛抱ができないのである。

無論少年が美しいのはそれ自体悪いことであるわけがないし、その美しさをひとが愛するのもこれまた当然のことだ。少女漫画の頁を飾る少年たちの一種異様な美しさには独特の魅力があるし、現実の世界にもごくたまには漫画から脱け出したような少年がいないわけではない。だからメチェック氏のいわゆる美少年愛好趣味も、ひとが漫画や音楽を愛するのと同じ意味でなら十分納得できるし、自分にだってまったくその傾向がないわけではないなと思ってみたりもするのだ。

だが漫画や音楽の場合とは違って、メチェック氏の趣味なるものは、本来はとんど成立不能である。なぜなら少年の美しさというものは、ちゃんと手にとって調べられる顔の輪郭や眼の色だけにあるのではなくて、何かに夢中になった瞬間の我を忘れた輝きといったような、二度とは捉えがたいものの中に多分にひそんでいるものだからだ。それを自分のものとして所有しようとするのは愚の骨頂だし、少年自身にさえそれを捉えることはできない。捉えたと思った瞬間に、その錯覚は少年を腐敗させずにはおかず、そうした少年を「美少年」としてながめる人間ともども、そこにはよどんだ水のように重苦しい芝居が、ぎこちなく繰りひろげられることになるばかりだ。

無論そうしたことは、ほかならぬボブにはわかりすぎるほどわかっていたに違いない。たとえばはじめて「心にえがく理想の美」の体現ともいうべきエドアルド・ソルティを見たとき、ボブは彼の視線を避けてぱっと身を隠すが、それはなによりもそうした芝居の始まりを怖れてのことだったはずである。その頃のエドアルドへの関心は「愛でるだけの人形に対するものと大差なかった」とボブは言うが、相手を人形のままにしておこうと思えば、自分の関心を悟られないようにこっそりと見るしか方法はないのだからだ。

ボブはこの後、ほんの偶然とはいえエドアルドが共に反体制運動に加わっている少女と会っている現場に出くわし、写真を撮って脅迫がましいことをやってのけるが、これなどは出会いの前にまえもってつながりが生ずる可能性を断ち切っておこうとしたためとしか考えにくい。一度の出会いを最初で最後のものにするには、敵同士として出会うというのは、実際うまいやり方なのだ。その証拠にボブは一緒に寝たあと、心の中で「たのむ、今すぐ帰ると言ってくれ、エドアルド」と呟く。しかしエドアルドのほうはボブのそうした予防線をあっさりと無視し、「現在まで十年にわたる交友の序章をむしろ彼のほうから」開くのである。ボブはその後も「ベタベタと甘ったれた交際はごめんこうむる」と自分に理屈をつけて、なんとかエドアルドをつき放してしまおうとするが、エドアルドのほうはそのたびに予想を超えた反応を示し、やがて「理想の美」としてよりもむしろかけがえのない友人として、ボブの生活のまん中にどっかりと腰をすえてしまうことになる。

このエドアルドの鮮かさに魅せられれば魅せられるほど、私は最近竹宮恵子の描く少年たちが「美少年」という言葉でくくられる傾向があることに、危惧をいだかずにはいられなくなる。たしかに「風と木の詩」のジルベールなどは、私が苦手とする意味においての「美少年」にほかならないし、「少年愛」というレッテルにしても、これまた貼られたところで文句のつけようはない。そしてあの長大なドラマがどこまでいっても重苦しいのは、ジルベールという少年がまさにそうしたレッテルを一面にベタベタ貼られて、ほとんど息ができなくなってしまっているからである。無論あの物語において竹宮恵子が描こうとしているのは、他者と自己の視線にさらされてほとんど「もの」と化したジルベールが、幾重にも貼られたレッテルをつき破ってかけがえのない彼自身として光り輝く瞬間なのだと思うが、だからといって読者たちまでがレッテル貼りに加担していいものだろうか。

もっとも読者も作者もみんながいっしょになってジルベールを追いつめるなら、それだけ彼の爆発が大きなものになる可能性は少なくない。「美少年」とか「少年愛」とかいったレッテルがすべてズタズタに裂け、私たちがひとり残らずものの見事に裏切られてしまう日──それを私はなによりも楽しみに待ち続けているのである。


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竹宮恵子のSF
鏡明

世の中には、わからないことが沢山ある。

イースター島の石像やら、ナスカの地上絵、あるいは、宇宙の果てはどうなってんの? などという大げさなことじゃなくてもいい。たとえば、トマト・ジュースというやつ。あれは不気味です。色はまだしも、あの味ときたら、ぼくは二度と体験したくない。あいつに塩とタバスコをぶち込んで飲む奴がいるとは信じられないのだ。この間などは、ショウユを入れて飲んでうまいという奴を、ついに目撃してしまった。これはわからないね。ぼくには、絶対。

ま、そこまで、レベルを落とさずとも、最近、少年マンガよりも、少女マンガにSFが多いというのは、これは、どういうことであるか。そしてまた、少女マンガのSFのかなりの部分を、超能力ものが占めている。他人の心を読んでしまうテレパスとか、精神の力で物を移動させたり、こわしたりするサイコキネシス、いわゆるエスパーってやつね。これがやけに多い、どういうわけか。

竹宮恵子の場合で言うなら、「集まる日」にはじまる、七人の幼いエスパーたち。「地球へ」のジョミー。「ジルベスターの星」にしても、テレパシーの存在が、大きな役割を果たしている。こういう風に決めつけてはいけないけれども、超能力という素材は、少女マンガのSFにとって、かなり大きなものではないか、と思うわけ。

小説としてのSFの歴史の中では、超能力テーマというものが、一つの作品を構成しうるほどのインパクトを持つことができたのは、一九四十年代から五十年代、言ってみれば、幼年期から脱しはじめた頃ではなかったかと思う。もちろん、最近でも、筒井康隆の「七瀬シリーズ」などという例外はあるが、ね。それが、少女マンガのSFの中には、主要なテーマとして残っている。

おっと、ここまできて、誤解されては困る。やーい、やーい、少女マンガなんて、古めかしいテーマ、使ってやーんの、などということではないよ。中には、どうしても、そうとしか思えないものも、ないとは言わない。でも、どんなものの中にも、そうしたどうでもいい作品はあるものだ、そういうものは問題にすべきではない。ことは、もう少し、本質的なところにつながってるんじゃないか、そう思うわけさ。

少女マンガというものは、基本的に、超能力テーマと非常に近いものを持ってるんではないか、とまあ、それを言いたい。大昔のことは知らんよ。でも、この十年近い間の少女マンガの一つの傾向として、ものすごく当り前の女の子が、その当り前さの中から、驚くべき能力を発揮するってのが、あるじゃありませんか。「驚くべき」といっても、別に超人的なことではない。男の子をうまくつかまえるとか、その程度のことを見事にやりとげるというだけのことだ。で、問題は、その「当り前」である人間が、もう一つの別の自分を発見することによって、それがなしとげられることなわけね。

そんなこと言ったって、少年マンガにも、そういうケースはあるじゃないか、と言われるかもしれないけれど、ぼくの見る限り、少年マンガの主人公たちは、やっぱり、特別な奴らであることの方が多い。肉体的にすぐれていたり、精神的にすぐれていたりするんだよ、奴らは、最初から。

超能力テーマの楽敵なところは、たとえばあなた自身も、そうした能力を持てるかもしれないと思わせてくれるところであるし、それが普段は隠されていることなのだ。身近なものだと言ってもいい。ぼくなんぞも、パチンコ屋では、玉を思いどおりに動かそうとサイコキネシスの実験をし、かわりに百円玉が玉の販売器に移動する。マージャン屋ではテレパスたろうとして、逆に相手に手の内を読まれ、試験の前日には予知能力者たろうとして、問題の予知は外れ、不可という悪い予感だけは当ったりした苦い体験がありながらも、まだ、もしかしたらと思わないわけではない。関係ないか、こいつは。

というわけで、どういうわけでもないけれど、普段の自分とは違う自分があるかもしれないという少女マンガの中の願望は、超能力テーマのもたらす願望と、近い。ただし、超能力テーマというやつには、現実に近付きやすいと同時に、あまり拡がっていかないというマイナス面がある。SFの楽しさの一つである日常の外へ拡大していくという点に関しては、さほど有効なものではない。少女マンガのSFの多くが、今一つ、ぼくには呑み込めないのは、そうしたテーマそのものの欠陥がはっきり出すぎているケースが多いからだろう。

で、ようやく、竹宮恵子のSFの話になる。

竹宮恵子のSFがすぐれているのは、超能力ものを扱うときでも、日常的な方向にのめり込んでいかないことだ。たとえば、背景を未来に設定することで、日常的な部分と非日常的な部分のバランスを取っていく。あるいは、テーマそのものを、願望充足の手段とするよりも、コミュニケーションの問題に置き換えてみたり、超能力を持つ者たちを性の者としてみたりするわけさ。

たぶん、竹宮恵子のメイン・モチーフは、他者とのコミュニケーションではあるまいかと思うのだ。「扉はひらくいくたびも」や、「心の扉をあけて」なんて作品の「扉」という言葉は、そういうイメージを感じさせるし、印象的な短篇の多くが「死」(そいつは決定的なコミュニケーションの断絶だ)を扱っているのも、それを感じさせる。まったくね、他人なんて、わからないものさ。こんなこと言っても、全然、わかってなかったりして、Ha、Ha。

一九七八年の「集まる日」にはじまる水原結惟(すごい名前!) という十三才の少年を中心にした幼ないエスパーたちの物語は、第二作の「オルフェの遺言」に至って、ちょっと凄いものになるかもしれないという予感がする。さっきも言ったとおり、予知能力者としては、ぼくは落第だからたいしたことないかもしれないけれどね。「集まる日」という作品は超能力テーマのつまらなさを必ずしも消し切れてはいなかったように思う。幾つかのドンデン返しはあるにしても、素敵なシーンはあるにしても、それは全体を支配しきれてはいない。

けれども、「オルフェの遺言」で、突如として異世界がストーリーの中に割り込んできたわけさ。ギリシア神話のオルフェの物語の正反対にあることを思わせるこの作品は、超能力テーマに、拡がりを加えることに成功している。あと一歩でファンタスィになっちまいそうだが、機械仕掛けの都市というような小道具が、うまくSFの側に全体を引き戻している。久しぶりに、早く次が読みたいという欲求に駆られたのですね。ストーリーの問題よりも、次に何を出してくれるのかという期待でね。少女マンガのSFでは、たぶんこんなことは、はじめてだ。

どうなるかわからないけれども、わからないということは、それだけで十分に素敵だ。本当にね、この世の中が、わかるものばっかりだったら、面白くも何ともありゃしない。

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