【萩尾望都】大泉スレ【竹宮惠子】 資料まとめサイト - 【“ぐら・こん”から巣立った作家たち:岡田史子】
【“ぐら・こん”から巣立った作家たち:岡田史子】ぱふ1979年05月号


ぱふ1979年05月号
発行日:1979年04月10日
出版社:清彗社
資料提供:https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/165219...




「ぱふ1979年05月号」26-??ページ
“ぐら・こん”から巣立った作家たち
(画像に続いてテキスト抽出あり)
岡田史子
あれは高校時代のわたし、だったのです






岡田史子
あれは高校時代のわたし、だったのです

(ぱふ編集部)ぐら・こん卒業生としてあまりにも有名な岡田史子が初めてぐら・こ んに登場した作品は、「太陽と骸骨のような少年」(67年2月号) だった。その後3作を発表、続いて「ガラス玉」(68年1月号)で第7回月例新人入選賞を受賞する。COM本誌での執筆を経て一時筆を折るが、昨年より復活。現在、「マンガ少年」等に作品を発表している。

岡田 ぐら・こんに初めて載った時のいきさつは複雑でしてね、とにかく純粋な投稿ではなく偶然COMの編集部の人がわたしの原稿を見かけて、載せてくれたんですけど。それが「太陽と骸骨のような少年」と「フライハイトの白い骨」でして。
それまで普通の少女マンガやSFまんがを描いたんですけれど、高校2年の時に初めて永島さんの作品と、あとガロを見ましてね、ああ、まんがってこんなことも描けるのか、こんなまんがもあるのかって思いましてね。自分でも描いて見たわけです。
でそのあともう2本載って、そして今度は編集部の方から言われてね。でもわたしは、今描きたいものしか描けないから、入選作ということで特別に意識したりはしませんでした。だから、わたしとしては「ポーブレト」なんかの方が作品的にもずっと勝っていると今でも思ってますし、好きですね。
あの頃の自分が、作品を通して何が言いたかったのかということ、今となっては思いだせないですね、はっきり言うと。なんでこんなこと描いたんだろうと思う作品もありますし。あれはやっぱり、高校時代のわたしが高校時代に感じていたことを描いたということだと思います。
筆を折った理由ですか? まあ、ひとことで言ってしまえば「疲れた」ということでしょうか。つまり、田舎からでてきた女のコが東京で働きながらまんがを描いていくっていうのは、しんどいことですよね。やはり、描きたい気持ちはあっても描けなかったんですね。
で5年間の空白のあと、去年から又描きはじめたわけですけど、それはなぜかって言われればやはり子供が生まれたから、ということになるのでしょうか。今では、本を読まないと一日が終わらないように、一日でもまんがを描かないと落ちつけないですね。まんがを描くのが生活の一部になっている感じで。これからも、母親業と主婦業と一緒にまんがを描いていきたいと思いますね。