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【たかが「少女」の恐ろしさ!:寺山修司vs斎藤正治】ぱふ1979年05月号

ぱふ1979年05月号
発行日:1979年04月10日
出版社:清彗社
資料提供:https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/165219...




「ぱふ1979年05月号」94-99ページ
たかが「少女」の恐ろしさ!
少女でなければわからない迷宮
萩尾望都を中心に
寺山修司vs斎藤正治
(画像に続いてテキスト抽出あり)









たかが「少女」の恐ろしさ!
少女でなければわからない迷宮
萩尾望都を中心に
寺山修司vs斎藤正治


双子とお菓子

斎藤 大島弓子で猫のことが出てきた。その関連でいえば、萩尾望都のマンガにも猫が主人公になっているのがある。「クールキャット」というのですが、この猫、歌をうたっちゃうんだな。さっき大島さんのとき、漱石なんかと違う擬人法だといったけど、萩尾さんのは、その大島さんとも違って、人間の上を行く。いたずらしてつかまえようとするけどつかまらない。猫をかりて、萩尾さん得意のスラプスティックの世界に入っていっちまう。歌をうたう猫とか、ウサギになっちゃう校長先生とか。「キャベツ畑の遺産相続人」にはそんな人間も出てきますね。萩尾さんの動物は、どこかひょうきんです。「クールキャット」のコメディ性は、萩尾さんのその前後の作品に共通するミュージカルコメディみたいなドタバタものをうかがわせる。そして「クールキャット」でもうひとつ気付くことは、これが双児のネコで、出入り?をやって人間をとまどわせているということ。おしまいは同じ ような白い猫が十匹もいる。双生児もの、同姓同名ものという手を萩尾さんはよくつかうけど、これは表現のバリエーション、人物を動かしたり、考えさせたりが、双児なら二通り、裏表からみれば何通りもできる。例えば、いま評判のオカマの兄弟、オスギとピーコ(まとめ註:おすぎとピーコ)、 あれは一人でも話していると結構面白いし 枚目だけど(「 枚目だけど」原文ママ)、二人そろっていると、その異様さ、面白さが何倍にもなる。早口の二人にかわるがわる喋られると、喋る声は二人分だけど 何倍かの威力になる。それにオカマが売りものだから、その分がマカ不思議さとしてそれに加わる。あの二人と話しているとそんな面白さがある。萩尾さんの双児もの、そっくりさん、同姓同名ものは、人物の心理を多面にとらえられる、というか、重層化させる。とりあえずいったら、双児はかわいいもんだということを、十分計算されてやってる。「十一月のギムナウジム」の双児はのちに、「トーマの心臓」では、瓜二つの少年の愛に発展していく。この少年ばかりの少女漫画なんかは、多分萩尾さんが、少女どっぷり型よりも男の子っくさい女の子が好きだという資質みたいなものを持っている感じなんですね。かわゆい少年の二倍、三倍化の相乗効果のなかで。いつも双児とか瓜二つとかの人物を出してくる。ぼく自身オンチで歌がダメ。したがって萩尾さんのように、ドタバタ的なミュージカル的なものや、歌をうたう猫より、「人間になる」ことを考えて、ひなたぼっこして寝ちゃう大島さんの猫の方がなじめる。体質と。 いうか、好みの問題でしょうかね。

寺山 僕は萩尾望都のマンガが好きなんだけどね。彼女の初期のマンガなんか、すごくいい。丁度、ウィリアム・サローヤンがふつうの男 の子を書くように、ふつうの女の子、まさに「女の子なればこそ」の世界を描いている。大体何が出てくるかというと、双生児とお菓子なんですね。
デビュー作が、料理の巧い母親に死なれた双生児の女の子がコンクールに出そうと思ってお菓子をつくっている。
さんざん失敗をして、やっと「まるで大発明みたい」に、うまくできたケーキをもってコンクール会場の教会にゆく。すると審査委員長と同姓同名の大泥棒一味か何かがいて、その騒動にまきこまれる。
最後はお菓子をぶつけあうようなW.C.フィールズのスラプスティックの喜劇になる。
題名は「ルルとミミ」っていうんだけど、幸福の象徴としてのケーキが武器にかわってしまうところに、このドタバタのかなしさがあってね。どうってことないんだけどそれからだんだん作品が複雑になってくる。僕はそんなに沢山見てる訳じゃないけど、知ってるだけでも、お菓子がでてくるのがいっぱいある。「ケーキケーキケーキ」なんてのも、いんだね。
「キャベツ畑の遺産相続人」というのも、魔女がいて鍋で水爆の実験をやったりしている。校長先生がびっくりすると突然、ウサギに変身しちゃったりする。そんな感じ方はまさに少女そのものなんだね。
初期の萩尾望都の世界っていうのはね、ラテン語とかゲルマン語とかがあるようにね、「少女語」っていう独自の言葉があってさ それを翻訳しなきゃ少女でない人には理解できないような世界なんだ。だから単純な文法なのかっていうと、必ずしもそうじゃなくて、わりに使役変化や直喩、隠喩があってね、エドワード・リアみたいなナンセンスやユーモアもある。
宝塚の少女歌劇の人気も、僕ら男性の好みと全然違う形で人気スターが作られる。それと同じように、萩尾望都の初期の、少女マンガも非常に明快にみえるけども絶対に少女でなけりゃわからない迷宮がどこかにある。それが「トーマの心臓」とか「ポーの一族」になると、次第に重層化していく訳です。「ポ ーの一族」なんかだと、エドガーという十四才の少年とアランという同じ年の少年の二人が吸血鬼なんだね。それで十四才のままで何百年生きなければいけないという純潔の業を負わされてさすらう話です。あれは一種の教養文学の系譜なんだな少女マンガのスタンダードというかな。吸血鬼が出てくるけれども、必ずしも悪意というものはない。血は同族意識の確認のため共有されている。丁度僕が子供の頃「デミアン」とか「トニオ・クレーゲル」を読んだようなまぶしさだ。
いずれにしても、ぼくみたいに不良で捕導ばかりされていた、不健全な育ち方をした男には、ああいうまぶしい陽がさんさんとさしてる青麦畑の中で、麦藁帽子をかぶった少女がいて、とにかく話しかけてもちょっとやそっとじゃ返事してもらえないような、そんな世界がだんだん近づいていくと、単純なようにみえるけど謎はすごく深まる。「トーマの心臓」なんかあのプラトン的な関係は、少女マンガの一つのオーソドキシーだと思うわけです。
萩尾望都というマンガ家が急激にクローズアップされたというのは、「あしたのジョー」が死んで、七〇年の政治的激動期が敗北的な決着をみせたことと無縁ではない。ふつうは、反体制派が挫折した後っていうのは、マルキ・ド・サドの小説のような背徳とエロスの文学が読まれるという傾向が歴史的に繰り返されてきた。萩尾望都の出現というのは、一見すごく明るくみえることによって、逆にすごく暗い。陰が全然なさそうにみえることによって、まぶしさが世界に照り返す暗黒的なトーテムを思わせるんだね。たかが少女の怖ろしさ!が運動に欠落していたことに人は気づく。信頼と共鳴がゾッとするような異化をもたらす。
萩尾望都って人は、ある意味で直球のおそろしさで勝負している人ですよ、野球で言うと。大島弓子って人はカーブですよね、アンダースローのカーブです。ところが萩尾望都って人はケレン味なく上手から速球で投げ続けてエースでいられる。あのマニアックな信者の数は、直球のもつ魔力だと思う。
最近は光瀬龍なんかと癒着してSFなんか書いたりしてるけど、もう少年というのが信じられなくなったのか、よくわからないけれどもね、レイ・ブラッドベリが好きだということが、そのままSF叙事詩につながるのは短絡かもしれない。
ブラッドベリなんかより、もっと透明な世界をもっているんだからね。
「塔のある家」っていうのがあったね。自分が妖精だったことを思いだした時にしか人間が幸福になれない、といった話でね。一般に教養小説的な文体がそれとなく、口をついて出てくるのが、ちょっとドキッとするものがあったですね。

斎藤 もっとも少女マンガらしい作家だということですか。萩尾さんの「少女」は、良家の子女的な、お嬢さんのしつけ的な女の子ではないですよね。バイオリンひいたりするより、ケーキほうばった上でパイなげしちゃう。十年近く前寺山さんに、「食欲は最低の快楽だ」といったら、それは違うとひどく反発されたこと覚えてるけど、萩尾さんの「少女」、ケーキにやたらに興味もつ一方で、「自殺しちゃう」みたいなことをいい出す。そんなところありますよね。陽気だと思ったら、一転陰気になっちゃうような。

寺山 いわゆる少女って言葉、僕らが子供の頃考えてる、小麦色の肌でセーラー服でさ、ちょっと僕たちが変な野次を投げると、サッと 眉をひそめるっていうそういう少女の世界だな。そのくせ、どこか「ものわかりのよさ」早熟さがあってね。そういう意味で、「わかる人」なんだね。泉鏡花もわかれば、大島弓子もわかる。だから「JUNE」って雑誌の、ああいう逆流の面白さもわかる人だ。

斎藤 たとえば萩尾望都を論ずる場合、たとえば竹宮恵子みたいなのを論ずる場合っていうのは、論じ易い、あるいはターゲットにし易って気がするんですがね、大島弓子の場合は少し違うじゃないかって感じが僕の中にするわけ。

寺山 それはすごくよくわかりますけどね。竹宮恵子と萩尾望都っていうのはまた違うんですね。僕は竹宮恵子と友だちだけど、竹宮恵子って人は、どこかアポリネールみたいなところがあってね、才気型の人ですね。最初に少年愛と取り組んで、少女マンガのタブーを破った。しかも大胆なベッドシーンからはじめた。
ムギュッなんて少年のペニスをわしづかみするシーンを描いたりしてね「少女コミック」の読者をびっくりさせた。詩人のもつべきスキャンダラスな方法論で、挑戦した。その話法も映画的──三〇年代のフランス映画的で耽美的でね。本人は、ウィーン少年合唱団をききにウィーンまで行ったりしてね。その無邪気さが開き直るとジュネや塚本邦雄になったりする。攻撃的な茶目っ気をもった少女の感性だと思う。
ただ、竹宮恵子って人のマンガというのは、根底的にはリアリズムを基盤にしているわけです。だから、そういう意味で大島弓子や尾望都と違ったものである。大島弓子の場合には、非現実だけども、擬人化される。ナンセンスでは決してない。たとえばネコは、電車の中では立ってるんだ、人間は電車の中では座るんだと歯くいしばっているセーラー服のチビ猫がね、「ネコのままで一生終わるもんか」と怨念のことばを吐く。
ところが萩尾望都の場合は、校長先生がびっくりすると突然ウサギになったりするっていうのは、ナンセンスのユーモアです。彼女は「私はルイス・キャロルが好きでした」なんて、一切口にしない。つまり、文学性をかくす。大島弓子について書かれた優れた論文ってのはあんまりないけども萩尾望都になると鈴木志郎康だの厳谷国士だの澁沢龍彦だのが書く。そういう意味では。萩尾望都論を書かせたものは何か、てことがある。
大島弓子に脇明子、竹宮恵子に中島梓ってのも、ある意味で象徴的ですね。ぼくは三人ともいいと思うけど。


表現・主題の新らしさ

斎藤 竹宮恵子の話が出たんですけど、僕が少女漫画に関心を持つようになったのは、表現・主題に新しいものを見たからです。萩尾望都が、双生児使って、少年の感性を重層化多面的に描く。「十一月のキムナジウム」なんてかえだまの死がいとも簡単に言ってしまう感じで出てくる。どれもこれも少年小説、少女小説ではとても表現できないことが、ヌケヌケとやられている。しかも質が高い。竹宮恵子にももちろんそれが言える。70年以降、なにをやってもダメだ、って感じのなかで、「表現」があったとすれば、日活ロマンポルノもそうだった。が、何より少女マンガがあったということだと思う。だから萩尾望都や竹宮恵子のやったこと、果した役割は、少女領域にとどまらず、表現全体のなかで評価されていい。萩尾望都や竹宮恵子と、若干違ったところにいる大島弓子も含めて。

寺山 大島弓子って人は、どちらかというと家にこもって、大島文房具屋と大島書店との間をいったりきたりしている。また萩尾望都って人も殆ど出ない。萩尾望都が幸福なのは、大学に萩尾望都研究会のようなマニアが非常に多いってことね。
それでもあの人自体はあんまり出歩かないし、不器用な人だと思うね。不器用で、才気走った所はないけれども、わからない事は、わからないっていうタイプの人ですよ。
竹宮恵子って人は、トランキライザー軍団をひきつれている。マントなんか着てトランキライザー・プロダクションのリーダーとして、なかなかカッコいいんです。スター性があるんですね。
萩尾望都って人は、我々の中では派手な印象があるけど、実際は自分の生活のペースはくずさない。大島弓子って人は、もっとジメーとしてると思うの。2Bの鉛筆を4回削るとか(笑)。

斎藤 もし会うとしたら、寺山さんの話では、 絵になるのは竹宮恵子で、あとの二人は会わない方がいいっていう感じですかね。

寺山 まあ、三人それぞれ魅力的でしょう。ぼくは竹宮恵子がいいと思うけど。小柄だけどもこっちのしゃべってる言葉が終わらないうちに、気のきいた返事が返ってくるようなタイプだな。
増山さんって参謀がいてね。この人がなかなかの読書家で、いつもアドバイザーになって る。

斎藤 例えばダリは、外ではダリであって、家の中でもダリだったわけですね。女を侍らして、ハレムみたいなのつくったりして、そして家でもダリであったんですが、竹宮恵子の場合は、外面はダリで、家の中に入ると竹宮恵子になっちゃう人ですか?

寺山 家にいても、派手だろうな、よくわからないけど。家にいると、運動選手みたい格好してハチマキなんかして、ソレッと全員で描いてるんじゃないかな。あの、ギュッとかペニスをつかむ絵を画いた時には、増山さんたちみんな、「それをだすんだったら、もう知らない」と抗議したらしいけどね。本人は、わりにあっけらかんとして、やめればやめてもいいって感じ。
何しろ、「エロジェニカ」とか「劇画アリス」より早くに、ああいうシーン描いてたんだからね。

(まとめ註:ぱふ編集部)何でもっと早く「風と木の詩」を描かなかったんでしょうね。随分前から、描きたい、 描きたいって、あっちこっちで書いてたんですよね。

寺山 まあでも、それぞれ面白いんですよ、やっぱり(笑)。僕は他はあまりよく読んでないんだけれども、あと、青池保子って人がいますね。ひとつだけ面白いと思ったのはね、持ち運び自由の穴を持って歩く話。「イブの息子たち」が、その穴を壁にあけて隣りの家に入っていったりしてね、地下は何故か氷河期の時代だったりしてね、ケネディがいたりする。何かもうチャクチャ。あれはインテリですね。

寺山 池田理代子なんて人は、「ぱふ」では人気は全然ないのかな?

(ぱふ編集部)さあ、どうでしょう。わりと根強い人気はあるようですよ。

寺山 本人は背も高いし、宝塚みたいだね、ぼくはマンガは見てないけど。

斎藤「ベルばら」が映画になるのだから、それを見て、ついでに漫画の方もパラパラってひっくり返してみた。映画はかなりきちっとしている。とても単純明快だった。宝塚のドラマがそのまま、フランスで作られたって以上でないわけ。オスカルは男装していても、いつもやっぱり女なんだな。そこのところ受けたんだろうけど。若者アンドレとのメロドラマが悲劇で完結する、その単純さが、映画になった理由なんだろうけど、萩尾望都や大島弓子にみる変身・化身のおどろおどろしさみたいなものがないんだな。革命のため、恋のために命をおとす大義の叙情詩より、妹を救うために吸血鬼になっちゃう「ポーの一
族」の方が、ドッシリするよね。

寺山 東京教育大だね。少女漫画家っていうの は大学出が多い。竹宮恵子は徳島大、大島弓子はどこか、大学出てますよね。

斎藤 素性を隠しますね、おかしいですね。それの方がいいけど。あんまり素性が全部わかっちゃうと神秘性がなくなってつまんなくなる。カリスマ的なのが姿を見たらただの女か、と。

寺山 大島弓子が斎藤さんに自分の素性を語るったら、五年や十年は逃げられないと思わなきゃいけない(笑)。帰っていくと、仕事部屋に座っていて、猫の耳かなんか立てて、「おかえりなさいませ」(大笑い)。

斎藤 不思議に和服を着せて描いても、そんなに嫌味がないですね。そんな感じですよね、あの人。

寺山 非常に感覚はシャープですよ、大島弓子って人は。ただ、あの屈折はキネマ旬報ベストワンにはならない。

斎藤 そうですね。


少女マンガは過激である

寺山 僕は斎藤さんと、お会いして十五年位になりますね。斎藤さんをパッと考えると、その時のその時代の、ある一番過激な事にいつ
も居合わせた人ですよね。

斎藤 いつも極左ばっかり(笑)。

寺山 今、少女マンガの所に斎藤さんがいるってことは、逆にいえば、少女マンガの状況がそういうものであるということかもしれない。つねに時代と斬りむすんでいる所があるということで言えばね。

斎藤 映画の評論家が多いんですね、少女マンガについての発言者は。

寺山 映像的だからか(笑)。

斎藤 それがおかしいんですね。やっぱり、映画っていうのが、ある意味で過激でアナーキーだからじゃないんでしょうかね。

寺山「だっくす」ってのは、文字の部分はすごく面白いけれども、時々作品が載ってるのが全然面白くないってのは何ですか。

斎藤 これはねえ、その部分だけ“同人雑誌”になってんですよ。マイナーなんだな。

(ぱふ編集部)読者の声も、みんなそうです。載ってるマンガがちっとも面白くないって。

寺山 それはやっぱりね、猛省を促したいね。

(ぱふ編集部)原稿料さえ支払うことができれば、面白いマンガを載せられると思うんですが……。

寺山 僕はね、埋ずもれた再録でもいいから未発表のものでもいいと思うの。ただ出版社がくれないんでしょ、簡単には。

(ぱふ編集部)参考までに、ちょっとお好きな作品をお聞かせいただけますか。

寺山 順番つけなくていいですか。それなら「ポーの一族」「トーマの心臓」「風と木の詩」「7月7日に」「綿の国星」「バナナブレッのプディング」「たそがれは逢魔の時間」、竹宮恵子の一連の音楽もの。「変奏曲」「11月のギムナジウム」、それに何だったっけ、青池保子の。

(ぱふ編集部)「イブの息子たち」


あなたも僕も少女マンガのマニア

寺山 昔ね、竹宮恵子も萩尾望都も、みんながアマチュアだった頃、同人誌みたいなのを回覧式にやってたでしょ。それを見たことがある。
面白いもんですね。めいめいが紙にそれぞれ描くでしょ。それを持ち寄ってファイルに入れて、ハードカバーをつけて、それを循環してみんなして批評するようにファイルつけてね。やっぱりそれだけの悪戦苦闘はしてるわけね、二十四年組っていうのは。今、その弟子たちが似たようなことやってるけど、全然及びもつかないものね。そのクラスの人たちがめいめい書きたい物描いてる。デビューとか商業雑誌とか考えないでね、それを「新書館のペーパームーン」という雑誌のぼくの編集していた欄に「ガラスの城」って載せた ことがあるけれども。
少女マンガの読者ってのがまた、面白いんですよね。たまに僕はとっつかまる事があるんですが、まるで歯が立たないね。

斎藤 そうなんですよ。ヤッテラレナイナって感じ。

寺山 外国語みたいなことばを勝手にしゃべりまくってね。

斎藤 てめえのことをザーッとしゃべってね、だからあなたなんか全然わかってないんだーなんてやりだす事があったね(笑)。
良識派ですよね。あなたもぼくも少女マンガのマニアなんだから。