【萩尾望都】大泉スレ【竹宮惠子】 資料まとめサイト - 【まんがナビ対談:荒俣宏・萩尾望都】その1
【まんがナビ対談:荒俣宏・萩尾望都】その1
eBookJapan「荒俣宏の電子まんがナビゲーター」

荒俣宏の電子まんがナビゲーター:魚拓
https://web.archive.org/web/20140626083359/http://...

資料提供
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/163500...



第14回:萩尾望都編
その1 新しい「嵐」としての少女漫画の巻
2013年03月15日

註:対談部分を中心に採録
全文は「荒俣宏の電子まんがナビゲーター」(各見出し下のURL)にてご確認ください


■少女漫画家がまぶしすぎた頃
https://web.archive.org/web/20141006115353/http://...

(荒俣宏の解説・略)

■飛び越える力と少女漫画家

(荒俣宏の解説・略)

■大正期女性カルチャーの再現だったかもしれない?

(荒俣宏の解説・略)


■影響力のあった萩尾望都世代
https://web.archive.org/web/20140712030457/http://...

(荒俣宏の解説・略)


■戦後世代のマンガ事始め
https://web.archive.org/web/20140712022626/http://...

荒俣■きょうは、お越しいただきまして、ありがとうございました。改めてインタビューの席に出ますと、緊張します。私はいつも、読者へのガイドというか、作者さんの紹介を兼ねてプレゼンのようなインタビューをやらせていただいているんですけど、本心は、いろいろ楽屋話も聞いてみたい、読者として多大な影響を受けた作家の方々の本音の部分を伺いたいと思ってもいるんです。ですから、業界の人間じゃないということもありタブーに触れる部分がわかりませんので、もし失礼なことを言ってしまったら遠慮なく叱ってくださいね。

萩尾■大丈夫ですよ(笑)。

荒俣■それでホッといたしました。でも、萩尾さんの場合には、紫綬褒章受章のときといい、とにかく最近はいろんなインタビューを受けていらしたり、シンポジウムで発言された内容もネット上にアップされたりしているので、改まってお伺いするような話もなく、実はどうしようか困っているんですよ。

萩尾■それは、ご贔屓(ひいき)にしていただいて、どうもありがとうございます(笑)。私も、荒俣さんだったらいろいろ聞きたいことがあったという感じだったんですけれど……。

荒俣■え、それは困ります。こっちはインタビュアーですから。

萩尾■あ、そうですか、いやいや、いいです(笑)。でも、荒俣さんもやっぱり手塚治虫さんあたりから入られたんですか。

荒俣■ええ、手塚治虫さんと楳図かずお(1936〜 ※19)さんですね。小学校1年のとき、貸し本屋に行ったら……。

萩尾■貸し本の時代からですか。楳図さんの貸し本はいっぱいあったと思うんですけど、手塚先生の本というと、貸本屋にあったのは、赤本の初期のものですか。

荒俣■えーと、東京には赤本はなかったですね。赤本はさすがに東京では貸し本屋が扱っていなかったのではないでしょうか。

萩尾■そうですか、あれは大阪だけのものだったようですものね。

荒俣■ええ。赤本はおもちゃ業界経由だったし、基本は売り本でしたから、貸し本業界のシンジケートに入っていなかったんじゃないですかね。それで、縁日の露店とかで売ったり、今の食玩と同じでおもちゃ屋やお菓子屋の店先に置かれたりしていたらしいです。

萩尾■流通はお菓子屋さん?

荒俣■ええ。でも、出版するほうはそれでも栄えたらしいですよ。本来はおまけで本をつくっていたところが独立して、いわゆる貸し本屋へ流す本をつくっていくわけですね、日の丸文庫とか……。貸し本屋が最盛期は2、3万軒あったらしいですからね、昭和30年代の初めぐらいで。出版社にとっても十分に商売としてなりたつ販売数ですよ。今で言えばコンビニの半分ぐらいの規模ですから(編集註:コンビニは2012年10月末で5万店を突破した。「コンビニエンスストア速報」による)

※19 電子まんがナビゲーター 第13回 楳図かずお編参照のこと。


■漫画弾圧と石ノ森章太郎の発見
https://web.archive.org/web/20140711235549/http://...

萩尾■私は大牟田(おおむた:福岡県)育ちなんですけど、大牟田にも私の行動範囲だけで貸本屋さんが10軒ぐらいはありましたね。

荒俣■大牟田では、漫画もあったでしょうけど、貸本屋ってエロ本みたいなのも置いてありませんでしたか? それで、親が必ず言うわけですね。そういうところへは小学1年で行くなって。

萩尾■エロ本も一緒に置いてあるんだ?

荒俣■あれ、なかったですか? 萩尾さんは昭和24年のお生まれですよね。

萩尾■はい。荒俣さんは2年上ですよね、私の姉と同じ世代だから、亥年?

荒俣■そうです。小学校4、5年になったら学校でも、貸本漫画は持ってきちゃいけないと言われて、貸し本屋出入りを禁じられ、持ち物検査などという今じゃ考えられないようなこともされました。

萩尾■手塚先生も仰っていたけれど、一時校庭に漫画を集めて焼かれたりしたことがあったというから……。

荒俣■焼いたのは見たことがないんですけど、とにかくうるさかったですね。でも、少女漫画だけはうるさくなかった。小学校6年ぐらいのときからお化けが好きになって、お化けとかファンタジーとか、それこそSFのようなものが大好きになったので、少女漫画に活路を見出したんです(笑)。

萩尾■そうだったんだ。たしかにファンタジーは少女漫画の系列だけど、でもSFだったら少年漫画でも随分たくさんあったでしょう。

荒俣■少年漫画のSFって、ヒーローものでしょ。手塚さんのは別として、そこがどうも性に合わなくて。それとやっぱり絵でショックを受けたのは、石ノ森章太郎さんが少女漫画誌に載せたファンタジー漫画でした。増刊に時々載っていました。

萩尾■それ、私も同じでした。私もインタビューでよくお話しするのですけれども、やっぱり石ノ森さんの吸血鬼ものがとても印象に残っていて……『きりとばらとほしと」です。

荒俣■あ、それ憶えています! あれは今までの漫画では全くないような、絵で読ませるのでもなく、ナレーションで読ませるのでもなく、漫画と呼ぶのもおかしいような作品で、どっちかというと挿絵で構成した映画のような感じがとてもあった。

萩尾■それはわかります。私も、あの時代の増刊に載っていた石ノ森先生の読み切り、ほんとうに好きでした。今でいうとわずか50枚あるかないかですよね。『昨日はもう来ない だが明日もまた』とか……。

荒俣■あれはSFでしたね。あれは『ジェニーの肖像』(※20)という小説を下敷きにしていましたが、描き方がすごいと思いましたね。

萩尾■また、可愛いんですよね、石ノ森先生の絵がね。でも、(荒俣さんて)男なのにすごいロマンチストでいらしたんですね……、って限定的に言っちゃいけないんですけど、そうなんですよね。

荒俣■はい、心は少女(笑)。

萩尾■うそみたいに聞こえるけど、そうですね(笑)。

荒俣■最初に読んだ文章の小説もコナン・ドイルの本で、『地球最後の日』ですよ。

萩尾■小学校1年生でそんな絶望的な話を読んでどうするんですか(笑)。実は私も、もうちょっと後になりますが、SFの洗礼を受けてからは初期のS-Fマガジン(※21)とか買いあさって読みました。

荒俣■S-Fマガジンは、多分中学とかに入った以降に創刊されたと思うんですけれども、ご自分で発見なさったんですか、ああいうマイナーな分野を?

萩尾■そうです。書店にS-Fマガジンとミステリマガジンが両方並んでいて、どっちかを買おうと思ってS-Fマガジンを買った記憶があります。それは古本屋だったと思うんだけど、そうしたら全部SFで。

※20 アメリカの小説家、ロバート・ネイサンが書いた名作ファンタジー小説。

※21 1959年の創刊された早川書房のSF小説誌。創刊号で掲載されていたのは、アイザック・アシモフ、アーサー・C・クラーク、レイ・ブラッドベリなど、SF界巨匠の作品が掲載されていた。


■SFとの出会い、アメリカでの事情
https://web.archive.org/web/20140712025431/http://...

荒俣■女性でSFを読む人なんていなかったでしょう、当時は。最初に読んで、どういう作家が趣味に合いましたか。

萩尾■名前を覚え始めたのはもっと後になってのことですが、その作家の作品が文庫本になったりして読み直したときに、これはS-Fマガジンで読んだって分かりました。だから、アシモフ(1920〜1922 ※22)とかクラーク(1917〜2008 ※23)とかハインライン(1907〜1988 ※24)とかカットナー(1915~1958 ※25)とかブラウン(1906〜1972 ※26)とか、そこら辺はずらっと読んでいたんじゃないのかな。

荒俣■大物ばっかりですね、やっぱり。

萩尾■そうですね。まだ余り日本の作家さんがいなくて、翻訳ものが大半でしたね。小松左京さんが『果しなき流れの果に』をS-Fマガジンで最初に連載を始められた辺りから、日本人作家も読みだしました。その前だと、学研の「中学コース」に、眉村卓(まゆむら・たく 1934~)さんが『なぞの転校生』とかそういうものを書かれていて、熱心に読みました。パラレルワールドの話ですね。

荒俣■『なぞの転校生』は小松さんの名作のすぐ後、1967年あたりですよね。その早さに驚きました。アメリカSFはいかがですか?

萩尾■私もすごい楽しみでした。はっと気がついたら、アメリカって、映画もそうだけど、SF大国ですよね(笑)。逆に言えば、ドイツ、フランス、イタリアにもないことはないけれど、どうして余りないんだろうと思うと、要するにキリスト教が強いからなんだろうかと途中から考え始めたんだけど、そんなものなのでしょうか。アメリカは、ある意味プロテスタントの強い宗派はあるんだけど……。

荒俣■アメリカは戒律が厳しいですよ、下手するとヨーロッパよりも。もっとも、ヨーロッパから追い出された人たちがつくっているから何か妙に頑(かたく)ななところが確かにある。

萩尾■それは小説とか映画を見るとわかりますね。

荒俣■そうですね。でも、アメリカは当初、英語を読める読者というのが少なかったんです。それで、新聞とか一般大衆雑誌が売り上げを伸ばすのにどうしたかといえば、大体挿絵をぶち込むか、カトゥーンという漫画形式にして読ませるかのどっちかです。その場合、日常家庭を描くケースも大変多いわけですけれども、何せ移民たちが主流だったので、希望の国とはいいながらも生活のリアリティーは貧困の一語です。そこで、ウェスタンというか、開拓する話に人気があったのと、それから都会物だと悪者とか、悪がきのギャングがうろうろするという話ですね。

萩尾■ハードボイルド系。

荒俣■はい。だから、あのころの漫画って、ほとんど大人になりゃみんなギャングになるんじゃないかという青少年の話になりがちで、教育的ではなかった。最初のコミック・ストリップといわれる『イエローキッド(※27)』も、まさに町の貧民街の子どもが主役、セリフも聞くに堪えないスラングですから……。その一方で、現実の話とは関係のない夢物語のようなものにも行くわけですよ。

萩尾■ファンタジー、SFとか。

荒俣■はい。それが青少年たちに受けて、漫画とともに育ち始めたわけです。

萩尾■育ち始めたというのは戦後ぐらいのことですか。

荒俣■20世紀になってすぐからでしょうね。ただ、今もお話になっていた小学校で漫画が燃やされたというのは、萩尾さんの仰るようにアメリカで戦中から戦後にかけて起きた事件です。

萩尾■アメリカでもやっていたんだ。

荒俣■日本でも、子どもが悪くなるという単純な理由で、貸本屋系のストーリー漫画が槍玉にあがり、手塚先生の作品まで悪書に入れられた。日本はアメリカの引き写しですね。でも、アメリカが違うのは、暴力的なストーリー漫画に熱中していたハイティーンの子どもたちが大人たちに反論するんですよ、どうして漫画が悪いんだって。それはいかにもアメリカらしい。出版社は大体腰抜けが多いので、日本でもそうですが、世の中があれは駄目だということになると、じゃ自粛(じしゅく)しようかみたいな話になっていきます。でも、読者の子どもたちが反撃するんですね、新聞の投書などで、堂々と。「親や教師がこんな漫画を読んじゃいけないというけれど、おまえたちだけで勝手に決めるな」と言って。

萩尾■いいな、それは。ディスカッションの歴史がアメリカは長いですものね。

※22 アイザック・アシモフ。SF界「ビッグ・スリー」の一人。著作に『われはロボット』『ミクロの決死圏』など。

※23 アーサー・C・クラーク。 SF界「ビッグ・スリー」の一人。著作に『2001年宇宙の旅』『幼年期の終わり』など。

※24 ロバート・A・ハインライン。SF界「ビッグ・スリー」の一人。著作に『夏への扉』『宇宙の戦士』など。

※25 ヘンリー・カットナー。SF小説家。著作に『狩りたてるもの』がある。

※26  フレドリック・ブラウン。SF小説家。著作に『宇宙をぼくの手の上に』がある。

※27 リチャード・F・アウトコールト作の世界初の新聞カラーコミック。


■言い返せないが、実効した第二派の世代
https://web.archive.org/web/20140711195711/http://...

荒俣■私もそうですが、萩尾さんもたぶん、どうして漫画読んじゃいけないだって言い返しはしなかったけれど、アメリカの子どもたちと同じ心境だったのではないですか? 反論の代わりに、漫画家になったと(笑)。

萩尾■たしかに方法がないし、言い返しちゃいけないと教育されるから。日本って、目上の人とか、儒教の精神の影響かな、わからないことがあったら聞きなさいと。教えてもらえるんだけど、先生の知らないことを聞いちゃいけないんですよね。

荒俣■そうなんですよ。そこが重要な問題で、ストーリー漫画というのは当時先生が全く知らない文化だったはずですよ。そういう人たちから、駄目だと決めつけられちゃたまりません。だから、萩尾さんや私の世代は漫画を守る覚悟を固めた。

萩尾■ええ。私のところも両親は非常に教育に熱心な人たちで、とりあえず小学館の「小学一年生」とか「小学二年生」とかの学習雑誌を買ってもらっていたんですね。でも、近所に貸し本屋があるし、友達の家に行くと、お兄ちゃん、お姉ちゃんたちの漫画があるから、やっぱり借りてきて読むわけですよ。で、小学校に入った途端に漫画はやめなさい、ですね。

荒俣■小学校に入った途端ですか。

萩尾■そうですよ。漫画はね、幼稚園の子が字を覚えるために、平仮名を覚えるために学ぶものだからというのが、両親の見方でしたもの。

荒俣■すごい理論だな。

萩尾■それでも、やめられないわけですね。だから、それからは親の目を盗み隠れて読む。時々ばれては叱られ、だけどやめないということのずっーと繰り返し(笑)。

荒俣■やっぱり『華氏451(※28)』になっちゃったんですね。でも、漫画を読んでいるうちならいいけど、描き始めるとどうでしたか。

萩尾■描いているのも、お絵かきの段階では許してくれるけど、小学校に入ってまで漫画を描いていると、ほんとうに叱られる。引き出しの奥に隠しておいてね、見つけられると困るので、ランドセルに全部入れて学校へ持っていったりとか、していたんです。

荒俣■それは大牟田の段階ですか。

萩尾■ええ、大牟田の段階。それで、たまに学校の成績がいいと、ご褒美に雑誌を1冊買ってあげるって、年に1回ぐらい「少女」とかを買ってもらったりね。

荒俣■じつはわが家にも、ちょうど萩尾さんと同じ昭和24年に生まれた妹がいるんですよ。この妹も、私が非常に悪い影響を与えてしまい、年じゅう漫画を描いていたので……。

萩尾■それに対して荒俣さんのご両親は何と。やっぱりやめて、そういう感じ?

荒俣■やめてとは言わなかったですけれども、漫画の絵を描き始めてからやたらに文句を言われるようになりましたね、「変なポンチ絵みたいなもの、こんなものをやるために小学校に入れたんじゃねぇ」とか言われて。絵を描き始めたら途端にいけないようになりましたね。

萩尾■そうですね。将来がなくなるかのような印象なんですよね、あのころの親の世代にとっては。うちのマネージャーは、途中で石ノ森章太郎さんにすごいこけちゃって(傾倒して)、10代のころに父親とそれで大喧嘩したんですって。私は石ノ森章太郎先生のような漫画家になりたいと言ったら、父親が、何を言っているんだ、あんな子どものものをどうするって怒鳴られたけど、彼女はすごく弁が立つ人なので、父親に、「お父さん、子どものものを描いているのは大人なのよ」って反論して、殴られたって……。

荒俣■アメリカっぽい人ですね、それ(笑)。当時としてはかなり珍しい道を歩んだ女性だ。

萩尾■そうですね。うちのマネージャーは草分けのころの道を歩んでいますね。一番の草分けは手塚先生で、次の世代である第二波ぐらいかな? 里中満智子さんとか青池保子(あおいけ・やすこ 1948〜 ※29)さんがデビューされたころね、きっと。

※28 レイ・ブラッドベリによるSF作品。言論が完全に統制された未来ディストピア小説。

※29 漫画家。24年組とよばれる一人。著作に『エロイカより愛をこめて』『エル・アルコン-鷹-』『イブの息子たち』など多数。


■少女漫画でも「没」の連続だった
https://web.archive.org/web/20140711220642/http://...

荒俣■実は里中さんがデビューしたときは私もその漫画賞に応募していたので、結果が楽しみだったんですよ。発表されたときには、全然名前がなかったですけど(笑)。

萩尾■どんな話を描かれたんですか。

荒俣■少女漫画で、ファンタジーを描きました。

萩尾■原稿はありますか。

荒俣■ありません。原稿は送ったままで、返してくれなかったから。

萩尾■あの当時は返してくれなかったですよね。コピー機もないしね。

荒俣■はい、それで、里中さんの当選作が吸血鬼の話だったので、これはまいったなと思いました。そういうようなファンタジーとか吸血鬼の話を描く人はいないだろうと思っていたら、それがトップになったので大変驚きました。

萩尾■『ピアの肖像』ですよね。

荒俣■ええ、『ピアの肖像』です。それで、いよいよファンタジーがちゃんと描ける若い世代が出てくるんだなと思いました。萩尾さんの周辺では、漫画を描くところまでいっていたお友達がいましたか。

萩尾■何人かいて、そのグループを集めて高校時代に同人誌をつくっていたんです。それがキーロックスという名前で、何でキーロックスかはわかんないんだけど、鍵と鍵穴と言って、それをつくったキャプテンが福山庸治(ふくやま・ようじ 1950~ ※30)さんで、そのときに8人ぐらいのメンバーがいたんですけど……。

荒俣■それは九州ですか。

萩尾■ええ、九州で。肉筆の回覧誌です、みんなで原稿を持ち寄って。福山さんは美術部の部長をしていらして、ふつうの絵を描いても入選するというぐらいすごくうまい方でしたが、でも漫画家になりたいと。生原稿を見せてもらったら、物すごくきれいで、このカケアミはどうやって描くんですかって教わった記憶があります。

荒俣■そうですか。福山さんはまさに第二波の先陣ですね。漫画家になる覚悟があった。

萩尾■はい。あと、原田千代子(はらだ・ちよこ ※31)さんも同じグループに属していて、こちらの2人が大南、つまり大牟田南という高校です。私はちょっと離れて大牟田北という高校で、原田千代子さんと私は中学校が同じで、その後に私が引っ越したりして大牟田を離れたんですけど、また大牟田に戻ってきて同人誌に入れてもらったんです。親に内緒でしたけどね、やっぱり。

荒俣■原田さんは萩尾さんを東京に引っ張りだした人ですよね。

萩尾■あの人は、高校卒業と同時に就職して東京に来て、それから手塚プロダクションのアシスタントに応募して、そこで何年かアシスタントをしていました。アシスタントが決まったときにはものすごく喜んで……。

荒俣■そうですか。萩尾さんはその時期、どうしようとなさっていたんですか。

萩尾■高校のころに投稿して何とかデビューしたいと思いながら、やっぱりずっと没になるもんですから……。

荒俣■じゃ、在学中から盛んに投稿されていらしたんですね、あっちこっちに。

萩尾■デビューまで10作ぐらい出していたんですけど。 講談社にも出しましたし、あとは集英社が月刊で新人を募集するようになってからは、「別冊マーガレット」でしたっけ。

荒俣■はい。

萩尾■それにときどき出して、あとは「COM」(※32)も1回出していました。

荒俣■「COM」にも出されたんですか。

萩尾■12ページぐらいのものをね。

荒俣■同じ世代の人たちが「COM」から何人も出ましたね、岡田史子(おかだ・ふみこ 1949〜2005 ※33)さんとか。

萩尾■すごかった、岡田史子さんは。私もびっくりした。漫画ってこういう描き方もできるのと思って、すっかりその描き方に魅せられて描いたのが『ポーチで少女が子犬と』なんです。

荒俣■そうだったんですか。岡田史子さんとは同年代ですか。

萩尾■同じか、1つ上ぐらいで、北海道の方ですよね。

荒俣■はい。それで、萩尾さんは投稿されていた状態をいつ切り上げて、大牟田から東京に出て来られたんでしょうか。

萩尾■高校卒業の後、大牟田で2年間デザイン学校に行かせてもらっていたんですよ。デザイン学校に通いながら、夜行で上京して編集者に原稿を見せたりとか、そういうことをやっていたんですね。

荒俣■上京したときは、どこに宿泊されましたか。

萩尾■そのときは、原田千代子さんが住んでいた富士見台の下宿に泊めてもらって、「なかよし」の編集部に紹介してもらいました。

荒俣■富士見台っていうと、練馬の?

萩尾■そうです。で、「なかよし」に案内してもらったのが、やっぱり同郷の平田真貴子(ひらた・まきこ ※34)さんだったんです。この方も「少女フレンド」でデビューして、高校生のときのデビューですから、学校にいきながら原稿を描いていましたね。

荒俣■みんなすごいバイタリティーがありますね。

萩尾■そうそう、すごいですよね。そういう人たちが先に東京にいてくれたおかげで、東京はどんなふうになっているのか文通で状況も聞けました。

荒俣■思い切って東京に行っちゃおうと思われたきっかけは?

萩尾■まず、とにかくお金がないじゃないですか。

荒俣■ええ。

萩尾■それで、上京して原稿を見せた後に、担当編集者がついたのは「なかよし」だったんです。その方が、原稿を送ってくださいと言って名刺をくださったので、その後に原稿を送ったら、これを載せましょうということに決まって。それが『ルルとミミ』という作品でした。でも、1作だけでは駄目だからもう1作描いてくれというので、次に描いたのが『すてきな魔法』です。それからプロットを送って許可が出たものをネームに落としてある程度下絵を入れて送るんですけど、まずプロットの段階で半分以上は没になりましたね。それから、ネームに起こして送ると、やっぱり暗いからといって没になる(笑)。

荒俣■やっぱり暗いというのはマイナスですか?

萩尾■ええ、雑誌が「なかよし」ですからね。今考えると確かに暗かったなと思うんだけど、その当時の私の気持ちは、「なかよし」にだって『きりとばらとほしと』のような作品が載ってもいいじゃん、ぐらいの挑戦精神で作品を描いていたので、送っちゃ没ということが繰り返されましたね。それで、4作ぐらい描いたころに運よく「なかよし」に載せてもらったら、今度はむこうから原作つきの依頼が来たんです。

荒俣■あのころは、よく新人作家に原作つきで描かせましたからね。

萩尾■そうそう、原作つきで描かせていたの。それで、その仕事を引き受けたらオリジナルと併せて、13万、13万で合計26万円が手に入るんですよ。これだけのお金が稼げれば上京できるかなと思って。

荒俣■あのころで13万? 月収と考えても、夢みたいな高額じゃないですか。私、そのころ大手企業のサラリーマンになりましたけど、月給3万円でしたよ。

萩尾■はい。親は学校を出してくれただけで、あとは一切協力できないということになっていましたから、とにかく自分でお金を稼がなきゃいけないわけですよ。それで編集者との打ち合わせに半年に一度とか上京していたんですけど、あるとき講談社の編集部に行ったら、ちょうど締め切りで大変だから手伝ってくれないかと言われたんです。1人は青池保子さん、もう1人は竹宮惠子さんでした。

荒俣■はあ、ここで竹宮さんが登場されるのですね。

萩尾■はい。お手伝いに行ったんですけど、竹宮さんの場合は旅館でした。彼女は、四国から出てきて、桜台に住んでいたんです。で、講談社のそばの旅館で、牧野和子(まきの・かずこ 1947〜 ※35)さんなんかもいらして竹宮さんのお手伝いをちょっとしたんです。

荒俣■じゃ、行ったらすぐ手伝ってくれというような感じですか。

萩尾■そうですね。

荒俣■うちの妹も、まだ高校生のころ、ちょうど里中満智子さんが『ピアの肖像』で賞をとって、それでプロとして描き始めたころに、里中さんのアシスタントをやってほしいという依頼があったんです。妹も喜んで承諾したら、じゃ里中さんを挨拶に行かせるからというので家に来られたんですよ。

萩尾■あの方はいつもご丁寧な方ですもんね。

荒俣■今でも覚えていますけど、家の近所は下町でしたから、すごい漫画の先生が来るというので近所で有名になって、会社差し回しのハイヤーなんかで来たんですよ。どこのお嬢様がいらっしゃったんだろうかと言って下町じゅう大騒ぎになったことがありましたよ。

萩尾■シンデレラ・ストーリーのような……。

荒俣■そうなんですよ、まさに。萩尾さんの場合と同じですよね。

萩尾■里中先生は、しばらく学校に通いながら描いていらしたんですけど、1年ぐらいたって高校をやめられて、プロになるために上京して来られた。いえ、その前からプロでしたけど、何で高校を辞めたかという理由が、おもしろいんです。まだ学生なのにお金を稼ぐのはいけないって、学校で言われたんですって。

荒俣■へえ、それはまたわけのわからない理屈だ。

萩尾■私は、イタリアの大学で日本の少女漫画の履歴というので講演したときに里中先生の話も出したんですけど、高校生のときにこんなふうにして学生がお金を稼いではいけないというので学校を辞めましたって言ったら、会場から、どういうことって訊かれました。

荒俣■いや、実際に信じがたい話ですよね。

萩尾■そういう時代だったんですね、あの当時はまだ。でも、一方で平田真貴子さんのほうは学生の身分のまま描けていたんから、学校によっていろいろ違ったんでしょうね。

荒俣■一般的にはそういう方が普通だったんじゃないですかね。では、萩尾さんはそれで上京なさって?

萩尾■竹宮先生のアシスタントをしていたら、あなたは上京しないのかと聞かれました。私は、上京したいんだけど、親が女の子1人での上京は駄目だと言って出してくれないと答えたんですが、竹宮さんから、「私は今1部屋のところに住んでいるんだけど、もう少し広いところに移りたいと思っている、家賃を折半して一緒に生活しないか」と申し出ていただいたので、それで渡りに船とばかり親を説得して、済みません、ひとり立ちできるまでよろしくお願いしますって言って同居させていただくことになりました。で、親は親で、私が1年ぐらいしたら帰ってくるんじゃないかと見透かして、なんとか送り出してくれました。

荒俣■理想的な展開ですね、それはやっぱり。

萩尾■それが、東京に出てくるきっかけになったので、ほんとうに竹宮先生にはありがたいと思っています。

※30 漫画家。1970年『納屋の中』でデビュー。2001年、『F氏的日常』で第5回文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞受賞。

※31 漫画家。1971年『ラブ・デザイン』でデビュー。著作に『さようならルウじいさん』など。現在のペンネームは、はらだ蘭。

※32 虫プロ商事が1967年から1973年に刊行していた漫画雑誌。主な連載作品に『火の鳥』(手塚治虫)、『章太郎のファンタジーワールド・ジュン』(石ノ森章太郎)、『漫画家残酷物語』(永島慎二)。

※33 漫画家。1967年、「COM」に『太陽と骸骨のような少年』に発表しデビュー。佳作であったが、漫画家や評論家はじめ、熱狂的なファンの支持があった。

※34 漫画家。『バーバラ・アン』でデビュー。著作に『転校生に気をつけて』『不道徳のススメ』など。

※35 漫画家。1967年『ゆうこのあこがれ』でデビュー。1974年、『あの娘はだあれ!?』で第3回日本漫画家協会賞優秀賞を受賞。1977年に連載開始された『ハイティーン・ブギ』は大ヒットし、映画化もされた。