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【時代を創る女たち:萩尾望都・婦人公論2011年01月22日号】


婦人公論2011年01月22日号
https://fujinkoron.jp/articles/-/968

発売日:2011年01月07日
出版社:中央公論新社
資料提供:https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/164958...


婦人公論2011年01月22日号120-125ページ

ルポルタージュ
時代を創る女たち
萩尾望都
親との距離を探りつづけて
文◎渡辺美和子
写真◎大河内禎
(図版に続いてテキスト抽出あり)









ルポルタージュ
時代を創る女たち
文◎渡辺美和子:わたなべみわこ/フリーライター。1949年静岡県生まれ。上智大学文学部卒業。各誌にて演劇人へのインタビューをおこなう。編著書に『宝塚の誘惑』(青弓社)
写真◎大河内禎

萩尾望都
親との距離を探りつづけて

直情的な母と天才型の父

マンガそっくりの顔が棚の上からのぞいている。『レオくん』のモデル猫、「レオ」だ。庭に出れば「マイ」が脚にすり寄る。埼玉県にある自宅兼仕事場。愛猫6匹が自由に出入りする家で萩尾望都は、ひときわゆったりした表情を見せていた。ここにはマンガに打ち込める態勢が整っている。昼近くに起き、軽い食事をとって仕事部屋にこもり、夕食をはさんで、朝方まで黙々と描く。30年来のマネージャー・城章子と食事係(メシスタントという)、作画段階で入る4人のアシスタントが萩尾を支える。

しかし、この平穏を得るまでの道のりは長かった。仕事の苦労とは別に、萩尾には長年マンガに反対し、干渉する両親に苦しんだ歴史がある。その鬱屈は30歳のとき、ついに大爆発。一世一代のケンカをして両親に「家に来ないでくれ」と宣言。いったん関係を切っている。
子離れできず過干渉する親との確執。このやっかいで切実な問題と、萩尾はいかに戦い、乗り越えてきたのだろうか。

結婚していない、つまり自分の家庭を築いていない娘は、いくつになっても親にとっては「子ども」にすぎない。娘が経済的に自立しても、社会的地位を築いても、そのことに変わりはなく、娘を管理下に置こうとあれこれ干渉する。今でこそ萩尾自身も「大正生まれの親にしてみれば、子どもは親のものっていう意識が強いんじゃないかと思う」と分析できるが、若い頃はつらかった。

「親に理解を求めてたんでしょうね。だけど自分が40歳をこえた頃から、相対化して考えられるようになってきました。母が私を産んだのは20代の前半で、私もその年の頃は幼かったことを思えばしょうがなかったのかな、と。母は直情的でバーンと怒るけれど、裏がなくて正直。私は母に似ているところがあって、20代の頃、アシスタントの叱り方が母そっくりだと気づいて、ぞっとしました(笑)。だから母に言われてイヤだったことは、ほかの人には言わないようにしています。
父はまじめでやさしいけど、変わった人。自分をいい人だと思っているから、聞いていて冷や汗がタラーッと出るようなことを平気で言うんです。たとえば「うちの娘は8年目 で小学館漫画賞をいただいたけど、あの人はまだですね」とか。で、「気分を害する人がいるかもしれないから、そういうことは控えてくれない?」と言うと、「お父さんは単に事実を述べているだけだから、それを失礼と思う人のほうが、根性がどうかしてる」って(苦笑)

城はそのへんの事情をこう解説する。
「萩尾さんは、マンガを描くことに関しては天才気質で自己完結型。お父さんにも天才型の部分があって、人の助けがいらない方です。萩尾さんはいろいろな人と接するなかで対応能力を身につけてきたけれど、お父さんは元来の気質そのままにやっていらしたから、悪気なく言っているのに悪くとるのはその人が悪い、となるんです(笑)。お父さんは萩尾さんに何か言われても直接怒るわけでなく、お母さんが代弁して怒る。とにかくエネルギーがたっぷりとあるお母さんで、4人の子を育ててきたからか命令慣れしているところがあります。私たちアシスタントもずいぶんと言われてきましたから、実際、萩尾家の子どもだったら、大変だろうと思います」

姉の田原小夜によると「言われると重く受けとるタイプと、私のように聞き流すタイプと、性格の違いだと思います。もーちゃん(望都)はまっすぐにとるんです」。聞き流せないから、より苦しいというわけだ。

大ゲンカから30年あまり。萩尾は親との確執を、作品という形で整理昇華して創作を続けてきた。カウンセラーの信田さよ子は、本誌での萩 尾との対談で「親に『来ないでくれ』と伝えられたのはすごいことです。……(言えなくて)自傷行為や抑うつ状態に陥る人は多い。萩尾さんの場合はやはり、表現することが支えになったのかもしれない」と分析する。

紆余曲折を経た今、年老いた両親とは、自分のほうからときどき会い にいく形でバランスを保っている。親は変わらない。だとしたら距離をとり、ほどよい関係を持続するしかない。「相手をコントロールしようという願望をやめ、むこうにも文句を言わせないために、あまりかかわらない」──そういう心境だ。

教科書以外の読書は禁止!
隠れて描いた中高時代

萩尾望都は1949年、福岡県大牟田市生まれ。4人きょうだいの2番目で、姉と妹、弟がいる。IQは学校一なのに勉強が苦手で、生活面が不器用な望都は、父・浩、母・叔子にとって心配な存在だったのだろ う。躾は厳しく、よく叱られた。

画才は、幼い頃から群を抜いていた。淑子によると、2歳ぐらいで「鉛筆が持てるようになったら」絵を描きはじめ、その絵は「お父さん、お母さん、お姉ちゃん、自分、赤ちゃん(妹)がちゃんとわかる」幼児離れしたものだった。きょうだいで指人形劇や紙芝居を作って遊ぶことがよくあったが、その時も絵はもちろん、物語を作るのも、望都の担当だった。幼稚園の頃には「わら半紙を4つ4つに折って16にわけ」、マンガを描きはじめる。

しかし両親にとっては、絵画は芸術だが、マンガは子どもだましの二級品だった。母はやがてマンガを禁じ、さらには教科書以外の読書も禁止する。望都は母に隠れて、学校や貸本屋で本やマンガを読みふけった。中学に入ると本格的に描きはじめ、高校ではサークルに入り、仲間もできた。もちろん親には内緒だ。マンガ雑誌に投稿する際は、頼んで友人宅の住所を書かせてもらって送った。そして高校2年の末、手塚治虫の「新選組」に感激し、マンガ家になることを決意する。

高校を出た望都は、福岡のデザイン専門学校に進学。69年、20歳のときにデビューする。そして卒業後、原稿料が3万円貯まった秋に上京。マンガで生活していく決意だったが、最後まで反対する両親には、「ためしに半年だけ行ってみる」と言って渋々納得させている。送り出すとき父は、「むこうで生活できなかったら帰っておいで」と声をかけた。

親の目から逃れた望都は、のびのびとマンガに没入。ホームシックには一度もならなかった。72年から 『ポーの一族』の連載を始め、74年に『トーマの心臓』、75年には『11人いる!』とヒット作が続く。76年に 『ポーの一族』と『11人いる!』で小学館漫画賞を受賞。20代ですでに、少女マンガ家として別格の存在だった。

娘のマンガvs父の経理
熱心さがねじれて

大ゲンカの端緒は会社の設立だっ た。『ポーの一族』が完結し、77年 「第1期萩尾望都作品集」が刊行されると、税金問題が発生。確定申告が苦手な萩尾は、定年で会社をやめていた父に、経理をみてほしいと頼む。浩は自分を社長に会社を設立。九州から毎月上京して娘の家に滞在し、事務作業をするようになる。するとイヤでも目につく、娘の生活。昼夜が逆転し、締め切り間際になるとアシスタントたちがやってきて、徹夜で仕事をする。それは、会社員だった浩には理解できない生活だっただろう。萩尾は当時を振り返る。

「父の滞在中にどうしても締め切りが来ます。それで『徹夜で仕事をするから旅館に行ってください』と頼むと、最初は協力的だったんですけど、途中からいやがって。旅館に泊まった父が翌朝早くに戻ってきて、『仕事が終わってないけど』と言うと、『いいよ、お父さんはここにいますから……あ、お茶を淹れてくれるかい?』。そして『どうもありがとう、 おかわりもらえるか?』って(笑)、 そんなこともありました」

父が帰ると、母が電話してくる。「『親がわざわざ上京したのに、旅 館なんかに泊めていいと思うの!』って。私はマンガに集中していると ほかのことは考えられず、親の相手はしていられない。でも親にはそれ がわからない。『お父さんが来てるときは仕事をやめたらどうだ』からはじまって、『夜は11時には寝て、 朝は7時ぐらいには起きなさい』とか『ずっと机の前に座っているのは不健康だから、毎日15分縄跳びをしなさい』とか、毎日言われました(笑)。母もときどきやってきて、スタッフにトイレのスリッパの置き方はこうしなさいとか、まるでお行儀教室みたいになってきちゃった」

そして根深い悩みの種となったのがこれ。 「私がアシスタントさんにアシスタント料を払っていたら、それを見た父が『なぜアシスタントさんにお金を払うのか。アシスタントは弟子だろう。ふつうは弟子が先生にお金を持ってくるものだよ』と何度も言われて。どうも父の感覚では、私が絵の塾かなにかをやっているようにみえていたんですね」

初めて母娘を描けた
『イグアナの娘』

何度話しても父にはマンガという仕事がわかってもらえない。母はス タッフの人事や友人関係にも口を出す。そういう状態が2年半ほど続き、萩尾はまいってしまう。ついには、親を大切にできないのは、こんな仕事のせいだから仕事をやめろ、いや、やめないで大ゲンカに発展。親を来させないために「会社をなくしたい」と思い詰め、「収入がなくなれば会社をつぶせる、それならつぶれるまで仕事をしない」と休筆。ヨーロッパから南米アマゾンをめぐる大旅行に出た。結果、会社は整理され、「家には来ないでくれ」宣言となる。「その時は鬱屈したものが破裂して、今親が倒れても、葬式になっても、私は絶対帰らないと思ってました」。

しかし帰国後も、気持ちは鎮まらなかった。「親との問題が頭のなかにグルグル渦巻いて、これは一度作品に吐き出さないとダメになってし まう」と、80年、親子の問題を扱った『メッシュ』シリーズを描きはじめる。しかし『メッシュ』は、舞台がパリ、主人公は少年で、自分自身とは距離があった。

初期の萩尾望都作品は、日本ではない外国や宇宙など、どこか別の世界が舞台であることが多い。それは萩尾にとって現実の家庭が、重苦しい存在だったからだろう。「日本を舞台に考えようとすると、家族はどうしても自分の育った家族がモデルになってしまいます。でも、やさしいお母さんを描くと、それはウソになっちゃう(笑)。厳しいお母さんを描くと悪役になって、バランスがとれない。それで、どこかよその場所に行ってしまう。わりと初期に、友人に言われて気づきましたが、私の作品では母親がよく死ぬんです」。無自覚に親を殺していたわけだ。

91年の『イグアナの娘』は、そんな萩尾が日本を舞台に初めて客観的な母娘関係を描けた作品だ。娘がイグアナに見えて愛せない母親は淑子に、母親に愛されない傷を抱えた娘は萩尾自身に重なる。

海外逃亡から3年ほどたった83年1月、萩尾は両親と再会する。旅行 先のモスクワで交通事故に遭い、頭を打って重傷を負う。現地で2週間入院した後に帰国したら、成田空港に両親が立っていた。

「でも父は、そんな時でも『はい、 みなさん!』なんて言って、私と両親と編集者とで記念写真を撮ろうとする。どんな時もマイペース(笑)。 そしたら母が、私が事故で頭を打ったのはロシア時間の12月30日午前11時半ですが、日本時間の同じ日同じ時間に、転んで頭を打ったと言いだして。そして『私が頭を打ったから、 お前は助かったんだよ』って(笑)。私、家族の絆ってこんなものなの? とか、なかなか切れないものだなとか、いろいろ複雑でした」

吐き出しきって
「親」を描けるように

92年から約9年かけて連載した『残酷な神が支配する』。この作品で 萩尾は、親子の問題をさらに深く追求する。これは「初めて親の立場から子どもを見ることができた」 作品になった。主人公の少年に虐待をくり返す義父グレッグを描いているうちに「彼はどうしてこんな人物になってしまったんだろう」と、大人のバックグラウンドを探求することになったのだ。

意外なことに萩尾は、そのDV義父グレッグを描くのが「おもしろかった」と言う。「描き出したら、親から言われて自分が悔しかったこととか、抑圧されて我慢していた部分がザーッと出てきちゃって、人間ってやられたことをやり返すとこんなに快感かと(笑)、びっくりしました」。

続いて萩尾は、日本人の家族を描きはじめる。「大人が描けるようになって、次の『バルバラ異界』では、父親の立場から息子との関係を描きました。その頃から、日本の家族の 話を描くようになりました。家族と の距離が取りやすくなったんです」。

現在連載中の「ここではないなどこか」シリーズ(『月刊flowers』)のメインストーリーは、さらに日常的な現代日本の家族の話だ。老若男女、お腹の出たおじさんや毛糸の帽子をかぶったおばあさんも登場する。
「いろんな年代のさまざまな人を描くのがおもしろくなりました。昔は思春期の感情や悩みに惹かれていたんですけれど、大人になっても老年になっても、悩みはつきないとわかってきました」

「お母さんは知らんかったばい」

まだ暑さが残る秋、九州・太宰府の萩尾の両親、浩と淑子を訪ねた。
玄関が開き、淑子が顔を出したときは驚いた。顔立ちといい、たたず まいといい、娘の望都にあまりにもそっくりだったから。声も強く、とても86歳とは思えない。庭に野菜や花を植え、「朝は畑の手入れをして、昼は福岡に出てお友達とお茶したり。子(ね)年だからよく働くの」。エネルギッシュで才気煥発。社交的で、弁も立つ。若い頃の望都にとってさぞかし難敵だったろう。

92歳の浩は、一昨年まで得意のバイオリンを教えていた。頭脳明晰で 記憶力抜群。2人とも介護不要で、萩尾家は丈夫で長命な、城に言わせると「エネルギーが人の2倍も3倍もある」家系なのだ。そんな両親に、望都との関係をたずねた。

中学に入ってからマンガを禁止したことについて淑子は、「禁止とい うより、勉強のほうをしっかりさせないとと思ってね」。マンガ家に反対し続けたことも否定し、「プロになってしまったのだからそれでいいの。観念してますよ」。しかし姉の小夜は、「でも30歳ぐらいまでは、 反対していたじゃない?」と言う。

さて会社問題だが、浩はこう振り返る。会社では会社組織の帳簿をつけなければいけない。だから毎月、娘の家に行ったし、行けばいろいろ聞く必要が生じる。しかし娘は、仕事中に話しかけられたらせっかく出かかったマンガのアイデアが消えてしまう、だから話しかけないでくれと言う。そこが問題だった、と。

アシスタントのギャラ支払い問題についてもあっさり否定された。淑 子が「マンガ家はアシスタントにどんなふうにするのかなとか、そういう話をしたことはあるけど、ギャラを支払うのどうのと言ったことはないものね、お父ちゃま」と言うと、浩がすかさず「ないねぇ」。だから 「親としてはケンカをした覚えはないけど、望都さんがそんなふうに思っているなら、そっとしておきましょう」となる。

淑子は嘆く。「みんな親離れが早いんです、うちは。親としては寂しいじゃない。望都さんは、新人のときに編集者とケンカするぐらいだから、きょうだいのなかでも特別強い。あれくらい強くないとやっていけない世界なのだから、こっちは一歩引いて遠くから眺めるしかありません。ただ、洋服や着物の趣味は私と同じなんです! 最初の頃はみんな私が見立てて送ってました」。

今、娘はときどき帰省する。実家では母親の脚をマッサージしてくれたりするという。「やっぱり親子、ふつうの親子ですよ」。

淑子に『イグアナの娘』について聞いた。「最初に読んだ時はそう思わなかった」が、後から人に自分と望都の関係だと聞いて「かわいそうなことをしたと思いました。最後に言うじゃないですか、お母さんと自分が同じだと」。

年月を経て、記憶が美化されている部分もあるのだろう。両親の認識 は望都とはだいぶ違う。言われた側はその傷をいつまでも覚えているが、言った側は忘れてしまうものだ。いや、親には娘に干渉した意識すらないのかもしれない。

しかし萩尾にとってその記憶が、創作の原動力になったのは確かだ。 親と自分を見つめ、距離をはかっていく過程で、数々の名作が生まれた。だから同じような現実に苦しむ読者は、萩尾作品に大きな共感を寄せ続けるのだ。

萩尾本人は両親との認識の違いをどう捉えているのだろうか。
「以前に受けているインタビューとは、私のマンガに関して、両親の言うことが180度変わりましたね。NHKの『ゲゲゲの女房』を見て、考えるところがあったのかもしれません。両親も高齢ですから、心残りのないよう、お付き合いしていきたいと思います」

そう思えるようになったのには、母とのあるやりとりが背景にある。萩尾が実家に電話をしたら、そのドラマの話になって、淑子が突然「お母さんは知らんかったばい。ご迷惑おかけしました」と言ったのだ。

「びっくりしました。母がどんなふうに思って言ったのかはわかりませんが、『その話は今度帰ったときに、ゆっくり聞かせてね』と言いました。城さんに、『ドラマのなかで水木先生は、アシスタントにお金払ってた?』って聞いたら、『払ってたよ』って(笑)」