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【早川芳子:女・子供の声】だっくす1978年12月号


だっくす1978年12月号
発行日:1978年12月01日
発行所:清彗社
資料提供:https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/165398...




「だっくす1978年12月号」60-66ページ
女・子供の声
早川芳子
(図版に続いてテキスト抽出あり)










女・子供の声
早川芳子


時はすぎても
季節がくれば風は
サラサラ吹いてくるだろう
子どもがおとなになったとしても
(大島弓子“季節風に乗って”)


(一)読者へ

結局少女漫画とは何なのでしょう。青年劇画でもなく、少年漫画でもなく、アメコミでもなく、少女・漫画であるとは。

たとえば、現在熱心な(質的にはともかく量的にはかなりのものであると自認しているのですが)読み手の一人である私は、満24歳の、決して少女とは呼ぶべきでない、性別が女の“人”です。

少しここで私事に触れさせていただきますが、古くは親、学校の教師の目を盗み少女漫画誌を回し読みした幼い頃から、そして中学高校現在にいたるまで、十数年間少女漫画を読み続けて私にも、ある一時期ブランクと呼ぶべき時がありました。

60年代後半の疾風怒濤の時代……。

それまでの価値体系をすべて破壊せんばかりの、おびただしい政治・文化運動、ユースカルチャーの台頭。美しいもの、日常的なもの、おだやかなものをとてもそのまま信じていては、いえ一度すべて破壊せずには罪悪感さえ抱かされそうな新しい波にのまれて……。

いうまでもなく、少女漫画等読んでいては、軽蔑されかねませんでした。とはいえ、COMもガロも、一方遠すぎました。

果して、実際あの時代に私がどれ程真剣だったか疑問の余地は大いにあるのですが、やがて 熱っぽい青年達の多くは、すっかり大人になって沈黙してしまったようです。

そして少なくとも私の中に残ったこと─あれ はどちらにしても男=人間達の世界の出来事であり、すべての言葉は男=人間達から、発せられたものだったのだと。

もちろんたとえ私と同じ女性であっても、個々の歴史・経験が異なる以上、もう少し余裕のある見方をなさる女性も多いことでしょう。それでもこうは思いませんか?少女漫画とは、今現在、女が、女のために、女自身の独自のやり方でもってする、唯一の表現形態だと…(確か に、他にも多くの分野で女性が活躍していますが、それをまず評価する基準は、男性=人間のものですから)。

そういうわけで、たとえ少女の時間から大幅にずれてしまった今でも、まず第一に女性の為に表現されたものが非常に少ない以上、少女漫画が欠かせません。また、あえて言わせていただけば、大人=男性達の表現が沈滞期にある以上、大人になっていない青少年の目も、少なからず少女漫画へと魅きつけられてゆく……そう考えます。(もちろん青少年の興味を買うために、少年漫画的要素の濃い少女漫画=萩尾・樹村・竹宮氏等が、大きな役割を果しましたが)

そして少女漫画が少女漫画である故に、すぐれて成立する特徴とは、大きなことより小さなこと、非日常より日常、未来よりあえて過去現在を見つめる視線だとここで位置づけたいのです。

冒頭に引用したネームは、大島氏がまだテーゼとして結晶したものをはっきり打ち出して来る以前の作品からですが、この英語の詩を訳して使ったらしいネームの心地良さは、何と力強いのでしょう。この力強さが、やがては、作品をして読者に何らかのメッセージを与えることにつながるのではないでしょうか。

以降、ここに述べた意味で、すぐれて少女漫画的な作品・作家を、主にそのメッセージを特徴づけることをしながら述べたいと思います。当然のことながら、私個人の感性から導びかれる好みを反映させつつ……。


(二)妹と弟のために──文月今日子

“可愛いい”という言葉にも、人によってそれぞれ指し示す状態には、かなりのへだたりがあります。

しかしながら、文月今日子の描き出す、一定のシーンに出会った場合、第一に受け手の側が抱く感情が“可愛いい”であることに、否定の 余地はないようです。

シリアスなラブ・ストーリーも、一通りの完成を遂げてはいますが、この作家の個性がいかんなく発揮されるのは、主人公と共に、その兄弟や、年下の子分達?がにぎやかに活躍する、独特のコメディにあるといえるでしょう。

たとえば、連作長編わらって姫子。主人公は、姫子という名の野球が得意でけんかっ早い14才の女の子。彼女には家事が得意な双子の弟王三郎(注、玉三郎ではない!!)、銀次郎、金太郎という二人の兄がいます。テレビのラブシーンが原因で、女優である姫子達の母は、大工の頭領である父と別居中(ただし、橋一本でゆける実家に、母は住んでいますが)

“別居”等という条件が加わると、ストーリーは、シリアスなものになるはずなのに、むしろ“犬も食わない夫婦ゲンカ”の喜劇性がプロットとして収約されてしまいます。

そして、とにかくにぎやかな、姫子率いる子供野球チームの年下の子供達。決して無邪気だから可愛いいのではありません。プレーボーイの姫子の兄銀次郎に感化されて、いっぱしの男きどりもすれば、キツイ皮肉も口にする、そして親という名の大人達に協同戦線をはって、ツッパルことも。

他にも、王三郎の手伝いがこうじて関わることになった、ボランティアの対称達。天使どころか、極端なイタズラずきで、姫子を悩ませますが……

この孤児の一人がオネショをして、姫子に見つかった時、
「いいつけないの!?」と子供
「つげロの趣味はないの」と姫子
だからといって、あいかわらず姫子にイタズラを仕かけ続けますが。

同じ位の年頃の女の子と、そしてBFと作るのもひとつの世界ですが、年下の子供達、そして兄弟達で作る世界も確実に存在したはずです。決して、大人=親にとって都合の良い“美しい兄弟愛”などではなく。

もうひとつ、同じようににぎやかな作品銀杏物語。ぜんそくの転地療養もかねて、山奥の中学校長である父のもとへやって来たチイという 女の子を中心に広がるお話ですが。

彼女が病院時代に出会い力づけられた男の子について、中学校の教師に語りついだ後、
「おいチイ、その病院の男の子からはラブレターでもくるんだろうな」と先生
「その子は死んだの 先生 心臓病だったの」とにっこり答えるチイ

ここには、自閉的な感傷はなく、ただ自分が受け継いだものを、手渡す意志だけが反映されています。

より若い者へより未熟なものへ、何かを手渡し伝えようとする心のあり様──文月氏の“可愛いい”キャラクターが、伝えてくれるものではないでしょうか。


(三)ボーイフレンドのために──陸奥A子

どういうわけか、陸奥A子の世界を非常に好む男性の一群があります。

一体彼らに共通するものは何だろうとしばらく考えていたのですが、なんとなく解かって来たこととは、彼らは結婚経験のない独身男性で、どちらかというと静的で、理想的な意味での一夫一婦制を将来の夢のひとつに持っているということでした。(ここで“理想的な意味での一夫一婦制”をもう少し具体的に説明しますと、いわゆるニューファミリーのくだらない部分を全部のぞいて、社会性と自立性をつけ加えたもの、となります。)

さて、陸奥A子とは“乙女チックロマン”の創始者ということになっています。それまでのラブストーリーになかった日常性、どこにでもいそうな主人公達、他の表現媒体では信じられないようなアンチ・クライマックスのつらぬき方。

ただし、陸奥A子以降、彼女の亜流は文字通り百出しましたが、誰一人として彼女の域に至ってはいません。そしてまた、陸奥A子に始まったといえる“乙女チックロマン”とは、ドラマらしいドラマのないイジケタイプのヒロインが、好きな男の子に自分の思いを受け入れされる(註:「受け入れされる」原文ママ)までのストーリーであると総括されますが、果して陸奥氏の作品はそれだけでしょうか。

私には、陸奥A子亜流の作家達が“男の子への気持”をあくまで中心にすえているのに対し、陸奥氏はあくまで“女の子自身の気持”を大切にしているように思われます。

そして最近作になるにつれて“女の子自身の気持”と共に、その女の子の気持を大切にする男の子の比重が大きくなって来ているようです。
おいしい恋ぐすりの津島さん
秋にのっての美登利さん
たとえば私のクリスマスの宮沢佳奈さん
セプテンバーストーリーのさおりさん
いつのまにか春の色の木下さん

あえて、細かいストーリーの説明はしません。でも陸奥A子ファンなら、それぞれの女の子が、いかに自分の気持を大事に育んでいたか御存知のはずです。そして、その女の子の気持を気使う男の子のいたこと。

陸奥氏は、あの独特の静的な描線で、たとえば女の子の部屋を、たとえば庭を、たとえば屋台のラーメン屋を、描きます。

もっとも日常的な風景の中に、もっともいとおしむべきものを見い出す視線。

陸奥A子ファンの男性が、同じものに魅かれていることを祈ります。


(四)女友達のために──酒井美羽

ここ数年中堅の作家達が、それぞれ独自の世界を相次いで開花させたこともあって、逆に新人作家の中で、新たな個性を見い出す機会が少なくなって来たといわれています。

そんな時“花とゆめ”誌上で酒井美羽氏がデビューしたのは、非常な収穫でした。

酒井美羽と言っても、今年春デビューしたばかりですから、すぐ作品と名前が結びつく方は少ないかも知れません。“花とゆめ”で、女子校を舞台にした“通り過ぎた季節シリーズ”を 書いている人と言えば、思いあたるでしょうか。

私個人、酒井美羽氏の作品に対してどうしても独特な思い入れがあります。すなわち高校が女子校であったこと。

私立の場合、実際の日本の状態を考えるとむしろ共学より別学の高校がずっと多いのですが、どういうわけか今まで別学の女子高校生を主人公にした学園物は、知る限りではありません。(せいぜい外国が舞台か、全寮制の学校)

日常的に同じ年代の男の子達と接触する機会のない女子高校生はずいぶんいるし、当然共学の女の子達とは、違った状況を生きているはずです。そしてまた、女友達=クラスメイトとの関係が生活のかなりの部分を占めていることも。

男の子に、男の子同士の世界があるように、やがて男性社会によって分断されるとはいえむしろだからこそ、女の子同士の世界を大切にもしたい。確かに共学に比べて別学の不自然さがあることも事実ですが、女の子達にとって、別学─つまり女同士だからこそ育くめるものもあるはずです。

通り過ぎた季節シリーズVOL1──二年の春は、主人公佐藤亜紀子が、新しいクラスで自己紹介をする所から始まります。一見ドジで、どちらかというと劣等生の亜紀子。クラスがえで別れてしまった親友となんとなく疎遠になったようで淋しさがつのって来た所へ、新しいクラスメイトから交換日記を申し込まれます。亜紀子はつい自分の淋しさを日記に吐露してしまい、その結果、あっさり交換日記の取り止めを言い渡されて……。

がっくりきた亜紀子に、久しぶりもとの親友きょんと話す機会が訪ずれて。
「ありのままの自分を見せるってのは、それなりの時期ってもんがあるんじゃないのかなあ」ときょん。
「そーね最初のうちはホンネとタテマエを使いわけて お互いの腹をさぐりあって そうしてたどりつく… あぁ… この人になら話してみたい自分の事を」と亜紀子。

VOL2以降も、自殺のこと、同性愛Sのこと、性への関心、中学時代の初恋と、BFがいたらという気持等。

女の子が、女子校でかわす女の子同士の友情の中で確実に感じ、つかんでゆく現実を、始めて少女漫画に登場させたのが、酒井氏の位置で す。決してハデではないけれど、明らかに待ち望れていたジャンルだと、信じる次第です。


(五)子供達のために──三原順

三原順 はみだしっ子シリーズ には、熱烈なファンがいます。ファンルームを読んでいると、憧れのアイドルに対するように「アンジー」「グレアム」「マックス」「サーニン」と叫ぶファン達の声が聞えます。

ただし、「はみだしっ子シリーズ」は決して、橋本氏(註:橋本治?)が言う所の女性が書いた少年漫画のジャンルには属していません。これは逆に、子供を生みえる性である所の女性でなくては、とうてい漫画として成立し得なかった作品のひとつです。

ここで先に正直な感想を言いますと、この作品を、他の少女漫画を受け入れるにもかかわらず、気嫌いする男性の多いことに、時々腹が立つのです。確かに、絵柄が取りつきにくいタイプであることは認めます。しかし、そういう表面的なことだけでなく、子供がああいうネームをしゃべるなんて……とは。

三原氏は、かなり厳密に子供達にしゃべらせてはいます。それは実際の子供達の言葉使いとはずいぶん異ってはいます。しかし、現実の子供達も、同じ意味のことを感じ、言おうとしている可能性は!?

少し、男性の為につまらないことを述べます。たとえば“はみだしっ子4 山の上に吹く風は”のP148、これは明らかに英国の反精神医学運動の思想的中核であったR・D・レインが、著書「結ばれ」で見せてくれた、循環論の応用形です。ですから、私は三原氏がレインの人間関係論、家族研究を土台にして子供達の被抑圧的状況を、少女漫画化したのだと受け取っています。

もちろん日本には日本独自の状況がありますから、西欧の著作をすべてあてはめるわけにはゆきません。それにしても、弱者=子供が強者 =親・大人にどれ程有形無形の圧迫を押しつけられているか、それだけでも、この作品の成立意義は少なくありません。しかも女=弱者が、同じ女=弱者かつ少女=弱者である読者に向けて、マスメディア上に存続させているのですから。

もうひとつ弁護ついでにつけ加えますと、はみだしっ子達が四人とも男の子であることには、お話を成立させる上で必然性があります。第一に、女の子ならば男の子以上に社会的圧迫が強くなり、はみだしたままでいにくいこと。第二に、女の子なら男の子より早い時期に(抑圧がより過酷ですから)破綻しがちであること(たとえば自閉症)。

実際、最近作のカッコーの鳴く森では、四人組の一人サーニンと、自閉症の女の子クークーが出会い、結末も暗いものでした。

この作品の真のシリアスさを伝える意味で、5巻に登場する、孤児院の女教師のつぶやきを引用します。
「子供なんて嫌いよ!傷つくことだけは一人前で!!」


(六)再び読者へ──“綿の国星”試論

限られた長さと、つたない筆力で、すぐれて少女漫画的なものについて語って来たものですが、最後に、少女漫画のひとつの到達点である 綿の国星について論を試みることでしめくくりたいと思います。

ただし“綿の国星”はまぎれもない大傑作です。 従って、作品に反映される読者の範囲が極めて広く、現時点で私にすべてを包括した上での評価は不可能です。(五)までは、少なくとも自分としては普遍化を志したつもりですが、この項に限り、早川個人の世界観が反映された“綿の国星”論と受け取って下さい。

さて、私はまずチビ猫を、歴とした人間=世界の支配者に、決してなれないものとまず位置づけました。それはまた、言葉を持ち得ない故に、主に言葉によって支えられる人間の観念世界=共同幻想に関り得ないということになります。(ここでいう共同幻想は、個々の私的幻想共有部分という意味で限定されたものです。)

一方、お話の中でもう一匹の猫として登場するラフィエル。ラフィエルとチビ猫の会話は、もちろん人の言葉で表現されていますがこれは、共同幻想に基づいているものと呼ぶべきではありません。何故なら、チビ猫も、ラフィエルも、人間ではなく猫です。猫は動物です。動物は生をまっとうする為に、観念=幻想を必要としません。従って、チビ猫がラフィエルから学んだことは、すべて現実です。たとえば、“綿の国星”にひとつとっても、ラフィエルは言っています。

「綿の国星って?」とチビ猫
「架空の国さ いつかさがしあてようという真綿の原のある国だよ」とラフィエル

この一連のやりとりの後、人間になると信じていたチビ猫は、当初拒否反応を示したものの、実際の試行錯誤の結果、すがすがしいまでの涼さで、自分が猫であり、猫以下でも以上でもないことを受け入れます。

この潔さは、チビ猫が、観念=幻想に犯される人間ではなく、現実をそのまま生きられる猫だからはっきり実現できるものです。

公園で、ヒッツメミツアミと時夫をうまく結びつけた後でよぎるチビ猫の思念。

「一度もあったことのないお父さん 一度も会ったことのないお母さん わたし いま 元気です」
そして、鳥が空を舞い
「鳥は鳥に 人間は人間に 星は星に 風は風に」
と続き、チビ猫は心に「猫は猫に」と焼きつけます。

その現実を認識させたラフィエルも、チビ猫を取りあえず残し、何処ともなく去り、一度は家を出たチビ猫は、ついにアレルギーだった時夫の母の手に抱かれることによって、時夫の生きる風景に、確固とした位置を占めることになって……。

チビ猫は、ラフィエルによって世界をあるがままに受け入れました。そしてそのチビ猫は、時夫にそして時夫の母にともすれば生きにくい世界を受け入れさしたのだと思うのです。

十全に現実を生き得るチビ猫が、観念=幻想に犯された弱々しい人間に共同幻想の向うに確かにあるはずの、現実=世界を見せ、自分を担うことを受け入れさせること。

本来現実ではなく、観念化=幻想化された世界しか生き得ぬ人間である所の大島弓子氏は、人間に、観念=幻想→共同幻想の向うに確かにある現実を、チビ猫を媒介として、表出せしめたのではないでしょうか。

そして、それは幻想=観念に逃げこまず、世界をあるがままにまず受け入れる、絶大な意志の表明に他なりません。

だからこそ、チビ猫は二重の意味で描だった。人間にとってどう見えようと猫であるから、エプロンドレス姿だったのですし、言葉を介して間に思念を伝えることができない動物=猫であるのだし。
私は確かに受け取めたのです。
「愛しているよ」とチビ猫が言ったのを。


 付記
煩雑になって恐縮ですが、(六)で多用している、幻想、共同幻想、私的幻想、現実、等はすべて、岸田秀氏が定義し使用するような意味に基づいています。たとえば吉本隆明氏の使用方法とは異なります。