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【対談:信田さよ子×萩尾望都・婦人公論2009年05月07日号】


婦人公論2009年05月07日号
https://fujinkoron.jp/articles/-/1198

発売日:2009年04月22日
出版社:中央公論新社
資料提供:https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/164958...


婦人公論2009年05月07日号20-23ページ

特集:娘は母を求めて、遠ざけて
親を変えることは難しい
信田さよ子×萩尾望都
(図版に続いてテキスト抽出あり)







特集:娘は母を求めて、遠ざけて
親を変えることは難しい
信田さよ子×萩尾望都
のぶたさよこ/1946年岐阜県生まれ。お茶の水女子大学大学院修士課程修了。95年に「原宿カウンセリングセンター」を開設、所長として家族問題についてのカウンセリング、提言を行う。『加害者は変われるか? DVと虐待をみつめながら』『母が重くてたまらない、墓守娘の嘆き』ほか著書多数


信田さん、 “イグアナの娘”に救いはありますか

怒鳴るのは親密さの表現

信田 ファンとして「モーさま」に伺いたいことは山ほどあるのですが、今回は 「母と娘」がテーマということで。まず、お母様はお元気ですか?

萩尾 元気です。今年で母が85歳、父が92歳になります。私も親とは大ゲンカしたり、8年くらい福岡の実家に戻らなかったりと、いろいろありました。ですが、父が3年ほど前に大きな交通事故に遭いまして。今は回復しているのですけれども、そのあとはさすがにちょこちょこ戻っています。つい先日も3日間くらい帰っていました。

信田 厳しいお母様だったんですよね。

萩尾 母はとにかく怒鳴る人でした。早く起きなさい、食べなさい、学校行きなさいって。帰ってからも、家の手伝いをしなかった、ご飯なのにすぐ来ない、勉強をサボっていた……ひたすらテンション高く怒鳴る。私は4人きょうだいの2番目で、姉とも妹とも2歳違い、その下に末っ子の弟がいますが、なかでも私が一番、母に怒られて育ったというのが実感です。泣かない子どもだったから、怒鳴りやすかったのではないでしょうか。

信田 朝から怒鳴って精神を活性化させる、一種の運動としての側面もあるかもしれません。怒鳴っているという自覚はあるのでしょうか?

萩尾 あんまりないと思います。それで、その運動は今も続いています。

信田 エーッ、今でも!? すごいなあ。一種の親密さの表明かもしれない。ドメスティック・バイオレンス(DV)をする夫の場合、妻に暴力をふるうのは親密さの表現なんです。身内だからやる。妻なんだから言う前に要求を察しろ、察したらすぐ実行しろと。それに似ていますね。

萩尾 ひー。そんな親密さはいらない。(笑)

信田 子どもの友達にも怒鳴ったりします?

萩尾 しませんね。家族にだけ。それに、母は身内だけでいたいようで、子どもの友達が家に来るのをひどく嫌がりました。私が実家を出てからも、帰省した際、友達の家でお夕飯をいただくと激怒。だから私、家に帰ってもう1度食べるんです。

信田 うーん、それもDV夫と同じです。DV夫は、たとえ相手が女友達でも、妻が家の外で他人と会うことをひどく嫌い、その人を敵視します。自分のモノである、という独占欲がそうさせる。お家はそういう状況だし、「女は早く嫁に行け」という時代だから、漫画家になろうと東京に出て行くのは、大変だったのでは?

萩尾 そもそも漫画を描くこと自体、両親にずーっと反対されていました。絵画は芸術だからいい、百歩譲って童話作家ならまあよし、けれども漫画は焼かれてしまうような悪書だからダメだと。でも、出版社の編集者が来て親を説得してくれて、貯めておいた投稿作の賞金と、親からいただいたお餞別を手に、20歳の秋ごろ上京しました。親はものの1年くらいで帰ってくるだろうと思っていたようです。

介入を防ぐために、会社を潰した

信田 ものすごい葛藤の末に、東京に出た。そのあとは怒鳴り声もなくなって。

萩尾 もう本当にラクでした。ただ、階段を上がってくる足音だけはずっと怖かった。小さいころ、子どもたちが勉強しているかどうか見に、母が忍び足で2階に来るや、ふすまをバーン! と開けていたから。上京後10年近く経って、友達に「階段を上がる足音が怖い」と理由も話したら、恐怖の度合いは10から2くらいに減りましたけれど。

信田 それを聞いて、壁の上のほうがガラス張り、という子ども部屋で育って、後々心に大きなダメージを抱えてしまったという相談者を思い出しましたよ。常に母親の厳しい監視下にあることが、重荷だった。萩尾さんはのびのびと好きなことができるようになって、上京後ほどなく『ポーの一族』(1972-76年連載)などで、漫画家としてブレイクされるわけですけれども……。

萩尾 お金を稼げるようになったら認めてくれるかと思っていたんですが、一貫して「仕事はやめて嫁に行け」。28歳のときに会社を立ち上げて、退職していた父に経理を見てもらったら、これが大変でした。毎月九州から出てきてもらうのですけれど、締め切り前の修羅場になったらアシスタントたちが日夜の別なく出入りするので、父には旅館に泊まってもらうしかない。母からは電話で「なんで娘の家に泊まらせないの」と怒られ、父は父で「親がいる間くらいは仕事をするな」と不機嫌になる。

信田 そのころもう、漫画家として神格化されているほどの存在だったのに。

萩尾 父は、私がスタッフに日当を払うのを見て、「どうしてお弟子さんにカネを払うんだ。むしろ弟子が師匠に持ってくるんじゃないのか」。何度説明してもわかってくれない。

信田 お金もらうのが当然って、はあー。

萩尾 当時は家を建てる計画も進行していたのですが、これも揉めに揉めました。母の案では両親が泊まる部屋や居間がでんとあって、私の仕事のための資料室なんかは削られる。図面を直し、直されの繰り返しです。家が建ったら「仕事をやめろ」、断ると母は「アンタがもっと素直ならいいのに」と怒る。上京しては、アシスタントの採用や私の友人関係に口を出すまでに至り、もう限界だと。「親の介入を防ぐには、仕事も貯金もいったんゼロにして、会社を潰すしかない」とまで思い詰めました。30歳くらいのころです。

信田 ご両親と距離を取るのに、そこまでするしかなかったんですか?

萩尾 向こうが言うことを聞いてくれないんですもん。「今後いっさい家には泊まりに来ないでくれ」と言い渡しました。母は怒りに燃えて、手紙に「お前の仕打ちを忘れない」と書いてきました。

信田 ……壮絶ですねえ。

萩尾 それで「私は仕事をやめる気はないし、仕事を邪魔されたくないのです」と手紙で説明しようと思ったんですよ。ところが、便箋に書き始めたら、1枚目から字が乱れだして。感情がすごいのね、噴出して筆を引っ張っていくの。「ああー」とか「ううー」みたいな文字がどんどん出てくるのを、呆然としながら2、3枚書いて。自分でコントロールできない。キレるってこういうことなんだとわかった。

信田 気持ちに押されて筆が勝手に進む、いわゆる自動書記状態に近いですね。でも、文字が思うように書けない程度で治まってよかったですよ。とにかく親に「来ないでくれ」と伝えられたのはすごいことです。「NO」と言えなかったり、親を拒絶するなんてひどい娘だって自分を責めたり、どうしようもなく追い詰められて自傷行為や抑うつ状態に陥る人は多い。萩尾さんの場合はやはり、表現することが支えになったのかもしれない。

萩尾 そこにすがりついた感じです。その大ゲンカのあとに描いた話が、親子関係をテーマにした 『メッシュ』のシリーズ (80-84年)。漫画に吐き出して、とにかく描かなきゃ、という思いでした。

信田 ご自身で抱えて、処理していらした。

萩尾 実は、大ゲンカしたころから、どうすれば親にわかってもらえるのだろうと、カウンセリングや精神分析の本をずいぶん読んだんです。

信田 いい本なかったでしょう。(笑)

萩尾 今は信田さんのご著書みたいに、身近な対人関係のトラブルについての本があるけれど、当時はなくて。いろいろ探しながら、占いの本にまで手を出したら、相性の話が出てきた。生年月日で占ってみたら、私と母、私と父の相性が最悪だったんですよ(笑)。それで妙に納得して、もういいや、これじゃ抗い難いわ、と。

信田 私たちの仕事の最大のライバルは占いですからね。カウンセリングは行かないけど、占いには行く、という人はいますよ。することが似てるんですね。否定しないで相手の話をひたすら聞く。

萩尾 本当ですね。「そんなことないでしょ」じゃなくて、とにかく聞いてもらえる。それだけでもずいぶん気持ちが違いますから。

「神」だった親が「人間」になって

信田 母娘の問題を正面から扱った『イグアナの娘』(92年)を描いたきっかけは何ですか?

萩尾 相性の話がずーっと頭に残っていて、「悪いなら仕方がないんだけど、なぜ悪いのだろう」「子どもが宇宙人だったらそりゃ可愛くないなあ」 とか考えて。そのときたまたま見たテレビ番組で、イグアナの特集をしていた。「そういえば爬虫類って胎児に似てる」「ああして海を見ているイグアナは人間になりたいのかもしれない」と画面を眺めるうちに、あのストーリーがぽーんと出てきたんです。娘がイグアナに見えて、母親はどうしても愛せないという。

信田 衝撃的な作品です。萩尾さんのお母様の目には触れたんでしょうか。

萩尾 電話で「お母さんは泣いたったい」って言われて。あの母からあまりにも思いがけない言葉を聞いたので、絶句しました。

信田 どういう涙だったんでしょう?

萩尾 いつか聞いてみたいですね。

信田 主人公の女の子がかわいそうで泣いたのか、それとも「この母は私だ」と思って……まさかね。

萩尾 ちょっとくらいは、自分もああいうお母さんだったのでは、と思ったのかもしれない。

信田 それが萩尾さんの希望的観測だとしたら、期待が裏切られたときが怖い。

萩尾 そうですね、その覚悟もしながら聞いてみます。あの作品で、娘がお母さんにプレゼントとして手鏡を買ってきたら、「いらないから返してこい」って突き返されるエピソードがあります。あれ実話なんです。そうなると、何か物をあげるにも、まず怒られるかどうかを心配しますよね。

信田 親って、子どもから何かもらったらどんなものでも喜ぶでしょ。怒られる心配をすること自体が、ちょっと考えられない。この作品を描いたことで、何かご自分のなかで変化はありました?

萩尾 すでに相性の問題と割り切っていたので、さほどはないです。そのあとに連載を始めた『残酷な神が支配する』(92-2001年)のほうが、描いていくうちに、だんだん私自身が変わっていきましたね。

信田 何年間の連載ですか?

萩尾 9年。2年で終わるはずが、なかなか終わらなくて。義父に虐待される少年を描きながら、私が子どもだったら、親だったら、といろいろ想像するうち、親は変わらないんだから諦めるしかないなって思えてきた。そして次第に、親が「神」から「人間の親」に変わり、さらに「人間」に見えてきました。すると、非常に距離が取りやすくなってきたんですね。ずっと実家に寄り付かなかったのが、親も年だし時々は帰らないといけないかな、と思うようになっていきました。

母へのインタビューから見えるもの

信田 そう思っていたところに、お父様の事故があって。それをきっかけに、お母様とも話がしやすい、緩いバランスが取れてきたのでしょうか。

萩尾 タイミングが合ったのだと思います。

信田 これからご両親の身にもいろいろあるでしょうし、親って亡くなっても親ですからね。

萩尾 それでね、去年から、親に昔の話を聞いて録音する、というのを始めたんです。生きているうちになるべく話を聞いておきたいと思って。

信田 インタビューですか。どうですか?

萩尾 まだ始めたばかりなのですけど、母は構えちゃって、きれいごとしか言わない。(笑)

信田 マイク向けられると居住まいを正しちゃうんですね。何か発見はありました?

萩尾 母は自分の家族とも父の親戚とも不仲で、味方もほとんどいないはずなのに「周りじゅうみんないい人だった」って、豹変したのにびっくり。「ああ、お母さんはこういうユートピアが理想だったのね」と。でもよそ行きの話はもういいから、どうやって本音を聞きだそうか、思案中です。

信田 私のカウンセリングセンターでは、グループカウンセリングで自分の成育歴を話すというプログラムがあります。自分の生い立ちをまとめることで、親との関係が整理できていく。そのために親の知り合いや親戚にインタビューをするのですが、すると、自分が抱いているイメージと違う親の姿が浮かび上がります。どっちが真実かということではなくて、親が子どもにこう見せたいと思う姿を吹き込んだ、 その仕掛けがわかるっていうんでしょうか。

萩尾 あ、そうです、そういうことですよね。

信田 母と娘の関係に限らず、加害者と被害者の問題においては、なぜ加害者がそのような加害に至ったかがわからないと、被害者は永遠に救われないし、関係修復できない。そういう意味で、お母様へのインタビューというのは必須です。萩尾さんがそれをご自分で思いついたというのも、素晴らしいことです。

萩尾 わかりました。次からはマイクを向けないで、ICレコーダーをどこかに忍ばせます。(笑)

構成◎田中有 撮影◎川上尚見