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【竹宮:西谷祥子先生から直筆の手紙が届いた】


竹宮発言の推移

1978年
「竹宮恵子の世界」言及なし
1979年
「PasseCompose パセコンポゼ 過去完了形」西谷さんから-手紙が来て
1982年
「ぱふ特集竹宮恵子」言及なし
2007年
「少女マンガパワー!展目録インタビュー」西谷祥子さんから直接手紙をいただいたんです
2014年
「インタビュー記事」西谷が編集者を通じて竹宮に新人賞への応募を促した
2016年
「とんぼの本カレイドスコープ」言及なし
2019年
「画業50周年記念展トークイベント」マーガレットの編集さんや大好きなマンガ家の西谷祥子先生からのアプローチなどで
2021年
「扉はひらくいくたびも」西谷祥子先生から、突然私に直筆の手紙が届いたのです

資料提供
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/164353...
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/164353...
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/164353...
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/164396...



1978年
「テレビランド増刊イラストアルバム5 竹宮恵子の世界」37ページ
自身のデビュー前後について語っているが「西谷祥子」の名は出てこない

参照【竹宮恵子:ライフヒストリー

発言者・記述者がわかるように「竹宮」「編集」を付加してあります

竹宮 石森先生の漫画への情熱が伝わってくるこの本が、とても気に入りました。そして、読み終わったあと、私もどうしても仲間がほしくなって、先生に手紙を書いたんですよ。「どこでもけっこうですから、同人誌を紹介して下さい」って。先生は顧問をしてらした、宝島という同人誌を紹介して下さいました。

編集 竹宮は、漫画家たちがひしめく東京に自分がいないというあせりと、ペンを動かすことの喜びにつきあげられるように”宝島”にせっせと原稿を送った。「ナイーダ」「水鳥」「エスパーくん」など多くの作品が”宝島”をうめていった。そして、いつのまにか”宝島”内で、 彼女は質量ともに、エース格となっていった。
当時(註:1964年)、少女漫画界は、高校生の里中満智子が”少女フレンド”で新人賞を受賞してはなばなしくデビュー。出版社は、若い才能に注目し始めていた。高校生でプロになる現象が流行し、20歳を越えたら新人としてデビューできないとまでいわれていた。

竹宮 里中さんの「ピアの肖像」は私のニガ手な分野である心霊、怪奇のファンタジー世界の作品でした。「私に描けない分野をこんなにおもしろくかけるなんて、スゴイ!!」とショックでした。でも、私だって描いてみせる。私だって高校生のあいだにデビューしてみせる。こう思ってがんばって描きました。

あこがれの第一歩

編集 同人誌でエース格となると、つぎに商業雑誌に目をむけるようになった。そして、いまではまぼろしの名誌と呼ばれる”COM”に投 稿し、実力を問うことにする。”COM”は当時、漫画家の登龍門であり、この本の新人賞に入ることは名誉でもあり、漫画家としての第一歩でもあったからである。結果は「ここのつの友情」が佳作入選。

竹宮 近所の洋館に、隠れるように外国人の子どもが住んでいました。子どもたちは金髪が美しく、ロマンチックで、私のあこがれのまとだったんです。だから、なぜ人目を避けるように生活していたのか不思議でした。この経験と、山中恒の”青い眼”を読んでの感動が重なってこの話が生まれたんです。

編集 ”COM”に入選した竹宮は、より広い読者をもつマーガレット、へ投稿する。「リンゴの罪」が、一度の投稿ですんなりと掲載決定、竹宮恵子、本格的デビューであった。



1979年
「PasseCompose パセコンポゼ 過去完了形」155ページ

参照【PasseCompose 竹宮恵子インタビュー
竹宮 その前に、西谷さんから、石森さんとこで同人誌を見たのだけど出してみませんかって手紙が来て



1982年
「ぱふ1982年8-9号 特集竹宮恵子part2」
デビュー時期前後の年譜に西谷祥子の名は出てこない

参照【竹宮恵子:自筆年譜



1982年
「ぱふ1982年8-9号 特集竹宮恵子part2」本誌32ページ
竹宮のデビュー当時を知る編集者もインタビュー記事において西谷祥子には触れていない
資料提供:https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/164396...


倉持功 (ぶ〜け副編集長)

ぱふ 竹宮さんと知り合ったのはどの作品からですか?

倉持 竹宮さんのデビュー作で、昭和43年の『週刊マーガレット正月増刊』 「りんごの罪」。あれは四国の徳島から投稿された作品で、非常に頭のいい作品という感じがしまして、頼りにしていたんです。が、当時竹宮さんは高校3年生で、徳島大学を受験するので、まんがをやめますと手紙が来たんです。現在だったら、大学行きながら描きな い、と言うところですが、その頃はそう言われるとしょうがないということで、そのままになってしまいました。

ぱふ ということは、竹宮さんはもう描かないと思われていた訳ですか?

倉持 入ってからはどうかわからないけれど、当分は描けないだろうと思っていました。

ぱふ いつ頃から竹宮さんが描いてることに、気が付きましたか?

倉持 45年位じゃないかな。竹宮さんの名前を漫画家として意識的に気が付いたのは。個人的な感情で言うと、僕は、竹宮さんという人が好きなんです。はっきり自分というものを持っている。作品は非常に幅が広く、色んなジャンルのものを描くことが出来るし…。

ぱふ「リンゴの罪」をお読みになった感想は?

倉持 今から見ると、手法としては古いですが、頭のいい作品というか、キレのいい作品ですね。

ぱふ 現在の片鱗はありましたか?

倉持 ありますね。今の竹宮さんの作品を読むと、非常にいき届いた計算がなされていますね。計算というと悪く聞こえるけれども、読者の気持ちを理解して、うまくそれに合うような話の作り方をしている。そういう意味ではすごく安定している人だと思います。

参照【インタビュー:編集者6人
1982年8-9号の「ぱふ特集竹宮恵子part2」に寄稿した倉持功氏は竹宮が2008年の「少女マンガパワー!展」のインタビュー(目録に掲載)において「倉持さんはずっとそのあとも、新人である私の原稿をよく使ってくれました。「小説ジュニア」のほうでとか」→「マンガを「小説ジュニア」の中に載せるっていうこと自体、初めての試みでした」と語っている当時の編集者である
参照【竹宮:小説ジュニアでの初めてのマンガ掲載は私の作品



2007年
少女マンガパワー!展目録インタビュー
「少女マンガパワー!展」開催は2008年だがインタビューは2007年10月14日
取材日:2007年10月14日(67歳)
「かぎっこ集団」のほうは 『COM』の月例新人賞というところで通ったんですよね。で、その結果がわかった頃ぐらいに、私の作品をたぶん同人誌の中で見るきっかけがあったんだろうと思うんですけど、西谷祥子さんから直接「『週刊マーガレット』 に応募しませんか」って手紙をいただいたんです
参照【竹宮インタビュー:少女マンガパワー!展目録



2014年
「Wedge Infinity」竹宮惠子インタビュー
漫画の未来のために種をまく
竹宮惠子 (漫画家、京都精華大学学長)
2014年06月11日(64歳)

石ノ森章太郎が作った同人誌「墨汁一滴」の女子会が「墨汁二滴」で、そのトップが学園漫画で人気を集めた西谷祥子。西谷が編集者を通じて竹宮に新人賞への応募を促し、それがデビュー作「リンゴの罪」の発表につながったという。
参照【竹宮惠子:漫画との出会いは「冒険ダン吉」



2016年
「とんぼの本カレイドスコープ(竹宮惠子、疾風怒濤の人生絵巻)」159ページ
1965年から1968年までの人生絵巻に西谷祥子の名は出てこない




2019年
画業50周年記念展トークイベント
日時:2019年03月09日
会場:川崎市民ミュージアム企画展示室1
司会進行:マンガ研究者 吉村麗

──(略)「週刊マーガレット」でプロデビューをされますが、少女誌に描くことになったのは何か理由がありますか?

竹宮:大学受験前で忙しい時期ではあったんですが、私が「COM」に応募していることを知っていたマーガレットの編集さんや大好きなマンガ家の西谷祥子先生からのアプローチなどで「そこまで言われたら応募せずにはなるまい!」という気持ちになって、「週刊マーガレット」へ応募することにしました。



2021年
「扉はひらくいくたびも」40ページ

人気少女漫画家の西谷祥子先生から、突然私に直筆の手紙が届いたのです。封を開けると、「集英社の新人漫画賞に描いて送ってください」と書いてありました。トップ漫画家の西谷先生から私にわざわざ手紙が届き、描いて送ってくださいと言われるなんて……。「は ー?」とびっくりしました。それはもうやるしかないでしょ、描かせていただきますという気持ちになりました。試験を目前にしている時期でしたが、それを押して描き、投稿しました。