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【竹宮恵子講演録:1978年11月02日】だっくす1978年12月号

日時:1978年11月02日
主催:早稲田祭文学研究会
場所:早稲田大学本部4号館1階


だっくす1978年12月号
発行日:1978年12月01日
発行所:清彗社
資料提供:https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/165219...



「だっくす1978年12月号」37-42ページ
竹宮恵子
少年なるものをめぐって
(画像に続いてテキスト抽出あり)









竹宮恵子
少年なるものをめぐって
78年11月2日第25回早稲田祭文学研究会主催
「文芸天文台」第一回“竹宮恵子さんを囲んで”
──早稲田大学本部4号館1階にて


──この前『ポパイ』っていう雑誌で少女マンガの特集をやった時に、竹宮さんの「風と木の詩」の中に何回セックス・シーンがあるか、とかそういう低い次元でとらえているのが多いんですけど、それらの設問についてどうお考えですか?

竹宮 そうですね。私は別にそれだけじゃないと思ってますけれども、雑誌の誌上で取り上げられたりする時には、とにかくハデにということで、そういう特徴的な部分が取り上げられてしまうんです。それについては私も、別にかまわないんじゃないかと……。もう放ってあるという状態で、はい。

──竹宮さんのお若い頃の作品から見ていくと、今程ではないにしても、少年的なもの、女の子にしても男の子っぽさっていうか、例えば潔さとか、はきはきした女の子を好んで取り上げていらっしゃるようですが、自覚なさってしてるわけですか?

竹宮 そうですね。まあ、一口で言ってしまいますと、非常にケストナー的な少年が好きで自分自身もそういう風な人間になりたいと思ってたんですね。だから、その辺の男の子よりはしっかりしていたいと、自分でも思ってたので、相当気が強かったんじゃないかなって思ってるんです。

──竹宮恵子さんが描く少年ってみんな魅力的ですが……。

竹宮 みなさんそう言って下さるんですけれども、とにかく少年ばかりしか描かないので物足らないとか、そういうことも言われます。

──ある一部のマンガ評論家がああいう同性愛的なものを扱うっていうのは、子供の本来的な姿に反していて、あれは人気取りの証拠にすぎないんだなどと言っていますが……。

竹宮 マンガの世界自体に、恋愛ものっていうのが昔からたくさんあるんですね。10年位前から出はじめて、とにかくそれじゃなきゃ少女マンガじゃないみたいに言われて。ありとあらゆるものがそうだと言われるほどたくさんあったんですけれど……。少年と少女が出会って、気持ちが一致して、恋人関係になる…そこまでいくと先はないっていうのがほとんどなんですね。で、結局私達の年頃っていうのは、何が興味があるかっていうと、そこまで至った段階ですごく難かしい事に出会うわけですね、人間関係で。だから、本当はそれから先が知りたいんじゃないかっていうのが発端なんですね、それで描こうと思った。それが男女の事となると、色々と他の問題が出てきますので、そうじゃなくて精神的な問題だけ追及しようというとやっぱり……。

──松葉校と義母(ママハハ)とトウ・シューズ。萩尾望都さんが伊東杏里さんか誰かとの対談の中でおっしゃった言葉で、やはり旧来のマンガはそういうメロドラマ 路線みたいなものを踏襲してるところがあるんじゃないかという風に思うんですよね。で、その中にあって竹宮さんの作品は、かなり悲痛なものを導入してきた部分があると思うんです。それが、少年なるものっていう事に一括されるんじゃないかと。『マンガ少年』の増刊号で、光瀬龍さんとの対談(参照【「地球へ…」第二部総集編 対談:光瀬龍・竹宮恵子】)で、少年とは飛躍するものである、と語られていますが、その飛躍するものとして、少年達を描かれる場合に当然その少年達のいる世界っていうものも、それに対して劇的な変化を受けるんじゃないかって思うんです。で、そういう風になった場合の竹宮さんご自身がどこまでそういうものを考えて描こうとしているのかとか、あるいは全く考えずに流されて描いてるのか、その辺をお聞きしたいのですが──。

竹宮 ちょっと難しいんですが、少年らしさっていうのはごく短い間のことですよね。それが大人になってしまえばだめな場合もあるし、大人になっても持ち続けていく人も実際いるんですけれども、確実に私の中ではわかってる。で、それが言葉でわかりきることができないし、どうしてもエピソードの中でこういうものが少年なんだっていう風に描いていかないと他に方法がないんですね。それが走る躍動感であったり、手の動かし方であったりとか、そういうところに至ってしまうんですね、つきつめると。

──竹宮恵子さんの描く足とか靴とかに特徴があるってよく言われるんですけど、足にその少年っていうものの感じを出しているっていうような事は自分でそう…。

竹宮 はい。昔はみんなと色々論じ合ったことがあったんです。女の子の足とは全然違うんですね、男の子の足って。どういう風に違うかっていうのは絵を描いてみせるしかないですが、同じような形態をしているのは女の子が10才に至らない前でないとないんですね。それを越えてしまうと女の子と男の子じゃ随分違ってきちゃうんです。

──「風と木の詩」の最初の頃はギムナジウムの少年だけの世界でしたが、現代は少年の世界だけにとどまらずお描きになってますが、それは当初からの計画でそうなったのでしょうか?

竹宮 そうですね。大人の、例えばオーギュスト・ボウなんかが出てきたのは、最初から予定してたわけじゃなくて、あれは本当は端役だったんですね。それが描いてるうちにどんどん育ってきてしまって。で、私の興味が少年だけの世界じゃなくて、大人の世界とか、子供の教育とかに広がっていってしまって…。

──「地球へ...」の創作動機は?

竹宮 あの作品もやっぱり教育の事に興味があって、社会と教育の結びつきみたいなことで、やってるんです。とにかくSFに舞台をとるのは、自由にできるっていうことですね。現在だったら色々制約がある──。

──「少年」が竹宮さんの場合、かなりのウエイトをしめたモチーフになっていますが「少年」を使うということについては。

竹宮 はい、だから少女の場合ですと、少年期みたいなのをとらえようとするとほんとにごく一瞬しかないんですね。しかも、大人になってもチラッと出たりするんで、同時に持ってるような気もするし、ちょっとわかりづらいので、そういう時期を分離させるのは誰にもある事じゃないんですね。少年の方がずっと楽だと思うんです。
私の場合、中学生頃に読んでた本とかそういうのから受けた影響みたいなのがあるんじゃないかと思うんですけど。ケストナー的なところが自分の中に随分あったと思うんです。あの頃描いてた男の子というのはみんなそういうタイプだったんですね、私自身もそうあろうと思っていたし。外側からみてどうだったかは他の人に聞くしかないですけど。
みなさん読んでらっしゃるかどうかわからないんですけど「飛ぶ教室」の中の主人公とか、ああいうタイプですね。いかにも正義感が強くて、頭脳優秀だけれどもケンカも決して避けるようなことはしない。

──そういう世界を持っている子供達が、「風と木の詩」では同性愛の世界にはいり込んでいく…。

竹宮 だから同性愛といってもね、私は決してそうとらえていなくて、ただ性の世界だと思ってるだけなんです。あそこは男子校だから、まず一番最初にくるのはそれなんじゃないかと。女の人に触れるよりは先だろうと思うだけで。

──ケストナー的な少年としては「風と木の詩」の中ではセルジュがそれにあたるわけですか?

竹宮 そうですね。

──ではもう一方のジルベール・コクトーのタイプは?

竹宮 彼の場合は、私の中でも非常に実験的なタイプっていうか、後天的に生まれたというか、本質じゃないんですね。退廃的美少年ということになるんですけども。ケストナー的な少年ていうのは非常にいい子で優等生で親の言うことはよく聞くしまわりの言葉もよくわかってるしっていうタイプなんです。ジルベールは逆に自分の気持ちをストレートに出してしまうというタイプでしょ。だからそういうものに対してどういう態度をとるかってことがね、興味あるんです。

──じゃあ作品の中で、自分の考えないままにジルベールが一人歩きしちゃうみたいな事はあるんですか?

竹宮 いえ、もうほとんどひとり歩きさせてるようなもんで、私はあまり抑制きかないんですね、彼に関して。

──ジルベールみたいな人格っていうのは、あのマンガの中で物語を竹宮さんが描き進めていく上でどんどん成長してきたような、むしろ最初から意図してきたものというよりも、キッカケはあったにせよあそこまでジルベールが悪魔的ともいえる感じに描かれているのは、ストーリーを進めていく上で自然に出てきてしまうっていうものですか?

竹宮 そうですね。決してねらっているってわけじゃないんで。
ケストナー的な少年ていうのが、結局芸術的な意味では決まりきったところまでしかいかないんじゃないかという疑問があるんですね。あまりにもよくできた優等生で、八方破れな飛び方をしないんじゃないか。ただ目の前にそういうジルベールのような少年がでてきた場合に、のがすようなことはしないだろうと思うんですね。選び方をまちがえないだろうと。目の前にそういうのがいた場合に、自分にどういう風に取り込んでいくのかなあという興味もあって。私自身がやはり、別のタイプの人間と出会ってどういう風にそれを生かしてきたかと、自分自身を振りかえって描いてるところもあるんです。

──ジルベールという人格を、竹宮さんとしては、セルジュを試すためにこれからいよいよ悪魔的な方へ向けるっていう事はありますか?

竹宮 そうでもないんじゃないですか。

──ジルベールが時々セルジュになっちゃったりする時があるんですね、徹底して悪魔的じゃなくって。まだ、彼の全貌は明らかにされていないわけだし、疑問に思えるところはみんなセルジュ的な趣きなん ですけど。

竹宮 だから人間はそんなもので、とにかく分けられないんですよね。どっちの部分も持ってるんですよね。それをどういう風に交錯させていくかが面白いんで。今までだと完璧に分けた上で個性を作っていったんですね。あまりゴチャマゼにするとわかんなくなるからとか、色々言われて。悪人は悪人で、善人は善人でっていう風に。でも、それが今だとできなくなってきちゃったので。

──「風と木の詩」は今までの作品に比べると割と登場人物がひとり歩きし始めてちょっと実験的とも言えるマンガなのでは?

竹宮 はい。いつも担当さんなんかに聞かれるんですよ。次はどうなるんですか?話はどうなるんですかって。でもいつもわかんないんですね。話そうと思っても話にならないっていうか。話っていうのは起承転結があって、例えばセルジュがピアノの演奏会をやったとか、失敗したとか、そういう点に注目されるんですけど、私自身が思ってる「風と木の詩」の話っていうのはそういうところにないんですよね。だからうまく話せなくっていつも叱られてて、担当さんも普通のマンガと違うっていうことで納得するしかないのですけれども。

──詩人の高橋睦郎さんによると、子供たちだけの世界には大体ヒーローがいて、学芸会なんかの時には女の子に靴をはかせてもらったり、掃除なんかもしなくていい、高橋さんもそういう子にあこがれて いたんですけど、仲間に加わることはできなかった。そこで言ってるんですが「彼らは王子様だった。王子様は王子様の道を通って王子様の天国へ行く。白分は乞食なんだ。乞食の道を通って乞食の天国へ行 くんだ。」
「風と木の詩」で扱ってる世界っていうのは王子様の世界ですね。乞食として初めから自分は世界から見はなされているんだっていう、そういう発想からジュネみたいな世界が生まれてくると思うんですね。そちらの方は潔癖に避けて進んでいかれてるって思えるんですが。

竹宮 それはただ私が知らないだけだと思うんです。結局、幸いにもそういうところにはいなかったということで、それを描くとウソになってしまうから、描くにあたらないんじゃないかなって思ってるんですね。
王子様の世界と乞食の世界っていうのがね、精神的にはあると思うんです。実際に貧乏とか金持ちとかいう事とは関係なくね。そういうことでジルベールとセルジュとどっちが王子様かなんて考えるとね、ジルベールの方が王子様でセルジュの方がそうではないんじゃないかという不安が私にはあるんです。私はむしろ飛べないタイプの人間なんです。自分自身で意識してるところでは、自分は乞食の方で王子様じゃないと思ってるんですね。精神的にどうか?どちらか?っていうのはどこの世界に住んでてもあると思います。

──「風と木の詩」のセルジュはジルベールに比べれば乞食かもしれないけど、実に誇り高いし、乞食だなんてとんでもない、愛される存在でもある─。

竹宮 と言うよりはただの人間と天使っていうことですね。ただの人間であればお金持ちでも乞食でも同じで、もっと至上の存在となると天使になっちゃうわけで。セルジュがジルベールと闘うってことになれば、天上から天使をひきずりおろすことになるし、逆にジルベールはそれを蹴落として飛んでいけるかどうかっていう争いになると私自身の中ではそう思ってるんで すね。

──竹宮さんのペンは大変きれいですが、絵によって創造されたひとつの天使の世界じゃないかって思えるんです。そういう中で描いているからこそ竹宮さん独特のテーマがどんどん「風と木の詩」の中で成長していくって言う、作品と描き手の幸福な結婚みたいに思えるんですが。

竹宮 いえ、描いてる方はとてもそんなことは言えないほど熾烈な戦いをやってるんですけど、 自分自身が描く世界と自分の中のドロドロしたものがなかなかうまく結び合ってくれないんですよね。だからいつも苦労するんですけど。

──私自身は「風と木の詩」をあまり読んでないのであまり言う権利はないんですけれども。私の友達があれを読んで言うには、本当の、あ、さっき竹宮先生はあれは同性愛のマンガじゃないとおっしゃったんですけれども、一応形は同性愛でもほんとうの同性愛はああいうもんじゃないというんですね(笑) だから自分の知らない事をマンガに描くのは、すごいウソだっていうわけです。矢口高雄さんなんかは、その人が言うには自分の経験したこと以外は絶対にマンガに描かないっておっしゃるんですね。私自身マンガ描きたいなあと思ってるんですけれども、よく自分の経験してない事は描いちゃいけないみたいな言い方があって、マンガの中にも恋愛を経験してないのに恋愛マンガは描けないからじゃあひとつ恋をしてみようかというストーリーがあるんですけど、つまり、自分の経験してない事をマンガに描くっていうのはウソでしょうか??

竹宮 経験っていう事はね、どこまで範囲を広げるかっていう問題じゃないかなと思うんです。 だから、本を読んだことも経験の一つとも言えるし、実際にあったことはもちろん経験ですけどもそればかりじゃなくて映画を見て自分がその主人公と同じ思いをしたとか、夢の中で体験したとか、だから決して実体験っていうことだけじゃなくてもね、いいと思うんです。で、「風と木の詩」の場合の同性愛体験なんて、私にはちょっと困るんですけど。(笑) だから私は本当に同性愛のマンガだとは思っていないわけなんですね。そういったらウソになるだろうと思ってるんです。

──先生の物語の中でも主人公になる人物っていうのは大体みんなある程度の才能っていう物をもってますね。そういう物語の中で脇役にまわるっていうのは、やっぱり人生の脇役っていうような、口で説明するのが難しいんですけど、例えばカールなんかは物語の中では大して秀でてきませんね。それが人生の中でどういう風に動いていくっていうような事はやはりお考えになるんでしょうか。

竹宮 はい。カールについてもパスカルについても、私はセルジュが一生を終えるまでもし描けるとしたならば、描きたいと思ってるんです。だから一応考えてます。どういう人物になるか っていうのをね。例えば、才能って言われますけど、セルジュはピアノの才能をもっているとか、ジルベールは自己表現の才能をもっているんだけれども、私は結局個性こそ才能じゃないかなと思ってるんですよ。だからパスカルの方が本当は才能豊かだと思えるし、カールの方がセルジュよりもむしろ個性的だとも思ってるんですね。それがいい個性か悪い個性かはともかくとして。セルジュはむしろ平凡ていうか、普通の少年だと思うんです。ただ音楽的才能があるとかないとか、子爵の生まれだとか、そういうのはすごく社会的なことでしかないと思ってるんです。

──最初にあの「地球へ…」連載が始まったとき、テーマが大きすぎてこれ終わるのかなって思ったのですけども。(笑) 先生は石森章太郎先生にだいぶあこがれていらっしゃったようですから、石森先生のことを悪く言うと都合が悪いかもしれませんけど、ぼくはあの人はすごく竜頭蛇尾だと思うんですよね。大きいテーマをおいといて、終わんないんですね。「サイボーグ009」だとか「幻魔大戦」なんてのはその極地だと思うんですけど。だから「地球へ…」 が龍頭蛇尾で終わったらぼくはすごい情無いと思うんです。何年かかっても読む人は読むと思うので、どう終わるかわかんないんですけど、最後まで終わらせる自信なんかおありですか。

竹宮 一年位で何とか最後までもっていこうと, 思ってるんですけども……。

──ほんとに終わりますか?

竹宮 あれはですね、結局地球の社会システムが問題なんですね。だから、ジョミーの一生だとか、ミュウと人類の抗争だとかがテーマではなくて、システムとか教育の事とかそういう事がテーマなので、それをあかしてしまえば終わるものだと思ってますので。それをどう解決するかはともかくとして──

──では、もう一つお伺いしたいんですが、今の人類とミュウは共存できるでしょうか?

竹宮 いえ、私はできないと思っております。

──そうですか、安心しました。

──きょうのお話を聞いてますと、「風と木の詩」 が中心になってますけど、ぼくはちょっと前の作品で「ロンド・カプリチオーソ」(参照【竹宮恵子:ロンド・カプリチオーソ】)っていうのも内容が深いと思うんです。あれは兄のアルベルが一応善人なんですけど同時に内面に悪魔的なものを持っていて、その二面性にすごく普しむわけで、ぼくもそうなんですけど現代の多くの人がそういう苦しみを持ってると思うんです。で、最後にマチア・シュールへの 職悔という感じで終わってるんですけど、ああいう作品をお描きになった動機とか、経過についてお伺いしたいんですけど。

竹宮 非常に私的問題なので恥ずかしいんですけども、やっぱり私自身がそういう状態にあったから、ということなんです。だからむしろアルベルの心境を描きたかったというか、自分がどうしようもないのを作品の中で私自身が懺悔してたようなものだと思ってるんです。

──それで現在先生自身はそういう問題について自分なりの解決というものはついたわけですか。

竹宮 はい、私自身はついたつもりでおりますけども。

──やっぱりそういうものを持っているのが人間だということでしょうか。

竹宮 はい。「風と木の詩」にもいささかそういうテーマが含まれていて、悪魔的なものと天使的なものの融合みたいなことが、私自身ではテーマになっているつもりなんです。自分の中で融合させるのがすごく難しいんですね、その2つ。排斥するとどうしてもウソになっちゃうっていうか、だからいつも両方持っていたいと思ってるんですけど。

──やっぱりそれが人間として自然だということなんでしょうか。

竹宮 はい。

──最後に、最近お身体の調子が悪いそうですけど……。

竹宮 ええ。気管支炎で昨日、一昨日と寝こんじゃいまして、きょうは非常にお聞き苦しいところを見せてるんですけど。

──それではこれからも頑張って下さい。

竹宮 はい。

 この文は早稲田大学での竹宮恵子さんの講演録を編集部で再構成したものです。(文責・編集部)