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【対談:山岸凉子・萩尾望都】2016年

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プレミアム対談
山岸凉子・萩尾望都

月刊フラワーズ2016年07月号
発行日:2016年05月28日
発行所:小学館






月刊フラワーズ2016年07月号46-53ページ
プレミアム対談
山岸凉子・萩尾望都
(図版に続いてテキスト抽出あり)











月刊フラワーズ2016年07月号46-53ページ
プレミアム対談
山岸凉子・萩尾望都


1970年代に少女まんがの革新を担い、
その黄金期を築いたまんが家たち──
「花の24年組」にして、
1969年のデビュー以来
時代の最先端を走り続けてきた
尾望都先生と山岸凉子先生。
『フラワーズ』の前身、『プチフラワー』で
競演を果たしたこともあるお二人が
創刊15年を迎えた『フラワーズ』に登場!
出会いから現在に至るまでを
じっくり、たっぷり、
語りあっていただきました。



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『ポーの一族』は
すべてが本物


──お二人とも初対面のときの印象は覚えていますか?

山岸凉子先生(以下、山岸) 最初、私は萩尾さんを知らずに大泉のサロンへ伺ったのです。そこには竹宮惠子さんが住んでいらっしゃって、竹宮さんを訪ねたら萩尾さんがいらっしゃったのです。

萩尾望都先生(以下、萩尾) 私は山岸さんの作品をデビュー当時からほぼ逃さず読んでいましたから、山岸さんが竹宮さんの原稿を手伝いに来られると聞いて緊張していたんです。そうしたら山岸さんが真っ白なお洋服でいらっしゃって。

山岸 実はこの時、私は遊びに行ったので、白い服など着ていたのですね。

萩尾 私は、東京の人はなんておしゃれなんだろうと思いました。

山岸 いえいえ、北海道から出てきたばかりの人でしたが(笑)。あなたは、なぜ竹宮さんと一緒に住むことになったのですか?

萩尾 私がデビュー当時にまんがを描いていた講談社の編集さんから、「竹宮先生のところへ手伝いに行ってくれないか」といわれて、竹宮先生のところへ伺ったんですね。そうしたら竹宮先生に、「あなたはいつ東京に出て来るの?」と聞かれまして。私が「女の子が独りで上京なんてダメだと、親が許してくれないんです」といったら、「今度部屋数の多いところへ引っ越そうと思っているから、よかったら一緒に住みませんか?」 と誘ってくださったんです。竹宮先生は当時すでに引く手あまたで、お仕事の量がすごかったんですよ。

山岸 素晴らしい絵ですものね。私は彼女の『弟』という作品を読んで、すっかり自分と同好の士だと思い込んでいたんです。それであるときご本人に、「あのね…もしかして竹宮さんって、こういう趣味?」って聞いたら、「えーっ!! そんなつもりで描いてない」といわれて、驚いたことがありました(笑)。竹宮さんはあれを無意識に描かれていたんです。
参考【竹宮:一番は竹宮さんね(山岸)】【竹宮:山岸凉子はどの作品を読み竹宮を訪ねたのか

萩尾 それは新しいエピソードだわ。

山岸 初対面で質問をしたわけではないのですけど、この話を竹宮さんとしたのもサロンでしたから、私は何度か大泉へ伺っていますね。確か初めて訪ねたときは、ささやななえこさんと一緒で、二度目はもりたじゅんさんと…覚えていらっしゃらないでしょうけれど。

萩尾 覚えていますよ(笑)。 もりたさんは気さくな方ですよね。こんな方にお願いしていいのかしらって思いながら、お手伝いをしていただいて。

──そんな方々が原稿を手伝いあっていたなんて、すごいことですね。

萩尾 豪華でしょ? しかも、山岸先生はアシスタント料をくださるの。

山岸 嘘!! そんな失礼なことをしていました!?

萩尾 失礼だなんてとんでもない。ちゃんと泊めていただき、ご飯も食べさせていただいて、アシスタント料をもらって帰りましたよ。ほかの皆はなんとなく友達感覚でやっていたのに。ありがとうございました。

山岸 本当に恥ずかしい…。

萩尾 私は山岸さんにお会いするたびに、どうしてこんなにファッショナブルなんだろうと思っていたんです。センスがあるって、こういうことをいうのねと。作品にもおしゃれな人が出てきましたよね。

山岸 良くいってくださって恐縮です。私自身のことはともかく、70年代の自分の作品を読むと、主人公に当時流行っていた服を着せていて、懐かしいなとは思います。

萩尾 あの頃の若い世代のまんが家たちが、まんがに流行のファッションを取り入れ始めたんですよね。それ以前はあまりなかったと思う。

山岸 確かに。そういえば、知り合いのまんが家の忠津陽子さんは、すごく絵が上手なんだけれど、洋服に頓着しないところがあって。1ページ目で可愛いフレンチ袖の服を着ていた主人公が、場所も時間も変わっていないのに、次のページではただの開襟シャツの半袖になっていたりするんです。私が「ここ違ってるよ」といっても、「うん、私よくやるの」と、それだけ(笑)。

萩尾 全然気づかなかった…。

山岸 絵が綺麗だから違和感がないんです。

萩尾 忠津陽子さんも北海道の方ですよね?

山岸 そうです。忠津さんのほうが1学年下なんですが、同じ高校でした。当時私は悲しくもたった一人で漫研をやっていて(笑)。文化祭の前に「原稿求む」っていう紙を廊下の壁に貼ったら、忠津さんがやってきたんですよ。そのときから、彼女はこちらが仰け反るくらい上手でした。

萩尾 イモムシを描いても可愛かったですものね。

山岸『COM』に入選作として載ったんですよね。

萩尾 昔は同世代の人の作品が雑誌に載るたびに、ドキドキしながら読んでいました。

──初めて読んだお互いの作品は何ですか?

萩尾 私が初めて読んだ山岸さんの作品は 『レフトアンドライト』でした。あれは2作目か3作目だったかしら?

山岸 それはデビュー作ですね。私が初めて読んだ萩尾さんのまんがは『かわいそうなママ』。大泉に初めて遊びに行ったとき、「これが今度出る本よ」といって竹宮さんからもらった雑誌に載っていたんです。同居していた妹が私よりも先にその雑誌を読んで、「私、この人の作品好きなの」とあるページを開いていうから、どれ?と思って見たら、「萩尾望都」と書いてあって、「えー! 今日この人に会ってきたのよ」と(笑)。

萩尾 あれは一度『なかよし』(講談社)に送って没になった作品で、描いてから1年くらい経ったあと、小学館の編集者だったYさんが拾ってくれたんです。今考えると、『なかよし』は小学生向けの雑誌なのに、子どもがお母さんを殺す話を描いたんだから、没になりますよね。

山岸 萩尾さんはそのときからレベルが違っていたのです。私は今回、『ポーの一族』を改めて読んで、これは出てくるものがすべて「本物」だと思いました。

萩尾 素晴らしい言葉ですね。もう、絶対に足を向けて寝られません!

山岸 この間、荒俣宏さんがいってたのです。当時、いわゆる少女まんがの黄金期を築いた人たちは、ちゃんと本物の最先端を見ている、と。それが作品に反映されていたから、男の自分たちでも少女まんがについていけたんだって。

萩尾 荒俣さん、すごいなぁ。

山岸 だからあなたの感覚はすごいのです。実際に「ポーの一族」を読んでみると、なんというか、ヨーロッパの人たちが読んでもおかしくないなと思ったんです。たとえば、プッチーニの「蝶々夫人」は日本を舞台にしたオペラですけど、日本人が観ると、お太鼓結びがクッションになっていたり、文化の差による間違いが目につくじゃないですか。萩尾さんの作品にはそういうものがないですよね。

萩尾 本当はいっぱい間違えているんですよ(笑)。でも、そんなふうに見ていただけるのは光栄です…。

山岸 あの時代にあのクオリティは画期的です。私は最近までずっと萩尾さんのすごい作品たちを読めなかったんですね。読んで打ちのめされるのが怖くて、でも、この対談のお話をいただいて、思い切って「ポーの一族」をちゃんと読んだんです。それでやっばり、あの当時読んでいなくてよかった…と思いました。当時見ていたら、私は大変なショックを受けたと思います。


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萩尾作品が載ると
雑誌が届かない


──山岸先生はほかにどんな萩尾作品を読んだことがありますか?

山岸 私は気恥ずかしくて本屋さんでまんがを買えないので、基本的には家に送られてくる雑誌しか読んでいなくて。萩尾さんが『オイディプス』を描かれた頃から『フラワーズ』が届くようになったので、そこからはポツポツと…。『オイディプス』を読んだときは、萩尾さんがギリシア神話を描くとこうなるんだ、すごい!と思って、 やっぱり打ちのめされました(笑)。ただ、 ちょっとおもしろいことがあって。あの作品は単行本化のときに描き足したりしています?

萩尾『スフィンクス』というタイトルで前日譚を描きましたけど。

山岸 それは雑誌に発表しました??

萩尾 しました。

山岸 あのね…。

萩尾 何かあったんですか? あなたのスーパー超能力が…。

山岸 超能力ではないんですけど(笑)、萩尾さんの作品が載ると、どういうわけか雑誌が届かないことが多いんです。『AWAY─アウェイ─』も単本で何話か描き足しました? 違いますよね?

萩尾 全部雑誌に載っていますね。

山岸 あれも単行本を読んだら、雑誌で読んだ覚えのない話がいくつもあって、私、地元の郵便局に萩尾さんの熱烈なファンがいて、あなたの作品が載った雑誌を抜き取っているんじゃないかと疑っているくらいなんです。

一同 (笑)。

萩尾 東京の神秘ですねぇ(笑)。


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山岸作品は
世代の最先端ばかり


──お二人はともに50年近くにわたり第一線でご活躍されていますが、同じ雑誌に同時に作品が載ったことがほぼないんですよね。ただ、『フラワーズ』の前身である『プチフラワー』では、その貴重な機会がありました。

萩尾・山岸 いつでしょう?

山岸 私は萩尾さんがいないときに載っている気がしていました。編集長のYさんがそういうふうに仕組んでいたんですよね?
参考【山本順也編集長について

萩尾「売れる作家を一緒に載せる必要はない」とおっしゃっていました(笑)。

山岸 そんなことない(笑)。萩尾さんを休ませたいときに、代役として仕方なく私を呼んでくださっていたんだと思います。

萩尾 地味な雑誌に描いていただいてありがとうございます。

山岸 少女まんがを引っ張っていく雑誌でしたよ。私は嬉しかった。

萩尾『プチフラワー』は80年に創刊されて、私は第1号で「訪問者」を描いたんですよね。当時私は子ども向けの作品に距離を感じ始めていて、でも、いわゆる大人向け少女まんがの世界はまだ確立していなかったから、ちょっと足踏み状態だったんです。そんなときに、Yさんから「なんでも好きに描いていいよ」といわれて。本当に自由に、『メッシュ』のシリーズなどを描かせてもらいました(笑)。

山岸 私は自分が何を描いたのか覚えていないんですが…。

──初登場は86年の冬の号で『ダフネー』を描かれています。

萩尾 ああ、『ダフネー』だったんですか。

山岸 そんなマイナーな作品を…申し訳ない。私は浮き沈みが激しくて、受けない作品を山ほど描く人なんですよ。

萩尾 ええ! すっごくおもしろかったですよ。あの時代だと、山岸さんは「ダフネー』とか『黒のヘレネー』とか、あとはカーペンターズ兄妹のことを描いた…。

山岸 よくご存じで。それは『グリーン・フーズ』という変なタイトルの作品ですね。なぜなら、グリーン・フーズは我が家に届いた自然食品の会社の名前だったから(笑)。

萩尾 山岸さんは世代の最先端を行く作品ばかりで、私は夢中になって読んでいました。ときどき、これを理解している読者はいったいどれくらいいるんだろう、と思うこともありましたけど。中高生向けの雑誌で、哲学書のようなまんがを描いていらっしゃったから。

山岸 そ、それはほめ過ぎです。でもあの時代から、大学生やそのあたりの人たちが読んでくれていたと思います。大学の漫研が応援してくれていましたから。だから編集さんが心配するほど、低年齢層向けに描かなくてもよかったんですよね。

──読者層の問題で編集さんから何か指示を受けることが多かったのですか?

萩尾 ありましたね。最初に『なかよし』で描いていた頃は、小学校3、4年生の子が喜ぶものを描いてくれといわれていました。でも私、それが理解できなかったんです。自分は小学生の頃からまんがを読んできたから、これくらいわかるだろうと思ってネームを送ると、ダメだといわれてしまって。だから小学館のYさんと知り合って、没になった作品を「全部買うよ」といってもらったときは、本当にありがたかった。Yさんはまんがのことは詳しくないけれど、おもしろいものを嗅ぎ分ける嗅覚があったんです。それがよかったんですよね。逆に「少女まんがとはこういうものでなければいけない」という教育を受けていたら、「全部買う」なんていってもらえなかったと思います。

山岸 さすがYさんですよね。私はデビュー前にある種の洗礼を受けました。高校3年生のときに、手塚治虫先生に作品を見ていただく機会があったんです。それでどんなまんがが好きなのかと聞かれて、失礼にも手塚先生といわずに「水野英子先生が大好きなんです!」といったら、「あの人はレベルが高くて読者の年齢も高いから、あれを目指していたらダメかもしれない」と。『銀の花びら』や『星のたてごと』が子どもに受けていないと聞いて、腰が抜けるほど驚きました。

萩尾 私も、当時それを聞いていたらびっくりしていましたね。

山岸 実際、東京へ出てきて持ち込みをしても全然ダメでした。何せ私のバイブルは『ガロ』でしたから(笑)。自分の描く少女まんがが、世間でいう少女まんがとかけ離れていることを知らなかったんです。そうしたら兄に、「自分が描きたいまんがじゃなきゃ嫌なのなら、趣味で一人で描いていればいい」といわれ、ガクッときて…。「読者が欲しかったら、読者が望んでいるものを描かなくてどうする」と。それで、自分の好みというものをすべて捨てたんです。でも、私は世の中の人が望む丸顔が描けなくて。私の絵は8マンがモデルだったんですけど、女の子は面長になると可愛くないんですよね。編集さんに「あなたの主人公は脇役顔だ」といわれて泣きたい気持ち。ただ、そこで現実の洗礼を受けたことはよかったと思っています。

萩尾 厳しい体験ですね。

山岸 デビューしてからは、自分に嘘をつきながらロマコメとかを一生懸命描いていました。

萩尾 それでもほかの人とは違う「山岸節」みたいなものを感じましたよ。

山岸 ありがとうございます。でも自分では隠しているつもりだったの(笑)。よく読者は憧れのまんが家に会いたいというけれど、本当に好きなまんが家には会わない方がいい。なぜなら、作品を読んで「ここが素晴らしい」と思うところは、作者が「こうありたい」と夢見ている部分で、逆に「ここがちょっと嫌だ」と思うところは、その作者が「隠したい隠したい」と思っていることが漏れているだけと知ってしまうから。なんて私、ネガティブですかね。

萩尾 山岸さんは自分で自分を相対評価できるんですよね。それで今日、私はどうしても『天人唐草』の話がしたくて単行本を持ってきたんです。『天人唐草』は、主人公の響子さんが会社に勤めだして、いろいろなことができなくて泣いていたら、同僚の男性に「あんたみえっぱりだよなあ」といわれてひどくショックを受けるじゃないですか。あのシーンがものすごくインパクトがあって。この作品は、空港で不思議な女の人を見たことをきっかけに描かれたんですよね?

山岸 冒頭の奇声を上げている人は、私が実際に羽田空港で見た人をそのまま描きました。人が大勢いる中、遠くから悲鳴を上げで歩いてきて…。その姿を見たときに、「あれは将来の私の姿だ」と思って、あの話ができたんです。

萩尾 その人を見た瞬間に「これが私の将来だ」と思う、内省の深さたるや! 普通なら、「ああはならないわ」とか思いそうなものでしょう。山岸さんは、自分はみえっぱりだといいながら、こんな作品をさらっと描いてしまう。

山岸 そこが私と萩尾さんの大きな違いなんですよ。私は何を描いても自分しか出てこない。反対に萩尾さんは、あえてそこを描かないようにしている。萩尾さんはあまり自分の心情に近いものを描くのは嫌だっていうでしょう? それで作品をつくれるんだから、あなたこそすごいのよ。

萩尾 私は自分のどす黒さを花と星でごまかしながら描いているんですよ。あの「みえっぱり」という言葉の真意を響子さんが理解していたら、その後の人生は違っていたんじゃないか思うんですよね。だから私は、現実で困った人に巡り会うと、『天人唐草』が思い浮かぶんです。「この人も、みえっぱりのまま生きてきてしまったのね」って(笑)。すごく示唆の深い話。

山岸 ありがとうございます。あれは、自分を保とう、よく見せようとするその姿勢は虚勢だよ、という意味のセリフで。私もそこまではわかるんだけれど、じゃあ、どうすれば、その「みえ」を捨てられるかはわからない。

萩尾 今日はそれを聞こうと思って。

山岸 うーん、みえを捨てられたかはわかりません。要するにコンプレックスの問題なんですよね。でもコンプレックスは大事。哲学者の梅原猛先生の講演をテレビで見ていたときに、コンプレックスこそが人を高めるんだと思いました。コンプレックスはたしかにある。でもそれを意識しつつも横に置く。そして、自分にはそのダメな部分のほかに何があるかしらと考える。すると、人間多少は長所があるんです。その長所をのばそうと必死に生きていくと、いつの間にかコンプレックスは、こだわる価値の無いものになっていくのです。そういう意味で、コンプレックスは人を成長させる起爆剤になると思います。

萩尾 ああ、それは本当にその通りだと思います。そこに気づくまでが大変なんですよね。

山岸 私はなかなかそのことに気づかなくてウロウロしましたが、まんがを描きながらずいぶん解消させてもらいました。だから私、作品は自分のために描いていたのであって、人のために描いた覚えはないんですよ。ひどいことに。

萩尾 いいえ、それが一番正しい道だと思います。

山岸 その点、萩尾さんは個人のコンプレックスだとかを突き抜けたところで作品を描くので、創造性が本当に高いんだと思います。でも…ときどき、ありますよね(笑)。

萩尾 ありますね(笑)。親との葛藤とか。ただ私たちの世代って、楽々とこの仕事を親に認めてもらえた人は滅多にいないと思うんです。

山岸 まんが自体が社会的に認められていなかったから。うちも家族中が反対でした。父親には、「おまえはポンチ絵を描くのか」といわれましたもの。

萩尾 貴賤でいえば「賤」の仕事を選んだという感じで、私もずっと両親を怒らせていました。母が考えを変えたのは10年に放送された、朝ドラの『ゲゲゲの女房』を観てからですし。ドラマで水木しげる先生が一生懸命仕事をしている姿を観て、私に「失礼いたしました」って。それからどうなったかといえば、「私は娘のまんがに反対したことは一度もございません」と言い出すんですから、こういう人に逆らおうとした私が間違っていた、と思いました(笑)。


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『AWAY』の
ラストは泣きました


──10年以降といえば、萩尾先生は『フラワーズ』でシリーズ『ここではないどこか」や『なのはな』『AWAY』と描かれてきました。

萩尾『なのはな』は東日本大震災が起きた直後に描いた作品です。あのときは信じがたいことが次々起きて、とにかくショックで、原発事故のあと、文明は電気がないというだけで簡単に滅びてしまうんだなと思ったんです。で、ショックから立ち直れずにいたときに、チェルノブイリでは菜の花やヒマワリを植えて土地の改良をしていると知り、なんだか希望のよすがのように思えて、あの話を描くことに。それで、『なのはな』を描きながら放射線の歴史を調べていたら、世の中が原子力に傾いていく様子が、人が悪女に惹かれていく姿と重なって、その後の擬人化のアイディアが生まれました。ただ、あれは原発について啓蒙しようと思って描いたわけではなくて。落ち込んだままの自分を励ましたいと思って描いたんです。

山岸 だからこその共感を得られたのですね。

萩尾 だけど結局、それまで描いていた『ここではないどこか』のシリーズは、あの人たちが生きていく先にはこんな世界があるのか、と思ったら描けなくなってしまって。現実の日本から少し離れたくて、『王妃マルゴ』(集英社)を始めました。『AWAY』は昔読んだ小松左京先生の『お召し』という小説がヒントになっているんですが。

山岸『AWAY』は泣きました、ラストが悲しくて。自分たちの将来はこうなるかと思ったら…。

萩尾 悲惨な未来の話は、冷戦時代にSFでよく読んでいたんです。それで『お召し』を読んだときに、すごくいい話だからまんがで描きたいなと思ったんですが、当時日本はバブルの真っ只中で。今これを描いて誰も飛びつかないだろうと思って、描かないまま忘れていたんです。それを震災を機に思い出して。今なら描けるかなと思い、『王妃マルゴ』を連載しながら、『AWAY』を描きました。

山岸 全然違う世界を同時に描いていたんですね。萩尾さんはだいたいどのくらいのペースで1本の作品を描かれるんですか?

萩尾 平均して1日1枚くらい。でも今はどんどんペースが遅れています。

山岸 ネームは?

萩尾 ネームは10日前後ですね。『レベレーション(啓示)』のネームはどのくらいかかっていますか?

山岸『レベレーション』は調べ事が多いというのもありますが、私自身キャラクターに矛盾を抱えているので、けっこう時間がかかります。絵は私も1日1枚ペース。そういえば、萩尾さんが出演されたNHK Eテレの番組『浦沢直樹の漫勉』を見ましたよ。あれで驚いたんですが、すごく変わったペン入れの仕方をされますよね。髪の毛をペ ン入れしていると思ったら、ちょっと目を描くとか。

萩尾 見えているものから描き始めるんです。目を描いているうちに髪の毛を描きたくなって、そのうちまた目に移って。眼は集中して描くけれど、あとは模様みたいな感覚。

山岸 あれは驚きました。萩尾さんは視野が広いのですね。

──『レベレーション』は調べ事が多いとおっしゃいましたが、歴史ものならではの苦労はありますか?

山岸 自分で事実を確認をすることもそうですが、『レベレーション』は校閲が入るので、校閲の指摘とどう折り合いをつけるかが大変ですね。演出との兼ね合いを考慮しながら直すことになるので。

萩尾 私の場合、『王妃マルゴ』ではもっと嘘も描いていますよ。描いたあとで「しまった」と思うこともあります(笑)。

山岸 フランスの人にとって、ジャンヌ・ダルクは日本の坂本龍馬のような存在なんですよ。『レベレーション』は日本人の私が描く日本のまんがだから許されるけれど、フランスでこれをやったらバシっとやられると思う。

萩尾『レベレーション』はすごくおもしろいですよ。ジャンヌが亡くなったお姉さんの服を着ていたりして。

山岸 ジャンヌがずっと赤い服を着ていたことは史実に残っているものですから。でも、『モーニング』を買っているサラリーマンの人たちは、「俺は歴史を読みたいんじゃないんだよ」と思っているかも。

萩尾 案外、自分の歴史オタク心を刺激されているかもしれませんよ。

山岸 そうだと良いのですが、歴史ものはやりにくい時代ですね。今は読者がググッて先に調べてしまうから。そこをどれだけ裏切れるかが、がんばりどころです。


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創作者は
浮き沈みするもの


──まんがを描くうえでのお二人のこだわりを教えてください。

萩尾 それはすべてですね。何1つ譲れないというか、譲らないというか。小学館で描くようになってからは、編集者にネームを見せることもほとんどありませんし。山岸さんは?

山岸 私もネームはほとんど見せたことがありません。ただ、最近はまんが家を辞めたほうがいいのかもしれないなと考えることも…。昔はある種の妄想というか、夢想を描いていたところがありましたけど、この歳になるとある程度現実が見えてくるでしょう。そうしたら逆に描けなくなってきて…。私はもう自分の描いているものに対して、昔のようなこだわりは捨てようと思っています。

萩尾 山岸さんが描いているものは、山岸さん以外には絶対に描けません。現代のまんが界に山岸さんがいなかったら、日本のまんが界はある欠落をもって進んでいくことになるんだから。あなたがいてくれて本当によかった。

山岸 私こそ、その言葉をそっくりあなたにおかえしいたしますです。それにしてもパソコンが広まった影響もあって、世の中は産業革命の頃のように激変していっているじゃないですか。私、その変化についていけなくて。それに比べて萩尾さんはいつまでも若い。あなたはずっと作家を続けて いられますね。

萩尾 私だって4年に1回くらい引退したいなと思うんですよ。『バルバラ』を描く前に1年ほど休んだんですが、まんがを再開したら、それまではどんなに休んでも始めるとすぐもとに戻れたのに、そのときはすごく難しかったんです。で、歳をとるというのはこういうことなのかと思って。錆びた自転車は転がしていないと倒れるなと思って、とにかく描くことにしました。だから同世代のまんが家と話をするときは、「もうちょっとがんばりましょうよ」っていうんです。

山岸 そうなんですが、それでも最近、定年退職は大事だなと実感してしまって。まぁ…歳の事は別として、大なり小なりモチ ベーションの波はありますよね。私は、『青青の時代』や『ツタンカーメン』の頃、描くのがすごく辛かったんです。あの頃、作家が持っているある種の夢が壊れたんですね。ある種の価値観が壊れてしまったから、そこに頼って描けなくなってしまった。でもまあ、3、4年あがいていたら、なんとか別な世界を掴むことができて、持ち直したんですけど。

萩尾 漠然とした表現ですが、作家としてとても重要なことをおっしゃっていると思います。そういう危機は誰にも訪れるし、むしろ創作者っていうのは、どうしても浮き沈みするものですから。

山岸 萩尾さんはそういう浮き沈みを据えて描き続けられる人ですね。

萩尾 私なんて60歳くらいから、これから描く作品は「しょうがないわね、この人は老人なんだから」って、許してもらおうと思っていましたよ(笑)。

山岸 私ね、老人ホーム向けの作品を描こうかなと思ったんです。その世代の人になら何とかわかってもらえるかなって。だから将来的にはそうしようかと(笑)。

萩尾 それも楽しそうですね!


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女の人の中にもずっと
少女は存在する


──少女まんがの醍醐味とはなんだと思いますか?

萩尾 少女まんがが存在してよかったなと思うのは、「少女はいる」っていうことにみんなが気づいたことです。男の人が「いつまでも少年の心を持って」といわれるのに対して、少女はいつかお母さんにならなきゃいけない。昔はそのことにも気がついてくれなかった。だけど、女の人の中にもずっと少女は存在するんです。

山岸 その言葉を聞くと、萩尾さんは私が否定している部分を肯定していますね。私はずっと自分の中に少女でいてはいけない、大人にならなくてはいけない、と強迫観念がありました。でも、最近やっとわかったんです。人には向き不向きがあって、私は大人になることに不向きな人間なんだと。

萩尾 私も世間でいう分別ある大人には、どうがんばってもなれません(笑)。

──『フラワーズ』は、少女まんが誌の中では読者の年齢層が高い雑誌ですが、掲載作品の印象はいかがですか?

萩尾 非常におもしろいと思います。それなりに変わった作家さんが集まって、ほかの雑誌では見られないような作品が読めるので。

山岸 私は女性向けの雑誌は二極化してきていると思っていて。『フラワーズ』もファンタジー系と女性の本音的なリアルものとに分かれてきていて、ファンタジー系は少なくなってきているような気がします。私はどう転んでも「女性の本音」みたいな方向には行けないんですが、最近はファンタジーにも留まれなくて。世界設定からしてファンタジーだと、ご都合主義になってしまうように思えて。

萩尾『妖精王』とか?

山岸『妖精王』みたいなものはもう描けないでしょうね。人間にとって哲学の究極は「死」なんです。人間がどうやって生きるかというと、死の恐怖を克服するために生きている。それに対する答えはファンタジーにはないんです。ただ、矛盾するようですが、ファンタジーの中にもリアル性はあって。ファンタジーを隠れ蓑に現実を描けたらいいんだろうなと思います。

──今回の対談が掲載される号では、『ポーの一族』の新作が掲載されます。なんと40年ぶりの続編になりますが、執筆のいきさつを教えてください。

萩尾 第2次世界大戦前後に彼らが何をしていたのかの話を描いてみたいと思って、ずっと資料調べをしていたんですが、そのうちにいろいろアイディアが出てきました。『ポーの一族』は熱烈なファンの方が多くて、同じ顔を描ける自信も全くなくて、これはとても描けないとずっと思っていました。今回もいろいろ悪夢のように「違う、こんなんじゃない」「なんで今更やるんですかとか文句いわれたらどうしよう」というのがあったんですけど、ずいぶん資料調べたんだし、これで失敗したらごめんね、もう年金もらっているので許して、という思いで(笑)。

──久しぶりの執筆はいかがでしたか?

萩尾 もっと手こずるかなと思っていたんですが、作品世界にはスムーズに入れました。若い頃に夢中で描いていたときはキャラクターが自分の感覚にフィットして身近な感じだったんですが、今回も割とそういう感じを味わいました。読む方はどうか分からないので、ドキドキです。

──それでは最後に、『フラワーズ』の読者へメッセージをお願いします。

萩尾『フラワーズ』も、15歳になりました。これからますますお年頃になっていきますけれど、読者の皆様はいつまでもお年頃で『フラワーズ』を読んでいてください!

山岸 素晴らしい! 少女であり続けることを否定している私は何?(笑)

萩尾「世の中そんなに甘くない」といってください(笑)。

山岸 そうですねぇ...。「知っていること」には3つの奥行きがあるんです。1つ目は事柄として知ること。次は、自分が知ったことを他人にそのまま教えられること。3つ目は、知ったことを別のエピソードに変換して伝えられること。私たちまんが家は、その3つ目をやらなければいけないんです。なので、『フラワーズ』は、これからもファンタジーを通して真実を伝える雑誌であって欲しいと思っています。

──これからのご活躍も楽しみにしております。

萩尾・山岸 よろしくお願いします。



初対談:山岸凉子・萩尾望都】2011年Otome continue[オトメコンティニュー]Vol.6