【萩尾望都】大泉スレ【竹宮惠子】 資料まとめサイト - 【竹宮恵子:ライフヒストリー 検証】
【竹宮恵子:ライフヒストリー 検証】
1978年「テレビランド増刊イラストアルバム5 竹宮恵子の世界」

検証元【竹宮恵子:ライフヒストリー



「テレビランド増刊イラストアルバム5 竹宮恵子の世界」37ページ

検証ポイント】竹宮:里中さんの「ピアの肖像」は私のニガ手な分野である心霊、怪奇のファンタジー世界の作品でした。『私に描けない分野をこんなにおもしろくかけるなんて、スゴイ!!』とショックでした。でも、私だって描いてみせる。私だって高校生のあいだにデビューしてみせる。こう思ってがんばって描きました。

「少女マンガパワー展」目録インタビュー(2008年)において「中学3年のときに投稿してるんですよ。実は里中満智子さんがデビューされたときとまったく同じ回の講談社の新人賞に」と発言し、「扉はひらくいくたびも」32-33ページ(2021年)において「中学2年生の時に、講談社の第1回新人漫画賞に応募してみました」と記述しているが、そのいずれも整合性に欠けている
参照【竹宮:1964年講談社第1回新人漫画賞に応募した


検証ポイント】編集:”COM”に入選した竹宮は、より広い読者をもつマーガレット、へ投稿する。「リンゴの罪」が、一度の投稿ですんなりと掲載決定、竹宮恵子、本格的デビューであった。

2007年以降「”COM”入選後に西谷祥子から勧められて(直接手紙をもらって等)週刊マーガレットに応募してデビューにつながった」エピソードを何度も出しているが、1978年時点においてそのエピソードは出ていない
参照【竹宮:西谷祥子先生から直筆の手紙が届いた



「テレビランド増刊イラストアルバム5 竹宮恵子の世界」39ページ

検証ポイント】編集:こうして、竹宮恵子は、”少女コミック”を中心に本格的プロ生活に入るようになった。そして、初の週刊誌連載「森の子トール」(少女コミック)をきっかけに山本氏の誘いもあり、徳島大学を2年と3ヵ月でいさぎよく中退して上京したのである。

竹宮は「竹宮恵子の世界」編集部に「山本順也さんの誘いもあって徳島大学を中退して上京した」と説明したように読めるが…


検証ポイント】編集:二人(註:萩尾望都と竹宮恵子)は、私たちの描きたい漫画は、現在の少女漫画とは絶対に違う、もっと違うジャンルを、思想のある漫画をと、意気投合し、「同居してがんばろう」ということになったのである。

「同居してがんばろう」ということになった ←事実か?
同居に関して萩尾サイドから「同居してがんばろう」という記録は今のところ得られていないので、これは1978年当時の竹宮恵子が「竹宮恵子の世界」編集部に主観で話したものと思われる(特に「一度きりの大泉の話」上梓前は竹宮が萩尾を絶縁したことは知られていなかった)



「テレビランド増刊イラストアルバム5 竹宮恵子の世界」41ページ

検証ポイント】編集:当時、ある編集者が、こうなげいたという。『竹宮の作品は、発表直後は人気がでない。発表1年目、漫画家仲間たちの内容的コピーが始まる。2年目、編集部が竹宮の作品に類似する作品の多さに、気づきだす。3年目、 多数の読者が竹宮作品をドッと支持する』

この「ある編集者のなげき」は誰が聞いたのか?
「ある編集者」の上記のような「なげき」は他の対談やインタビューで裏付けられているか?
「2年目、編集部が竹宮の作品に類似する作品の多さに、気づきだす」とは具体的にどの時期のどの作品群を指すのか?


検証ポイント】編集:この下宿は、大泉サロンと呼ばれ、ささやななえ・山田ミネコ・山岸凉子・伊東愛子・坂田靖子・花郁悠紀子・城章子・佐藤史生・たらさわみち、といった漫画家、そして、漫画マニアたちのたまり場となっていった。

「たまり場」と形容するのであれば、少なくとも山岸凉子は(何度も訪ねたわけではないため)その一員とは言えないのでは?



「テレビランド増刊イラストアルバム5 竹宮恵子の世界」45ページ

検証ポイント】(音楽シリーズ「ヴィレンツ物語」について
竹宮:あのシリーズには、もっともっと描きたいことがあります。ウォルフの息子アレンとエドナンの息子ニーノとの宿命の出会いとボブの話とか… 楽しみにしてて下さいね。

自分の作品として語っているが、あくまでも原作は増山法恵である


検証ポイント】(「ファラオの墓」について
竹宮:自分の作品が受けいれられないなら、大勢の人が読んでくれる作品って、こんなかしら。
編集:と描いておいたものである。それが偶然編集者の目にふれ、連載決定となる。

「ファラオの墓」は「風と木の詩」の連載を勝ち取るために当時の担当編集(毛利和夫さん)とアンケートトップを狙ったものでは?
1978年の時点では【「ファラオの墓」は「大勢の人が読んでくれる作品って、こんなかしら」と描いておいたものが「偶然編集者の目にふれ」て「連載決定」となった作品】という位置づけ?
「少年の名はジルベール」において、増山法恵が竹宮に「貴種流離譚」や「ロミオとジュリエット」などの知恵を与えてエジプトを舞台に設定して作った作品という記述がある
参考項目【竹宮「ファラオの墓」はデビュー前の習作


検証ポイント】編集:初の本格的SF 「ジルベスターの星から」

「ジルベスターの星から」は1975年の作品。竹宮は1977年の「地球へ…」以前はSFマンガを描かせてもらえなかったと何度も言っている
参照【竹宮:少女マンガではSFを描かせてもらえませんでした



「テレビランド増刊イラストアルバム5 竹宮恵子の世界」47ページ

検証ポイント】編集:大学生だった竹宮が、当時の少女漫画に対し”もっとおもしろい漫画を”と感じ、少女漫画革命と呼ばれる質の転化を計ろうとしたころ、少数の人々だけが彼女を支持していた。

この「ライフヒストリー」において編集サイドで「少女漫画革命」という文言を出しているが、これについては竹宮・増山が言い出した時期などについて検証が必要
 ↓ ↓ ↓
少女漫画革命」が言われ始めた時期について→【「少女漫画革命」はいつ言われ始めたのか
検証協力:
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/163771...
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/163771...
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/163771...
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/163771...